山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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ロックハートの『山東紀行』曲阜行く途中:寧陽・兖州

済南から孔子の故郷の曲阜は385里(200キロメートル)、およそ128マイルである。騎馬が最も便利で最速の旅行手段であり、荷物と随行員で12輌の馬車を使用した。我々一行のほかに、羅氏と趙氏、易氏、銭氏の代表の4名がいた。前の二名は羊角溝で我々を打代えてくれ、そのほかに巡撫が派遣した奇兵隊と8名の騎馬の使用人が我々を護送して本省を通過した。


汶河を通過


汶河通過

通過した道路は砕石(さいせき)舗装をしていない土の道で、晴れた日には埃が舞い上がり雨後にはぬかるんでたまらなかった。

馬車は上部であったが、弾力性欠けていた。道路が凸凹な時には場所の乗りごこちは悪く、我々の一名は揺れで体調を悪くした。馬車は通常ウマ、騾馬(ラバ)、驢馬(ロバ)と子牛を連れた母牛が車列を構成した。馬車は時速3〜4マイルで、我々は毎日26マイルを進んだ。

沿道では我々のために食事と宿の手配が準備されていた。我々は当然自身の食事の準備をあたっが、毎晩停泊の時に、通過地区の県知事が気前良く中国式の夕食を準備しており、このため旅行の終わりには使用人の体重は全く減っていなかった。

華勇営のバーンズ大尉は陸軍に提出した報告書は大変価値のあるもので、上部には通過した各地の情況が詳細な描写で表された。これらの地名は行程地図に印が付けられている。


寧陽から出発

曲阜に行く途中、我々は寧陽県と兖州府の二つの主要都市を通過したのでこの二ヶ所に暫く停留した。寧陽では、何福知事は我々に広く快適な宿所を提供してくれ、大変熱心に我々を接待してくれた。


田将軍の部下

兖州府に近づくと、田将軍の部下の一大部隊が迎えに出て我々を護送して城内へ行進した。

田将軍、張道台、趙知府、劉知県とアンジェ司教が城内で我々を手迎えてくれた。張道台は済寧州からわざわざ迎えに出て来て、田将軍は彼の家を我々が使用するように親しく提供してくれた。恒例によりお茶のあと、我々はカトリック教会に行き、アンジェ司教はそこで、上記の4名の役人と共にブランチに招いてくれた。


兖州城門


兖州興隆寺宝塔

兖州興隆宝塔

ブランチのあと、アンジェ司教とクラフェック(

Klaphek)神父は我々を教会を案内してくれたが、多くの学生が神父の下で教育を受けているのを見学し、司祭は我々に役人の子弟もたくさんいると教えてくれた。我々は、中国語の文法書を熱心に執筆しているタフル(Fat her Teufel)神父と知り合った(太った魔女というこの名は敬うべき神父には相応しくありません語⋯)。


ロックハートと田将軍及び孫達等の撮影

午後は我々訪問団は、顔子の故郷を訪問した。ここには石のアーチがある。顔氏がここで生活したと伝えられている。顔氏は孔子が得意にした弟子であった。この街の通路には多くの美しい牌楼があり、傑出した男性や貞節な女性を記念するために建設され、表面の彫刻は精巧で美しい。

5月9日土曜日、田将軍が我々を招待してくれた。田氏は魅力的で、ご年配にも関わらず、精神は矍鑠(かくしゃく)として、活力満点であった。彼は自分の孫が将来英語に精通するようにを我々に紹介した。彼はその場で左手で二幅(ふく)の書を書いてくれ、字は大変上手かったが、内容はお世辞が過ぎて重ねて言うようなものでもない。


クラッフェク神父と告別