山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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ロックハートの『山東紀行』曲阜

兗州府から孔子の故郷の曲阜へは僅か10メイルであった。両所の間の風景は絵のようであり、農村では到る所に大きな畑や、緑の木々が木陰を作っていた。城市に入ると、県知事が我々を出迎え、我々のために試験官が当地で試験監督をする時に宿泊した場所の宿所を手配してくれた。


曲阜の人々

我々は到着するとすぐに、衍聖公家に執事(しつじ)がやって来て、公爵は翌日の我々との接見を楽しみにしていると知らせて来た。「衍聖公」の称号は西暦1055年に初めて孔子直系の子孫に授与された。孔家より古い血統があるかどうか分からない。族譜(中国の系図)の出現は一般に知られているのは紀元前2637年の黄帝に始まるが、より広い視野では紀元前1121年の周王朝に始まる家譜の記録である。現在お勧めの衍聖公は32歳で、孔子の第76代の子孫であり、孔子は紀元前551年に生まれ、紀元前479年に亡くなっている。


ロックハートは孔廟に祭礼を行う。

5月10日の日曜日、私は官服を着て孔子廟に行き、中国の偉大な聖人である孔子を礼拝しました。孔子の子孫の案内で、私は寺院内の中国人が先祖に感謝する場所に行き、帽子を脱いで中国語の短い追悼文を読みました。それから孔子廟の本堂に来ると、衍聖公とその側近達が私を出迎えてくれました。

衍聖公さんは背が高くて、強くて、ハンサムで、感じの良い方で、私をとても温かく迎えてくれました。孔子は私の訪問にとても感謝していると述べた;孔子は「遠くから友人が来てくれるのは嬉しい事だ」と述べた、だから「遠方の客人をもてなすこと」が孔子の責任であり幸福である;山東省巡撫は次のように書簡に書いている。彼も私も孔子の著作や教え、つまりほとんどのヨーロッパ人が持っていない知識に精通しており、それだけの理由で彼は喜んで私に会って、出席者全員と写真を撮ってくれました。


ロックハートと衍聖公達の集合撮影

集合写真を撮った後、衍聖公は私を孔子廟の門まで送っていただき、邸宅に戻った後、論語の「不亦乐乎」という金色の文字を刻んだ木額を贈呈しました。この「不亦乐乎」は『論語』からものである。私も香港公務員のマルケス博士を代表して銀の杯を贈呈しました。木額と杯は中国人楽団の護衛を受けて孔府に届けられた。

ロックハートから贈呈した扁額

午後、私は孔府に到着し衍聖公に拝面したが、彼は私のプレゼントに感謝し示し、扁額として記念すると言った。私はご健在な彼の母親で誥命夫人(皇帝から夫人の称号を与えられた女性)に挨拶をした。

衍聖公のお宅から戻ると、私はまた衍聖公の叔父である孔祥霖を尋ねた。彼は済南からずっと我々と共に曲阜へ同行して来て、我々のために接待を適宜配慮してくれたので、彼の行為に感謝を表しに行ったのである。

夜、衍聖公が来訪し、バーンズ大尉と私に彼が翌日に用意した食事に同席する招待に出席することを求めた。彼は私の送った孔子への賛辞に大変感謝し、私のために彼は孔子の生涯や著作に関する何冊かの書籍に、記念の題字を書いて贈ってくれた。また彼は私に聖人孔子の愛弟子達が植えた木で作った木製品を幾つくれた。彼は私が孔子廟で、あちこち参観と記念撮影をするために再訪することを希望していた。衍聖公が帰った後、彼の叔父さんが再訪して来て、我々が孔子の墓参に行くことを大変喜んでいた。


孔廟へ行く途中

5月11日月曜、孔廟へ行くと、衍聖公の二人の叔父と執事が正門で我々を出迎えてくれ、建物の参観に付き合ってくれた。

孔廟は35エーカーあり、古い柏樹(コノテガシワ)や一位の木、モミの木と冷杉が青々と茂っていた。その一株は大聖人の御手植えであり、ほかに唐代(618〜905年)と宋時代(960〜1126年)に植えられた二株があった。


孔子から植えた木


孔廟の古木

孔廟の正殿に到達するまでに、まず六つの中庭を通る必要がある。各中庭はその他の中庭とは通路で区切られているが、両側には階段があり両側の中庭に通じている。正殿は孔子が同時生活した場所である。正殿の入り口の前には十三碑亭があるが、碑面には中国歴代皇帝の題跋がある。正殿本体は10棟の建築と一つの祭殿で構成され、一棟ごとに中庭がある。


孔廟の御碑

正殿の入り口を通ると、祭壇(「杏壇」という)に到達する。祭壇の四方は開放していて、「杏壇」と呼ばれるが、孔子が人々に教えを説いた場所を「杏壇」と呼んだことに因る。「杏壇」の後方は大成殿であり、内部に高さ16インチの孔子の塑像が玉座の上に安置され、前面には龍紋刺繍の幔幕が掛けられている。この大殿の前庇は龍を彫刻した白色大理石の柱が支え、北、東、西の三方は黒色大理石の浮彫の柱が支えている。床敷は黒色の大理石であり、屋根は黄色の瑠璃瓦である。天井は、縁を金貼にして龍の模様をあしらった436枚の方形の板で構成している。


孔廟内

塑像の前には卓台があり、卓上には磁器の花瓶、銅甕と三本脚の鼎があるが、これは清の雍正皇帝が廟内に下賜したもので、後漢の元和二年に遡るものという。大殿の中には清朝皇帝が贈った4枚の金縁扁額と3幅の掛け軸、また孔子の愛弟子顔氏と曾子、孔子の孫孔伋、孟子、及び十二哲の塑像があった。ホールの東西両側の渡り廊下には行動の門人と先哲の位牌が並んでいるが、これなどの人は孔子の学説を守った人々である。ホールの後の一棟は孔子夫人を記念した建物である。最も後の一棟は黒色の大理石をあしらった建築で、内部には孔子の一生の主な活動を彫刻しており、一枚の石板に孔子の画像がある。

大殿の西側は三棟の建物で、第一棟は楽器が西側の部屋に置いてあり、主に演奏を提供する孤立したホールである。第ニ棟は孔子の父親の塑像が安置してある。第三棟は孔子の母親を記念するものである。大殿の東側も三棟の建築で、第一棟は儒家の経典を陳列し、その他のニ棟は衍聖公の祖先を記念するものである。このニ棟の建築の前の中庭には石碑があり、孔子家族の族譜が刻まれているが、年寄りで、満足できる拓本を得ることができない。また孔子使用の井戸がある。孔子の旧居の壁から孔子の書籍(竹簡)を発見された記念の石柱があるが、紀元前213年秦の始皇帝が(文字統一のために)焚書した時に、孔子の子孫が典籍をそこに塗り固めて難を免れた場所である。


孔子の末裔

孔廟を参観してから、衍聖公と昼食を取ったが、彼はバーンズ大尉と私に敬意を示して宴に招いてくれた。バーンズ大尉の食卓には、二名の孔子の子孫が着席した。一名は曲譜の県知事であり、四世代同居の孔子72代の子孫である。もう一名は巡撫代表の一人として我々に同行した易先生である。我々の食卓には衍聖公と趙氏、羅氏の二名の代表と我々の中国語秘書であった。

衍聖公大変親切で、彼は我々が飲んだグラスのワイングラスを宴会の記念に持ち帰らせ、また我々が撮影した写真を何枚か欲しいと希望した。彼は以前にもヨーロッパ人に会ってはいるが、私は会話した初めてのヨーロッパ人であると言った。彼は以前にもヨーロッパ人に会ってはいるが、私は会話した初めてのヨーロッパ人であると言った。彼は以前に北京へ二度出かけたことがあるが、近年衍聖公の夫人が亡くなったので、彼は再婚の準備のために間もなく北京に出かける予定があるという。宴会の半ばで、衍聖公は私に彼の親筆の祝辞を贈ってくれ、私の祝辞と変化に感謝の意を表した。またイギリスの国王陛下の写真も所望した。私はお別れの時、孔子の学説の道徳的影響力に会話し、彼の我々に対する友好的な招きに感謝し、彼の健康と家族の繁栄を祈った。

午後、我々は城市街の北1マイル半にある孔子の墓へ出かけた。孔祥霖ともう一名の孔子の子孫が我々を迎えてくれ、孔墓へ通じる、永遠不朽の聖人の名声を象徴するコノテガシワが立ち並ぶ参道を進んだ。墓地は大変広く、あちこちの古樹天にも届きそうであった。


洙水橋


墓園内

墓園に進入すると、通路の両側に一本づつ石柱が建っており、石柱には歴代の皇帝の文字が刻まれている。通路はうねうねと西側の洙水街中のあたりに向かう。この小河には三本の橋があり、中間は林陰路に向かうが、そこにある一本の名木は孔子の有名な弟子子貢植樹したものである。この林陰路の終点に、4基の獣像と2基の人物像〜16インチに高さの計6基の石像が、ホール前に接近してある。ホール内には香炉台だけがあるが、孔子祭の儀式はここで行われる。このホールには四折門があり内部の墓園に通じており、内部には3基の築山があるが、これは孔子とその子と孫の永眠の地である。


孔子の墓

孔子の築山は高さ30インチ、周囲100インチ、樹木と灌木に覆われている。その後前面には石造の水饔と祭壇であり、墓碑には篆書で、「大成聖文宣王墓」と記している。

墳後の西側にある一棟の小さな建築は、孔子の愛弟子子康が先師のために24年間墓を守った場所である。

孔子の墓の東側はその子の孔鯉の墓で、東南は孔子の孫孔伋である。この二基は大変大きく石饔と石柱があり、孫孔汲の墓前には巨大な石像がある。子の孔鯉の墓碑には「泗水侯墓」(「泗才侯」は孔鯉の封号)と刻み、孫の墓碑には「沂国述聖墓」(「沂国述聖公」は孔汲の封号)と刻む。

孔墓から出ると、紀元前1105年に亡くなった周公廟を参観した。彼は中国の歴史上の有名人であり、兄の武王を助けて周王朝を建国した。「彼は法令を制定し、国民を教化し、国家建設に心血を注いだ。彼は血気盛んで、沐浴中も何度も浴室から出て、手に洗ったままの長髪を抱えたまま、官員と公務の大事を相談した。彼は不思議な指南車(現代のカーナビ)を発明し、朝貢品の使者が周の京から祖国へ帰るを助けた。これにより、公開での指南針=コンパスの発明は中国人と関係深いことがわかる。


この廟の修繕は不十分であるが、所々開けて植生は大変良い。主殿(メインホール)には周公の塑像と、また銅像があり、その首に掛けられた鎖(くさり)には沈黙の美徳を表している。乾隆皇帝(1736〜1796年)はここに周公を記念する碑を建てた。

続いて我々は顔回廟を訪問した。顔回は孔子の愛弟子で、聖人に親しく追従していたため大変評価が高い。中国の偉大な歴史家は彼を犬の尻尾に纏わりつくつき、イヌが走るままに遠く速く付き纏うハエに例えた。


顔回廟内

この廟も大変広く、樹木もたくさん茂っている。中でも銀松の一株は高さ150インチある。ここのメインホールも孔廟のホールに似ているがやや小さく、内部はチーク材の柱が支え、外部は美しい大理石の石柱が支えている。ホール内には顔回の像があり、その他の建物には顔回の父親と兄弟、妻子が祀られている。


顔回から植えた銀松

また顔回が使った井戸もあり、歴代の皇帝の碑刻も大変多く東屋の碑は顔回が当時居住していた場所に立っている。我々は顔回の後裔で、四品「五経博士」の称号を世襲している代表に会って大変嬉しくなった。


この方は五経博士