山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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ロックハートの『山東紀行』鄒県・済寧

5月12日、火曜日に、私達は曲阜から鄒県に向かいました。哲学者孟子(紀元前372〜前289年「

)はそこで生まれました。


三遷旧址

途中で私達は孟子の両親の墓に立ち寄りました。墓地は美しい木々で覆われており、孟子の子孫もここに埋葬されています。墓地は曲阜から約25里(約12.5キロメートル)の距離にあります。

孟子は幼少期に父を亡くし、母親が彼を一人で育ちました。孟母の名前は中国で非常に有名で、「中国のコニリア」とも消されています。彼女は息子のために3度も転居しました。最初は墓地の近くに住んでいましたが、孟子が人々の儀式を模倣し始めたため、市場の近くに引っ越しました。しかし、彼は買い物を模倣し始めたので、母親は3回目に学校の近くに引っ越しました。そこで孟子は速やかに生徒達から礼儀を学び、母親はとても喜びました。墓地では、私達は孟子の第69代の孫に会い、彼の祖先の墓の前で写真を撮りました。


孟子子孫

孟子の墓は、孟母墓の東南約7マイル(約11キロメートル)に位置しています。木々が茂った小さな丘の上にある墓地には、林の道が通じており、遠くからでも見ることができます。孟子を祀るために建てられた寺院はかなり荒廃しており、孟子の墓の正面に位置しています。墓石には「亜聖孟子ノ墓」と刻まれています。


亜聖孟子墓

鄒県の県城に近づくと、兵士の一団が我々を迎え、赤い傘を持つ者、銅邏を打つ者があり、方陣を形成して我々を案内して街へ進み、県知事は城内で我々を迎え快適な宿泊場所を準備してくれた。

休憩してから、我々は孟子廟を訪問したが、顔回と同じ世襲の称号「五経博士」がある第74代と、彼の叔父様と県知事が一緒に我々を接待してくれた。

孟子の家族の現在の代表は前任の代表の弟であり、前任のお兄さんは数年前に亡くなり跡継ぎがなかった。弟はまだ28歳で家庭を持っていなかったが、もし彼に子があればその子は兄さんの子と見做され家督を世襲することになる。

通りから廟の正面に進入すると、我々は両側にコノテガシワが聳え、碑碣が林立する、木陰の道に沿って進んだが、この大理石の石碑は全て歴代皇帝が孟子を記念して刻んだものであった。木陰の道は正殿に通じ、正殿前の渡り廊下は龍を刻んだ大理石の支柱(しちゅう)があった。殿内には孟子とその愛弟子楽正子の塑像がある。正殿の奥の殿内には孟子の父親と子供、妻を祭祀する。

廟屋は修繕が及ばず、この点では孔子廟ほどではなかった。我々は続いて孔子の孫史書の一つ『中庸』の作者の孔汲(字は子思)の廟に行った。この廟は当時孟子が講義と生活をした場所で、中には子思の塑像があった。我々は孟子の母親の廟で母子を記念した碑刻を訪問した。


孟母機を断の所

ホテルに戻る途中に石のアーチ門を通過した。これは孟母が最後に定住して子育てした場所で、そこの石碑には孟母が機織り中で織布を断ち切った物語がある。ある日孟子が学塾から帰ってくると、機を織っていた母親は頭を挙げて学校の勉強はどうかと聞いたが、孟子が口任せに、まあまあだと答えた。母親は孟子が不登校した事を知って、機織りしている織布を切り裂き(さく)、学業を若し半端(はんぱ)で止めたら、この織り掛けの布を途切ると完成することがないように、勤勉のみが学業で成功するとを戒めた。

5月13日水曜、鄒県を離れ80里の距離の済寧府へ向かった。そこでは兖州府であったことのある張道台の暖かい接待を受けた。


ロックハートと張道台および子との撮影

済寧府は大運河の沿線に位置している大型の交易の中心地である。市内最大の建築はローマカトリック教会であり、市街の城壁の外には二つの大きなモスクがある。


済寧の大運河

我々は道台が炭鉱問題を憂慮していることが分かった。この炭鉱は済寧府の南東289里、鄒県の東南200里、台児莊の東北北寄りの90里に位置し、正に鎮江〜天津の英独鉄道のイギリス管理路線とドイツ管理路線の接続地点である。この鉱山は現在日産300トンであり、鉱脈は30フィートあると言われているが未開発である。

鉱山の開発には200万元の資本が必要であるが、その内110万元は積み立てたが、90万元不足している。天津税関税務司のデトリング氏(Mr.Detring)と天津港の別のドイツ商人がその内4万銀両の株を所有している。北方海平炭鉱の張翼(Chang Yen Mao)はこの炭鉱に大変興味を持っている。鉱山の運営は勅令によって認められる。

道台は私に、ドイツの興行会社の炭鉱専門家と会社の責任者が、炭鉱の支配権を取得するために近いうちに当地に訪れると教えてくれた。ドイツの北京駐在大使は外務部に、当鉱山はドイツ国鉄道(未完成)の路線内30里にあり、ドイツの管理に帰属すべきであると書簡を送っている。中国の外務部はこの声明の承認を拒絶し、鎮江〜天津の英独鉄道線が完成後にこの炭鉱を通過しても、清朝が外国投資を利用して建築した中国の鉄道路線になるので、『膠澳租借条約』は膠済鉄道のみ指している。清朝は更に、この鉱山が『膠澳租借条約』が締結以前に開発されていると指摘している。


大運河

『膠澳租借条約』の鉄道と鉱物権利の第四項の規定によれば、「中国の山東省内で各種の事業を開業する場合には、外国から援助を募ることが合意され、あるいは外国人や外国資本、外国資本を利用場合、清朝はまずドイツの商人らにプロジェクトを引き受け、資材を販売する気持ちがあるかどうかを訊ねることを取り決めた。若しドイツ商人がこのプロジェクトと資材の販売を希望しなければ、清朝は公平を示すために、独自の裁量で別の方法を計ることができた。」従ってもし清朝がこの鉱山の採掘を開発するためには外資を申請しなければならず、また最恵国(さいけいこく)待遇を受けない場合、ドイツの誓約を受けることになる。

道台は私に、それはドイツの企業が炭鉱の株の権利を所有することを認める条件を作成し、その条件の一つが、中国人が所有するドイツ企業に株権を所有することを堅持するものであると語った。

山東の巡撫も道台も、英独鉄道のイギリス管理部の鎮江から山東辺境への部分の、一刻も早い建築を完成させ、ドイツの勢力との均衡を切望していた。道台はイギリスの鉄道管理局間は採算が取れると考えたが、膠済線に利益があるのかは懐疑的であった。