ロックハートの『山東紀行』泰山
5月14日の日曜日、私達は済寧を離れて泰安に行きます。5月16日土曜日に到着し、途中で陳家店で一晩休んだ。
泰安府は雄大な泰山の麓に位置し、絵のように美しい。城の北に位置する泰山は立ち上がり、5,000フィートに達する。泰安城は四角で、街は不平で、貿易があまりないようです。城北には約25エーカーの大廟(岱廟)があり、高い廟の壁には美しい檜と紫シャツがあります。主廟内には舜帝像があり、壁には王室の儀仗図が描かれています。この寺は毎年1回廟会が開かれます。その時、数千人が全国各地から泰山に参拝します。
岱廟中の碑林
岱廟中の井戸
済南の按察使は泰山に来て私達に会うと約束しました。なぜなら、皇帝を代表して泰山に来て泰山娘娘に年に一度の祭祀を行う必要があるからです。
私達が泰安に着いた時、按察使は既に泰山に登っていた。彼は山で私達に会いたいと残したが、天気はずっと曇って雨が降り、5月18日月曜日に晴れるまで、私達は山に登った。
登山途中の人々
山道は曲がりくねって長さが約15マイルで、主に石で舗装された石段で、石段はよく保存されています。最初は山道の傾斜は大きくなかったが、上に行く程急になり、頂上に着くとほぼ垂直に近い。山の最高地点は約5,000フィートである。
登山途中の官吏達
我々は朝の8時に出発し、午前11時半に山頂に到達した。一行の殆どは担ぎ輿に乗って山を登ったが、私はずっと山頂まで歩いたので、輿を担ぐ人夫」達は怪訝に思う反面、大変軽いと思ったようである。彼らは初めて空のままの輿を担いで山を登ったそうである。
登り始めは道の両側にコノテガシワが植えられていたが、高い所へ行くと杉の木しか見えなくなった。山の中腹に廟宇があり、孔子もここへ来たそうである。路上の崖面には泰山を賛美する詞句が刻まれている。登山しながら、泰山と周辺の景色を楽しんだ。
泰山風光
我々が登頂すると、按察使(地方監督官)の一行が歓迎してくれ、その中には彼の弟と、子供、甥子と、また早々と登った府知事と県知事がいた。按察使は我々を幾つかの廟宇に参観させ、彼が皇帝に代わって「泰山娘娘(女神)」に贈ったばかりの銀の花瓶と銀輪を見せてくれた。
泰山頂上に居たロックハート達
最大の廟宇は「泰山娘娘」のために建築されたもので、屋根には鉄と銅の瓦が葺かれていた。床板には、現金、女性用ブーツ、銀製の男児人形が散乱していて、これは大な扉のぐらぐらする板から放り込まれたものである。この観音開きの戸は、これ等を取り出す時にだけ、年に二度開けられる。我々はまた、自分の御殿の中で、本物のように着飾った「泰山娘娘」を拝見した。彼女は中国の旧暦の年の始めまでずっと座っており、その後次の季節にまた坐るまで、横たえられ眠っている。嘗て泰山に登った膠州総督が、彼が「泰山娘娘」を参拝した時には、幸運にも彼女が寝床(ねどこ)に横たわっているのを見ることができたと教えてくれた。
碧霞元君祠
玉皇頂
娘娘廟の後には高さ40インチの石塊があり、およそ唐代のものである。廟宇の前には一対の高さ14インチの銅柱があり、これは乾隆皇帝が建てたものである。参拝者はコインを使って柱から模様をこすり写して、「福幣」として子供の首に掛けた。
下山途中
山頂からの眺望は本当に素晴らしい。按察使の一行は思わず詩を詠み、山頂付近の建物の壁に刻んだ。
担ぎ輿に乗ると二時間足らずで下山したが、人夫達が担ぐ輿は大変早く、険し場所でもスピードを落とさず、大変感動した。
5月19日火曜、博山と淄川を経由し青州府へ出発した。我々は元々馬車で荷物と人を運んでいたが、山道を使うので、馬車を止めざるを得ず、代わりに手押し車を使った。按察使は我々と淄川まで同行し、大変良い旅の連れとなった。
最初の夜は莱蕪の入り口に泊まったが、初日は35マイル歩いた。5月20日木曜の午後、莱蕪の入り口からおよそ26マイルの博山まで来た。この間の路上の景色は大変魅力的で、青石関は特に気に入った。
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