ロックハートの『山東紀行』博山・青州・濰県
5月19日火曜、博山と淄川を経由し青州府へ出発した。我々は元々馬車で荷物と人を運んでいたが、山道を使うので、馬車を止めざるを得ず、代わりに手押し車を使った。按察使は我々と淄川まで同行し、大変良い旅の連れとなった。
手押し車夫
出発準備した押し車
路上
最初の夜は莱蕪の入り口に泊まったが、初日は35マイル歩いた。5月20日木曜の午後、莱蕪の入り口からおよそ26マイルの博山まで来た。
この間の路上の景色は大変魅力的で、青石関は特に気に入った。
博山は小山の上にあり、麓には美しい谷川があり、私が見た中で最も美しく、綺麗な街である。知事の葉氏は我々をこの街に迎えてくれ、我々のために生活必需品一切を提供ししてくれた、私が遭った知事の中でも有能な一人であった。
入城前の迎えた官吏と一般市民
城壁
山風光
博山は大型陶器とガラス製造の中心地である。
陶器の製造工場の主要な製品の三種は、一般的な紅陶器(素焼き)、淡黄色陶器(堅焼)、加熱できる陶器である。
博山で生産されるガラスの原料は、付近で採掘される石である。我々はガラス工場を訪問し、ガラス器具の製造工程を見学した。ここでは、五洲ガラス、ホヤ(ランプシェード)、ガラス棒、ビン、起き上がり小坊子、ビースと各種の装飾品が生産される。県知事はガラスの彩色と彫刻の改良にも努力している。按察使(行政監督)は私に、県知事は中国の職人にヨーロッパのガラスの専門家が先進技術を指導してほしいと希望しているが、適当な人がいないか物色できないかと尋ねていると訴えた。
博山の山中は石炭が豊富で、50年余り際靴している。我々は一炭鉱を見学したが、ここの石炭はドイツが経営している濰県に比べて質量が豊富であった。ここの炭鉱は全て中国人に開放されたが、資金不足で幾つかは操業を停止していた。これらは全て個人の所有で、その上政府は生産額の5パーセントを徴税していた。
最も深い坑道は深さ2,000フィートに達している。縄に籠を吊るしたロープが、気の轆轤に巻かれている。工夫はこの籠に乗って鉱脈に降りる。朝から晩までずっと地下で働いて、途中交代があった。工賃は500〜600枚の銅銭(毎月14元)であった。上等の石炭はコークスに使われ、二次品は動力用の石炭となった。
産出地での価格は、一級石炭が、1斤7銅銭、または1ポンド当たり1/4ペニー未満。
ニ級品は、1斤2銅銭。
三級品は1斤1枚銅銭。
石炭の運輸費用は石炭自身の価格を上回る。旧暦の8月から翌年の5月まではラクダで運び、そのほかの期間はネコ車で運んだ。
ドイツは博山炭鉱については、恰もこの炭鉱が彼らに帰属しているように語る。膠済鉄道の支線がここへ次第に延長されており、時機が成熟すれば彼らは『膠州条約』と30里条項を援用するであろう。
だが、中国人はこの点を意識しており、按察は我々に、「ドイツは、我々(中国人)が眠っていて彼ら(ドイツ人)が何をしているのかわかっていないだろうと考え、この鉱山を獲得したいと望んでいる。彼らは、おいしい獲物を貪る(むさぼる)ために、山東に鉄道の支線を建設し、あらゆる地方の通じる場所にしたいと考えている。」と言った。
5月21日木曜に第二行程を開始し、青州府に行った。博山から15マイルの淄川地区は途中特に淄川(河川)付近の美しい場所を通過する。路上には博山へ行く鉄道路線を示す白旗を見かけた。鳥の奇妙な鳴き声に皆が気が尋ねると、その名が四つの漢字の発音に大変似ている。「冒犯婆婆(モーファポポ)」と呼ばれていることを知った。この4文字の意味はそれが世界のどこであっても許し難い犯罪でありあり、中国でもはやってはいけない危険行為である。
橋を渡って、淄川に入ってが、この橋は反乱者の劉徳培が建設したというが、その後有名なモンゴルの将軍センゲリンチンに鎮圧された。センゲリンチンは1860年の戦争中に英仏連合軍の北京侵攻に抗戦した。彼は天津を守護するために土塁を建築したが、この土塁は「センゲリンチンの愚行」と呼ばれている。
ここの知事は我々が済南を離れてから最も快適な宿所を提供してくれた。
5月22日金曜、我々は泰安からずっと付き添ってくれた按察使と名残惜しく別れを告げ、25マイルを歩いて金陵鎮に着いた。途中に華武という所で、「開発された」炭鉱を見物した。十家楼から張店への路上で、昼食に立ち寄った時に、中国人が博山鉄道のために堤防と道路を建設しているのを見かけた。
金陵鎮に向かう道路は大変酷く、金陵鎮に入る時には最悪な状態で、殆ど通行不能であった。我々は2両のロバ車を見かけたが、ロバに付いている泥からロバが泥に倒れ込んだように見えた。代表の易先生が馬車に乗って張店に行こうとしたが、この時は馬車を止めて、椅子籠に乗り換えて金陵鎮へ行った。
ドイツの鉄道は金陵に事務所があるが、中国の領内にあるので、中国の兵士が警備している。梅将軍は濰県の軍人部隊から1,500名の兵士をここに駐留させている。
金陵鎮に到着すると、我々は青州府のイバリスバプテスト教会宣教師のジョーンズの手紙を受け取った。彼は熱烈に自分の部屋を我々に提供したく、この街の5・6のイギリス人家族が、同胞に会えることを楽しみにしていると言った。
5月23日木曜、我々の陸上旅行の最終目的地で、25マイル離れた青州府へした。淄河を渡るときにドイツ人が10基の橋脚の鉄道橋を建築するのが見えた、間違いなく橋はほぼ完成していて、レールを敷設する準備ができていた。
間もなく青州府へ到着しそうな時、陳総兵と800名の兵士が城外へ我々を迎えに出て城内へ案内した。知事は宿所を手配しており、ジョーンズ氏とそこで我々を迎え、我々を此処に数日引きとどめた。時間が切迫していたので、私は彼らの好意を断り、翌日早朝6時の汽車で青州を出発することを決めた。
我々が青州にいる間、知事とジョーンズ氏には暖かいもてなしを受けたが、残念ながら一緒になる事はあまり多くなかった。そのほかの場所と同様に、ここの役人と宣教師の友好関係は深い印象があった。
5月24日日曜、我々は駅から離れていたために汽車に乗るには、早起きしなければならなかった。我々は代表4名と、8名の騎馬使用人と済南からずっと着いてきた騎馬隊が護送され、陳総兵と兵士の一団が駅まで送ってくれた。世話好きなのドイツ人駅長が我々の旅行をもう少しで乗り遅れそうにしたが、陳総兵のすけだちで、問題は解決した。残念ながら済南以来我々に動向した人々とはお別れしなければならなかったが、彼らのマナー、友好的な誠意はで、本当にたくさんの事をしていただき我々の旅行は大変愉快なものにしてくれた。
梅総兵官邸及び儀仗隊
午前8次に濰県に到着すると、我々はすぐに梅総兵の官邸に連れて行かれた。そこで儀仗隊の歓迎を受け、中英両国の国旗を一緒に形容するのを見た。梅総兵は暖かく我々を歓迎し、朝食に招待し、彼の軍隊を視察させてくれた。彼の軍隊は間違いなく山東の群体の中でも有能な一隊であり、その兵士の足取りは正確で、驚くべき素晴らしい訓練を受けていた。
ロックハートと梅総兵
梅総兵
夜、梅総兵と濰県知事が我々を夕食に招いてくれた。梅総兵は我々にイギリス政府が彼に送った金時計とチェーンを誇らしげに我々に見せてくれた。この時計には、イギリス国王政府は梅総兵に1900年の華北の動乱でイギリス人の一家を危険から救出した功績を讃えて贈呈する〜と刻印があった。
梅総兵は親英反独派であり、彼は李鴻章がどのように外国人を描述している:
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。