山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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倉谷箕蔵と辛亥革命

辛亥革命で、日本の友である倉谷箕蔵(別名は倉雄亜)は積極的に山東同盟会革命党の反清活動に参加し、一度は革命軍政府の要職を担当し、山東辛亥革命史上重要な地位を占めた人材である。


左側の人は倉谷箕蔵

倉谷は日本に居た時は明治維新を支持した。1901年、彼は煙台毓材学堂の教師に招かれて来たが、清朝政府の腐敗の現実に耐えられず、そのため当校で教師をしていた徐鏡心と意気投合し、すぐさま異国で生死を懸けた友情を育んだ。その後倉谷の影響で、徐鏡心は1903年春に日本へ留学した。1906年2月に徐鏡心は帰国したが、倉谷は日本人が経営する『芝罘日報』の記者になっていた。倉谷の紹介で、徐鏡心は中国革命に同情的なその新聞の社長桑名貞治郎と友好を結んだ。間もなく、倉谷ら多くに人々の援助を受けて、徐鏡心と謝鴻燾らは煙台の西方の通伸村に東牟公学を創設し、同名会北方支部と同盟会山東分会の組織図を作った。これは当時同盟会が山東で創設した有名な公立校の一つで、そこで革命のために多くの人材を育成した。

1911年11月12日夜、武昌蜂起の影響で、革命党は煙台で蜂起して臨時政府が成立した。だが総司令官の王伝炯は表面上は革命党と足並みを揃えたが、実際は革命を敵視していた。

12月6日、徐鏡心らは煙台に戻り、王伝炯の軍事指揮権の剥奪を準備して、「共和急進会」の設立を決定した。倉谷と、桑名と自身が良友であることから、徐鏡心は急進会機関部を「芝罘日報」社の対面の商業学堂に設置した。このようにして、急進会に困難があれば、その場で日本の友人の助けを得られた。12日午後、急進会は毓材学堂で集会し、王伝炯に印鑑の差出を強要し、また監禁した。当日夜、王伝炯の徒党董保泰が200人余りの軍警と急進会を包囲し、双方で衝突が発生し膠着状態となった。桑名、倉谷(一説に倉谷は急進会内に居た)は、王伝炯に形勢を見極めることを勧めるよう、調停に出ることを求められた。結局、王伝炯は徐鏡心らの人を『芝罘日報』公使館に送り込み、その後軍隊を率いて撤退した。その後、王伝炯は戒厳令を施行し、革命党人を逮捕し、またしばしば日本の領事館と交渉を重ねて、徐鏡心らに濡れ衣を着せて匪賊(ひぞく)とし、引渡しを命令しまた新聞社で逮捕することを認めた。倉谷と桑名、小島ら日本人は極力保護を弁明して、王伝炯の陰謀が思いままにならないようにした。

倉谷は記者の期間、何度も革命党を支持する文章を発表し、清朝の注目を集めた。清朝が派遣した人間と日本領事との交渉で、倉谷は帰国を命じられた。しかし彼は毅然として中国に留まり革命に中国参加した。

1912年1月5日、彼は徐鏡心と共に大連に到来し、急進会総部を設立し、共同で登州奪還計画を制定した。彼はまた中国革命に尽力する日本の友人栗田、橋本、石井等と徐鏡心と面会させ、徐鏡心は熱い歓迎を受けた。倉谷らの協力で、徐鏡心はすぐさま500人余りを募集し、旅順から軽機関銃700丁余りを購入した。船舶と連携を取るために、倉谷は大洋銀3,000元で日本船「龍平丸」船長を買収した。14日、徐鏡心と倉谷らは民軍を率いて大連から乗船し、15日早朝に登州を一挙に占拠した。その夜、山東軍政府職員選挙が開かれ、公選で徐鏡心が都督当選確実な状況の元、彼は革命隊を団結し、革命の過程を推進するために、連承基を都督に推薦し、自身は参謀長を務めた。倉谷は登州奪還に功績があり、また軍事に精通したので、軍政府の砲兵司令に推薦された。栗田、橋本、石井等の人も戦略が勇敢で軍政府の表彰を受けた。

登州、黄県は相次ぎ独立すると、膠東の革命の形勢は上昇した。山東巡撫の趙広建は、莱州に駐屯していた清軍総兵葉長盛を黄県、登州に派遣し、煙台に接近させた。革命の成果を保持するために、登、黄の民軍は反撃を奮起し、倉谷も積極的にこの正義の戦争に参加した。

1月19日、黄県の人民軍と清軍は黄山館で戦闘し、清軍は機関銃や大砲を頼りに、猛攻撃を仕掛け、しかも人民軍は兵力が卑弱で、装備も鉄製で、後退を余儀なくされた。

民軍が殷家店まで後退した時情勢は支持がなくなっていたが、幸いに倉谷が砲兵隊を蓬莱から即して駆けつけ応戦し、砲撃して清軍を追撃し、民軍の県城への撤回を援護した。その後、徐鏡心は自ら登州民軍を率いて救援に来て、上海軍も煙台から駆け付け、黄県民軍と軍を合併して反撃した。30日、上海軍は北馬で清軍の砲撃を受け挫折すると、清軍は三方向に別れ北馬に向かった。北馬で黄県民軍と協力して防衛していた倉谷は、時局の危機的状況を見て、身を挺して進出し、自ら決死の勇士を率いて大砲を設置し清軍を轟撃した。戦闘中に、砲弾が飛んできて彼の片足は負傷したが、彼は歯を食いしばり傷口を軽く手当てしただけで、すぐさま戦闘に戻った。その場の民軍は大変鼓舞され、奮起して敵に立ち向かった。戦いは夕刻に迫ったが、清軍は撃退した。翌日、民軍の応援が駆け付け、清軍は退廃し、西走を余儀なくし、二度と東進できなかった。

2月4日、倉谷は徐鏡心に協力し60人余りの民軍を率いて、再び龍口を奪還した。その後清軍は上海軍が煙台に戻ったのに乗じて、黄県への攻撃を継続した。6日、徐鏡心は清軍の昼の潜伏、夜の活動の法則を探り、倉谷と持久戦の策略を協議し、北馬軍に勝手な撤退の禁止を命じた。

その夜、北馬軍と清軍の小団と交戦したが、清軍の大隊が来たと誤解し、あたふたと迎撃してから県城表に撤退した。倉谷は北馬での守備を失い、龍口は孤立し、簡単に清軍に退路を断たれたので、徐鏡心に翌日兵を収めて帰城するように進めた。7日、3,000余りの清軍が黄県城を包囲した。徐鏡心とは煙台、南京などへ危急を知らせる一方、民軍へ堅守して救援を待つよう伝令した。民軍は兵が少なく武器も貧弱で、昼夜守備したため疲弊は激しく、援軍の知らせもなく、時局は厳しくなった。11日早朝、清軍は総撃を発動した。間もなく、城内市街は陥落した。倉谷と徐鏡心は民軍を率いて清軍と激烈な市街戦を展開し、最後は少数の民軍を率いて東門から突出して登州へ撤退した。日本の友人橋本は同志の撤退を援護するために、登城へ銃を持ち込み、清軍の多くを撃退したが、最後は壮烈に犠牲となり、中国革命に自身の若い命を捧げた。


1912年の末、徐鏡心は国会議員に当選し、北京で赴き職に当たったが、合法的な身分で、大逆賊袁世凱との闘争を展開した。当時倉谷も北京で徐鏡心らに協力して反袁世凱の活動に従事した。

翌年3月、袁世凱は国民党の指導者宋教仁を暗殺する人間を送り込んだが、徐鏡心の聴き付けると大変憤慨し、すぐさま倉谷の協力の下、『東泰日報』で文章を発表し、袁世凱の時代に逆行する行為を非難し、国民に謝罪させるために殺人犯をすぐさま処罰するよう要求した。「二次革命」の失敗後、倉谷の紹介を経て、徐鏡心は「順天日報』で有名な『有賀長雄の共和憲法持久策を反撃する』の一文を発表し、独裁進行の復活に激しく反論し、旗印の『臨時憲法』を鮮明に擁護した。


1914年3月15日、徐鏡心は逮捕され、倉谷は北京の劉冠三、丁仏言らの人々と積極的に救援を試み、ようやく功を奏した。


右側の方は倉谷箕蔵

4月14日の早朝、徐鏡心が惜しみなく死亡し、遺品の銅簫(尺八)と一部の書籍や、手稿は倉谷が代表で保管した。倉谷は危険をものともせず、列士の遺体の収束に出向いた。

辛亥革命に、倉谷は中国人民の革命事業に積極的な貢献を働き、今日でも我々の称賛と記念に値している。

注:徐鏡心氏の子孫(徐学航)は現在、山東と北方で辛亥革命の史料を捜索しており、倉谷箕蔵(倉雄亜)氏の子孫を連絡を取りたい、歴史の淵源を探り、祖先の友誼を謝り、相互交流を増進していて欲しいです。

連絡方式: 山東省煙台市龍口徐鏡心記念館館長

     徐学航

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