山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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鐘がならなければ、僧侶も死ぬだろう。


嶺南の気候は高温多湿である。

良く喀血する七十過ぎの老人が、広州は長く住むところではないと言っている。しかし、朝廷が彼を北方の直隷総督に移遷した時も、李鴻章は喜びの表情を表さなかった。彼は痩せた身体をゆったりした籐の椅子に深く沈めた。


北上する前に、李鴻章は香港に出かけイギリスの香港総督ブレイク(Henry Arthur Blake)に会うことを決定した。この時ブレイクは、広西広東を基地として、中国の南方に新政府を樹立しようとする計画を抱いていた。


ブレイクは初めて李鴻章に黄袍加身=皇帝服を着せようとした外国人であった。早くには日清戦争(1894年)の期間に、アメリカ人が最初の策略を立て、日本政府が北京を攻略した機会に、中国での政治交代を狙って、李鴻章父子に清朝に代わる中国統治を策略していた。この画策は李鴻章の個人秘書顧問のペシィック(William N.Pethick)とアメリカの火器軍官で鉄道エンジニア兼請負(うけおい)のウィルソン(J.H.Wilsion)、下関条約期間に李鴻章の顧問を担当したフォスター(J.W.Foster)であった。その時期は1894年の9月である。

当時清朝は、平壌、黄海にどの重要な戦役で手痛い打撃を受け、国勢は卵を立てたように不安定で危機的状況であった。日本軍は朝鮮を占拠し、黄海の制海権を制圧し、兵を二手に分け遼東半島を侵攻した。ちょうどアメリカで中国への鉄道開発を計画していたペシィックは友人ウィルソン(二人は1886年に出会い南北戦争に参加した)と協議して、清朝は日本からの重大な打撃を受けて、恐らく存続することはできないだろうと考えていた。ペシィックは、中国を混乱から救出するのは、李鴻章が最適な統治者であると考えていた。


ウィルソンはペシィックの主張に賛同した。彼はこれは重大事であると考え、成功するには身分のある者が何人か必要と考えたが、最初の協力者は、フォスターであった。フォスターはハリソン大統領の第2代国務長官を務め、アメリカの「外交専門家の第一人者」と知られ、中国問題には興味深く、国務長官を退任後は中国の駐米大使館の法律顧問を務め、李鴻章と共に、趙蔭恒、曾紀沢なども親しく交流した。ウィルソンはペシィックにフォスターを訊ねるよう提案した。その後、フォスターはペシィックに、「最善は王朝交代であり、李鴻章に権力を掌握させることを勧める。」と主張した。フォスターはまたアメリカの駐清公使デンビー(Charles Denby)に書簡を書き、李鴻章の皇帝称号計画を擁護することを漏らしている。

同時期、ウィルソンはペシィックと具体的な部署を取り決めた。ウィルソンはワシントンに駐在する日本の顧問スティーブンス(D.W.Stevens)に手紙で、「中国を統治する満州族集団は、祖先が中華帝国を征服したあの能力はすでに無くなっており、日本が迅速のこういう状況を改変しなければ、英国、ロシアはすぐさま中国を分割して、日本が勝利した成果を喪失させるであろう。」と書いている。彼はこの書信で、「もし清朝が消滅したら、誰が皇帝の座を継承するのであろう。この混乱した国家の運命をどの国家が決定するのであろう。」「李鴻章あるいは彼の子の李経方を皇帝として、日本とこの局面をコントロールする」のかと自問自答している。その後、ウィルソンはスティーブンスの返信を受け取り、彼に日本の駐米公使栗野慎一郎に手紙を渡し、更に日本の首相伊藤博文と外相陸奥宗光に写しを送る準備をしていると言った。


何事も順調で、ペシィックはウィルソンに手紙で「〜あなたの友人李鴻章を君主とする、朝廷の換代という〜将軍、あなたの偉大な計画は、毎日中国から伝わってくるニュースによりますます実現可能となっている。」と書いた。ウィルソンは駐華大使デンビー(Charles Harvey Denby)への書信に、「私はあなたにウォリック(イギリスのバラ戦争の重要人物で、king-maker、つまり国王擁立者のあだ名があった)役を務めてほしい」と言ってきた。

当時、日本軍は旅順、大連の二路から侵入して来た。ウィルソンら人々は、清朝の消滅は朝夕に迫ったと、いよいよ確信していた。しかし、日本軍はウィルソンからの希望通りに北京へ向けて進軍していたわけではなかった。伊藤博文は「威海へ侵攻して、台湾を掠奪する。」と決断していた。彼は日本軍が北京を攻略して、列強の干渉を招くのではないかと心配していた。日本軍は中国でも「暴徒が各所に蜂起する」困難に陥る可能性を心配していた。日本軍のこういう「自制」はペシィックらの人々を失望させた。スティーブンスはウィルソンへの書信に、「当初、もし日本が北京を攻撃すれば、それはやり遂げられたであろう。それがこれをやり遂げなかったのは、清朝が消滅後、列強間に権力抗争が発生し、日本がこの戦争で得た強大な利益を列強に奪われることを懸念したためであり、そこで日本人は、賢明なことは現存の戦利品をウィルソンの計画のために賭けないほうが賢明であると考えたのである。日本が北京を陥落しなかったので、ペシィックは李鴻章に「黄袍加身(出世させる)」チャンスを無くした。その後李鴻章を失脚させる事件が発生し、留任を罷免され、再び皇帝服の黄色の上着を着る機会を奪われた。ペシィックがアメリカから天津へ戻った時、李鴻章は一生の政治生涯のどん底にあった。彼は意気消沈した上司を極力元気づけたが、決して彼を皇帝にしようとする秘密の計画は明らかしていなかった。


月日の経つのは早く、あっという間に庚子年(1900年)となった。今回李鴻章に「黄袍加身」させようとしたものは、イギリス人の代冒険家の劉学詢であった。劉学詢は伝説多彩な人物である。彼は文武多才であり、役人であり実業家でもあった。風雨飄搖とする清末にあって、劉学詢は強烈に帝王の夢を抱き四方を奔走し、孫文、康有為、李鴻章などの人物と接触した。彼は自身を朱元璋、洪秀全らと同一の人物であるとみなしており、孫文らの人々を徐達、楊秀清とみなしていた。孫文の起義を支持するために、革命党の人間が「生辰の綱を智取する【水滸伝】」便を図るために、自身の役人と実業家として納税を「寛大」に銀行に報告した。しかし政治的見解の違いにより、1900年以前には孫文と劉学詢は数年間音信不通となっていた。1900年の夏に、李鴻章の広東広西の独立を推進するために、両名は関係を回復した。馮自由の『革命逸史』には、総理が東京で劉(学詢)に接触し、粵(広東)督李鴻章が北方の混乱により、粵省を独立させようとし、貴下の援助を得たく、速やかに粵地に来て進行を共にしたいと言っている。


この時劉学詢は、両広総督李鴻章の幕下で人気幕僚であった。孫文が初心に接して半信半疑で、平山周、宮崎寅蔵等の人々と日本を離れ、当年6月初旬に本港に到達した。李鴻章はこの時、劉学詢と香港総督ブレイクの二大扇動受けていた。

「両広独立」のため、慎重な李鴻章は殆ど書信を残していない、しかし劉学詢が孫文に手紙を書いた時には、概ね李鴻章の黙念を得ていたものであろう。

孫文は日本を離れ香港に行くと、駐日公使の李盛鐸は李鴻章に電報で「裏切り者の孫文は、昨日横浜から香港へ向かったが、騒動を起こすことが恐ろしいので、厳重に防止することを願う」と言ってきた。だが李鴻章は機密機関の吳汝綸が編纂した『李文忠公全集・電稿卷』には、この電報は故意で省略されている。この意味は恐らく李鴻章が孫文が何をしに来たのかを知っており、学者は「孫文は李の求めで来ている。李鴻章の機密機関がこのことに参与し、あるいは師尊避諱(本名を遠慮すること)でこの資料部分を避けている。」と推測した。

孫文が香港に到着すると、劉学詢は船を派遣して来て、孫文と船上で相談した。孫文は敢えて劉学詢を全面的に信用しなかった。これが一種の罠ではないかと心配し、宮崎寅蔵らを粵州を派遣し、孫文自身はフランス領のサイゴンへ船で避難した。宮崎寅蔵は広州へ到達後、劉学詢と徹夜で密談した。劉は李鴻章に代わって、借款19万両を孫文へ渡すと答えた。両広の独立に至っては、彼は「各国連合軍が北京を陥落するまでは、開示することは都合が悪い」との回答であった。そこで、宮崎寅蔵らの人々はやや失意して香港へ戻った。


劉学詢が密談した結果を李鴻章に報告した時、李鴻章は清国南方の政局の安定を維持する督撫の重職にあったが、ただ身を籐椅子に深く沈めて、半眼のまま「頷く」動作をした。この動作は賛成も反体もしない曖昧なものであった(劉の案内で、李鴻章は孫文へ3万元の活動資金を渡したようである)。これだけの騒動の後、革命党の人々がどう考えどうするのかを、知りたかっただけなのかもしれない。つまるところ、彼はもう77才であり、朝廷を変え皇帝になるには風前の灯火(死期を迎えた)の彼にとっては大した魅力ではなかったのである。しかも北方では、八カ国連合軍の侵攻は破竹の勢いであった。西太后慈禧は天下の大罪を犯したことに気づき、掘立小屋の大黒柱であった李鴻章は再び彼女を救うわらしべとなった。彼に大清国の善後処理を促すために、北上を促す勅令が次々発せられた。

平安号が香港に着岸した時、期待いっぱいのブレイクは埠頭で長時間待っていた。この期待は彼がイギリス政府植民都局に出した電報にも見られる。彼は電報で、半満州蜂起は二週間内に南方で勃発されると見られ、彼を信任する中国紳士は彼を保証し、造反者も外国人を排斥せず、一定の勝利の後にはイギリスの保護を得ることを希望した。ブレイクは、「もし孫文と李鴻章総督が締結した盟約に賛成すれば、イギリスの利益も何よりであろう。」と言っている。ブレイク、「李鴻章が清朝に背反する可能性は高い」と考えていた。この李鴻章総督はこの(両広独立)運動に色目を使っているので、彼は自立して国王が総統になろうとして居ると噂された。


李鴻章は密室に通された。当たり障りのない社交辞令の後、李鴻章は不躾に直截的にブレイクに、「イギリスは誰が皇帝となることを希望しているのか。」と訊ねた。ブレイクは、「もし光緒帝はこの事実に責任がないのであれば、イギリスは一定条件の下であれば(光緒帝が)統治を継続しても特に反体はしない。」と言った。李鴻章は更に続けて「私は西洋人にはこういう言い方があると聞いている。もし義和団が北京の各国公使を皆殺しにしたら、列強は関与を進行し、【我々が皇帝を擁立する】権力があるだろう。もし事情がこのように変わったら、あなた方は誰を選ぶのであろう。」と言った。しばらくすると、李鴻章は「中国人で良いのか。」と付け加えた。

この言葉の追加は意味深長であり、それはまた漢人の臣下が清帝国で「満州本位」を原因とする長い間の心痛の秘密を暴露しているのかもしれない。またイギリス人とブレイクが革命党に対するスローガン「満州族を駆除し、中華を回復する」ことを試していたのかもしれない。究極的には李鴻章はこの一点を多少は知っており、彼の幕僚劉学詢は明末の将軍の子孫であり、時にまだ「反清復明」の気持ちがあった。


ブレイクは李鴻章の問題については直接答えずに、「西側諸国は概ね彼らが見つけられる中国最有力者の意見を求め、その後に決定する。」とボールを蹴り返した。いわゆる「中国最有力者の意見」とは言ってもその実李鴻章の意見を求めることで、〜もし李鴻章が自身の力量を行使する意思があれば、彼は明らかに「最有力」者なのである。その後、ブレイクは李鴻章が目を細めていることに気づき、一種の笑みであると感じた。李鴻章は一種ゆっくりと慎重な口調でブレイクに「西太后慈禧は中国最強の人間だ」と言った。これはブレイクが聞きたかった答えではなかった。ブレイクは中国人の外交辞令を読み解くことは得意ではあったが、李鴻章のこの話は、結局本心なのか、役人口調なのが、彼には正確に判断できなかった。彼の最も切実な感覚は、この老いぼれの李鴻章が、この答えをはっきりとした口調で話したことであった。


同時期、孫文は海上で会談の結果を焦りながら待っていた。ブレイクから届いた知らせに、彼は大失望した。皇帝への夢を熱く抱く劉学詢もまた失望した。彼はブレイクと一度は合意し、李鴻章を香港で拘留した後、両広独立を宣言しようとしていた。ブレイクは更に、勢いに乗じて両広も自分の支配下に置くことを企んでおり、そのために李鴻章の囚室まで用意していた。しかし、ロンドンからの指示は「李鴻章を拘留してはならない」というものだった。李鴻章の北上は、列強と善後交渉を行うためであり、ロンドンは李鴻章を拘留することでイギリスが非難の的となり、不必要な外交問題を招くのではないかと概念した。


船は北上を続けた。盛夏の海風は蒸し暑く、体弱多病の老人には相応しくない。随行員達は李鴻章に船室に戻って休息するように促したが、彼は甲板でもう少し座っていたいと主張した。彼は77歳になっていた。清帝国の美しい景色を楽しむ日々は、妄想長くはない。もしかしたら、甲板の彼は心の中で、こう自問していたのかもしれない。今回の平安号の北上は、この千瘡百孔の老朽帝国に平安をもたらすことができるのか?彼はイギリス人の立場を探り、革命党人の目的と行動も理解していた。しかし、千年の帝都の中には、彼がコントロールできないものもまだたくさんあった。


(1899年に始まる)「義和団の乱」はこういう清朝中枢の指導者達に絶望感をもたらし、宮廷内の高みだけでなく、国内の端々まで広まった。同年夏、新聞社の汪康年が主催する『中外日報』に『東南を保ち宜しく国会を創立すべきを論ず』記事で、八国の兵士が一国の都を破壊し、「国亡んで政府倒れる」の既成事実を作り出し、国民は「亡国無主の民」に陥り、当座の急務は「七省督府で公共政府を立て、国憲を敷設」し、南方に新政府を建設することである。しばらくすると容閎らの人が上海に「中国議会」を成立し、無記名投票の方式で、容閎を議長、嚴復を副議長、汪康年、唐才常等十人を幹事に推挙した。議会のメンバーには1898年運動以来の求心的力量を包括していた。議会の12条の秘密スローガンは、反対清王朝建立新政権(清王朝に反対し、新政権を建立する。)の10文字に総括できる。これらの人々の目には、西太后慈禧が掌握していた清朝の合法性は、跡形も無くなっていた。

李鴻章の「両広独立」の曖昧さと保守性と比較して、「義和団の乱」の衝撃を受けた張之洞は、新政権を打ち立てるという考えがあったばかりでなく、このために積極的に運営を切り回すなどして更に進歩的であった。この時(1900年)日本の参謀本部で働いた宇都宮太郎が残した日記に、張之洞は義和団の乱の時に日本政府の支持を求め、南方で新政権を組織するという秘密の心準備〜1900の春夏の頃張之洞の張権が多数の湖北の武官を率いて(後に次第に有名となった黄興、当時の名は黄軫が随行した)東京へ赴き、軍事を考察して武器を購入した。この規模が膨大な軍事視察団の日本訪問は張之洞の個人的動作であり、清朝の承認を得たものではなかった。張権の視察団が日本に到達した時、清朝の中枢は列強との決裂を強く希望していた。張之洞は清の朝廷が崩壊する可能性が高いと懸念したので、張権の視察団は日本の軍政各界との連絡を取るという重責に転換した。八ヵ国連合軍が北京を陥落し、西太后が光緒帝に西行を強制した時も、張之洞の幕僚の銭恂に、日本に対して自身が新政権を設立する対する立場を止めないことを明らかにするように言い含めた。李鴻章の講和談判に目鼻が付き、西太后も帰京する準備が整った時、張之洞もやっと張権一行を日本からの帰国を命じた。

時には1900年7月17日、平安号が広州に錨を下した日まで遡る。李鴻章は甲板の籐椅子に腰掛けており、誰もが汗だくになって彼の趣向命令を待っていた。しかし李鴻章はなかなか口に開かない。彼は寝っているかのように半眼開きでいた。

誰も敢えて起こそうとはしなかった。李鴻章と私的交流のある同郷の南海県知事裴景福が到着するまで、重苦しい雰囲気が汽船上に漂っていた。彼は李鴻章が直隷総督への転任を祝賀し、「海外の電報では、どの領事ももろてを挙げて祝福している。」と言った。その後李鴻章は徐に目を開き、「舍我其誰(私以外できるだろうか)」という四字句を言った。しかし、裴景福が目前の問題について訊ねると、「舍我其誰」の李鴻章はかえって喉を詰まらせ、「日本の出兵準備は最速で、イギリスも加担しており、恐らく7・8月では保てないだろう。」と言った。裴景福が国家の損失を最小限に抑える良い方法は何かないかと訊ねると、李鴻章は涙目で、「予測不能である。ただ極力切磋琢磨して、時間を稼ぐしかないが、できるかどうかわからない。私に何年残されているのか。毎日鐘を鳴らす和尚が、鐘を鳴らさない時に入滅するのである。」と語った。

1901年11月7日、李鴻章は亡くなった。あの鐘を鳴らした和尚は自分の死期を予見して、鐘の末路を見届けた。