青島聖ミカエル大教堂
1908年、24歳のドイツ人宣教師ビショフ(Bischof Georg Weig)が中国に来た。当時、彼は青島にランドマークになる建物を残すなんて思いもしなかったし、さらに自身が後日この建物で永遠の)眠りにつくとも考えてもいなかった。
しかし、聖なる言葉の宣教師として、彼はすぐに、より良い“主の福音”を伝える為の壮大な教会の必要性を発見した。強い忍耐と優れた資金調達能力で、1932年、彼の理想である聖ミカエル大聖堂が、青島の海岸沿いの高台に建設された。これは、即ち私達が今日見るところの浙江路15号天主教堂である。
教会はもっと美しく建て、初期の設計では、ドイツ人は100メートルの巨大な建物を建てるつもりであった。
しかし当時の世界情勢は、ドイツ人がそうすることを許さなかったなか。第一次世界大戦の敗北後、ドイツの生活環境は厳しく圧迫され、ヒトラーはドイツの束縛を断ち切る為に、大量の資源を軍事に投入しなければならず、海外に教会を建設するような行為は、ドイツの少なからざる資材を消費し、かえって実際の利益をもたらすこともなかったからである。ヒトラーが国内資金の海外流出の禁止を発表した後、聖ミカエル大聖堂は計画を修正しなければならなくなった。簡素化にもかかわらず、最終的な設計は高さ56メートルの鐘塔、高さ18メートル、広さ2000平方メートル以上のホールとなり、まだまだたいそうな工事であった。足場で家を建てた時代に、ここの建設作業員は、当時、もっとも「先進」的であった巻上機を使用して、1トンにもなる建設資材を空中に運び上げた。完成後の聖ミカエル大聖堂は、典型的なゴシック様式の教会の建築となり、石材とコンクリートの複合構造を採用して、簡潔で洗練した優美な外観は、ドイツ人の性格と美学と非常に一致している。
教会の工事は急速に進み、1934年10月に聖ミカエル大聖堂が完成し、当時、青島には宗教界や政治・経済界から数百人の著名人が出席し、市長沈鴻烈も事務総長を祝賀に派遣している。この時、青島がドイツの植民地支配から脱却して20年が経っていたことは言及するに充分な価値がある。
聖ミカエル大聖堂の完成から50年、この教会は市内中心部の半球状の丘の頂に位置し、高さ56メートルのツインタワーのある巨大な建物であり、常に青島市区のシンボルである。建国1949年)以前は山東省で最も高い建物で、また中国で唯一の聖教会であった。
天主
天主教堂は1934年に建てられて以来、これが初めての体系的な補修となる。
教会の主体が石のブロックとセメントで作られているので、78年の風と雨のに侵食により、内部が膨張、石のブロックが簡単に緩んで落下し、非常に危険である。旅行者の安全と文化財建築の保護を考慮して、教会の補修が必要となったのである。2011年11月、天主教堂の解体修理大工事が開始された。外面と内部改修の後、昔ながらのランドマークである建築が我々の前に再登場した。
教会には、嘗てチェコスロバキアから輸入されたアジア最大で、2,400以上の音調があるオルガンがあった。鐘塔の二つの十字架とオルガンは共に文化大革命で破壊された。
「文化大革命」の後、鐘塔の二つの十字架が再び作り直された。
2008年4月、国際的な友人の仲立ちで、天主教堂は、ドイツから高さ8メートル、2,666本のパイプを持つ巨大なオルガンを導入した、それは柔らかに響き、広遠で幽邃な音色を大聖堂に響かせている。
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