山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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100年前の防疫戦(煙台)

遮断➕隔離、百年前のこの防疫戦は、人々の手に汗を握らせた。1911年新年に始まった、猛威的なペストが満州から関内を直撃して、蔓延の勢いが大変であった。

山東省は緊急行動に出て、交通を遮断、移動を抑え検疫し、病人を隔離、広く宣伝するなどなど、渾身(こんしん)の構えで流行を防止した。

ペストの流行が重大であった煙台では、中外の医師が防疫の第一線で手を取り合い奮戦した上で、人々の外出のマスク着用を勧めるなど、医者達は余分な思考を費やさねばならなかった。

だが時既に遅く、伝染病は既に直隷、北京、天津、山東省などの各地に蔓延していた。

北京は1月12日、天津は1月13日、芝罘(今の煙台)は1月21日、済南は2月1日分にペスト患者が現れた。流行の急速な発展は、清国政府全体を非常に揺るがした。

1月23日、清国政府は直隷総督陳龍に「満州では疫病が流行して、地方の役所では防備が不完全で、関内に蔓延して、民政部、満州、直隷、山東省の各省庁に迅速な整理と、早期の撲滅(ぼくめつ)、蔓延を疎か(おろそか)にしないこと命ずる」と電報している。

大変な勢いで人類に迫った流行(はやり)病に対して、山東撫部院委員会は候補導劉鼎玉を登州、莱州へ派遣して、疫病の調査と、直ちに緊急の防疫対策を講じさせた。

1911年3月20日(宣統3年2月12日)の「山東巡撫孫宝崎の山東疫情及び処理状況の報告の奏上(そうじょう)」に、山東省地方で採用された免疫処置を見ることができる。 山東省巡撫孫宝崎

流疫は大変な勢いで人類に迫り、山東省は緊急に幾つかの防疫対策を行って始めた。1910年10月の

満州の満州里で初めてのペスト死亡例が発生した。短時間の内に流疫は満州三省を轟然(轟然)と席巻(せっけん)した。

1911年1月11日、満州三省総督の錫良は北京軍機処へ緊急電報を送り、「万万火急」という字面で、満州交通の禁止を清政府に要請した。

疫病を隔離する為に、清政府は交通の遮断を採択して、移動を抑え検疫し、病人を隔離するなどの措置を取った。1月13日、清国政府は山海関一帯で封鎖し、ここを通過する旅客は皆5日滞在して経過観察の必要があった。

郵伝聞は徐鏡清らを榆关(山海関)と溝帮子に派遣して検疫所を設置した。1月21日、清国政府は「北京天津間の鉄道を一律停止し、蔓延を避ける」よう命じた。

一つは山東省全省範囲内にある。省都中西病院に山東省防疫役所を設置し、防疫作業の指導を行った。道員余則達、莊仁松を派遣して官医としてそのことに専門に当たらせた。また巡警道潘廷祖により「全面計画と臨時に算段される処理」と同時に「電飭通省の各部署に調査報告を分担させ、警察学生を四方に派遣して告知を宣伝させ、道府県の高官を各地に計画的に配置して、隔離病棟を設置し、支出金を応用させ、地方の郷士や重役により衛生会を設立して、官力の不足を補わせる」責任を負わせた。

第二は、省都済南である。済南では「東西の関門に男女防疫留検所を設置し、別の公共施設に種痘(しゅとう)所を設けて、伝染を防ぎ、各関門でも通行人の検査が行われた」。

しかしながら済南では「商業が盛んで交通往来を生み出し、旅客も多く、労働者も集まり、且つまた全国からの居留民がいる商業都市」であり、医官と兵隊を派遣して協力して巡査させ、治安を保ったのである。

三つは鉄道沿線である。「今回の流疫は北は徳州から、東は煙台から鉄道によって入」ったので、疫病の蔓延を遮断する為に「まず天津済南線を停止し、膠済(済南青島急行線停止とニ、三等客車も停止」した。

天津済南線の徳州、済南鵲山の二箇所に、「各々検疫所と、療養所を設置し、医官と兵隊を派遣して屯所(とんしょ)と検査に当たった」。膠済線の維県、膠州は煙台往来の要所(ようしょ)、商人などの汽車搭載(とうさい)に、規格外の検査が求められた」。「膠州にもとあった病院と維県駅に検疫所と防疫役所を設置して、乗降検査の地とした」

四に煙台である。煙台は満州三省及び旅順、大連と共に船の着岸する所で、流疫を阻止する為に「東海関道徐世光が芝罘斐洲(南アフリカ系)工廠に拘留(こうりゅう)検疫所、西沙旺に検疫病院を設置して、船に感染者をとどめ、東西大通りの賃貸(ちんたい)住宅の多くが、治療、防疫の為に処置され、それぞれの飲食一切は公共で準備され、また龍口、羊角溝などには別に検疫所が建設された。」 煙台港

この他、「煙台黄県(龍口)の一線(流疫線)が一つは掖県、昌邑から維県まで、二つは平度から膠州まで」のを防止する為に「陸軍第五鎮から部隊を派遣して、両路の防疫検疫を分担させ」て、根源を遮断して、波及を防いだ。

この他、山東省巡撫孫宝琦もまた当地で「教会医師」を招聘して、金銭を惜しまず青島、広州、香港、遠くベルリンまで西洋医師を電報で招いた。

満州の流疫は、煙台を防疫の第一線とした。

一月初め、煙台副領事の土屋久米蔵が、たくさんの山東省の労働者が満州から煙台に帰ろうとしているという電報を受け取り、登莱青道徐世光と煙台領事団は大連港を疫病区港と宣言して、1月14日から大連からの船舶に検疫が実施され、芝罘島アフリカ工廠に拘留検疫所、西沙旺に検疫病院を設置した。

一月下旬以後は、山海関一帯に厳重な防疫を設けられたので、「関内関外に通じる鉄道が停車するのは、煙台だけが上陸できる港となった」。時に「関外及びウラジオストクに滞留する休職者は数万人を下らず」、入り乱れて乗船して煙台に上陸した。

この他、南満州の日本関東都督府は「伝染病の大連進入を防ぐために、擬似(ぎじ)陽性の感染者400人余りと、労働者500人余りを次々と煙台に送った」。たくさんの無職不良者が「煙台に集まり、要らざる、禍の温床となるのを恐れた」。

東海関道徐世光は以工代賑(救済に替え仕事を与える)を電報で申請し、山東省巡撫孫宝崎と北洋大臣陳䕫龍が電報奏請の支出に連署した。

東海道徐世光は“まず煙台に隔離病棟一箇所を設置して、検疫所も一箇所を追加で設置して、出るものは七日の検査をして、証明書をつけて出し、入るものは幼老を区別して入院させ、離散を防いだ。登莱青膠道署(役所)は煙台に隔離地区を設けた。

煙台に隔離区を設置したにも関わらず、すぐに、流疫は煙台で爆発的になり、数日で煙台中に蔓延した。

『盛京時報』宣統3年正月20日(1911年2月18日)に山東省芝罘で、「本港のペストは次第に流行して、毎日の罹患(りかん)者は30人を下らない」と載せている。3月4日、煙台には211名の患者があった。山東省の流疫は「煙台が最も大変で、済南の章丘県がこれに次いだ」。

流疫が煙台で爆発的になった頃、中外の医師は防疫の第一線を奔走(ほんそう)して、東海関医者兼(けん)ノルウェー領事グォリンセン(Gulowsen )が、煙台の隔離と検疫作業を担当し、アメリカ医療宣教師オスカーF.ヒルズ(Oscar F.Hills)がしばらく引き継ぎ、若年のベネット博士(Dr.C.Bennett) が西沙旺検疫所の作業を担当、もちろん趙新畬ら中国の医師も参与している。看護師は煙台カトリックフランシスコ会から来た。 グォリンセン

この致命的な伝染病に対しては、一旦感染すると、死は間違えもなく、治癒(ちゆ)の例もないものである。医者でさえ対処の使用がない情況下で、誰もこの災難にどう立ち向かえばよいかわからなかった。このような状況にも関わらず、彼らは全力を尽くして、ワクチン接種に当たり、出かける際には、誰にもマスクの着用を要求した。

だが、ある西洋の医師は「芝罘の人々が開始するのを見つけた頃、労働者や他の誰でもがマスクをするのは全く不可能」だと発見した。

後に、その上にお寺の記号を印刷して、人々がお守りとして使用するようになり、ようやく従順に着用するようになった。

流疫が煙台で爆発した前後、煙台の学校も影響を受けた。芝罘学校は閉校した。

1月20日、煙台「租界」内の医師が、芝罘学校男子校の校長マッカシー氏に、煙台港は既に流疫地区の港として宣言されていると通知し、彼はまだ外地にいる学生がしばらく煙台に帰らないように強く意見した。

上海で集結した煙台へ戻る学生の中で27人の予備校の小学生はトゥディンガー(Trudinger )嬢とアンウィン(Unwin) 嬢の引率(いんそつ)で、上海から出発して、鎮江に向かい授業を受けた。

煙台に残った40人の予備校の小学生は学校から搬出されて、男子校にまとめられた。学校一体が防疫の為の隔離された場所となった。一つの出入り口の他は、皆封鎖され、僅か3人の学校用務員と郵便配達が出入りできただけで、その他は誰の出入りも許されなかった。

この処置があったからこそ、「芝罘学校は煙台地区の防疫作業を行う最適な場所であった」のである。

3月23人まで、不安なまま6週間待った後、マッカシー氏が芝罘学校の学生に煙台へ戻るよう電報で知らせてきた。

このような大変な事故にも関わらず、芝罘学校の教育は全く影響を受けず、その夏 オックスフォードの共通試験に参加した当行の学生は、皆試験の合格し、その中の10人は優秀な成績を修めた。

3月17日、煙台と満州の死亡率は遂に大幅に低下し始めた。4月30日、山東省のペストの流行が止まった。

この疫病は「昨年12月から3月11日までの間に、満州三省から24州県の多きに伝染し、実に合計3,052人が疫死(病死)したと統計している」。煙台ではこの疫病で、ローマカトリックの看護師2人を含む357人(具体的人数は複雑のデータがある)が死亡した。

流疫の抑制に、山東省は巨額を投入した。「省都防疫役所は銀16万余両を、煙台の一埠頭(一市)6万3・4千両、都合23万両を支出し、直隷よりも多い」と算出されている。

伝染病の流行は終わりました。しかしその影響は深刻である。

山東省巡撫孫宝崎(1867-1931)はペスト流行後に、これまでに設置した防疫の組織を西洋病院に改編しようと希望している。彼は水際(その場凌ぎ)での防疫は、表面的な対処に過ぎず、平素の衛生環境を保つことこそ、根本的な解決になる」と考えている。今回の災難によって、「新しい理論を研究し、(国民の)衛生重視を喚起する」ことを導くことを期待する。

今回のペスト流行につれ、西方医学が伝染病の防止・治療に積極的な効果が、清朝官僚の心に深く印象付けられた。

煙台で、数年後にまだペストの影響を見ることができて:少しの地元民の門に、依然として猫イメージの切り紙を貼っています。

“その内の原因のとてもある可能性はどうしても地元民は鼠がその急性伝染病の総称を伝えたと聞いて、従って彼らの希望用の切り紙を貼る方法、猫だけであることは門神と見做して、鼠を恐喝(きょうかつ)して彼らの玄関に入ってはいけません”。

もちろん、幾らでもこの世紀急性伝染病の総称は鼠疫(ペスト)と言って、ただ決して鼠しょうにから広がりません。ただペストは人間の影響かえって骨に刻んだ。

流疫終息の結果を待って、論功行賞がある。

1911年7月30日(閏6月5日)、山東省巡撫孫宝崎は、山東省の防疫要員の賞与を朝廷に上奏した。

一群の中で山東省の各教会と中外の医師の人々が奨励された。三品頂戴済南天主堂主教申永福に二品頂戴、済南中西医院総医官科武資、ドイツ医官費瑟尔に共に二等第三宝星を賞与、ドイツ医官文徳、アメリカ宣教師聂会東に共に三等第一宝星を賞与等のごときである。

煙台に関わる人では、三品頂戴青州天主堂主教常明徳(駐煙台)に二品頂戴を賞与、五品頂戴フランス司鐸馬若望に四品頂戴を賞与、東海関関医兼ノルウェー領事グォリンセンに三等第一宝星を賞与、イギリス商人翼傳(煙台和記洋行社長愛克夫)に5等宝星が賞与された。

著者 煙台魏春洋