山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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威海衛ランドの今生

威海が接収される以前には、そこは一つの自由港であった。どんな輸入品であっても、皆徴収(ちょうしゅう)税は百分の一であった。威海が接収されると、各種の課税が頻繁に加えられ、人々の恨み節を掻き起こし(かきおこす)た。

威海がイギリス人の統治下にあった時、泥棒はいなかった。「太平楽国」とも言える。接収後の数年かは、市況の治安は、その他の商業港と比較してまだ良かったが、昨年初めて誘拐事件が発生して、30年の珍聞となった。

威海の現代の意味である警察は1900年代に劉公島に出現した。村長と総董制の順調な稼働で、警察隊の規模は植民地政府と同じで、ずっと小さいままである。

イギリス人の威海統治は、居民を喜ばせて、また愚民(ぐみん)政策を慣用し、教育のごときは対応に不干渉で、常々(つねづね)地方では古典四書を考慮し、社会心理に迎合(げいごう)していたので、私塾が氾濫していた。

ただし、道路と警察は、極力整備し、林業にも特別注意を払い、現在威海に樹叢(こむら)が濃密なのは、皆イギリス人が樹木を栽培した結果なのである。

イギリス人の威海統治は、ずっと極端な放任で、人民の自由に任せたので、30年来、社会風俗は元のままで、辮髪・纏足も変わらず、アヘン・薬物の禁止もなかった。中国が接収後は、昔のイギリス人政策と相反(そうはん)して、威海衛の行政長官徐祖善は教育政務の促進を追求し、薬物を厳禁(げんきん)とした。 劉公島沖のサンパン(舢舨)、1900。

条約港として開港後、本土と劉公島間のフェリーサービスは必要性を満たすことができず、サンパンは補完する類のものとして好評であった。客船や貨物輸送の他、そこには100隻ものサンパンが海上のゴミを収拾していた。 劉公島の王立海軍病院の傷病者達、1901年

八ヶ国連合軍が中国北部へ侵攻した折、威海衛は、

兵站(ヘイタン)と医療の拠点とされた。また、中国北部に住む外国人の避難所ともなった。

八ヶ国連合軍 英米仏獨露伊日オーストリア➕ハンガリー ロックハート(威海衛イギリス総督によって衍聖公に扁額を送られました。有名な西洋人の儒学者として、ロックハートは中国における儒教の重要性と影響力をよく知っていました。

それで彼は就任直後に孔子廟を特別に訪れました。彼は衍聖公孔令貽が受け取った最初の西洋人になり、儒教の家族が楽しませた最初のヨーロッパ人になりました。 手押し車、20世紀初頭

容易く利用できた、この原始的な輸送車両はどんな道路状況でも仕事ができるので、現在まで生きながら残ってている。 威海産金株式会社の採鉱所、1904年。

上海からの外国人商人は、1902年に、600,000メキシコドルと400人以上の従業員の資本を登記した株式の会社を設立した。金鉱石はアメリカのサンフランシスコに海輸された。 威海産金株式会社の作業場、1904年。

威海イギリス当局(植民地事務所)は威海での外国人投資に対して政治的保証を供給しないと明らかに宣言したので、外国人は投資を止め、資本を引き揚げた。その会社もまた同年に閉鎖した。 (金線腸方志亭)金線頂の上部の南東から北西の丘の中腹まで、火の岩があり、石には金が含まれています。これは金線頂の名称の由来です。 威海衛マンダリンダック・セーリングクラブで編成したレガッタ、1918年。レガッタは威海衛英国領時代中大変人気があった。クラブの主催するレガッタは、夏の毎週土曜日の午後3時に開始され、選手はアマチュアである必要があった。 1920年代、郊外へ遊びに行く外国人の訪問者達。

外国人達は、威海で、狩猟、競馬、小旅行、島の探索を好んだ。

ある西洋人は、威海はイギリスの他の海外拠点のどこよりも社交生活が楽しいとコメントした。 1920年代のエドワード港俯瞰

1902年に、当局は政庁を劉公島から、その時にエドワード港と改称した本土の埠頭区域に移し、商業地帯の建設を開始した。

1920年代末までには、海岸沿いに約1.25㎢に2万人の人口を抱える帯状の町が形成された。 1920年代の市民病院

それは1900年に創立され1908年に拡大されたのであるが威海市における最大の病院となった。 ロックハートの退役に別れを告げる劉公島の商民達、1921年。

ロックハートは山東省当局者から友人だと見なされただけでなく、彼の穏やかな統治と中国的作法により威海の人々は中国人と見做されていた。 泰茂洋行は、1930年代撮影

この商館は1899年3月17日に成立して、主に輸出入、観光不動産を営み(いとなみ)、また滙豐銀行(HSBC香港上海銀行)と太古、藍煙囱汽船会社などの船舶会社の威海業務を代行した。

これは近代威海衛の有名なイギリス資本商社の一つである。 20 世紀初頭の女子学校の生徒達(楽祉堂)

それは現在の碼頭学校に位置するし、学校はケース夫人により1905年に設立された(中列左から2番目)

学校は文化授業の学習を重視し、裁縫・レース編みなどの技術コースがあった。

全ての女子生徒は纏足から解放されて、これが威海の女性が家から出て教育を受けた始まりである。

楽祉堂女子学校の学生の習字作品の古写真。毎年期末試験の終了後、学生達は皆成績の優・良によって、ウールのマフラー、帽子、手袋、ストッキング、ハンカチ、タオル、石鹸や鉛筆、蝋石(ろうせき)筆などの賞品が、それぞれに違って授与された。 20世紀初頭の講書堂男校の教師と生徒の古写真。この学校はケースが1904年に創設し、主に地域内のキリスト教の子供を募集した。

1910年、已然の中国語と英語の二言語教育(バイリンガル)から純粋な中国語教育に変更され、特に数学と地理科目の教育を重視した。 カトリックの明星(スター)女子学校の卒業写真。フランシスコ会の修道女によって1908年3月に設立され、当初は外国人の女の子しか入学しなかった。

1910年、中国の女の子のための縫製とレース製作のシニアクラスは、ヨーロッパの専門家によって刺繍やレースのデザイン、生産、それにその他の文化コースを教え、威海最大の女子専門学校です。 威海衛学校近くの海岸でパーティーを開く外国人の子供達。威海衛は学校の為に完璧な気候を見せる良い場所である。威海衛学校は1901年に劉公島に設立され、1903年に黄泥溝村にの新築に移転してた。学校はヨーロッパの少年の特別なもので、イギリス路線とヨーロッパそれぞれに沿ったものである。学校は1925年にホテルへ変換した。 海岸散歩、1920年代。西洋人は1816年に初めて威海にやって来た。威海の租借期間に、そこには最大19ヵ国の外国人が滞在していた。 劉公島の外環医司令官ポンフレット、後に劉公島病院の少将、1939年に劉公島で家族と一緒に。王立海軍病院の院長である。彼は劉公島海軍基地の最高長官、夏の間威海のイギリス海軍に医療サービスを提供する責任があった。 ジョストンは、威海衛の接収委員である国民政府外務次官王家楨(左二)、威海衛管理委員会徐祖善を埠頭で出迎えた。 ジョストン(威海衛イギリス政府総督)と威海衛接収特派員徐祖善との会見、1930年7月30日撮影。徐祖善はこの会見で、当局の財政の余剰は持ち去れることを明らかに知らされたが、これはその後イギリスが他の領地から撤退する時に全くなかった僅かな例であった。 1930年10月1日、威海復帰当日のエードーワード(愛徳華)埠頭 引渡し式典に参加したイギリス軍儀仗隊 ジョストンは引渡し式典で返還条約を読み上げた。 長い32年の離別の後、中国国旗が威海の空に再び翻った(ひるがえる)。アヘン戦争から、中国は不平等条約の時代に入っていた。清末、北洋時代、国民政府、数十年の功を積んで、威海は遂に詩人聞一多の書いた「七子の歌」に先立って回帰して、貴重な先例を開創し、「蕩子返家、亡羊帰牢(ドラ息子を家に返すと、逃げた羊は小屋に帰る)と世評(せひょう)された。 東北海軍陸戦隊は威海警察の案内で威海に上陸した。 中英職員が別れの茶会で両国元首の為に共に祝杯を挙げた。 離別の茶会の後中英の職員が集結して記念撮影をした。 ジョストンが帰国のため出発すると、イギリスが威海衛で行った32年の植民地統治が終結し、また彼の中国での32年間の政治生活も終結したのであった。 HMSが主催のサンパンレース、1932年。

威海衛租借期間中、英国艦は各々の独自のサンパンを持っていた。レガッタ(ボート競技)の際の、サンパンレースは軽い気持ちで行われた反面真剣になったものである。 威海公園、1930年代半ば

跡地は現在の東山ホテルである。この公園は元来、1928年6月に外国人の自宅やホテルが周辺に立て込む中に建設された。1934年の増改築を経て、規模と設備において威海の公園の中でもトップランクに位置付けられた。 威海公園の望雲軒公会堂、1934年。この公会堂は威海内一の大きさで、三百人を収容できる。1935年、西洋風の食堂とバー・カウンターに貸し出され。当局は重要な客人をここでもてなした。 威海文登第三小学校、1920年代。受け渡しの後、教育は政府の最優先事項の一つであったようである。限られた予算の内で、当局は種々(しゅじゅ)の基準と種類の200余りの学校を創設した。 夏期の小学校教師養成クラス卒業写真、1931年撮影。

市管理役所が教育に対する重要性は、教師の待遇にも反映され、1932年の関係規定によると、中学の専任教員の最低月給は60元で、同時期の熟練労働者の最高月給は20元を超えなかった。 民衆学校卒業写真、1932年撮影

勉学の機会のない民衆(多数の無教育の人民)が多いことを反映して、市管理役所は社会教育に特別関心を寄せ、全区に渡り民衆学校から設立し、16〜50歳の男女に無料で文化を補習させたが、その社会教育経費の総支出に対するは嘗て全国各省のトップになったことがある。 春の清掃に参加する小学生と中学生、1931年5月15日。公衆の衛生を促進する為に、中国政府は全域で年に一度組織的に大清掃を行ったが、威海のそれは日本でもよく知られていた。 荷馬車(にばしゃ)で市場に出かける、1937年。

威海で最も早い荷馬車は1909年に登場した。それ以前に、人々は手押し以外の輸送車両についてほとんど知識がなかった。 劉公島のイギリス海軍中国艦隊の司令官パーシー・ノーベル提督と夫人。 横浜ボウル(競技会)で優勝したサフォーク艦、1937年。

イギリス中国艦隊レガッタ。威海イギリス政府時代、セリング(帆走)は威海で大変評判で、競技は毎年レガッタであった。優勝した船員は「艦隊のコック(大将)」と賞賛され、その偉業を船で艦隊を周りにして喝采される栄誉を持っていた。 人力車曳き(曳く)、1938年4月。

人力車は日本発祥である。イギリス租借時代、人力車は劉公島で外国人を乗せる主なものであり、写真は教会結婚式の後の新郎新婦のペントン夫妻の二人乗りの人力車である。

威海総評:私は7月5日に威海に到着し、8日に離る、4日ばかりに観察したが、そこで総評をつけてみたい。実に威海には4つの特徴がある。

一、港の雄大さ

威海は三面を山に取り囲まれ、島が横たわり、水深があって広さもあり、天然の軍港であり、旅順を除けば、匹敵するものがない。南北両側に砲台があり、設計は大規模で、そこを廻るには、隅々まで再見するのは不可能である。

二、気候温和

威海の気候は、ほぼ煙台と同じで、海水浴にもまたよく、浜辺には遊泳場も多く、夏は酷暑(こくしょ)でもなく、避暑地とするにたる。

三、風景閑雅

イギリス人は植林好きで、イギリス人の租借後、山林行政が大変進捗(しんちょく)して、街路樹が道路を挟み、そこを行く者は、まるで深い山に入ったようであり、とりわけ市街東北の通商地区では(木が)よく繁っている。建物の建築は、山に寄り添い海に面している。海岸は白砂が敷き詰められ、はるかに海と空が広がり、島影がまちまちで、さながら一幅の天然の掛け軸である。

四、環翆楼の素晴らしさ

環翆楼の奈古山は、まるで煙台の煙台山のように、場所も頃合いで、楼に登って四方を眺めれば、建物の隅々からパノラマの景色を眺めることができます。

著者 煙台 張宜中