威海衛ランドの今生
威海が接収される以前には、そこは一つの自由港であった。どんな輸入品であっても、皆徴収(ちょうしゅう)税は百分の一であった。威海が接収されると、各種の課税が頻繁に加えられ、人々の恨み節を掻き起こし(かきおこす)た。
威海がイギリス人の統治下にあった時、泥棒はいなかった。「太平楽国」とも言える。接収後の数年かは、市況の治安は、その他の商業港と比較してまだ良かったが、昨年初めて誘拐事件が発生して、30年の珍聞となった。
威海の現代の意味である警察は1900年代に劉公島に出現した。村長と総董制の順調な稼働で、警察隊の規模は植民地政府と同じで、ずっと小さいままである。
イギリス人の威海統治は、居民を喜ばせて、また愚民(ぐみん)政策を慣用し、教育のごときは対応に不干渉で、常々(つねづね)地方では古典四書を考慮し、社会心理に迎合(げいごう)していたので、私塾が氾濫していた。
ただし、道路と警察は、極力整備し、林業にも特別注意を払い、現在威海に樹叢(こむら)が濃密なのは、皆イギリス人が樹木を栽培した結果なのである。
イギリス人の威海統治は、ずっと極端な放任で、人民の自由に任せたので、30年来、社会風俗は元のままで、辮髪・纏足も変わらず、アヘン・薬物の禁止もなかった。中国が接収後は、昔のイギリス人政策と相反(そうはん)して、威海衛の行政長官徐祖善は教育政務の促進を追求し、薬物を厳禁(げんきん)とした。
条約港として開港後、本土と劉公島間のフェリーサービスは必要性を満たすことができず、サンパンは補完する類のものとして好評であった。客船や貨物輸送の他、そこには100隻ものサンパンが海上のゴミを収拾していた。
八ヶ国連合軍が中国北部へ侵攻した折、威海衛は、
兵站(ヘイタン)と医療の拠点とされた。また、中国北部に住む外国人の避難所ともなった。
八ヶ国連合軍 英米仏獨露伊日オーストリア➕ハンガリー
それで彼は就任直後に孔子廟を特別に訪れました。彼は衍聖公孔令貽が受け取った最初の西洋人になり、儒教の家族が楽しませた最初のヨーロッパ人になりました。
容易く利用できた、この原始的な輸送車両はどんな道路状況でも仕事ができるので、現在まで生きながら残ってている。
上海からの外国人商人は、1902年に、600,000メキシコドルと400人以上の従業員の資本を登記した株式の会社を設立した。金鉱石はアメリカのサンフランシスコに海輸された。
威海イギリス当局(植民地事務所)は威海での外国人投資に対して政治的保証を供給しないと明らかに宣言したので、外国人は投資を止め、資本を引き揚げた。その会社もまた同年に閉鎖した。



外国人達は、威海で、狩猟、競馬、小旅行、島の探索を好んだ。
ある西洋人は、威海はイギリスの他の海外拠点のどこよりも社交生活が楽しいとコメントした。
1902年に、当局は政庁を劉公島から、その時にエドワード港と改称した本土の埠頭区域に移し、商業地帯の建設を開始した。
1920年代末までには、海岸沿いに約1.25㎢に2万人の人口を抱える帯状の町が形成された。
それは1900年に創立され1908年に拡大されたのであるが威海市における最大の病院となった。
ロックハートは山東省当局者から友人だと見なされただけでなく、彼の穏やかな統治と中国的作法により威海の人々は中国人と見做されていた。

この商館は1899年3月17日に成立して、主に輸出入、観光不動産を営み(いとなみ)、また滙豐銀行(HSBC香港上海銀行)と太古、藍煙囱汽船会社などの船舶会社の威海業務を代行した。
これは近代威海衛の有名なイギリス資本商社の一つである。
それは現在の碼頭学校に位置するし、学校はケース夫人により1905年に設立された(中列左から2番目)
学校は文化授業の学習を重視し、裁縫・レース編みなどの技術コースがあった。
全ての女子生徒は纏足から解放されて、これが威海の女性が家から出て教育を受けた始まりである。
楽祉堂女子学校の学生の習字作品の古写真。毎年期末試験の終了後、学生達は皆成績の優・良によって、ウールのマフラー、帽子、手袋、ストッキング、ハンカチ、タオル、石鹸や鉛筆、蝋石(ろうせき)筆などの賞品が、それぞれに違って授与された。
1910年、已然の中国語と英語の二言語教育(バイリンガル)から純粋な中国語教育に変更され、特に数学と地理科目の教育を重視した。
1910年、中国の女の子のための縫製とレース製作のシニアクラスは、ヨーロッパの専門家によって刺繍やレースのデザイン、生産、それにその他の文化コースを教え、威海最大の女子専門学校です。













威海衛租借期間中、英国艦は各々の独自のサンパンを持っていた。レガッタ(ボート競技)の際の、サンパンレースは軽い気持ちで行われた反面真剣になったものである。
跡地は現在の東山ホテルである。この公園は元来、1928年6月に外国人の自宅やホテルが周辺に立て込む中に建設された。1934年の増改築を経て、規模と設備において威海の公園の中でもトップランクに位置付けられた。


市管理役所が教育に対する重要性は、教師の待遇にも反映され、1932年の関係規定によると、中学の専任教員の最低月給は60元で、同時期の熟練労働者の最高月給は20元を超えなかった。
勉学の機会のない民衆(多数の無教育の人民)が多いことを反映して、市管理役所は社会教育に特別関心を寄せ、全区に渡り民衆学校から設立し、16〜50歳の男女に無料で文化を補習させたが、その社会教育経費の総支出に対するは嘗て全国各省のトップになったことがある。

威海で最も早い荷馬車は1909年に登場した。それ以前に、人々は手押し以外の輸送車両についてほとんど知識がなかった。

イギリス中国艦隊レガッタ。威海イギリス政府時代、セリング(帆走)は威海で大変評判で、競技は毎年レガッタであった。優勝した船員は「艦隊のコック(大将)」と賞賛され、その偉業を船で艦隊を周りにして喝采される栄誉を持っていた。
人力車は日本発祥である。イギリス租借時代、人力車は劉公島で外国人を乗せる主なものであり、写真は教会結婚式の後の新郎新婦のペントン夫妻の二人乗りの人力車である。
威海総評:私は7月5日に威海に到着し、8日に離る、4日ばかりに観察したが、そこで総評をつけてみたい。実に威海には4つの特徴がある。
一、港の雄大さ
威海は三面を山に取り囲まれ、島が横たわり、水深があって広さもあり、天然の軍港であり、旅順を除けば、匹敵するものがない。南北両側に砲台があり、設計は大規模で、そこを廻るには、隅々まで再見するのは不可能である。
二、気候温和
威海の気候は、ほぼ煙台と同じで、海水浴にもまたよく、浜辺には遊泳場も多く、夏は酷暑(こくしょ)でもなく、避暑地とするにたる。
三、風景閑雅
イギリス人は植林好きで、イギリス人の租借後、山林行政が大変進捗(しんちょく)して、街路樹が道路を挟み、そこを行く者は、まるで深い山に入ったようであり、とりわけ市街東北の通商地区では(木が)よく繁っている。建物の建築は、山に寄り添い海に面している。海岸は白砂が敷き詰められ、はるかに海と空が広がり、島影がまちまちで、さながら一幅の天然の掛け軸である。
四、環翆楼の素晴らしさ
環翆楼の奈古山は、まるで煙台の煙台山のように、場所も頃合いで、楼に登って四方を眺めれば、建物の隅々からパノラマの景色を眺めることができます。
著者 煙台 張宜中
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