山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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北洋海軍の英雄:マクギフィン伝

アメリカペンシルベニア州ワシントンタウンの公共墓地には、特殊な墓碑があり、上面には「謹んでこの碑を自己の祖国を深く愛する一方で、生命を黄龍旗に捧げた勇士の為に建立す」と刻む。この墓碑銘はフィロ・ノートン・マクギフィンに捧げられたもので、それは簡略な言葉でこの勇士の一生を概括している。マクギフィンは若い頃アメリカアナポリス海軍学院に学んでいる。卒業の年、アメリカ海軍の発展を限定する法案を可決して、軍艦に欠員がある場合のみ、訓練生を補充上艦させた。当時アメリカの各艦に過不足なく欠員がなく、卒業したばかりのマクギフィンは1000ドルの据置費を持って故郷に帰るしかなかった。

1885年、彼は新聞上で清国とフランスの戦争勃発のニュースを読み、すぐさま遥々(はるばる)海を渡り、清国で彼の海軍の夢を実現することを決定した。

彼が中国に着いた時、正に清朝政府が大いに海軍を発展させ、海軍人材を育てようとしていた時期であった。同年10月7日、清朝政府は「北洋海軍章程(艦隊規約)」を批准し、北洋艦隊は正式に発足された。海軍人材の養育を加速するため、清朝政府はまた新式の海軍学校を創設して、海外から技術者を招請して、教育、運転、機器整備、砲務など専門性の高い働きを負担させた。「外国人教師」としてマクギフィンは嘗て幾らか清国の新型海軍学校で教鞭を取り、多くの海軍人材の養成に係った。

当時マクギフィンが家族に書いた手紙から、当時の清国政府の任用制度は無闇(むやみ)な縁故採用には非ず、同時に敢えて(あえて)人材を抜擢していることが見いた出される。

史料の記載によると、マクギフィンが1885年4月13日に天津から母親に送った長い手紙に書いている。

「私はまだ24歳で、こんなに短い時間で船長になった、我々の海軍で遥かに早く昇進しなかった。当然、我が海軍の艦長として帰国する前に、私はここにしばらく滞在しなければならない。私は任命を受け、一週間内に就任した。」

「総督は私に100両の紋銀の月給をつける気があり、そしてもし私が海軍学院で間違いない働きをしたならば、私は合計三年で、昇進することを承知している。数ヶ月後、私は装甲防衛訓練艦(現在その船はドックで整備中である)を指揮し、イギリス海軍から招請した艦長に引き継いで止めるまで派遣される。

その後、マクギフィンはずっとコツコツまじめに働き、絶えず昇給して、招聘期間も延び延びとなった。

彼の提出した威海衛に新型海軍学校設立の建議も清朝政府に採用され、また威海水師学堂総教習(校長に相当)として招かれた。

このアメリカ人は、中国で人生最良の10年を過ごしたが、彼本人は中国が彼を遇した10年の恩にこたえて、日清戦争前に帰国休暇の機会を放棄して、とどまって参戦することを選択した。その後、彼は7430トンの戦艦「鎮遠」号の邦帯(副艦長に相当)に任命され、日清戦争の最も凄惨(せいさん)な黄海大海戦に参加した。

この前例のない規模の日清戦争では、巨大な北洋艦隊が破壊されましたが、日本の連合艦隊は1隻艦船が沈没しませんでした。

北洋艦隊が敗北した後、西洋諸国の世論は、日本海軍は十分な訓練を受け、戦闘に勇敢であると信じていたが、清国海軍は指揮力が弱く、質に欠けていた。帰国後、海戦で重傷を負ったマクギフィンは、北洋海軍の不当な扱いに憤慨し、世界にその実情を伝えたいと、様々な場面で演説を行なった。彼自身の経験による日清黄海海戦の経過を伝えました。

彼は著書「鴨緑江外の海戦」で、「中国海軍は、あなたたちが言うように、生に貪欲ではなく、死を恐れ、失神し、無能ではない」。しかし、私が自分の目で見た中国の現状を誰も理解できない。

彼の本の中で、「私の同胞(どうほう)は中国海軍を侮辱(ぶじょく)しているが、逃亡者は軽巡洋艦と砲艦に過ぎず、中国海軍のほとんどは日本艦隊との戦いに苦労している。技術的に不利な状況にあるが、しかし、私達の勇気ある精神は、日本艦隊を臆病にしました。もう私達を侮辱しないでください。私達と戦死した兵士は、私達の仲間のアメリカ人から尊敬されるべきです。

マクギフィンの著作権「鴨緑江外の海戦」の中で、マクギフィンは、北洋海軍の周辺は、装甲艦「鎮遠」と「定遠」が2隻しか残っていない時に、日本艦隊の5隻の共同急速砲撃に耐えたと述べた。朝鮮に軍隊を輸送した輸送船を守るために戦闘シートをうまくカバーしました。中国の2隻の装甲艦「定遠」と「鎮遠」は、日本艦隊に次々と砲撃された後も、可能な限り反撃していると述べた。実際、2隻装甲艦の強さから、日本艦隊に囲まれる前に突破することは全く問題ありません。日本艦隊には、定遠と鎮遠の装甲艦だけに立ち向かおうとする巡洋艦はいない。2隻の船が一方向に共同で攻撃する限り、日本の「松島」または「赤城」は沈められるべきです。マクギフィンは本に次のように書いている。「しかし、彼らはいけない。遠くに5隻の中国輸送船が2000人の陸軍兵士を朝鮮に輸送している。日本艦隊によって発見されると、私達の陸軍兵士は日本艦隊に苦しだろう、輸送船も壊滅的である。従って、私達は強力な体を使って、陸軍の輸送船を保護し、中国海軍の高尚な尊厳を守る以外に選択肢はありません。


ようこそ 山東省へ

アメリカ海軍雑誌『世紀』の戦争追憶(ついおく)記事で、マクギフィンは「国の為に身体を捧げた幾人かの中で、第一指に挙げられるのは丁汝昌である。彼は勇敢な戦士で真の紳士である。彼は内部に背反により、敵衆中に身一つとなった。彼の最後の行動は彼の手下の士官達の生命の安全を図ることで、自己の生命を救うことを潔し(いさぎよし)としなかった⋯⋯夜半に、この高齢で傷ついた英雄は服毒して遂に安眠したが、それはある種とても苦しみであった。」と記している。


是はマクギフィンが残した最後の筆跡である。この将官の一生は一面の黄龍旗を捧げたアメリカ人、死後は「ネイビーブルーの軍服に、袖口に金色釦(ぼたん)の袖章のある」斬新な北洋艦隊の軍服に身を包ん(くるん)だ。彼の遺言に従い、その棺に覆ったのは、彼が嘗て国家の為に身を尽くした清朝北洋海軍軍旗「黄龍旗」であった。