山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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煙台のミルズ家族シリーズ故事

1920年5月7日、イギリスのパイロットが操縦した「ハンドレページ式飛行機が、北京南苑空港より離陸、1時間で天津佟楼競馬場に到着する。

機上には、交通部の代表3名と中国駐在イギリス公使を含む15人が同乗し、午後の飛行機で帰京した。

今回の初飛行を記念して、郵政当局は初飛行記念印を作って、初飛行期の運送郵便物に押印した。この路線はたった一便であったが、中国の航空郵政事業開設の始まりとなった。

今年は中国航空郵政開創100周年であり、切手収集界はこの一大事の時を記念していて、全ては重要文献の一つ『中国航空郵鑑(1929-1935)』に言及されている。その著者の一人梅贊文、この方は煙台から出た有名な切手収集家で、その父母も煙台で名声がある。

梅賛文の父親チャールズ・ロジャース・ミルズは、1829年8月21日、アメリカ、ニューヨーク州生まれ神学博士で、1856年10月、アメリカ長老会教会の派遣を受けて、妻や親戚と友人を連れて来中、翌年2月末に上海に到着し、前後して江蘇省昆山、上海などで布教し、中国文の名字を「梅理士」と名付けた。

1962年7月、梅理士一行は上海から船で煙台に到着した。当時中国ではちょうどコレラが流行していた。船上で彼の子供の一人を伝染病で亡くしている。煙台に到着すると、梅理士はホール家に住んで、7月20日登州(今の蓬莱)への路上で、彼のもう一人の子供もコレラで死亡した。登州に到着すると、彼は先に到着していたディコーウェン、郭显徳、ネビウスと合流し、ここで牧師同士を30年間維持した。

梅理士の称えられる一大貢献はアメリカからピーナッツを膠東に導入したことで、そして山東省ないし北方地区に伝播して、中国北方の重要な経済産物の一つとなった。

原産がアメリカのバージニア型のピーナッツは殻実が大きく、産量も高いのが特徴で、山東省の大部分の場所に植えられていた小粒龍生型の品種より遥かに優れていた。

山東省のピーナッツは梅里士によってアメリカから導入されたことが、文献に多く記載され、学界に異議はないが、導入の具体的な時期は未だ定論がない。梅里士は嘗て、1869、1882、1892年に分けて3回帰国休暇していて、ある学者は文献の記載と当時の人の回億を根拠に、1869年の最初の休暇の後、アメリカのピーナッツを登州に持ち帰り、それを分けて信者と種を蒔いたと考え、連続して種を蒔いて3年後に回収したと明言している。

この種は顆粒(かりゅう)が大きく、出油率も高く、産量の多い落花生の新品種で、膠東の土壌と気候に適応して、迅速に膠東の農民の受け入れるところとなって、山東と北方地域全域に広がり、重要な輸出と経済型の作物の一つとなった。

1891年の煙台税関の資料によると、当年の煙台埠頭から輸出されたピーナッツは2205荷、合計225000斤(11.25トン)に達していて、ある学者は、梅理士が1862年に登州に到達した時に、アメリカのピーナッツを持ってきて試作したのだと考えている。

梅理士は身長が高くスマートであったので、人々に「梅花鹿(梅バンビ)」とニックネームで呼ばれた。

(チャールズ・ロジャース・ミルズ)

梅賛文の母親アネット・トンプソンは、アメリカのニューヨークの人、義母の産んだ聾啞の子に教育を受けさせる為に、彼女はロチェスター聾唖学校に入り教師となり、そこで彼女は中国伝道師のミルズと知り合った。
1884年、アネットははるばる海を渡って登州に至り、連れ添いを亡くして何年にもなるミルズの後妻となり、中国の習慣に従って、中国名を「梅耐徳」と名付けた。
梅耐徳は最初登州で、急いで中国語を学ぶ為に、彼女はアメリカの聾唖の子が学ぶ方法を運用して中国語を学び、目覚ましく進歩した。同時に彼女は中国の聾唖者の子の為の教材「啓喑初階」の編著を開始した。
1887年、中国で最初の聾唖学校が登州に誕生し、「登州啓喑学館」と名付け、たった二名の学生を募集して開いた。梅耐徳の努力で、学校は次第に好調となった。
1895年にメルズが世を去ると、北米長老会は学校経費の支援を停止して、学校に苦境に陥り、1896年に一度閉校した。
資金を工面(くめん)するために、梅耐徳は精力と思慮の全てを尽くして、欧米及び中国の16都市を隈なく(くまなく)めぐった。彼女は百枚余りの中国人の生活のスライドを携帯して、これに頼って外国人に中国を理解させた。長期的な苦労は、彼女に神経衰弱を患わせ(わずらう)て、身体はますます悪化した。
1895年5月、梅耐徳は聾唖学校を煙台のある通神旅館に移して、そこで二間の平屋を借りた。1899年11月、梅耐徳は亡夫の年金、募金と借金をして、煙台の東海岸に17.5畝(せ)の土地を買い、一棟の2階と数間の平屋を建設して、啓喑学校の正式校舎とした。
中国の聾唖教育事業を推進するために、梅耐徳は学生を組織して全国各地で実演を巡り回し、影響を拡大した。
煙台啓喑学校はまた二学期制の聾唖教師養成クラスを開設して、教師40人余りを養成、これらの先生は全国で11ヶ所の聾唖学校を創設した。
彼女は友人に出した手紙に愛情深く、「賢い男の子やまたは女の子の、その子たちの口は聾唖のせいでしっかりと錠(じょう)が下りていて、その子たちの心には少しも太陽が当たっていないのに遭遇するたびに、私は一切を投げ捨てて、彼(彼女)に『私が助ける!』と言いたくて堪らないのです。」と書いている。
梅耐徳は一生中国に留まるつまりであったが、1927年3月に米英領事館を襲撃し、宣教師を殺害した「南京事件」が発生し、この時梅耐徳は南京に親戚を訪ねていたが、仕方なく子供の梅賛文と五千名の新教宣教師と共に中国から逃れた。帰国二年後、梅耐徳は亡くなり、享年76歳であった。
梅耐徳と聾唖の子と一緒の、これは一枚の立体写真で、よく流布(るふ)して、有名である。この写真はイギリスの名の知られた写真下ハーバード・ポンティングの1902年の撮影である。
サミュエル・J・ミルズは、登州に生まれ、両親から中国名を「梅賛文」と名付けられた。彼は幼少から勤勉に中国語を学び、熟練の膠東言葉を話した。
1895年梅理士が病で亡くなると、僅か6歳の梅賛文は母親と寄り添って生きることになる。
梅賛文は子供の頃に煙台のアメリカ教会学校で学び、青年となってアメリカに帰って勉学し、ペンシルバニアの名校を卒業した。この間、彼は切手収集を楽しみ、アメリカ切手収集会に入会した。
1911年、梅賛文はアメリカ北長老派教会の派遣を受けまた中国へ戻り、登州文会館から維県へ移して成立した「広文学堂」で教習を担当し、1913年済南に赴きキリスト教青年会(YMCA)事務総長を拝命した1918年には南京金陵大学で中国語を専門に教授する「中国語科」教授に任命された。
南京は外国人居留民が多く、切手収集の雰囲気が濃厚であった。1924年、金陵大学の外国人居留民で「南京切手会」を発起(ほっき)して、梅賛文は積極的に参加した。1925年7月、「南京郵便王」の称のある周先覚は上海で「中華切手収集会」を創立し、梅賛文はすぐに第72号会員となり、また会刊の『郵乗』の英文編集を一度担任し、梅賛文はこの関係で数多くの中外の切手収集愛好家と知り合った。
1927年3月24日、北伐軍が南京を攻略し、一時情勢は制御不能となり、外国居留民を狙った惨事が爆発して、「南京事件」と呼ばれた。梅賛文はちょうど南京に訪ねてきていた母親の梅耐徳と一緒に帰国して難を避けた。
1928年下半期、北伐戦争は終結し、時勢が落ち着くと、梅賛文はまた南京に戻り、金陵大学で教授を続けた。
1920年5月7日に中国航空郵便が創設されると、航空切手という新しい切手収集分野は、梅賛文に強いて関心を引き起こし、一生涯を伴う趣味となった。
その後、全ての新路線が開通すると、梅賛文は尽力して友人を頼り初就航の消印(けいいん)をつくって、たくさんの稀覯(きこう)な郵便物と資料が残った。
1930年、同様に切手収集を極愛するスター少校が上海に来ると、梅賛文は共に「郵便王」周先覚を訪問することを約束したが。時に「東西半球二大郵便王の会見」と呼ばれた。
集合写真(上図)の中の、左5番目の背の高いのが梅賛文で、父親のすらっとした細身の体つきを受け継いでいるのが見て取れる。右の四番目がスター、左の四番目が周先覚である。
中国航空郵便の重宝な本を編集した梅賛文は1933年に中国を離れると、アメリカペンシルバニアに定住して、ハバフォード大学で教授した。スター少佐もペンシルバニアに住み、旧知が再会すると、二人は余暇を切手観賞に費やして、郵便知識にも磨きをかけた。
前世紀2・30年代には、第一次世界大戦も終息し、多くの軍用機が民間用に改められ、多くは郵便物件の輸送が主となり、航空路線の開通ごとに、郵政はほぼ連携して航空便路線を開通した。これは手紙の配達と社会の各方面の交流を加速し、一種の情報革命のみならず、同時に新しい切手収集の種類「航空切手収集」を生み出した。世界各国の切手収集家が、航空切手と初飛行(就航)の記念消印の収拾が時流となり、色々な航空郵便クラブや航空切手図鑑(ずかん)が氾濫した。
中国は世界でも航空郵便開設の早かった国家の一つであったが、当時は航空郵便に対する系統的な資料は一つもなかった。
しかしながら梅賛文は中国語を精通した中国通であり、加えてすこぶる豊富な中国初飛行の記念消印の収蔵は、疑いもなく最も気の合う相棒であった。
この本を編集するために、梅賛文は中国切手収集、郵政、航空界と広範(こうはん)な関係を進めて、多方面で各種の情報資料の確認照合を行なっている。1936年4月〜1937年1月、ニューヨークの切手収集家クラブの『切手収集家』はスターと梅賛文共著の『中国航空郵便図鑑』を4回に分けて連載し、のちに単行本として出版され、1937年のパリ国際郵便展で銅奨を獲得した。
この本は最初の中国の早期航空郵政の歴史を紹介する専著でもあり、中国航空郵政の歴史的貴重書である。
当時の歴史的条件の限界に制約されて、この本には不完全な部分も多いが、その開山首祖である地位には替わるものがない。
身をアメリカに置く梅賛文は、依然中国の切手収集会と連絡を保っていて、中国人民にも一貫して理解と同情の気持ちを持っていた。彼は定期的に中国くる各種の切手収集刊行物を閲覧して、アメリカ切手収集教会の中国分会の責任者を担当し、アメリカに来る中国の切手収集家を接待した。
梅賛文が世を去ると、その中国切手のコレクションも世界各地に分散して、多くがそのまま中国切手収集家の手元に保存された。

著者 煙台 林衛浜