山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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煙台名人ハルターコルベット


ハルターコルベットは1860年前後にやって来た数多くの外国人宣教師の一人である。

彼は1863年7月に米国ニューヨークから中国に出航し、同年末に上海に到着、1864年1月に煙台に到着し、そこで1920年に亡くなるまでの56年間を過ごした。コルベットは人生の大半を煙台で過ごし、その活動は煙台の近代史をより豊富にさせた。彼は煙台キリスト教長老派教会の創設者であり、西洋式の学校を設立し、煙台ニ中の開基で洋式の学校を創立し、毓璜頂病院の建設を計画して医院西洋医学と西洋医薬を広め、中国国内初の自然博物館を創設して西洋の科学技術の紹介を宣伝した。

労働者の家に生まれ、苦難の環境に育った。

ハルター・コルベットの祖先はイギリス移民であった。彼は1835年12月8日、米国ペンシルベニア州ライツェウッドの農業と小工場の家の長男に生まれ、弟が二人いた。農民の子として、コルベットは幼少から大変な伐採(ばsだい)や開墾、作物の収穫、馬、牛、豚や家禽の餌やりなどの労働を引き受け、この他にもまだ父親の木工場と製粉廠で手伝っていたので、幼少時に、彼にはほとんど遊ぶ時間がなかった。しかしながら大自然の中での生活は、かえって彼に少なからぬ(すくなからぬ)楽しみを与えて、その土地の森林、原野、川の流れ、野生や飼育の動物、秋の収穫、冬の狩猟、野ウサギやキツネの罠、野鹿や七面鳥の打ち取りなど、これらは、少年コルベットにとってはやはり少なからぬ楽しみで、彼はその土地が大変好きであった。

現実生活の彼に対する残酷で、青年期は二度の血の洗礼を経験した。

一度は、彼が何頭かの馬で牽引する巨大の歯車を使って動かす粉粋機を駆動していたが、うっかり、噛み合う歯車に倒れ込んで、歯車は彼の身を引き込み、尻を挟み込んで、片脚のくるぶしの骨が剥き出し(むきだす)にした。馬は止められ、彼の父親は噛み合う歯車を打った切らねばならず、引き裂かれ(ひきさく)た傷口は両手で防ぎ切れるものではなかった。この事故でコルベットは危うく(あやうい)命を落とすところであった。もう一度は、前回の事故後まだ完全に回復していない時であった。ある日開拓地の雑木(ぞうぼく)の枝を始末している時、鉈(なた)を不注意に滑り落として、鋭利(えいり)な刃先(はさき)が彼のつま先二本を切り落としてしまった。父親は医者を見つけることができない中で、自ら普通の針糸(はりいと)で切り落とされたつま先の縫い付けに取り掛かった。ありがたいことにつま先はのちに大変うまく回復した。

こうして、コルベットは仕事しながら、勉強を続けた。

後に、学校の卒業式で高校生代表として挨拶をしていた際、横に座っていた父親は息子の話術の才能に気づき、息子を大学に進学させることにした。コルベットは、アメリカのジェファーソン大学とニュージャージー州のプリンス神学校のコースを終了し、1863年の春に卒業した。その数週間後、彼は海を渡り、遥か遠く中国への道を歩み始めることとなる。

一、苦難の末に、転々として登州へ到着

ハンター・コルベットは大学卒業後、彼の理想は中国で宣教師になる事で、ニューヨーク長老会が中国へ行く定員をコルベットに分配した時、ちょうどアメリカ南北戦争が始まってしまった。当時の制度では、前線に兵として出るか、1000ドルを出資して兵役に代えるか、どちらを選ぶことができた。コルベットの父親はこの為に1000ドルを支払いコルベットの身請けをした。その後、彼の父親と二人の弟が共に前線に出て、うち弟一人が戦場で亡くなった。

ハンター・コルベットは出国前にレイジーという名の女子と電撃結婚をして、続いて彼は牧師に任命された。1863年7月3日、夫妻は900トンのサンパウロ号帆船に乗り込んだが、同船の同道(どうどう)にカルヴィン・W・マティア夫妻もあった。航海は想像を絶する(ぜっする)苦難で満ちていた。船上では、発明間もなくの缶詰食品に依存していたが、缶製造の質が悪く、長時間たったものは腐敗変質して、悪臭を放った。だがもしこれらのものを食べなかったら餓死するので、皆しぶしぶ飲み込むばかりであった。このため、コルベットは深刻な胃腸病を患って、やっと全快するのに20年かかった。

赤道付近を航行した17日間は、風がなく、太陽が彼らを焼き付けた。冬になると、嵐が船上の食べ物を投げ散らかし、彼らの荷物を水浸し(みずびたし)にし、船を猛烈に揺らして、人間は床板に自分自身を縄で結ぶ必要があった。フィリピン諸島を通過する時には、強風が船をすぐ岩礁に向かわせ、破船死人の出そうな、緊急事態の中、突然変わった風向きで、彼らは九死一生を得た。かように海上で揺られること6か月、船が上海に着いた時、太陽暦の新年であり、この時ハンター・コルベットは担架(たんか)に横たわって上陸した。医者はコルベットの現在の健康状態では、上海の気候は彼には合わないので、アメリカへ還るか、気候の乾燥した中国北方ならば少しは好いかもしれないとの診断した。

コルベットは中国北方行きを選んだ。十日余りの後、コルベット夫妻を含む6人の外国人が芝罘に向かう帆船汕頭号に乗り込んだ。ひどいことに、二日の航路で暴風雪に逢い、船は成山頭を過ぎて方向を見失ってしまった。真夜中に、岸に吹き飛ばされた一筋の雪壁を見つけて、船長はこれを家屋と間違えて、芝罘港と思ったので、マストの帆を緩め、岸に向かった。結果船は座礁して、海面に傾いてしまったが、幸いにも船に有った小型の舢板をおろして、やっと何名かの乗客を陸地に送ったが、携帯した荷物は海水に浸かってしまって、運びようがなかった。深夜であったので、泊まれるところを探して、三組の夫婦は三時間近く彷徨って、やっと漁村に入ったが、家の主人が扉を開けると、投宿(投宿)者が「毛唐(けとう)」であるのを見て、すぐさま扉を閉じて、もう開けなかった。あとで火をともした男が扉から出てきて、その火がウィリアムソンというアメリカ人が抱える凍え死に(こごえじに)そうな二歳ぐらいの子供を照らし出すと、男はついに憐れんで、彼らを扉の内に招き入れた。その夜は、この子のおかげで、なんとか全員が真冬の厳しい氷雪(ひょうせつ)の中で凍死を免れた。翌日、この家の主人は当地の行政長官に報告書を作り、二日後に、一隻のイギリス砲艦がやって来て、彼ら一行を登州へ運んだ。

何度かの移転の後、芝罘毓璜頂に落ち着いた。

コルベット夫妻は登州で中国語の学習を始め、中国北方民族の民族風格を理解した。8か月後彼らは布教活動の為に登州を離れ芝罘へ行くことを決めた。まず芝罘の遠くない珠璣村に家を借りた。この家は「事故物件」で、入居する人がなかったが、家主(いえぬし)は「毛唐洋鬼」(の力)を借りて「中国亡霊(鬼)を駆逐しようとの動機があった。隣人も友好的ではなかった。コルベット夫妻はあえてここに14ヶ月住み、後に芝罘洪街東端の西南河沿いに近くに宣教師マッカーティーの住居があり、この人が中国南方に行きたがっているのを知って、コルベットはすぐにこの家を借り受けた。しかしながら、この家は商人宿に隣り合っていて、終日ロバが鳴き続け、また下水溝(げすいどぶ)に面し、悪臭が漂い、たくさん湧いた蚊に刺されハエに集られた(たかられた)ので、コルベットはこの辛さに堪えきれず、そこで、彼の父親に手紙を書いて「もしあなたが自分の子供に会いたいと思うのであれば、家を買うお金を送ってください」と言うしかなかった。まもなく彼は父親が送った3000ドルを手にした。
南洪街の住所は当時の大廟(天后宮)から遠くなく、大廟は繁華街で、鱗次櫛比として商店が立ち並び、廟の縁日もあり、宣教師の伝道には理想的なところであった。ハルター・コルベットは大廟街の臨時の露店は固定(こてい)ではなく、早い者勝ちで占有できることを人から聞いた。彼はそこで、この年の大晦日に、露店主が店をたたんで年越しに帰る機会に、彼はある場所を狙って、徹夜で板を使った棚台を作ろうと考えた。この野暮で軽率な行いはたちまち反対に逢い、翌日、廟内の管長が門外に大変目障り(めざわり)な露台ができているのを発見し、新年祭もまもなくなので、路上を綺麗に片付けなければならず、コルベットにその露店を取り除かせたが、コルベットは路上占有の早い者勝ちについて管長と議論して、取り除きを認めなかった。管長はこの外人が厄介なへ理屈を言ってると見た。やむなく、一歩譲って、芝居舞台の近くの大廟境内の脇廊の一間をコルベットに貸し与えたが、コルベットはこれで一間のやや理想的な仕事場を得たのである。

最後の逗留地は毓璜頂であった。毓璜頂の東斜面は元は墓地で、林の中で女性が特に良く首吊り(くびつり)をしていた。夜にはいつも啜り泣く(すすりなく)声がした。しかしコルベットは風水の良いところと見て、廉価でこの地所(じしょ)を購入し、1886年5月に鍬入れ(くわいれ)して、父親に貰ったお金で住宅を建てて、自分の不動産を持った。始め、新居は三、四間の部屋だけで、その後次第に増やして、建物は「L」字型とし内側に庭や、ガゼボ(東屋あずまや)があった。コルベットは自分の家に大変満足し、彼は自分の家を「我が家の回廊に立てば、山海の美しい風景、紺碧の空と煌めく(きらめく)夕靄(ゆうもや)を一望でき、絶え間なく交友する、多くが紳士、淑女(しゅくじょ)である客人は、子供達に豊かで鮮烈な印象を与えていて、いつも優雅な女主人と突然やってくる客人とは時に回廊での午後茶会に参加したが、最も大切なのは、この種の愛や善意と平和は、家に在っては一種の貴重な教養となり、巣立てば一種の大切な思い出となるのである」と評価している。コルベットの居た毓璜頂の家は彼ら家族全員が大好きであった。翌年、アメリカ長老派教会本部から500ドルが送金されて、コルベットは家近くに教会を立てて、それからコルベットは新しい伝道生活を始めた。

五回帰国六回来中して、芝罘に定住:

ハルター・コルベットは1863年に訪中して1920年に煙台で亡くなるまで、56年間であった。この間には五回アメリカへ帰り、六回中国へ来たが、略歴は次のとおりである。

第一回来中は、1863年(清同治2年)7月3日に出発し、同年12月末に上海に到着して、28歳であった。

第一回帰国は、1875年(清光緒元年)、40歳。

第二回来中は、1876年(清光緒二年)、41歳。

第二帰国は、1885年(清光緒十一年)、50歳。

第三回来中は、1887年(清光緒十三年)、52歳。

第三回帰国は、1893年(清光緒十九年)夏、58歳。

第四回来中は、1893年(清光緒十九年)秋。

第四回帰国は、1896年(清光緒二十二年)、61歳。

第五回来中は、1897年(清光緒二十三年)、62歳。

第五回帰国は、1906年(清光緒32年)、71歳。

第六回来中は、1907年(清光緒33年)、72歳。この後コルベットは帰国していない。

コルベットは永久にアメリカに帰ろうと考えたことがあった。それは彼の年老い(としおい)た母親が脳卒中(のうそっちゅう)で、身辺に世話をする人間が必要であったからである。しかしコルベットは長く中国にいて、父親に親孝行をする機会がなく、老母の重病な現在、母親の身辺に帰るのは当然息子の責任であった。彼が1893年に中国へ来た目的は芝罘の善後工作を処理して、永久帰国に備える為であった。しかし、1896年にコルベットがアメリカに帰ってから母親に持ち込んだ手紙はコルベットの母親に息子を身辺に留めておきたいという初心を変えた。この封書は数百名の信者が連名でコルベットの母親に書いたもので、書中には母親がコルベットが中国へ来て協会の仕事をするのを許してくれるよう懇願するもので、この要求はコルベットの母親の理解を得て、彼女はコルベットに中国へ行かせると答えた。コルベットの母親は1900年に家中で亡くなった。享年85歳であった。

コルベットの結婚状況は大変不遇であった。彼は前後して三人の妻を娶り(めとる)、初めの二人は病気で早く亡くなった。始めの妻リジーは三人目の子を産んだあと、身体が大変弱って、寝汗に悩んだ。第四子は生まれてまもなく夭折し、これが彼女の精神に打撃を与え、身体はますます弱くなり、咳と、喉と胸の痛み、胸部うっ血(きょうぶうっけつ)、そして慢性下痢に罹って(かかる)、1873年3月10日に芝罘の家中で亡くなった。

コルベットは1875年にアメリカ帰国中にメリーと結婚したが、これが彼の二人目の妻である。結婚して一月で芝罘に来た。やがてメリーの身体状況も憂慮(ゆうりょ)的となり、まず左顔面がマヒし、1885年には大病を災い、胸部が充血し、1888年にもまた深刻な気管支炎と赤痢になり、遂にその年10月7日に芝罘で亡くなった。メリーはコルベットに13年寄り添ったが、彼女は賢夫人で、一切の家事を引き受け、コルベットに仕事に全身投入させることが、楽しみであった。臨終(りんじゅう)にあたって、メリーは「良くなりたい、幸せな家と愛しい子供達と離れたくない」と何度も言った。メリーもコルベットのための4人の子を産んだ。

コルベットは深く悲しみ、日記に「私の愛するメリーは神のお気に入りの子の一人で、彼女は私に10年の幸福な時をもたらし、彼女の命と深い愛は私の心の奥深くに留まる。」と記した。メリーに対してもコルベットは「彼女のように優しく、慈愛に満ち、律儀(りちぎ)な妻や母親はいない。彼女の献身と自己犠牲、彼女の天真爛漫さと規模は我々の家庭を平和と喜びで満たしたが、本当に彼女が懐かしい。」と書いている。

コルベットの三番目の妻は看護婦ハリエットで、彼女は1889年結婚した。ハリエットはコルベットに寄り添って一生を過ごした。ハリエットはコルベットに後れること16年、1936年に1月28日に病で上海で亡くなり、遺体は煙台に運ばれコルベットの墓の傍らに葬られた(ほうむられた)。ハリエットもコルベットのために4人の子供を産んだ。

村人の騒動が教会事件へと発展

コルベットが初め中国へ着いた時、中国は内乱で、捻軍(抗清軍の一つ)が北上し、戦いの災禍(さいか)は庶民に及んで、民間では捻軍を「長毛子」と呼んだ。その上外国人宣教師がやってきて、内乱の苦しみにうんざりしていた民衆は彼らに八つ当たり(やつあたり)して、外国人を「洋毛子」と呼んだが、絶対多数の庶民は外国人に対してもイライラしていたので、宣教師の布教は概念理解されず、また受け入れられず、やじ馬のように集まって、話を聞くというよりは、容姿挙動の変わっている「洋鬼子」を見たいだけであった。
コルベットは移動中いつも民衆から石をぶつけられた。ある時は、いつの間にか彼の乗る馬の尻尾が切り取られていて、この「洋鬼子」は尻尾のない馬に乗ったまま醜態(しゅうたい)をさらした。
より深刻な事件は、1873年12月8日(旧暦10月28日)に起こったが、この日はコルベットの誕生日であった。前から即墨県のある大衆団体「金丹教」に招かれていて、コルベットは母親を亡くしたばかりの三人の幼子(おさなご)と、一つの乳母(うば)を伴って即墨県科埠村に布教を出かけた。科埠村から12里の場所に玉皇廟があり、ちょうど縁日であったので、信者たちはこの日が布教に良い時と考えて、そこでコルベットと一緒に出かけた。説教中、聴衆で大混雑している中で、ならず者が突然群集(ぐんしゅう)に投石(とうせき)を呼びかけたので、コルベットは石つぶて(飛礫)に当たる中、会場はしばしば大混乱となり、秩序もなかった。コルベットは形勢不利と見て、すぐさま廟内不利入り、空き部屋を見つけて、潜り込んだ。群集も廟内になだれ込んで、この部屋を取り囲み、窓枠(まどわく)も石で打ち破られ、室外の雄叫び(おたけび)もひとまとまりとなって、状況は一刻を争うものであった。切迫する中、孫作清という男が部屋に入って来て、コルベットに、室外の人はだんだん増えていて、今彼らと理論する方法もないと知らせた。譲らない中去るのは計りがたいことであるが、遂にコルベットは守られて部屋から出て、混乱の中孫作清は姿勢を正して、群衆に大声でどなり、群衆が呆気に取られているうちに、コルベットに機に乗じて(じょうじる)廟門を抜け出し、馬に乗って鼠のようにおろおろと逃げた。
その夜、三名の信者がコルベットの子を背負い、一家で夜陰の乗じて科埠村から60里を遠まわりして即墨県の城内に行き、知事の麦瑞芳に訴えた。コルベットが逃げ帰った後、科埠村に残してきた荷物と一頭の乳牛は総じて持ち去られた。翌年の春、東海関道とアメリカ駐芝罘領事スペーダーは合同でこの案件を審理し、「無法者」28人は真理のために芝罘へ送られ、首謀者と村長がそれぞれ鞭打ち処罰となり、そのほかのものは釈放扱いとなり、即墨知事麦瑞芳と武官一人は「反乱放任」の罪で免職となり、同時に損害品の値として380両を賠償した。事後、東海関監督とスペーダーは連合で告示を提示し、人民に訓戒して、「爾後(じご)中国人は外国人を見かけたら『外国人』と呼び、『洋鬼子』と呼んではならない。違反者は地方官が随時(ずいじ)処罰する」と規定した。

西洋文化を広めるために、社会事業を創設する:

煙台は1861年の開港以来、外国人宣教師が布教するとともに、新式の学校を創立、西洋医学西洋医薬の普及、先進的な科学技術などを宣伝し、西洋の先進的な文化を持ち込み、中国の古い封建的伝統文化に初めて西洋文化と接触させて客観的に社会文明の発展を促進した。
1886年、コルベットは毓璜頂の住まいの西棟に「文先学校」という名の小学校を開学し、男子校とし、1868年にはまた「会英学校」を成立して、女子校とした。女子校の開学は、当時の封建的道徳に対する一大挑戦であった。当時の中国の伝統的観念からすると、「女子才なくば即ち是れ徳なり」でありw、女性は家で良妻賢母であれば良く、学問は男性の仕事であって、女性の学問は婦人の道徳ではなかった。この封建的観念を打破するために、コルベットの開いた学校はニューヨーク長老総会の資金援助の下、学生は食住費の免除に限らず、少額を支給して、男女の学生を誘致したので、受験生はこれにより次第に増加した。
1887年にコルベットは募金で「会英師範学校」を設立し、来校して研究する各地教会内外の一定の知識水準の人材を募集した。1896年に「文先」「会英」両校を合併し、「会文」学校が設立したが、校内に寄宿舎を設立して、盛時には小中学生が200人に達した。コルベットがなくなると、同校は「実益学館」と合丙し、「私立煙台益文商業専門学校」と名を定めたが、これは煙台ニ中の前身である。この他、コルベットの夫人ハリエットは1906年に毓璜頂で第一幼稚園を創設し、毎学期60名の幼児学生を募集して、1912年に幼児師範班を増設した。 毓璜頂病院の創立はコルベットの夫人ハリエットが開いた診療所が元になっていて、ハリエットは芝罘に来る前は、アメリカで看護婦をしていて、医薬の調剤や、芝罘方法などが経験豊富であった。
当初は教会で小さな薬局を経営して、もっぱら教会内の子供のために治療して、効果が大変良かったので、信者の劉寿山が毎年100ドルを援助して、この小さな薬局を次第に大きくし、さらに2名の医師を増やし、かように教会内の児童は皆治療を受けられるようになったが、このような規模ではコルベットは不満足で、一病院創設の必要性を深く感じたので、そこで1906年アメリカへ休暇帰国の時に、アメリカ長老会とペンシルバニア大学医学部を卒業したばかりのオスカー・ヒルズ医師に援助を求めた。1908年ヒルズ夫妻はアメリカ長老会から芝罘の病院に派遣された。数年の努力を経て、1914年に毓璜頂が建設され、ヒルズは初代院長となった。病院は南北二棟に分かれ、300余りの部屋に、90の病床、内外科、婦人科小児科、耳鼻咽喉科、手術室)、化学検査室、放射線室など、各種の設備は一応皆揃った、当時まっさらの近代化病院である。
コルベットは1879年、人々に外国の珍しい物産や、先進科学、文化を展示する博物館の建設計画を始めた。彼はアメリカへ休暇帰国の際に、2000ドルを募金して、半額で広東の富商李載之が雲龍街と同楽街の間に持つ不動産(平屋27棟、多層階10棟)を購入し、李載之は更に500ドルを展覧準備に援助した。一年後博物館は完成して、「博物館福音堂」と名付けられた。展示室は三部分に分かれ、第一部は太平洋の海産や各種の珊瑚と鉱物、第二部は各種の鳥獣標本と植物標本、第三部は物理科学の計測器(けいそくき)と各種の図書などである。展示品では、虎とライオンの実物標本と六角プリズムに人気があった。古代から、人々は虎について語り合ったが、見たこともなく、画家の筆は往々にして虎を山猫のように描き、獅子をパグ犬のように描いたが、今回本物の虎とライオンの姿を参照することができた。六角プリズムはさまざまな形象を映し出して比類のない不思議さである。
博物館の開業は世間の大関心を引き起こし、人々は四方八方から名声を慕って(したう)やってきて、参観を争い、当地の人間は言うまでもなく、遠方の人も商談に来て、通過の次いで(ついで)や、親戚や知人を訪ねる人など、皆煙台に来て、必ず博物館に立ち寄って見ることを楽しみとした。そしてその時にコルベットも人々に伝道の機会を得た。博物館は季節ごとに女性のために一日解放され、この日は男子禁制であった。女性達への説教で、いつも取り上げる話題は「女性の纏足開放」であった。博物館の入り口には計数機が取り付けてあり、一人毎に一回転がし(ころがし)、毎日の入館人数が記録された。計数機の統計によると、毎年博物館への来館者は7.5〜10人であった。

栄誉を獲得して、平凡に復帰する

コルベットの芝罘での50年の布教生涯は辛酸と波乱、奇譚に満ちていた。彼は一人の外国人として、手ぶらで中国へやってきて、中国人になじみのない布教事業を創始したが、その困難さは推して知るべし(おしてしるべし)である。しかしながら彼の辛抱強い努力で、遂に成功を得ることができた。20世紀初頭までに、彼を主導する長老会は教会外支部30ヶ所を建設し、聖餐者1395人、未聖餐者1667人を受け入れ、各種の学校を40ヶ所余りを建立し、在校生は1600人余り、病院1ヶ所を建設し、患者361人、見舞客14,171人、博物館も1ヶ所建立し、入館者は百万人を超えた。

コルベットは民間と、政府から多くの栄誉を受けた。

煙台ニ中にはコルベットが当校を創設した記念として「思郭堂」と命名されている。芝罘区北馬路の海よりの街路はコルベットを記念して「郭伯路」と命名された。清の光緒帝はコルベットに単眼花翎の官帽(羽飾りのついた五品以上の官吏の帽子)を授けて、「双龍」の褒章一枚を贈った。アメリカでは、コルベットは突出した業績で学会とキリスト総会の認可を得て、1885年にアメリカのジェファーソン大学から神学博士の学位を授けられた。1902年にはアメリカワシントン大学から法学博士の学位を授けられた。
1906年のアメリカ長老会全国大会で、コルベットは三回の投票を経て、遂に263対233票主要な競争相手を上回り、当総会の議長に選出された。大会はは彼に対して「43年前、彼(コルベット)は伝道作業を開始し、当時中国渡航(とこう)は一等大変な仕事で、彼は楽しからざる艱難辛苦(かんなんしんく)をも仲間として、必要とされる状況で終末中国の滞在を望み、中国北方の偉大な宣教師となって、われわれの教会総会の中で、この300年の間にもし史書に名を残すものが誰があるならば、唯一選ばれるのはハンター・コルベット博士であろう。」と評価している。コルベットは時に71歳であった。
1907年、コルベットはホワイトハウスでルーズベルト米大統領の接見を受けた。接見の席で、ワシントンの司教はルーズベルトに「コルベット牧師が」中国で布教した年数は、おそらく大統領のお年よりも多いでしょう」と紹介した。ルーズベルトは聞くと、すぐさま立ち上がってコルベットと握手して、「感謝の極みです、長年深く慕っておりましたが、ようやくお会いできました」と言った。また「中国に戻られたら、私が社会正義を以て中国人を待遇すると中国人民に伝えてください」と語った。
晩年のコルベットは相変わらずできる限り仕事をしていても、春秋両季節の地方伝道を堅持していて、以前に行ったことのないそこここへ遊行した。(以前と)異なる点は、今では地方へ出かけるには随行を伴うことで、老年による不測の事態に備えるためである。地方へ出かけない季節は毎日福音堂で説教をした。加齢に従い、コルベットはしばしば感性に心が伴わなくなっていた。74歳の時、彼は即墨教会で報告した時に、「中国に45年在って、私は中国の俚諺(李言)に『風燭年華門を立てるの中、定めず何れの時にか一場空しき(むなしい)を【華やかな時間は風前の灯火(ともしび)で、いつ空くなるかはわからない】』というのを覚えたが、真理は私が、よぼよぼで、仕事にならないと語るが、最も良いことはこの風雨(のような伝道の動き)の収まらないうちに、教会の大事は青年たちに預けて、俊英(しゅんえい)が掌握し、父祖(ふそ)の業を継ぎ、香煙を絶やさないことで、そうでなければ、(教えは)すぐに絶え、事業も途切れ(とぎれ)、45年の功績も、老いぼれの命と共に尽きるであろう。」と語った。
1915年、コルベットが80歳の誕生日に。社会各界は彼のために盛大な祝賀行事を行った。アメリカ長老会の「旌旗新聞」は長文でコルベットを紹介し、海内外からは信書電報が届き、各界が贈った旗飾りや扁額は数え切れなかった。晩年のコルベットは毎年12月8日に彼の子や孫に手紙を書いたが、1919年12月8日の書信にはコルベット「我が愛する子供達よ、もし消えそうな燃え殻で沈む夕日のような(自分の)誕生日を迎えたらば、親しく子供らに会い、子や孫やひ孫が私の膝下(ひざもと)で飛び跳ね(とびはね)て遊んでいたら、なんと幸せであろう⋯⋯」とこのように記した。しかしながらアメリカの家族がこの郵便を受け取る前に、すでに海底ケーブルの電報がアメリカに到達して、コルベットが1920年1月7日早朝に芝罘で逝去(せいきょ)したと伝えた。
1月9日の午後に葬礼が挙行された。
教会内は人で溢れて、彼らは中国の教会信徒や、芝罘のユダヤ教、ギリシャ教とローマカトリック教、及び多くのアメリカとイギリスの新教教徒を含む西洋諸国の友達であった。葬礼は中国語と英語両種の言語で進行した。式典が収束すると、16人が棺(ひつぎ)を持ち上げ、二列の学生による儀仗隊(ぎじょうたい)の間を通過し、街道対面の霊園入り口に至り、再び数名の外国有名人が棺を引き継ぎ葬送の人々が埋めつくす墓地へ到着した。この墓地はコルベット本人が50年前に自ら配置を考えたもので、現在では、彼の生前の友人である、彼よりになくなったカルヴィン・ウイルソン・マティアとジョン・リヴィングストン・ねヴィウスがここでもう安眠していた。
芝罘は彼の永遠の帰着点となった。この老人は一生の労力を使って設計した彼の事業の足跡は、煙台の人民に大きな印象を残した。式典では男子校から来た二組の四重唱(しじゅうしょう)団が美しく感動的な歌声で「主は今生きておられる」を歌い、その後簡単な埋葬式典があり、人々は皆心から声をそろえ「王子(メシア)はイスラエルに生まれり」と頌揚した。
間もなく、日暮れとなり、人影(ひとかげ)もまばらとなり、毓璜頂もまた茫々とした暗幕の内に沈んで、しかも礼拝堂の晩鐘が鳴り始め、人々の注意を喚起した。回廊に立つ老牧師は既に昔のこととなり、室内の人には有らず、その声姿は杳として(ようとして)遠く、しかも老牧師の遺体はもう黄土と共に暗い墓の中に埋まってしまって、この瞬間、感慨に堪えられないものとなった。

百年残る、後世の追想:

光陰矢の如く、時は過ぎ、煙台には大きな変化が起こり、現在は社会が安定し、物民繁多となり、人民は安住して仕事にいそしみ、様相は日進月異で、前後に倣って(ならう)いるが、往古を今に鑑としては、人々は常々煙台の歴史を記した古人を思い起こしては、先人の努力と、取得した業績に感嘆している。2002年、筆者が煙台地方史編纂室長に就任した時、『煙台精華』の(史料)収集とと編集で、内容に「煙台の八大有名人」の一章の内に、にコルベットの名もあった。さらに関係資料の収集のために、筆者はアメリカに居留する煙台籍の曲拯民氏と連絡を取り、彼が毓璜頂の警備区園内で発見したコルベットの墓碑のことを知らせて、私が劉玉璽氏に頼んで採ってもらった墓碑拓本を送付した。曲拯民は当時コルベットの告別式に参加した小学生隊の一人で、在世でコルベットに会ったことのある最後の煙台人である。彼はコルベットの煙台での活動を自分の事のようによく知っていた。以前彼は『コルベット牧師伝略』の一文を、『文宣』雑誌上に発表した。今回私が彼に送った碑拓本を見て、触発され、感ずるものがあって、また『コルベット牧師の墓碑』の一文を諸紙に書いた。私が資料収集しているのを知って、彼はアメリカの諸方面に聞いて、某博物館が収蔵している当時光緒帝がコルベットに賜った単眼頂戴花翎(帽子)の実物写真を私に送ってくれた。コルベットの記念のため、曲拯民はアメリカに居留する三名の元煙台益文商業専門学校卒業生に連絡し6000ドルを拠出(きょしゅつ)して、煙台ニ中校庭に三面刻字の石碑を建立することを願い出、彼の書いた見取り図と起草した碑文を私に送りつけ、私に関係部門にこの事を申請し、彼の件の願いをかなえることを託した。 2005年7月のその日、私はアメリカから来たコルベットの子孫四世コルベットと、ツィー夫妻とその子、10歳に満たないコルベット五世の一行を接待して、煙台ニ中、毓璜頂病院と、現存する旧長老派教会、コルベットの旧居跡と煙台警備区園内のコルベット墓碑などの参観に連れ添った。コルベット家二世代は墓碑の前で記念撮影をして、仔細(しさい)に碑文を読み、コルベットが永遠に帰属する花崗岩をさすり、しばらく離れられずにいた。この瞬間、彼らが心中に思うことは、部外者にはわからないが、その示す挙動からみれば、疑いもなく先祖の霊魂を慰撫(いぶ)し、切実な哀悼を捧げており、この老人が遥かに異郷の墓塚も既にないような場所に眠るのに、眼前にはこのように碑石が残り、たとえどのようであっても、どうにかやってきた弔問(ちょうもん)者が供物(くもつ)を捧げに来たのであって、これによりその場所にいた他人でさえも心から哀惜(あいせき)し同時にいくばくかの慰め(なぐさめ)になったのである。

著者 煙台 劉銘偉