山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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石島石頭楼

建築についていえば、地方ごとに皆独自の特色がある。中国東端に位置する威海市では、極めて民俗的な海藻房(海藻葺石壁家)を一押しであるが、石積みの楼屋もまた最も代表的な建物である。 華東娯楽城

威海の石積家屋は主に石島地区に集中している。石島の街中を進むちと、古風で荘重な、低いものは二階建て、高いものは四五階の、石積みの楼屋がしばしば目につくが、現代の建築素材を使用した建物の中でも一番の趣きを醸し出している。

石積家屋の石材は地元の、石島山から採取している。

石島山脈、槎山山脈は海辺に屹立して、山石が紅色であるため、後に「石島紅」「将軍紅」と名付けられ、花崗岩の埋蔵量は80億立方米に達する。1950年代の北京十大建築の多くは石島紅で、基礎、壁、階段、柱を作ったが、最も典型的なものは人民大会堂と後の毛主席記念堂の建築である。石島紅は、秘めたる美しさで、荘厳厚重で、とこしえに落ち着いた「歴史的紅色」である。 北京人民大会堂

春秋戦国時代には、石島は有名な商業港で、「斥山の紋皮」とは朝鮮半島と東北アジア方面の虎・豹の毛皮(けがわ)の交易の歴史を記したものである。唐、宋、元、明代、清時代を通して港湾通商が盛んとなり、経済が発展して、石島市街では特色ある「石積楼屋」や「石畳路面」などが出現した。新中国成立後は、また山石を以ての建築や、埋め立てでの港湾建設、建築材料の開発で有名で、地域経済の発展を促進した。生態資源の保護と、観光環境の最適化のため、有効的な保護措置が取られている。そのため、近代化の市街にあって、残っている石積建築はそれぞれ沈黙する「昔語り」となっている。

石島最古の石積楼屋は清朝乾隆16(1752)年に建立された天后宮で、山西の人王一徳によって建てられた。当時王一徳は石島海域で風波に遭遇して、危難(きなん)の時に天后娘娘媽祖神が石島山上に現れ、瞬時に風波を鎮めたと言い伝えられている。天后娘のお助けの恩に感謝するため、王一徳は石島に天后宮を建立した。260年の過去に、雨風のさらされ人も世も変わったが天后宮は、依然として近代化の高層ビルの中に屹立している。

清朝中後半には、石島の開港に従って、石島は次第に繁栄しだし、富豪の石積楼屋が一般民家の中に抜きん出て建ち、まるで鶏の群れに鶴が混じったようであった。

1960〜70年代には、石島の石積楼屋の建設の盛んな時期で、石積楼屋を建造したのはほぼ行政機関であった。当時石材の価格は安く、付近の山頂から現地で材料を採取できたので、原価を節約できるのが、大きな特色であった。

石積楼屋を建設する石材は一定のこだわりがあり、四角四面で、角張っていて、「紮板石(切石きりいし)」と呼ばれる石材が求められた。一般的な長さは約50センチ㍍、幅約30センチ㍍、厚さ約20センチ㍍で、特殊な用途の石材は一般に、階段と、戸や窓の横桟(鴨居・敷居)に用いられ、この種の石材は一般に1.5〜2㍍の間であった。それらの無規則で、角張りのない石材は、「乱石」と呼び、基礎や内壁に用いられた。

石材は煉瓦のように統一的な規格寸法(均一はなサイズ)がなく、大小不統一な(異なる)石材は施工中に誤差を生じやすかった。手際の良い職人達は積み上げて用いる石材数をあらかじめ全て算出して、その後木の物差し(木製の定規)で石材の長さを測り、瓦錘(垂直器)(ハンマー)で石材を修正し、建物ごとに排列する石材が同じ数で、同じ大きさとし、規則だだしい外観となるよう約束した(おおよそのサイズ、美しい仕様であることを保証します。楼屋の石材を積み上げる時、それぞれの石材は水平垂直に積み段ごとに石材は下の段からずらす必要があり、つまり上段の石材は下段の石材の中央に積み上げるのが、これが基本的な常識である。建物ごとの石積みの様式は異なっていて、ある石材は横一字に並べるが、ある石材は横幾つか並べまた縦に並べている。各種の様式で積み上げられた楼屋の外観もその(建築)年代の最新式の建築様式と「石島紅」の石材の特徴を代表している。

「石積楼屋」の建設は相当の時間を要する大工事である。当時はクレーンもなく、楼屋建設は総て人力によるものであった。肩に担ぐもの、背負うもの、大型の石材は二人で持ち上げ、石材を落とさないよう注意し、また足場から落ちないよう足元に注意し、職人達は力に頼って一段一段石材を積み上げてきた。石積が人一人の高さになると、足場を組み始めた。足場は緩やかな階段型に組み立てられ、足場の各層に人がいた。地面の人は石材を一段目の足場に運び、その後一層一層最高層まで手渡され、一部の重く大きく一手で運べない石材は、職人が滑車(かっしゃ)を使った。まさに「燕の巣作り」のような工法で、一棟の石積楼屋が立ち上がるのである。四階建ての石積楼屋は、往々にして3年の工期を経てやっと完成した。

この種の何の彫刻もない外観の石積楼屋は、壁が重厚で、やないは冬暖かく夏涼しく、人々に大変喜ばれた。1980年代になると固形煉瓦が広く採用されるようになると、人々はもうこの種の石積楼屋を建築家しなくなった。

石積楼屋には多く特性があり、第一に経済的に都合が良く、付近の山上からすぐに採掘でき、原価の節約となり、また特色豊富なことである。当時の石材を運搬する車両は、式のものは木製の手押し車であった。前は尖り(とがる)後ろは幅が広く、車身が木材で組まれていて、それ自体重く、車輪でさえ硬質木材で、大変な労力でやっと押し動かし、一度に載せる切り石は1,200斤(600キログラム)、乱石だけ載せても1,000斤(500キログラム)以上で、毎日少なくとも2回、あるいは3回運んだが、大変体力を費やした。

石島は一日中「ギコギコ」という音が聞こえて、それは山里から出発した手押し車が山を下るときのブレーキの音で、一旦下ると車軸に油を足して潤滑させる必要があった。使用する石材は大変多いので、途中の遠方の村も牛車や、馬車を使って石材を石島に運んだ。

中国北部最大の漁港である石島港は、人工的な切り石で埋め立てられている。後には、トラクターを使用して石材は運ばれた。

第二に、堅固(けんご)で耐用性があり、海進(海水侵食)と分解を防止でき、百年、千年の使用も全く無傷である。

第三に、壁体として重厚で、防寒保温の性能は特別良好であり、これらの特性から石積楼屋は人々に大変喜ばれるのである。

1980〜90 黄海造船所の車間(石積楼)の東西面 黄海造船所の石積楼(寮舎) 元中国糧油会社石積楼 元石島捕捞会社楼 石島中国海関原址石積楼 元石島刺繍廠石積楼 大魚島村石積楼 大魚島村石積楼 元省漁業互保石島辦事處石積楼 元陸軍石積楼 石島衛生院石積楼

著者 張宜中