山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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大戦の威海華工

107年前の今日、第一次世界大戦が終結した。

100年前、10万人余りの貧困の中国人が生活に迫られ、欧州行(こう)に招かれた。2か月余りの時間で、三大州、両大洋を跨ぎ(またぎ)超えて、欧州に到着し、世界大戦に突入した。1918年になって第一次世界大戦は収束し、英・仏両国は中国人労働者17万人を募集し、威海港1ヶ所から運び出された労働者は5万4千人に上がった。 乗船参戦の華工軍団

これらの中国人労働者は極めて苦しい中の戦火と硝煙(しょうえん)の下にあって、労働し、地下壕に住み、爆撃を避け、甚大な生死と望郷(ぼうきょう)の重圧に堪え(たえる)、心身大いに苦しんだ。連合国が戦争の最後の勝利を収めた時、多くの中国人労働者は生還を得た。今では、これに参戦した中国人労働者はほとんどが故人となったが、この悲苦艱難の歴史と、中国人が世界平和に貢献したことは、後人(こうじん)は忘れてはならない。

1914年、欧州で第一次世界大戦が勃発し、十数ヶ国が大量の人力、物資力、財力を戦争中に投入した。3年の激烈な戦塵を経て、その国力、物資力、人力の損失は惨憺(さんたん)たるものであった。各国は前線で損失した兵員を補充するために、ひっきりなしに標準を低下させ民間から大量の新兵を強制徴集した。

労働能力を備えた男性は強制的に前線に出向され、後方では労力の不足、工場の欠員、田畑の荒廃、生産効率の低下、物資の欠乏、国力下降(かこう)をもたらした。軍中の後方勤務の供給は緊張した。イギリスとフランス両国は人員不足の難題を解決するために、人口夥多(かた)で、国民の貧窮している中国に目を向けた。中国の農民はまじめで素朴な、辛苦に堪え、生活要求は低く、管理しやすいと認識していた。そこで欧州に出向いて働く労働者を募集する要求を中国政府に提出した。

当時の混乱は、脆弱(ぜいじゃく)な中国北洋政府(国民政府)は考慮の結果、英仏国家の請求に答えようと考え、既に協定国に対する支持、また参戦国の地位を確立すべく、戦後に戦勝国の資格を以て些か(いささか)の利益を売るために、両国への労働者輸出に同意した。そこで英仏両国の要求に応えた。 招聘啓示

彼らが中国に来て中国人労働者を募集し、欧州参戦へ赴くのを承認した。

1917年初期、イギリスは始めに威海衛で、「英商和記洋行」により収容所が設置され、中国人労働者の募集を開始した。当時承諾された条件は、中国人労働者は前線で戦争に参加せず、後方で実業と農業生産に従事する事。1日10時間作業。よりよい糧食と蔬菜(そさい)を用意する。給与は手厚い賃金(ちんぎん)とする。医療費を免除する。衣食住の完備。招聘国際法を遵守(じゅんしゅ)して、3年以内に中国へ帰国させるなどである。 大戦華工資料図

威海衛は汽車が通っておらずに、青島には鉄道が通じていたが、2年前に青島が日本に占領されていたので、イギリスは青島に第二の中国人労働者待機所を設立し、日本政府の許可を得た。1917年3・4月に青島の中国人労働者待機所が開所すると、多くの中国人労働者が威海衛と、青島両港に出現して、西欧に向け乗船する賑やかな場所となった。

当時の中国は、国勢が凋落(ちょうらく)して、外国人の侵略、軍閥が混乱して、盗賊は四方に出没、これに加えて自然災害が交替して猛威を振るい、疫病も常に流行し、民は安心して生活できずに……多大な災難の中で、苦労する大衆は、冬には寒さを遮る衣服もなく、家には明日の食料もなく、生老病死は、誰にも関わりなく、死線上に辛抱強くのたうっていた。

中国人労働者が欧州服役に出かけ食住費を免れて(まぬかれる)、毎月給料が出て、また医療保障があり、三年満期で帰国できるというニュースを知ることができた後、明らかに行路(こうろ)ははるか遠く、言語は通じず、また戦火が飛び散る国へ渡っての力仕事は生命の危険に常に晒され(さらされる)、ただ現実生活の困苦(こんく)は、生計を維持する法もなく、希望の見えない苦難を、彼らを遠くいくつもの海を渡る、危険を冒して生きる道を求める、正に身体を他国に売り奴隷とならせる悲惨な道であることを知ったのである。

百年前、五万人以上の中国人労働者が威海衛から欧州支援前線に出発した。

当時、この生活をどうにかしようとする活路(かつろ)は、人々に「欧州へ行き、大牛を売る」「海を渡り苦役する」と呼ばれた。多くの貧困の農民の、もっともそれは兄弟の多い貧窮の家の男子で、如何とも仕方なくこの生死不明の危険な道に出かけた。膠東地区の威海衛、即墨、文登、乳山、莱陽、平度、昌邑、黄県⋯⋯から、続々と招集に応募した。最初に4,000人あまりが労働に応募し、1917年1月18日、親しき人の生死離別の見送りの中で、威海港から涙を浮かべて乗船し、初めて欧州参戦服役への先駆け(さきがけ)を開いて、生死も果てしなく分からない海外へ生活の道を踏み出した。

1917年夏、フランスもまた中国に労働者募集局を設置した。山東省で恵民会社に労働者募集の代理を委託した。すぐさま、英・仏両国は膠済鉄道沿線に募集所を設立して、膠済鉄道を制圧していた日本人に募集を委託した。

前後して膠済鉄道沿線の濰県、高密、坊子、昌楽、宜都、譚家坊、辛店、張店等の駅に事務機構、募集所を設立し、また人員を昌邑、安丘、寿光、広饒、臨朐、臨淄等の地に派遣して告示を貼り、中国人を募集の応募に駆け出し(かけだす)た。

募集宣伝に釣られて、生活の行方のない貧苦の群衆は、続々と危険を冒して募集に応募して。一ヶ所の募集所で一日に数百人の募集ができた。 華工軍団出発前の雄姿

中国人労働者は青島からフランスへ向け出発する準備をした。

応募した農民は募集所で申し込んで、工作人員は目測で、申込者の年齢体格健康を見て、簡単に帳簿に登録した。応募した中国人は、皆社会底辺(ていへん)に生活する貧苦の農民で、ほとんどが丁の字も知らなかった(文盲もんもうである)。応募条項を精査(せいさ「することもできず、更に法律知識と自己保護意識を話すことさえできなかった。いわゆる「自らの出国志願)の契約に指印を押したら、自身が外国に売られることさえ知らなかった。

応募者の後悔を防止するため、応募人員は署名の後、軍の警備の下、すぐさま港に護送され、乗船出航し、南北の二航路で欧州に搬送された。南路は中国南海から、フィリピン、マラッカ海峡を過ぎ、インド洋を経て、喜望峰を廻り、大西洋を進み、洋上4〜50日でイギリスに着いた。北路は日本、カナダ、アメリカ、イギリスの多くの港を経由して、最後にフランスに着いた。途中何度も車や船を乗り継ぎ、水陸を共に進んだ。80日余りの困難の末、ようやくフランスに着いた。 華工は旅行袋を背負って乗船準備をした

欧州に入った中国人労働者は、(元は)ほとんどが畑の耕作していて、船に乗って海に出たことがなく、大多数(だいたすう)が外洋さえ見たことすらなかった。(人生)初乗船が、すなわち生死も知られない離別に打ち萎れ(うちしおれ)たまま幾つもの海を渡り、潮風の洗礼を受け波に揺れらる(ゆれる)もので、心身は極めて適応できないものであった。応募中国人労働者の馬春苓は彼の『赴欧雑誌』で、「船が初めて大洋に出ると、人々は海水に馴染めず(なじめず)、仲間たちはゲーゲと嘔吐(おうと)して昏倒(こんとう)した。喚く(わめく)もの、呻く(うめく)もの、嘆く(なげく)もの、泣くもの、惨たらしい(むごたらしい)声が船底に充満した。」と描写(びょうしゃ)している。

車船中に閉じ込められた中国人労働者は、恰も(あたかも)外国人が手中の獲物(えもの)を手渡す。籠(かご)の中の鳥のようであり、しばしば監禁(かんきん)中の車船はさらに交換され、所々で引継ぎ(ひきつぎ)の署名をして、時には船が間に合わずに、人々は埠頭で20日余りも待たされた。

海上を行く船はしばしば風波(ふうは)に揉まれて、まるでブランコのようであり、人は振り回され頭はぼうっとなり眩み(くらむ)、四方も分からず、五臓六腑(ごぞうろっぷ)が錯乱(さくらん)して、嘔吐が止まらなかった。大海原(おおうなばら)は、海と空が連なり、茫洋(ぼうよう)と際限(さいげん)なく、靄(もや)でつながり、ぼんやりとしたところを漂うようであった。時には蒸れた船底で、閉じ込められて一月余りも陸地や草木を見ないまま、世間と隔絶された。ある人はこの暗く混沌とした環境、故郷と離別した悲しみや、苦難を受け入れられず、目的地に到着する前に、大海原に身を投じた。乗った船は、時には同盟国の艦艇の攻撃に遭遇した。1917年、1隻の900人あまりの中国人労働者を乗せた汽船が、大西洋でドイツの潜水艇の襲撃を受けて、ほとんどの中国人労働者が海底に沈んだ。

大戦華工資料図

海洋を漂い行く中国人労働者は、道中の船や車で、波濤(はとう)に揺られ、上陸後はおんぼろ車に揺られ、徒歩の行進で疲れ果てた。中国人労働者達はまずイギリスに到着し、その後道をフランスのヌエに転じて、ここで中国人労働者配属所を設置した。配属所により続々と到着する中国人労働者は、欧州各地に分配されて労働に服役した。その中で、益都、臨朐、昌楽、寿光、安丘、平度等の県からは、それぞれ千人余りの労働者が欧州に遠征して戦線を援助した。益都県の孝悌鄉仙庄の張紹仲、劉恒春、郝建邦、張兆林、等11人は採用後、乗船して、台湾海峡、フィリピンを経て、マラッカ海峡を過ぎ、インド洋を進み、喜望峰(きぼうほう)を廻り、46日を費やしてフランスに着いた。臨朐県胡梅涧村の12人は、1917年10月3日に故郷を離れ、譚坊駅で応募登記して、隊を組み汽車に乗り青島に着き、汽車から船に乗り、日本の長崎、横浜、カナダのバンクーバー、イングランドのリバプール等の地を経て、12月23日にフランスの沙省に到着して、車、徒歩と交替で、フランスのヌエに到着するのに80日余りを要した。

中国人労働者はイギリス軍王室戦車工場の中央部で修理作業を行った。

中国人労働者はイギリス軍戦車を洗浄(せんじょう)した。

今回の世界大戦の主な戦場はフランスと隣接するベルギーで領内であり、仏、英、米等を首とする連合国が、同盟国の作戦物資、弾薬に対抗するために、大量にイギリスから海上をフランスに搬入した。

ヌエはフランス北西部の沙省にあり、ここは北は北海に連なり、西北部はドーバー海峡に接して、西は大西洋に接近していて、沿海の多くの港はイギリスの港と海を隔てて眺められ、戦線の後方に属している。イギリスなど同盟国は作戦の大量の軍事物資を、この港で荷を下ろしたのちに、陸地を経由してフランス作戦区に運輸した。中国の欧州へ出向いた労働者の大部分はフランス北部の物資転送の要地で、物資弾薬の積み下ろし、運送と工場での労働などの肉体労働を行った。

大戦華工資料図

中国人労働者がいたこの物資運送の要衝は、またドイツの飛行機の主要爆撃地区であった。晴れた日の夜間には、必ず敵機が爆撃に来た。ある時には一晩に数回爆撃した。

当時の状況について、欧州に出向いた中国人労働者の馬春苓は『旅欧雑誌」中に「初めてフランスに来て、カレー州の西北部の工場に分配された。戦場から百里余り離れていると言っても、弾丸の危険は冒されず、ただ夜間に敵国の飛行機が、内地に潜入して投下した爆弾が、戦線補給路の兵営、馬草場、弾薬部、道路を損壊した。晴れた日はいつも、昨夜に来ないことはなかった。イギリス人は機械を常備して、電光を空に発射して四方を照らした。その至る所を追跡して、素早く之をに砲撃を発した。あるいは飛行機を架けて、機関銃を配置してこれを攻撃した。薬莢(やっきょう)が雨のように降って、危険が最も激しかった。従って各兵営中では、それぞれ地下壕と土嚢(どのう)でこれを避けた。一晩の内に、難を避けて奔走(ほんそう)すること数回である。それで当地に駐屯した七・八ヶ月は、服を着替えて眠ったことがなかった」と記載している。

中国人労働者はこの爆撃地区にいて、危険を冒して爆撃された港、鉄道、公共道路、工場、倉庫を修理して、弾薬、食品、薬品、木材などの戦時物資を急送するほかに、通常は工場に出向いて戦争緊急需要物資の生産の補助をして、厳しい肉体労働に従事した。

戦局の変化に伴い、戦場は移動し、中国人労働者達は常に労働地点を変える必要があった。移転ごとに砲火が轟き(とどろき)、戦火が差し迫った近況の状況の下で、逃亡のように慌ただしく(移転が)行われた。

この時を選ばず至る砲火や爆弾の脅威の下で、居場所もなく、食事の時間もなく、いつも一日一食が出来るだけであった。平常時の労働でさえも、中国人労働者に与えられる食事はとても少なく、中国人は根本的に食事が満たされなかった。寝る場所も飯場でもなく、地下道や、穴蔵(あなぐら)、被爆したぼろ家であった。

人々は地面に衣服のまま寝て、しばしば数ヵ月も入浴着替えもできずに、身体にシラミが群がった(むらがる)。フランスの天候は湿気で多雨であり、晴れ間(はれま)が無く雨が多い、雨の中の作業で、雨水、汗水、涙水が、中国人労働者の一身に集まって、衣服は汗臭(あせくさい)が大変であった。欧州に出向いた中国人労働者の馬春苓は次のように記録した。「日々働き、疲労困憊(こんぱい)し、夜な爆弾を避け、精神が張り裂け(はりさけ)、故国を思っても、故郷は遥か彼方である。前もって期日を計っても、遥かなる三年で、その苦境は言うに忍びない。私のこの旅は、檻の虎や水槽の魚のように、翼があっても奮い立つこともできない。日夜憂慮しても、どうする事が出来ようか。吉凶(きっきょう)禍福(かふく)は、天命にゆだねるのみである。」

身をよその国異郷の轟音(ごうおん)の戦場に置いて、長期の日夜作業で、昼夜疲弊した心身への圧力と、吉凶計りがたいこき使われる生活で、中国人労働者は日夜恐れおののき、前途のみえない、生命の行き着くところのない、落ち着くところのない、絶体絶命の、如何ともしがたいことを深く感じた。

ある人はふさぎ込んで病気となり、ある人は鋏をはじいて(望郷の念)ため息し、始めからこの困難な活路を求めるべきでないことを後悔した。そのような中で、彼らが地下壕で飛行機から身を避けている時に、ちょうど作られた二首の油を搾る(しぼる)詩は、本当に当時の心情を反映している。

明心曲

一为迁客来西欧,回望山东两泪流。

骨肉时迁万里梦,韦韝怎奈五更愁。

心驰利欲复何悔,恍然睡觉已三秋。

若熬三年归期到,只见枯骨不见肉。

心を明らかにする曲

一たび遷客と為て西欧に来りて,山東を回望すれば両涙流る。

骨肉時に遷る万里の夢,韋韝怎奈(いかんせん)五更の愁。

心を利欲に馳せ復た悔を何(いかん)せん,恍然と睡覚す巳に三秋なり。

三年帰期の至るを熬(じれ)るがごとく,只だ枯骨を見て肉を見ず。

书怀

卷怀经史莫搜罗,破上微躯受折磨。

日锁愁眉空自苦,轻敲铺板且长歌。

懐を書す

経史を卷懐して搜羅する莫れ、微躯を破上して折磨を受く。

日に愁眉に鎖して空しく自苦し、鋪板を軽敲し且つ長歌す。 華工軍団帰国

幸いなことに、英・仏・米・中などの国で結成された連合国の共同攻撃の下、オーストリア、トルコ、ドイツなどの同盟国は1918年11月に敗戦投降した。大戦の終結で、困苦に再生(サイナマ)された中国人の来欧労働者は切実に考え、強く帰国を要求した。

帰国の途上には、船と汽車を乗り継いで、風雪に迎え冒され、しばしば港では十日、二十日の閉じ込め待機が、心身共に大変疲れさせ、気がかり苛立た(いらだつ)せた。ほとんどの中国人労働者は1919年末かあるいは1920年の始めに、ほぼ三か月余りの船と汽船で疲れ果てて、続々と帰国した。 給料単

中国の十数万の労働者の艱難辛苦(かんなんしんく)の投入は、強力に連合国の作戦を支援したが、中国と中国から欧州に出かけた労働者には勝利からどれだけの利益を得ることもできず、労働者の中には手ぶらで、病気になって帰郷した者もあった。白骨となって帰れないものもある。相反して日本の商人は中国人労働者の応募と、運送中に利益を貪った(むさぼる)

初めて日本はドイツに対する開戦の名目で、ドイツ人の手中から膠東鉄道と山東膠州湾、沿海の港湾を横奪し、欲しいままにドイツの財務を掠奪した。英仏が中国人労働者を募集すると、日本の商人は山東省で「募集事務所」を設置し、中国内地に深入りして、(英仏)両国に代わり人員を募集した。中国人労働者の募集、組織、輸送等の一連業務をほとんど一手に引き受け、ぼろ儲けした。

中国人労働者の欧州参戦は、中国が世界の重大事件にかかわる最初で、中国人が世界平和のために特殊な犠牲と貢献をなしたものであった。

正にこの中国人労働者の血と汗と、果ては生命を投入で、やっと中国は第一次世界大戦中に安定的な戦勝国の地位を確立し、後の膠済鉄道と膠州湾などの侵略された主権の回収のため、堅実な法的基礎を固めた。

中国が欧州で参戦して百年が経ち、中国人が世界平和の為に作り出した貢献は、中国人が勝ち取った栄誉の為に、正史に残されるべきである。

中国人労働者が欧州に上陸して80年の1998年11月2日に彼らはやっと初めて本当に彼らに与えたられた記念を迎えられた。第一次世界大戦中にフランスの為に拠出(きょしゅつ)された中国人労働者を記念するための石碑建立の式典が、パリにある華僑が居住する13区で盛大に挙行された。

これは西側国家が初めて正式に政府側の形式で中国の第一次世界大戦の労働者を記念したもので、当時のフランス国防部の老兵事務担当の国務秘書〜ピエール・マルセレ先生が式典に、「第一次世界大戦の間、数万の中国人労働者が続々とフランスへ到来した。フランス民族の国境が危険な時に、彼らはフランスのために尊ぶ(たっとぶ)べき貢献をなしたので、我々は今日碑を建て彼らに感謝する。」と語った。2008年,2014年とフランスは継続してより大きな貢献と,より高い規格の記念活動を挙行し、当時のフランス国防部長ル・ドリアンは式辞(式辞)で、フランスは第一次世界大戦の中国人労働者の歴史的貢献を忘れてはならないと,表明した。

2017年11月11日、イギリスは第一次世界大戦に係った中国人労働者、また彼らが世界平和を恢復するために繰り出した重要な貢献を、初めて正式に記念する活動を挙行した。

当日、30名余りの中国人がロンドンダウニング街前の戦没烈士記念碑に花輪を奉献したが、これがイギリスが初めて公式活動で第一次世界大戦に係った中国人労働者を記念したものであった。

日本文資料整理 威海 李君