済南洪家楼教会にはどのような歴史があるか
各地方には各地方の特色があり、北京といえば我々はすぐに故宮や、長城と天壇を思い起こし、南京といえば、我々は総統府や、中山陵等を思い起こすように、この地方の代表、その地方の名物、あの地方の珍品がある。これらの人気の地方を話し終わった後で、我々はまた済南洪家楼教会に関して話してみたい。中国の伝統と特色に照らして言うと、教会は早期の時期には見られず、外来文化なので、現地の信仰基盤などは欠乏していて、この種の文化と中国の風俗は互いに相入れ(あいいれる)なかった。
この建物の名は「洪家楼キリスト聖心天主教会」で、簡単に呼ぶときは「洪楼教会」と呼ぶ。
洪楼教会の建設は同治年間に開始されたが、一連の原因により、国家が厳重に封鎖した正門が打ち破られ、一切の外来文化が中華文明に浸透の進行を開始したが、この種の浸透の形成する所は本国(中国)と文化は相容れず、本国と飲食も相容れず、本国と信仰や建築も相容れなかった。
目立つために、このような建築の完成は、清朝からずっと100年聳え立ち、それは後に済南を代表する建築物となり、年配の済南人や、あるいは若年の済南人も彼らが郷土(きょうど)の特色を持ち出す時には、彼らは皆異口同音(いくどうおん)に「済南洪楼」を持ち出してくる。
この教会の現在の位置は山東省済南市歴城区の、洪楼広場の北側に位置する。それが落成した時、規模の大きさ、外相(がいそう)の壮麗さは、済南の人々に大変驚きと感嘆を起こさせた。
「洪楼」は済南のランドマーク的な建築であるばかりでなく、河北、乃至(ないし)は中国で最も有名な三大著名教会の一つで、大変高い地位を擁している。
多くの人がこの教会の建設は1902年と認識しているが、実際は夙に(つとに)清朝同治9年(1870年)の時でビショップ(Bishop Eligio Pitero Cosi, O.F.M.)神父が済南で土地を購入し準備して、一教会を建設していた。しかし20世紀初頭の時期に、義和団の変による、一連の原因のため、この教会に重傷を受けさせた。
1902年に事情が一段落を告げた時、一人のオランダ国籍の司祭が、義和団の変の賠償を利用して済南洪家楼で最初の教会改築をした。1905年になって、その教会はやっと本来の意義の竣工をした。
この教会の平面設計はオーストリアの修道士が担当し、ある種平面はラテンの十字形の形状で、欧州の風格と情趣(じょうしゅ)が大変有った。教会内部には名士の、宗教色を帯びた物語を最適化した多くの彫刻がある。この教会が開庁すると、800人を同時に収容できるという。この教会は最も典型的なゴシック様式の建築で、この建造時期は不明解であるが、それはこの教会が何度も改築と整理を進めたことによる。例えば1901年には、この教会は確実に存在し、ただ戦火のため、義和団の破壊のため、1902年〜1905年に補修し、のちまた1906年の時に拡張建設が竣工したが、つまりこれが我々が後に見る膨大な教会である。
教会全体の設計と建築効果から見ると、雰囲気は壮大で厳粛である。
その原型はヨーロッパの12世紀と16世紀の教会の風格で、高い研究価値を具有していると言われ、このほかにはこの教会と世界的に有名なウェストミンスター大教会と大変似ていて、その価値は巨大なため、新中国成立後、政府により全国重点文物保護単位となっている。
この建築から、我々は中華と西洋文化の融合と、晩清末期の、中国民間群衆の信仰の多様化と多元化が見て取れる。
文化融合の角度からは、この教会は巨大な作用と効果を起こし、かつ済南市現地にも得難い名看板を添えている。
教会は東から西向きに立ち、正面に二つの尖頭鐘塔がある。また多くの小尖塔がある。
教会の西西門は十分に建築的な特色があり、幾重にも深化し、門柱上の彫刻には精緻な図案があり、上方に象徴的な十字架が安置されている。西正門は通常は開放されず、両側にそれぞれ通用門がある。
教会に進入すると、すぐさま一種荘厳(そうごん)で神聖な感覚がある。大ホールは800人を収容する。
大ホール内にはローマカトリックを題材とした壁画と彫刻が満面に配置されている。
最も特色的なものには内面の窓があげられる。一つの窓には全て彩色壁画が描かれ、西洋の神話物語を説いていて、光線が外から入ると、壁画が照らし出され、多彩で不思議に見え、神聖な色彩を際立て(きわだつ)ている。
陽射しが高い窓から教会に入ると、チンダル現象(光の拡散)を生み出して、イエスの光を形成し、教会の主題を明示する。
もし貴方が済南に来て、雑踏(ざっとう)を見飽き(みあきる)たら、ここの別種の風情を体験しに行くべきである。
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