山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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1926年から1951年の煙台港雑記

1926年私は遠東商学院で勉強し、夏休みに煙台を巡った時、ちょうど煙台ハーバーの工事で事物員(現在のバイト事務員)を募集していて、私はタイピングと流暢な英語で試験に合格し、毎月の給料45元、翌年には55元に改められた。事物員儲けにならないので、1928年にアメリカのペンシルバニア万国通信学校の土木工程科に入り、以外私の苦学堅持により、ニンジニア長に進み、1936年海港拡張計画の時、公務員(技術者)に昇任した。ハーバーエンジニアの張時雨が辞職後、私がエンジニアを引き継ぎ、1951年迄煙台で仕事をした。

私が煙台ハーバー工事会に入った時防波堤と攩浪壩は完成した(ハーバー工事会は東防波堤を「攩浪壩」とし、西防波堤を「防波堤」とした)。埠頭の貨物運輸と対外貿易を便利に発展するために、前者に二棟の、容量6,000トンの転運倉庫を建設し、設計時に遠景の発展を考慮して基礎と鋼柱を2階建にした。後者は攩浪壩最南頭の一段で、煙零線に浚渫(しゅんせつ「した(即ち小潮の潮下1.8フィートで、二個のフロート(浮筒)があり、繋船に便利であった)。

防波堤埠頭は建港設計時に、水深は煙零線以下20フィートとした。20年代初期には、外洋汽船が煙台に到着する物は1万トンあり、吃水(きっすい)は20フィートで、埠頭は明らかに応用に相応しくなかった。しかし埠頭は既に完成し、後の祭りで、再改できず、遂に埠頭外に煙零線以下24フィートを深堀して、1万トンの汽船の着岸の便とした。近くを深く掘ると埠頭の安定に影響するので、埠頭から離れて深掘りし、また係留(けいりゅう)に影響するので、60トンのポンプ船二隻で浚え(さらう)た。このようにして汽船は岸壁を20フィート離れて停泊でき、荷物の積み下ろしに手間と危険を添加しつつも、荷役効率も向上し、大型サンパン船を使用するより安全で損失が少なかった。

従って、外商は北埠頭の使用を喜んだ。統計照明によると、1トンの貨物は北埠頭から降ろされて広東街に搬送され、大型サンパン船積み下ろしの費用よりも少額で安全であり、しかも路途も遠くなかった。

ただし、煙台の船行は大型サンパン船での積み下ろしを希望したので、大型サンパン船の使用のために毎船の収入は5,000元(大洋銀)で、一船行の一年の経費はも使い切らなかったので、確実に魅力的な収入であった。

煙台ハーバー工程会は中国と外国の官方(政府間)と中外商人の共同組織であった。それと天津の海河行程局、上海港浚渫(しゅんせつ)局、及び牛荘の遼河局、福州の閔江局は相似(そうじ)しており、典型的な華洋合作機構であった。

その職権は煙台のハーバー工程に限られ、これは清末の外交に文字で明確な規定があり、煙台ハーバー工程会の工作はその他、例えば陸地の施設、市内行政などには干渉しなかった。1921年に防波堤と攩浪壩竣工後、西洋人は公路工程委員会の再組織を提議した。当時、公路工程に外国人の介入があれば、その後はどうなるか見当がつかず、即刻政府に拒絶され、批准されなかった。既にアメリカで購入された器材も預け置かれ、1926年に私が倉庫を保管する時もまだこの道具がなお倉庫にあった。

煙台ハーバー工程会の執行委員は東海税関西洋人税務司が兼任し、実際大権を握り、中国会員は一介の虚名に過ぎなかった。

当時の中国税関税務司はイギリス人で。税関の行政組織、人員任免等はイギリス文官の制度を模倣し、一旦受け取ると、即ち終身の職業で政局の変動と身体に因らず、失業の脅威を受けなかった。ハーバー工程会は税関同様の規則を執行した。作業者は毎年一回給料をアップ(昇級ではない)、行程を見て多少を決定する。職員は二年ごとに一度昇級し、高級者は3年1回とし、多少は等級を見て決定する。給料は毎月94%を支払い、残りの6%を加算して、合計12パーセントを個人名義の銀行に預け入れ、一文の利子(複利)計算とする。退職時に元利ともども清算し、また40か月分の最後の給料を加える。

1930年代の初めには、一ヶ月の新入りの水夫(水夫=船乗りではなく、水夫は櫓(ろ)漕ぎ(こぎ)が出来るだけで、水手は試験合格した一定の技能士である)の、月給は11元(大洋銀)であり、毎年1元増え、15年後には毎年2元増え、作業に過誤(あやまりがない)がなければ、60元まで増えて留まる(当時一言で豚肉5斤=2.5㎏を買えた)。職員の月給は低賃金の数十元から高級の数百元と等しく(ひとしい)なかった。作業者と職員に限らず、彼らの給料は皆年齢の増加に従って増加した。労働者は老年退職すると、在職時に錯誤(さくご)がなければ、子供が仕事を継げることができた。解放前のハーバー工程会にはこのような多様な後継者がいた。ただし一旦事故により解雇されると、何も得ることが出来なかった。

1926年に私がハーバー工程会に入った時、東海税関税務司はフランス人タンシュであった。当時もう民国の15年で、タンシュはまだ清朝の官界の一式になぞらえ、登帰時に四人肩掛けの輿に坐り、また数名が道を開くのに従って、担ぎ(かつぎ)手は紅纓(ひも)の帽子を載せ、藍色の大襟褂(支那服)を着けた。船舶の出入りする港のナビゲーターは白ロシア海軍の将官であり、考査で入り、名をティモフェーヴ(TIMOFEEV)と言った。彼は西洋を崇高(すうこう)し中華を侮辱(ぶじょく)し、自分をその他の白人と相当と認め、権勢を笠(かさ)に着てハーバー工程会のエンジニア張時雨は不遜(ふそん)な口をきき、張時雨は工程師の身分も示さず反撃を与えたが、ティモフェーヴ以後も忠実に、中国人に手を出せないことを知っている。

防波堤埠頭北から南へ至る貨物は一本の狭軌(き)に頼り、手押しの4トン貨車で連絡した。1920年代中期には、気動車の使用も考慮されたが、計算ではまだ人力で車を押す方が比較的便宜であり、かつすぐ着くべき仕事に多人数を使うことができた。これと1936年に海を掘り下げ地面を埋めるときの人力で泥を丘上げしたのと同様である。

旧中国は鉄軌を出さず、ポイントもアメリカに発注する必要があり、貨車上のローラーシャフトは国内外で入札ができた。チェコの「スコダ(SKODA)工場では、時価8元1枚で落札できたが、鋼材(こうざい)と尺寸規格は皆規定と比較して、国産10元1枚の耐用があった。ただし我々は毎年修理には多くの国産品を購入した。

1931年、エンジニアの蔡邦霖は当時の微々たる工程に興味がわかず、彼は1ヶ月500元の給料の職務に決然と辞去して、葫蘆島の月給300元の築港課長の職に去った。1926年に私が初めてハーバー工程会に入った時は僅かに19歳であったが、蔡邦霖は私にとても良い印象を与え、彼は勤勉に奉公し、募金が有れば必ず献納(けんのう)した。普段は学習に勤め、旧社会の悪習はなかった。満州事変では葫蘆島の工程は工事を止め、蔡は広州黄埔港に鋼板桩埠頭の建設をして、解放後に水利部の試験部門に務めた。彼は1920年代末に、貨物運輸1セットを設計し、一年後イタリアでも類似の物流が出現した。船積みは車に比べて速かったが、分解には時間がかかり、加えて船行(積み下ろしの会社)は採用されなかったので、未だ押し広められず、ただ1万トンの貨物船に一種のみ積み込む(落花生を積むような)だけでやっと採用された。

1932年末に、軍閥劉珍年部隊は煙台から温州に転属され、防波堤の南先の草地に砲弾兵器4積を保存したが、船積み準備のため、不用心にに全部を爆発した。この損失がもし中国屋号であれば、劉珍年は賠償できず、ハーバー工程会の西洋人勢力により、幾千元の損失は1分少なく賠償されなかった。1937年の「盧溝橋」事件後、韓復榘は駐軍を命令して、防波堤埠頭で爆発後逃走を準備し、日夜開削(かいさく)して、僅かに地表から2メートルの深さに達せず、未だ高潮水面には爆裂が至らなかったが、建築時に豊富なモルタルで積み上げられたので、十分堅固であった。ただし埠頭の事務室は全部爆破された。1938年日本軍が煙台を占領後、埠頭と事務室にまた修復されたが、強度は当初ほどではなかった。

1933年にハーバー工程会は大洋銀3千万元余りを積み立て、それを埠頭の拡張と改正の浚渫に用いるための方法を必要とした。まずエンジニアのオランダ治港会社社長リイリードが煙台に視察に来て、後にエンジニアのオランダ人ゴンドセンが自ら煙台に来て二案を作成ししたが異見(いけん)不統一のために使われなかった。最後はオランダのエンジニアスボーンが1,600フィートの鋼板桩埠頭を防波堤に平行して、設計した。調印契約時に、東海税関税関司のオランダ人シューレガルダスはハーバー工程会の主任身分で自らサインした。会長は国民党財政部が東海税関監督呉絜華で、彼は会計主任が先に署名したと考え、彼のこの会長に対する不尊重に対し、署名を拒否し、契約は法律手続きに符合しなくて打ち切られた。

しかし鋼板桩は既に煙台に到着し、北埠頭の保管倉庫に数年間放置された。オランダの会社が澳門でプロジェクトを契約した後、鋼板は運び去られた。これは中国人が初めてハーバー工程会の運営事務が西洋人との闘争に勝利したもので、以前西洋人税務司が主任身分を記入して大権を一手に握り、事後会議を通しただけであった。1935年にイギリスで浚渫船を購買し、1936年に煙台に至り浚渫を開始し、防波堤内側に堤防上の幅を広げ、南段に増幅を更に広くした。増幅の措置は切石(きりいし)で堤壁を築いて、内側に浚渫した海泥を充填した。この工程は日本軍が煙台を占領後二年でやっと完成した。

1920年代末、入札募集で900馬力のタグボート、名を「建泰」という1隻を建造し、上海復興造船会社が落札し、製造費は大洋銀27万元であった。これは当時の華北の設備で最もよく、引力最大限のタグ船であり、それは遭難船舶を救出する用のために、効率最大の主力ポンプを備えていた。太平洋戦争中に、それは日本軍に強制徴用された。戦争終結後、在日連盟軍マッカーサー本部から手紙が来て、ハーバー工程会が北海道へ「建泰」タグを受け取りに行くよう呼びかけられた。まもなく、煙台は第二次解放となったが、話によると誰も受け取りに派遣されなかったという。いずれにしても、私はタグボートの設計と監督は上海のイギリス商パーソン会社が取り扱い、経費も少なくなかったと記憶している。

防波堤と攩浪壩が竣工の後は、汽船も随意に停泊した。1920年代初め、バース(停泊位置)番号は、吃水位が20フィート以下のものは、バースが9ヶ所あり、吃水が15フィート以下のものは6ヶ所あり、漁用汽船と機械船は皆バース以外の、南の南段に停泊した。

ハーバー工程会は毎年大量のペンキを使用したが、例えば防錆(ぼうせい)油脂(ゆし)を例にすると、国産の樟丹(オキサイド、毎桶28ポンド)は値段1ポンド0.2元であリ、輸入樟丹は1.00元で、価格は大差(たいさ)があり、国産品の採用を提唱したが、試験では、国産品は2か月に一度塗り直し、輸入品は一年一度で良く、両者を比較すれば、一年で使用する材料費は基本的に相当であり、使用量は前者は後者の5倍も多く、更にブイを吊り上げ、船をドックに入れるのも5回と多く、経済帳を統算して、また国外に購買適合者を募集した。結果はイギリス商のダンペイが落札して、無償でサンプル数トン(合計200英ガロン)を供給し、一年試用して合格後に購買した。

私の知る所によれば、煙台港は第二次アヘン戦争後に発展してきた。煙台は渤海湾の湾外の南岸に位置し、北京に至る外人の使い、西洋商人が成山頭を過ぎると、途中で芝罘島で風を避けることができた。

煙台は芝罘の対岸にあり、膠東各県と得心していたので、商業は旺盛だったので、芝罘に着いたら風波(ふうは)を避けるためだけでなく商売もできた。当時、本国の交易はやはり帆船が主で、煙台には福建会館、潮州会館などがあり、天后聖母(海神衆の一つ)を供養していた。帆船が煙台に逢うごとに、自身の会館に逗留する所があった。会館がなくても幫会があり、広東会、寧波会などがあった。煙台は風力が最大の地方(建港前の情況)で、帆船は西南河口付近に集中して停泊した。ここの交通の便利により、大神廟での神への御供えも近かったので、すぐ付近に東西の安全入江を築き上げ、西南河口の東を太平湾、西側を西太平湾とした。各団体の帆船は煙台に到着すると湾内の淀み(よどみ)に到着し船舶は安全で、貨物の荷崩れの損失も減少した。煙台港は東西の太平湾の発展からなりたっている。

19世紀末になると、外国貿易は次第に増え、汽船の出入りもこれに従って増加した。しかし汽船は吃水が深く、トン数も大きく、太平湾へ入れない帆船と同じく「船の安全と貨物の積み下ろしによる損失の衰微」を享受するのに、そこでジャーディン・マジソン商会の経営者エックフォードが築港計画を提出し、経費の主要な来源は関税の5%で、「ハーバー義捐金」と言った。これは中外商人が皆納付の用があった。一つの洋華機構を組織したので、「煙台ハーバー工程会」と呼び、清政府と北京公使団の承認を求めたのは、20世紀初期であった。当時オランダ港湾整備会社のエンジニア・ルイリードが煙台に来て考察し、1914年に小規模な計画を立てました。両者を比較した結果、最終的に小規模なものが採用された。即年通過量300万トン(1930年代と1940年代の初めには年間60万トン上下であった)の物を採用した。工事はオランダの港湾整備会社が請け負い、芝罘島で90万トンを採石し、浙江で購入した桑枝で沈床を編んだ。工程計画では防波堤と埠頭600フィートの築造を、攩浪壩と煙台零線以下20フィート幾何かのバスを含み、経費は税関と中国・ロシア道勝銀行から借金した。その他の工程は竣工後処理が維持された。

1935年の港湾改良工事では、公開入札された。泥の掻い堀りと岩石の爆破は価格が高く、しかも全て外国商であったので、遂に船を買うのを実行し、人力で実行し、コストを節約して職工を養育したので、金銭は海外に流出しなかった。日本の福昌会社の掻い堀入札は、1立方ヤードあたり大洋銀0.90元で、岩石爆破は1立方15元であった。我々は自己で行えば、掻い堀は1立方ヤードあたりたった2角であった。

1938年初頭、日本軍は煙台を占領し、9月11日に、日本海軍は軍会計深井に水兵両トラックを携帯しハーバー工程会を強行に接収管理し、港務局と改名し、警備艇により直接管轄とした。退役した海軍少佐太田常利を局長に任じ、在職の全員は未だ動かぬまま、元職元賃金で、以前の制度通り増資した。この時、港務科を増設し、日本海軍の少尉柳田修を科長とし、税関船舶管理長の職権と看旗所を押さえ、港務局の下に置かれることになった。日本海軍の管轄期間中は、港内の建設工事はなかったが。1945年春に、防波堤南方に小型の支柱式の石炭埠頭の建設が計画され、材料が準備され、近々(きんきん)施工であったが、終戦で煙台は解放され、沙汰(さた)止めとなった。

日本統治時代には龍口に港務支局が設置され、日本海軍中尉井村研爾局長となった。太平洋戦争勃発後、煙台港務局長太田常利は日本当局に悪口を言い、すぐ2万元余りを支払って帰国した。局長は山田修が昇任し、港務課長は軍曹田芳彥充が任じられた。柳田修は局長に任じられ中尉の昇進したが、日本が投降してやっと帰国した。

元来龍口灘は波静かで浅く、1939年に煙台港務局は煙台港務局工務所の全部の人員を龍口に移動して、吃水は6フィート、200トンの小型汽船を停泊して信頼性の高い突堤埠頭を建築させた。その年は、小さなブロックを掘り出し、1ブロックと三面の石スロープを作った。翌年は進行を継続せず、ブロックを一時的な臨時埠頭にきりだし、石ブロック内の一部分に砂で道路を作ったが、その中は依然大穴で、もはや修築を継続しなかった。

日本軍管轄時期には、余暇生産も行った。例えば防波堤南段を拡幅開拓して、港務局全体人員の、局長、科長及び職員、作業員を含めて、落花生の植栽の労働に参加し、収穫物を均分した。煙台山下の西側には石棚があり、太田常利は海壁を作ってこれを埋めた。

山上には日本領事館があり、館内には民家が多かったが、日常は廃水が多く、館内の園芸家と太田常利は数畝の借地をして、廃水を利用して野菜を植えた。日本人の園芸家の話では、衣服を洗った石鹸水は、アルカリが少なく油分が多く、かつ希釈されているので、良い肥料となった。我々は聞いて、洗濯水でどうして野菜が植えられるのかと、大変奇怪であった。秋の収穫後、我らから分け与えられダイコン、ホーレンソウは、格別に良かった。

1945年7月末、私が物資を出荷していた時、突然、西山でいくつかの飛行機が現れ、日本の砲艦がすぐに発砲し、飛行機は低く、高さ約50メートル飛んで、税関埠頭と税務局で砲弾を投下し、瞬時に港務局は滅ぼされて平地となり、3人が死亡したが、一人は中国人会計員蔡敏超であり、一人は白ロシア人の航海士シェニツォークで、また一人は日本人で税関密輸監督船長であった。この日本人船長は元上海に住み、アメリカの飛行機がいつも上海に来て爆撃するので、彼は煙台への移動を要求して、その日の午前10時に、税関から港務局に来て世間話をしていたが、11時過ぎに死亡した。ある人は彼の死は運命から逃れなかったという。

1945年8月24日、煙台は解放され、港務局は当初の名「煙台ハーバー工程会」に回復し、賈振之が税関関長の職務に就き、またハーバー工程会の責任者となり、人員は変動はなかったが、待遇は変化した。

まもなく、アメリカの太平洋艦隊は煙台港外に艦隊を派遣し、まず一個将校クラスの軍官を上陸させ煙台人民政府と折衝(せっしょう)させた。そのアメリカ海軍軍官はまずハーバー工程会(埠頭に近かったので)に到着し外国事務庁于谷鴬との接見を待った。彼の乗ったモーターボートは二人の軽機関銃を持った兵士と、運転士が乗っていた。当時ハーバー工程会の上空には一機のアメリカ飛行機が旋回し、交渉の終結までホバリングした。艦隊と陸地は国際信号で連絡を取っているので、元の煙台山の看旗人(信号旗を見る人)は字母を収めるだけで、意味は分からず、更に発信できず、国際信号冊は英語を基本としたので、外事事務庁は私と船主隋同心、補助潜水員陳世源の三人を派遣して看旗の三人と共に仕事に当たった。

各勤務二人で、灯台に常駐し、1週間ごとに家へ一回帰ることができた。私が灯台で望遠鏡で港外を視察するとアメリカ艦船が崆峒島一帯に約50隻余り集結し、その中には甲級巡洋艦数隻、上陸用艦艇20隻、他に潜水艇と補給船、タンカーなどがあった。

1945年10月9日の朝、アメリカ艦艇は「上陸」の信号を発出し、八路軍はあらゆる応戦の準備を整えた。計らずもアメリカ艦隊は翌日慌ただしく全部が煙台を離れた。私は灯台に留まり、1946年4月になってやっと離れた。アメリカ艦艇が出発後、国民軍張立業は帆船とモーターボートを伴い崆峒島を占拠し、共産党軍によって海上を消滅し、崆峒島を回復した。

1946年、煙台ハーバー工程会は海港工務所に改められ、輸出入会社の統率(とうそつ)で、私はエンジニア間主任となり、指導員が車忠翰となった。当時投降した日本軍で機械のできるものは数人で、海港の作業所に留まり数ヶ月を過ごし、税関の外国籍人員のイタリア人とロシア人は皆海港作業所に留まり、後に彼らは皆転勤または帰国した。双十協定(1945.10.10、国民政府と中共代表会談紀要)以後、東江縦隊が煙台に来て、組織上は周世永という革命の古参(こさん)幹部が、海港工程所の港務科長に配属された。この少し前に、組織上は張倫威同志が煙台の海港工程所で事務官を担当した。解放後、怡和洋行の最初の外国船が煙台に商売をするためにやってきて、これは彼と私が一緒に乗船して交渉した。

初めて煙台が開放された2年間で、海港の整備は中断されなかったが、掻い堀り工事は停滞(ていたい)した、主要な原因は石炭の欠乏であった。工程所は港務税(通行税)の収入以外に、通常は船舶修理と引き揚げ生産に従事した。収入が不均衡な時は、赤字は輸出入会社から補填(ほてん)した。

1946年に乳山口で国民党が東北へ補給を運ぶ船が一隻座礁し、海港工程所が引き揚げに行った。また当時各単位で自助用の蒸気排出を生産したが工程所が修理を請負っ(うけおう)た。

解放前のハーバー工程会は税関と一緒で、高給の方針で誠実さを維持し、効率を向上させる政策で従業員を約束し、政治活動への参加を許可せず、労働組合の設置を許可せず、解放後に我々にはやっと政治学習があった。