「広瀬武夫」と旅順の「広瀬橋」
日露戦争後、旅順で日本海軍連合艦隊司令東郷平八郎と陸軍第三司令乃木希典大将を以て命名した街道二本、即ち東郷町(港湾街)、乃木町(得勝街)がある。これを除いて、広瀬武夫少佐の名をもって、広瀬橋「友誼橋」と命名した、一本の橋がある。大将から少佐まで階級差別はかけ離れているが、なぜ、広瀬武夫の名が命名されたのかは、次の文をご覧ください。
広瀬武夫(1868年7月16日〜1904年3月27日)は明治時代の日本帝国海軍軍人である。(1904年2月24日、日本海軍軍人である(1904年2月24日、日本海軍は初めて旅順口の公路を閉鎖4艘の船を沈没させたが、画像は「報国丸」船上に救出された兵士、前列右3番目が広瀬武夫である。)
日露戦争勃発後、広瀬武夫少佐は「閉塞(へいそく)作戦」計画を提出し、戦艦を自沈させて旅順港入口を封鎖し、敵艦を港内で作用を発揮する方法をなくさせた。閉塞に加わる危険は大きく、生き残るチャンスはほぼなかった。広瀬武夫は、作戦が勇猛で、部下思いであった。
第二次旅順閉鎖作戦中に、本来もう全身で退却していた広瀬武夫、船上の部下を救援するためにロシア軍の砲撃に遭遇して、最終的に軍艦に身を葬ったが、享年36歳であった。
(1904年3月27日)、日本海軍第二次旅順港閉鎖作戦隊員。中央は「福井丸」水夫長栗原富太郎で、兵士の手中の両手の小箱は広瀬武夫の遺骸収集箱である。)
広瀬武夫は嘗てロシアに長期留学して、旅順のロシア軍部隊には少なからず広瀬武夫の友人がいたが、彼らは広瀬武夫の遺体を発見すると、それを納棺(のうかん)回送し、そのために葬礼を挙行した。
閉塞作戦の戦功を宣揚するために、二度閉塞作戦に参加して海底に身を葬った広瀬武夫少佐は「軍神」として認められ身を中佐に進められた。
旅順日本政府は広瀬武夫を記念するため、太陽溝新市街西端の、現在基地司令部門前の橋に、広瀬橋と名付けた。1949年、中ソ友好を記念して友誼橋と改名した。1961年橋脚が沈下した。1972年に爆破の閉塞記念碑の上面の鉄鎖は広瀬武夫が指揮した沈船「福井丸」にあったものである。
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