山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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「広瀬武夫」と旅順の「広瀬橋」

日露戦争後、旅順で日本海軍連合艦隊司令東郷平八郎と陸軍第三司令乃木希典大将を以て命名した街道二本、即ち東郷町(港湾街)、乃木町(得勝街)がある。これを除いて、広瀬武夫少佐の名をもって、広瀬橋「友誼橋」と命名した、一本の橋がある。大将から少佐まで階級差別はかけ離れているが、なぜ、広瀬武夫の名が命名されたのかは、次の文をご覧ください。

広瀬武夫(1868年7月16日〜1904年3月27日)は明治時代の日本帝国海軍軍人である。(1904年2月24日、日本海軍軍人である(1904年2月24日、日本海軍は初めて旅順口の公路を閉鎖4艘の船を沈没させたが、画像は「報国丸」船上に救出された兵士、前列右3番目が広瀬武夫である。)

日露戦争勃発後、広瀬武夫少佐は「閉塞(へいそく)作戦」計画を提出し、戦艦を自沈させて旅順港入口を封鎖し、敵艦を港内で作用を発揮する方法をなくさせた。閉塞に加わる危険は大きく、生き残るチャンスはほぼなかった。広瀬武夫は、作戦が勇猛で、部下思いであった。

第二次旅順閉鎖作戦中に、本来もう全身で退却していた広瀬武夫、船上の部下を救援するためにロシア軍の砲撃に遭遇して、最終的に軍艦に身を葬ったが、享年36歳であった。

(1904年3月27日)、日本海軍第二次旅順港閉鎖作戦隊員。中央は「福井丸」水夫長栗原富太郎で、兵士の手中の両手の小箱は広瀬武夫の遺骸収集箱である。)

広瀬武夫は嘗てロシアに長期留学して、旅順のロシア軍部隊には少なからず広瀬武夫の友人がいたが、彼らは広瀬武夫の遺体を発見すると、それを納棺(のうかん)回送し、そのために葬礼を挙行した。

閉塞作戦の戦功を宣揚するために、二度閉塞作戦に参加して海底に身を葬った広瀬武夫少佐は「軍神」として認められ身を中佐に進められた。

旅順日本政府は広瀬武夫を記念するため、太陽溝新市街西端の、現在基地司令部門前の橋に、広瀬橋と名付けた。1949年、中ソ友好を記念して友誼橋と改名した。1961年橋脚が沈下した。1972年に爆破の閉塞記念碑の上面の鉄鎖は広瀬武夫が指揮した沈船「福井丸」にあったものである。