山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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カーティスと盛記洋行

20世紀初頭、煙台の多くの外国商社の指導者には、盎斯、和記、士美等があり、これと遜色(遜色)のないイギリスの商社が、盛記洋行であった。この商社の店主カーティスは煙台商業会の巨頭で、社会活動家であり、彼は働き盛りで亡くなったが、煙台の近代史上に伝説を残した。

      富商の子

盛記洋行はカーティス兄弟が開設した商社で、兄のカーティスが社長で、弟のエドウィン・シレット・カーティスは共同経営者であった。兄弟はイギリス商人の家庭の出身、祖父のジョン・ジェームズ・カーティスは、1830年代にイギリスのケント州テムズ川のほとりにあるグレーブゼンドに、幾つかの大きなホテルを開いた。父親のウィリアム・カーティスは、成年後父の家業を引き継がず、日本で新天地を切り開いた。1863年、22歳の船員ウィリアム・カーティスは、開港したばかりの日本の港湾都市である横浜に定住し、初めて西洋の野菜とハムを日本に紹介した西洋人であった。当初、ウィリアム・カーティスは横浜にキャベツ、カリフラワー、トマト、レタスなどの西洋野菜を日本にはなかった西洋野菜を植えて、横浜に住む西洋商人や宣教師に供給した。その後、彼は食品加工工場を開創し、イギリス風味のハムを生産した。(現在名声のある百年の老舗「鎌倉ハム」となった)。1869年に(フレデリック)カーティスが出生するまで、ウィリアム・カーティスは横浜でハム工場と等級の高い国際賓館を擁していた。

ウィリアム・カーティスには6人の男子、3人の女児があった。その中で(フレデリック)カーティスはウィリアム・カーティスの第5子で、盛記洋行のもう一人の経営者(エドウィン)カーティスその第6子である。

    商会巨頭

1869年、(フレデリック)カーティスは日本の横浜で生まれた。成長後、海外で仕事をするイギリス商人の習慣に従って、(フレデリック)カーティスは父親にイギリスに送り返され、サウサンプトン市とデヴォン市でイギリスの教育を受けた。その後、父親のように異郷での生計を渇望(かつぼう)した(フレデリック)カーティスはイギリスの商船で水夫となり、15年働いて船長証書を獲得した。
多年の海上漂泊生活は(フレデリック)カーティスの能力と見識を増長し、彼は父親のように事業を成就(じょうじゅ)しようと決心した。1898年、(フレデリック)カーティスは中国北方の海港都市煙台に来て、弟のエドウィン・カーティスと盛記洋行と創業した。盛記が成立後エドウィン・カーティスは洋行では仕事をせずに、美孚洋行煙台支社で仕事をした。
海湾都市煙台では、賢明なやり手のカーティスは水を得た魚のように、活気があり盛んであった。盛記洋行は現在の煙台芝罘区海関街の北口にあり、主要に輸出入貿易を経営し、またオークション、海難船の引き上げと救難、不動産業、保険と仲買(なかがい)手数料の代理業務を兼務し、また幾つかの欧米会社の工商を代理した。当時の英字新聞『芝罘日報』はいつも盛記洋行の広告を掲載した。このほか、カーティスは事業範囲を開拓し、ホテル業の進行も試みた。1906年と1907年に、カーティスは煙台で最大の西洋人を接待する海浜飯店を入手し、芝罘の東海岸にある普来司旅館も買収した。この二つのホテルは20世紀初頭には最高級の西洋式ホテルで、後者はカーティス夫人が経営を担当した。
このほか、盛記洋行はイギリスの在外郵便局(大英帝国書信館)の業務を代行したが、この項目は他の洋行が経営できない業務であった。1903年3月に、イギリスは煙台山西側の海関街北の西北角に英国客郵局を設立した。フランス、ロシア、日本、ドイツの専門郵便局とは異なり、英国の客郵局は、盛記郵局が業務を代理し、カーティスが郵便局長を兼任した。
煙台普来司旅館

    社会活動家

成功した商人であるほかに、カーティスは熱心な社会活動家で、彼は積極的に煙台の外国人居住区の多くの事物に参与した。
20世紀初頭、煙台は開港が早かったが、上海、天津などその他の開港都市と同様なの正式な外国租界を形成しなかった。外国人居住区に対して管理を進行するために、1910年1月、煙台では半自治体の社会管理機構〜華洋工部局を成立した。華洋工部局は中国人と、外国人の12人で組織され、カーティス事務長を務め、煙台の志願消防隊隊長とまた煙台の外国人居住区の球技場の管理を担当した。華洋工部局の事務の参与以外に、カーティスは膨大な秘密組織フリーメイソンのメンバーであった。フリーメイソンは宗教的な色彩を持つ兄弟的組織であり、メンバーは主に西洋各国で成功した商人と傑出した政治家であった。1874年、フリーメイソンは中国へ伝えられた。20世紀初頭、フリーメイソンは聖アンドリュー支部は海岸路アンドリュー教会に成立し、(フレデリック)カーティスは会長を担当し、煙台和記洋行のオーナーエックフォード、士美洋行社長のカペレン等が重要なメンバーであった。
カーティスは煙台での傑出した貢献により宣統皇帝は「双龍宝星」勲章を授与した。しかし天には不測の風雲があり、カーティスの事業が頂点に達した時に、意外なことが発生した。1915年5月30日午後、カーティスはモーターボートで芝罘島東口村的美孚洋行の石油倉庫の弟エドウィン・カーティスに逢いに出かけたが、途中でモーターボートに故障が出ていた動力を失い、また強風で波浪(はろう)高く、モーターボートは転覆してカーティスは、海に落ちて亡くなった、46歳であった。(フレデリック)カーティスは英気盛んな時に早世し、人々に息をつかせて、芝罘の毓璜頂外国人墓地に葬られた。カーティスが亡くなると、メリアーと四女一子が残された。長男は当時すでにオーストラリアで学習、定住しており、妻のメアリーは他の子女達と一緒に煙台を離れ、オーストラリアに行き長男に身を寄せた。
この後、盛記洋行はエドウィン・カーティスが経営管理したが、盛況することはなく、1920年代中期に、嘗て繁盛無比の盛記洋行は終に煙台から消失した。

著者 煙台 魏春洋