この古建築には一般でない人が来た
羅允康老女との談話中に、彼女は一つのあまり人の知らない事情を語ったが、それは溥儀が嘗て羅公館に来たことである。この事情は私が読んだ羅振玉を紹介した文章の中には見たことがなく、また聞いたこともなく、慎重を期すために私は二度羅允康老人と会話した。
羅公館原貌
1931年11月20日、溥儀は天津から旅順に来て、大和旅館で世論を煽る(あおる)満州国政権を建立する画策(かくさく)をした。溥儀は本来瀋陽皇宮に行き大清皇帝となることを望んでいた。この点は羅振玉の考えと一致していた。鄭孝胥の態度はただ関東司令部が彼が総理大臣となる回答を求め、君主制であるか共和制であるかについては彼は全く意見がなかった。しかも日本の関東軍は溥儀が新京(長春)に行き満州国の政権の小悪を望んだ。溥儀は従わなかった。板垣征四郎は軍部の意見、もし認めない場合は敵対態度を為すと伝達した。矛盾を緩和するために、羅振玉はまず一年間の執政(しっせい)としてして、その後改めて皇帝になることを提案し、板垣は黙認した。
溥儀は大和旅館にいた
このため、羅振玉は突然の危篤で、寝たきりとなり、溥儀は羅公館に探訪に出かけ、羅家では知らせを受けてひとしきり忙しくなり、「聖駕(皇帝来訪)」を出迎えるため、羅振玉は病床で行程を迎える状態を設置した。
一つに所有の女性は年齢に関係なく1階左の部屋に集中させ、行程を見ることを許さず、音を出すことを許さなかったなか。二つは全部の男性は老弱に限らず全員正装の長袍馬褂(中国服)に着替え、大門外から中門まで膝いて、送迎をした。三つは皇帝のために黄色のサテンで覆われた椅子を準備した。溥儀は部屋に入った時、病中の羅振玉はベットの前にかろうじてて這い出し懇ろに皇帝の恩の礼を述べるしかなかったが、羅氏の皇帝に対する愚直ちな忠誠心を知ることができる。
羅允康老女は、彼女はカーテンで塞がれ(ふさがれる)ガラスの入り口で溥儀を盗み見し、彼の歩く姿と舞台の皇帝の歩き方が全く一緒であった。この事情はどうして羅继祖の記し『私の祖父羅振玉』書中に一字も記されないのであろうか。私の考える大きな可能性は羅家の子孫が羅振玉と溥儀の間のあのことと、特に満州国と監察院院長のことに参与したことの言及を望んでいないことである。これは羅振玉が一代で文化的巨匠となった一生の中での汚点で、これは彼が子孫に残した遺憾である。溥儀は『私の半生』一書中で、個人的な偏見から幾度か、羅振玉の言及がほとんどが非難が多く賞賛が少なく、この事に言及がない。後に旅順のある老人が私に貸してくれた『満州宮廷雑記』の、書中に溥儀が羅公の館に出かけたこの事がある。
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