物乞いの女性と倒れた赤帽
羅振玉は短気で意地っ張りであるが、心優しく人を助けてあげた。
羅允康老女は、当時、羅家に物乞いの女性が来たことがあり、40歳ごろに、彼女の夫が海に出て漁をしていてふう郎に遭い遭難し、彼女には6人の子供が残された。執事の辺連山は毎日昼に食べ残した食事を彼女にやり食べさせた。時間がたって、執事は、食事が必要ならばいつでも一家だけではできないと、語った。その女性は、私は羅の旦那に会いたいと言った。執事は彼女に羅氏の旦那は家に居らず、長春に行ったけど教えた。しばらくして、羅の旦那が帰ってきた。執事はこの事情を彼に話した。羅振玉は彼女を入らせた。羅允康は深い感慨で語った。その婦人は子供を連れ部屋で跪き(ひざまずく)、懐(ふところ)にはワーワーと乳を待つ嬰児を抱っこ(だっこ)していた。冬の最中(さなか)に、綿入れの綿が全部外に露出していた。彼女は初めてどういうのが貧乏人というのかを知った。
羅振玉は、皆起きなさい、その子供の母親にどんな状況か、この子供は皆男児なのか、大きい(子)は仕事ができるのかと言った。状況を理解して、羅振玉はこれからあなたは毎月我が家の帳場で生活費を受け取り、あなたは子供を成人に育てなさい。」と語った。「1940年6月19日、羅振玉がなくなると、その女性は子供を連れて羅家に来て霊前で声をあげひどく泣き出した。羅振玉がなくなってから、羅承祖が家事を管理し、彼女と子供へ生活費を支給し続けた。後に、羅継祖が開いた病院で医療事故が発生し、羅は病院の責任者として拘留された。その物乞いの女性は子供を連れて政府の門前に行き跪いて懇願した。
羅允康の記憶の中では、まだ一つの事情があって忘れられないでいた。ある時、若い赤帽(ポーター)が墨縁堂に本を運んだが、彼は大変重い箱の本を運んで段階を上がったが、不意に頭から倒れて顔が血だらけになった。羅振玉は赤帽会社の責任者に「急いで病院に送って包帯を巻きなさい」と言った。あとで、当時は破傷風(はしょうふう)注射が打たれてなかったので、傷口は感染し、まもなくあの若い赤帽は無くなった。羅振玉はこの事を知ると、この子は死んじゃいけないのだと繰り返した。執事は、彼の慰謝料は当然赤帽会社の責任であると言った。羅振玉は、「ともあれ、彼は我が羅家のための仕事中で無くなったので、我々にも彼の家族を弔慰(ちょうい)する責任がある。」と言った。この事情は、羅継祖が書いた『我が祖父羅振玉』書中に簡単に記載している。
羅継祖が書いた『我が祖父羅振玉』書を読みと羅振玉が熱心に貧民を援助し、飢饉救済には長い由来があることを知ることができる。1917年、河北、山東、河南の幾つかの省で深刻な水害が発生し、羅振玉は物品を売り出して得た2万元を援助にとし、また篆書の4尺対の条幅(じょうふく)百枚を書き、1枚10元で売り、災害救助に充てた(あてる)。
2014年に、筆者は93歳の高齢の唐吉徳老人を訪問したが、彼は当時旅順工科大学と羅公館へ出前を担当していた。唐の記憶では、羅家の人と執事は大変善良で親しげで、ある時昼ごはん時に出前を届けると、執事は、青年よ飯食っているか。食っていないのならば、ここに素饅頭があると問いかけた。
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