露清学校(南金書院)
露清学校(ロシア清国学校)の旧跡は遼寧省大連市に位置し、今から122年前の、1900年に建てられ、市中ではその前身は遼寧第一書院〜南金書院と称している。
1773年、寧海県知事が寧海城孔子廟両院の公立学校内に南金書院を創設し、学生から前後して進士(科挙合格者)10名、文武挙人(地方官吏試験合格者)44名、各種貢生(国子監合格者)100名、秀才(地方学生合格者)119名が選出された。1894年、日清戦争で閉校した。
1900年、帝政ロシアが遼寧南部地区に侵入し、南金書院の施設を掠奪し、金州城東門外に露清学校を建立した。1904年に、ロシア軍が撤退後、先進的な地方名士曹正業などの人が伝統文化を促進するために、露清学校跡地に小学堂を設立した。1906年、日本は小学堂を官立の南金書院と改め、「皇国の道に帰順させる」殖民教育を推進した。1945年に、ソ連軍が接収管理後、兵舎に改造した。1955年、中国に移管された。
1993年3月、南金書院は大連市政府に市級保護単位に登録された、2002年1月に重点保護単位に登録されました。
1925年、康有為が金州の孔子廟の丁祭(春秋の丁=丁「ひのと」の日の例祭)に参加した時、南京書院で「これに気骨ある祖先、精神教育はもうほろんだ」と民族の喊声(わめき声)を上げた。
露清学校は大連地区で最初に西洋教育を実践した公立学校であり、旧跡は既に当時の南金書院の足跡はないが、しかしながら書院が嘗て金州の地に撒き散らした民族の文化人の血統は永遠に受け継がれている。
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