旅順には一棟の二度建築されたヨーロッパ式の旧建築がある
下の旧写真の丸印をご覧になると、写真にはゴシック様式の大山花の旧建築がある。これは江西路77号に位置する、1898年に建てられたプーシキン小学校である。これは帝政ロシアが旅順大連地区で創立した最初の小学校である。創設当時は「プーシキン小学」と称し、1900年には「旅順市プーシキン小学」と改称した。日本の植民当時時期には旅順民生(人民生活)役所と警察署がここに設けられた。
我々はプーシキン小学の校舎旧跡を写真の中から切り抜いたのが、下のこの写真である。この建築の規模と、その教室の窓から考えると、四つのクラスの学生を収容できる。
この建築は最初の建築は、明確な時期の記載がない。この学校の増築かもしれない。下図と原図を対比すると、明らかに長さが加えられている。拡幅部分の屋根は陸屋根(平屋根)である。
下の写真は。はっきり見える一棟の平屋建築で、屋上に日本の旭日旗が掲げられている。これは最初の日本関東都督府民生部が設けた民生役所の事務所である。
この建築の二度目の増築は日本の植民統治時期で、平屋建築を二階建に改めた。どうして平屋を二階建としたのか。原因は大変簡単で、はじめ民生役所のもとに警察科が設けられたが、後に警察科が警察署に昇格したため、警察署の事務職員が民生役所の人員より多く、事務面積が明らかに用に足りず、そこで元の建築に一階を加えたのである。
この建築の西北面は警察署事務所で、今でも警察署の標示がある。東南には民生役所事務の人・民政役所の標示が建築前の上に標示されている。
ロシア人が旅順地区に建設した旅順私立プーシキン小学は、後に日本の植民統治時期の民生役所と警察署に変更された。1945年にソ連軍により接収管理され、1955年に海軍某部の招待所となった。この建築は旅順口の移り変わりの歴史の検証人というべきである。これは、A・ステパノフの書いた『旅順口』中で、何度もこの建築を言及し、多くの人物がここから登場している。特別なのはこの建築の地下室で、大変神秘的な感覚だが、地下室がまだあるかどうかわからないが、時間を見つけて実地考察したい。
下の写真は、拡張、果層二度の拡幅建設後のプーシキン小学旧跡の現状である。旅順の多くの旧建築で、この建築は相当間違えなく保護されている。
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