山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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天津租界往事--仏教組織

日本の仏教の淵源(えんげん)は浅くはない。紀元552年、百済の聖明王は日本の欽明天皇に一体の仏像と若干の経典を送ったが、この事件は仏教が日本に伝播した始まりと見られている。

それ以来、仏教が日本で連綿不断の信仰伝承を開始し、これはその中でも外来の教義思想の伝入と当地の特色ある宗派の建立を経歴した。日本人の習慣により、仏教の宗派は死後の葬儀と追善(ついぜん)供養の法要の行う責任を求められるので、日本人が居住する場所には、全て仏教僧侶と寺院がある。明治維新以後、国家の宗教政策の制定に基づき、日本の仏教はある程度の標準化と統合を経て、大規模に対外への伝播を開始した。日本の対外拡張の過程で早くから始まった根拠地として、天津の日本租界では、自然と日本仏教の宗派の影響が少なからずあった。

日本の仏教宗派が天津で伝播した濫觴は日本の宗教拡張の急先鋒(きゅうせんぽう)〜浄土真宗である。浄土真宗は完全に日本本土で創立成長し、(真宗の)僧(一般に禁忌とされる)妻帯と生臭物(なまぐさもの)を摂る(とる)ことができ、ただ一心に念仏すれば、何人も極楽へ往生できると宣伝し、鎌倉時代から数百年を経過した父子伝承(ふしでんしょう)から、その法主は根底の重厚な宗教貴族で、皇室と縁戚となり、教派も日本最大の教えとなり、客観的にも十分に日本宗教の特徴、即ち世俗化、易行(いぎょう)(簡単な仏道修行)化、実益化している。1903年に、浄土真宗大谷派が天津の日本租界に導入されたが、その伝播は自発的ではなく、指定された海外布教師の進行したもので、計画性と組織性を具えていた。日本の本土と同様に、真宗は天津在住の日本人が信仰する最大の教派で、かつ大部分の在住日本人の「死後」の仏事を担っていたが、その宗教施設の名は浄土真宗大谷派本願寺天津別院といい、日本租界福島街44番に位置した。ここには浄土真宗の天津での宗教施設であるばかりでなく、また居留民団が建設の支出を主導する一般在住民の共同葬祭場と墓地であるほかに、天津に在る日本仏教界の統合組織〜天津仏教連合会もあった。


天津在住日本人の増加に従って、多くの日本本土の伝統宗教と抗争の勢いを形成する進攻宗教も川を泳ぐフナのように次々と日本租界に伝えられた。これは絶対部分を占拠する在住日本人が信仰する比重のある仏教宗派から言えば、一つの脅威であった。これによって、日本租界の発展が基本的に完備した1936年4月、天津仏教連合会は福島街に本願寺を成立した。組成したメンバーは当時日本租界で設立した6ヶ寺である。即浄土真宗大谷派本願寺天津別院(東本願寺)、天津曹洞宗観音寺、日蓮宗妙法寺、真言宗高野山金剛寺、浄土真宗本願寺(西本願寺)、浄土宗知恩院天津寺。この組織が成立した目的は新興宗教の神道を防止するほかに、天津の日本仏教宗派の統合であり、各宗派間の交流、共同布教を強化することである。更に、抗日戦争の全面勃発と天津陥落に従い、中国人仏教徒の取り入れを強化した。天津仏教連合会は活動組織の方面で毎月の当番制を実行し、各種の法会と各種の随従形式の慈善活動を挙行した。蘆溝橋事件後、各寺院の従軍布教僧の割合はにわかに増加し、彼らは元の駐在した寺僧に本宗派に付随した侵略政策で変化した対中国観念を伝播し、あるいはいっそ元の寺院の僧に代わって布教し、甚だ(はなはだ)至ってはいわゆる「菩叉一体」を宣伝し、直接戦場で殺戮(さつりく)をしたが、例えば1937年の天津陥落の戦闘中には、西本願寺の布教僧が直接参戦した。このような形成のもと、天津仏教連合会も武運長久の祈願、軍隊慰問、英霊奉安、興亜祭などの軍国主義の色彩を具有し更に濃厚な活動が多くなった。


1939年の天津の洪水で、木板に食物や水を載せて運ぶ人。彼の後は浄土真宗本派本願寺(西本願寺)である。東本願寺と異なるのは、西本願寺には山号「龍谷山」があり、そのためその関連する事業には、写真の大門の左に見えるように、多くの「龍谷」の字句を具えている。日本の京都の有名な学校龍谷大学も、西本願寺の学寮の伝承から来ている。


上下の写真とこの写真の門柱と内部建築の壁面を比べると、相似していませか。天津西本願寺は宮島街40号2番に位置する。しかし宮島街40号全体は、今日の鞍山道の「福縁里」と呼ばれる街区が即ちこれである(図はmap.baidu 、位置は完全には対応していない)。


西本願寺内景

これは寺院僧侶の宗教組織であるが、それでは、信徒には自身の組織はないのか。総じて言えば、各宗派に属する各寺には各自の檀家組織があり、これらの人は実力の十分な総代を決出して、一緒に寺院の財務状態と宗教事務の処理助けます。このほか、天津居留日本人には仏教婦人会があり、それぞれ各宗派寺院に属したが、そのうち最大規模の二つは1910年に成立した天津婦人法話会と1926年に成立した天津村婦人会である。このニ団体は本願寺と張園の背後の春日街の日蓮宗妙法寺に属し、主要な目的は婦人信徒を取り込み、婦人信徒の交流と「婦人道徳の涵養」を促進することである。当然、このような組織は日本軍の全面中国侵入時期に入った後も、正常な宗教活動から「戦士の慰問」、「後方での国家奉仕」などの軍国主義活動へ傾斜した。


これら在外日本人の仏教組織は、租界都市に建立され、内地の信徒との関係を生み出さねばならず、あの次第に戦争の泥沼(どろぬま)に陥った時代に、この種の関係は愈愈紆余曲折した。第二次世界大戦期間の日本仏教の教理と思想のために、国家政策で国家主義、軍国主義を強化する過程の中で、次第にファッション(国家主義)化の傾向があった。例を挙げると、天津仏教連合会旗下の高野山金剛寺は、実際にも寺院形式の存在の特殊な仏教組織で、総称は日中密教研究会高野山金剛寺で、明石街18号に位置した。これは1920年から日本側の画作となり、自ら正法(仏教の正しい教え)として、「中国密教の復興」、「仏教から日中親善を促進」しようとする組織であった。1932年3月、当寺は天津に建立されたが、そのほかの在住日本人仏教組織と異なるのは、当寺の取り巻きの多くは中国人で、150戸の中国の信徒以外には、檀家総代には赫赫とした高凌蔚、王揖唐、曹汝霖、陸宗輿、孫潤宇などの人があり、抗日戦争が勃発前には彼らはあるいは「仏教施設」として日本の高野山へ遊覧しまた本や記録を記したが、天津陥落後は、彼らは一変して、政府の要人となり、公然と日本人のために事を為した。


しかも前文で言及した天津仏教連合会の、その下(もと)にある各寺も早々にそれぞれの日本語学校を立ち上げ、軍国主義と宗教思想を露骨に宣伝する教科書を発行し、地元の人に学習するよう勧誘(かんゆう)した。連合会の日本人僧侶もまた“仏教親善”に力を注ぎ、天津の居士林などに赴いて中国の僧侶や信徒に対し“共同勤行”を行い、“興亜”・“共栄”・“にっか戦役の英霊への回方”など、これらの法理と法事を宣伝した。

天津租界時代の在留邦人仏教組織は宗教と銘打ち、実際は甚だしく捻じ曲げた教義と日本の中国侵攻に対しての屁理屈を提示し、地元である天津の仏教徒から裏切り者を集めて引き抜き、奴隷化した。当然、正常な仏教信仰の活動に重大な損害をもたらし、また正信(正しい信仰)を守り通していた仏教徒を理不尽に迫害した。抗戦に勝利し天津を取り戻した後、在留邦人の寺院や寺の不動産(財産)は次々と政府によって差し押さえられて没収された。上文で述べたこれらの在留邦人仏教組織もまた、在留していた日本人が送還されるにつれて雲散霧消(うんさむしょう)した。正信の、地元天津の仏教信仰はついに頭上の暗雲を払い除け、再び涅槃より生まれ変わったのだ。