山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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聖ニコラス教会遺跡は旅順の何処にあるのか

2022年5月22日の早朝、事前の予約通り、我ら一行4人は港湾街一帯に行ってニコラス教会の旧跡を探した。格言に、貴人は出門(しゅつもん)して風雨多しという。そぼ降る雨は、今日はきっと収穫があると予告していた。

聖ニコラス教会は、帝政ロシアがダリニ特別市(大連)に創建した後に、軍に付随する建築部署(ぶしょ)がポート・アーサー(旅順口)作られ、当時旅順に居住するハリストス正教会教徒のために宗教服務として提供された。全体は木質材料で建てられ、様式は折衷(せっちゅう)主義に属す。当時多くの新聞や、葉書にこの教会の写真が掲載され、後に多くの帰国したロシア人の回想録中にもこの教会が言及されて、旅順の軍人教会以外に、ニコラス教会は当時大変有名であった。


このニ枚の旧写真を仔細に見ると、同一の教会であるが、上部の造形が異なっている。第一枚は建設の初め、第二枚目は完成後の様子である。


1904年の冬、日本軍が旅順の戦略要地203高地を攻略した後、山上に重砲観測所を建立し、砲兵にポートアーサー内のロシア軍艦隊を砲撃するように指揮した。この教会はポートアーサーに近い高地上にあったため、一発の砲弾がこの教会に落ちた。幸運なことに、この木造教会はこれが原因で徹底的には破壊されなかった。


日露戦争の終結後、日本はこの教会を旅順キリスト教青年会(YMCA)に引き渡して使用した。1920年代になり、日本側は鯖江街を建設することを理由として、この教会を取り除いた。この教会は長江路から100メートルあまり離れていて、道路建設と名何ら関係がない。この時の後話。長年が経った。この教会の具体的な場所は始終異なって語られた。ならばどんな方法で教会の元の位置を探すことができるであろうか。

最も良い方法は元踊り存在する建築を探して参考にすることである。下図をご覧になると、この彩色画は旅順の近代史を研究する人が皆知っていて、画面中の主要建築は港湾街45号で、当時ニコラス大通りに在った帝政ロシアの極東総督府の所在地である。建築の東南方向に露出する二つの塔型の建築物をご覧になると、それが聖ニコラス教会である。教会の所在する位置は、旅順旧市街の人が良く知っている二場地内にある。


我々は港湾街45号を巡り、ニ場地駐屯某部の正面前に到来したが、二名の警戒性の高い警備兵に留められ、厳粛に我々を警戒線外に退出するよう要求した。私は二人の警備兵に、ここは日本が統治時期に、旅順地区が建立した最初の日本の高等尋常小学校の所在地であると訴えた。歴史を講じることで緊張の気分を緩和することができた。地形を根拠に判断すると、我々4人は、聖ニコラス教会の元の位置は、下写真の当時第一高等尋常学校の教育棟で、現在の軍隊の兵舎前約50メートルの所である。このように、我々には、日本の国民当局は教会を取り壊したのは、根本的には長江路を修築することではなく、日本の小学校内に、異国の教会が存在することを許さなかったなかことが、終にはっきりした。教会の遺跡は現在規模の大きくない三階建ての黄色い独立した建物で、本当はカメラで写したかったが、警備兵の面倒、また自分の面倒も考慮して、取りやめた。


教会の元位置を確定するために、我々はそれぞれまじめに準備をした。旅順の市民も自費で印刷会社で数枚の旧写真を印刷し、旅順港史専門家と現場へ行き調査した。

今回の実地観察は収穫が大変多く、聖ニコラス教会の正確な位置を見つけただけでなく、港湾街45号には根本的には海軍役所がなかったという証拠の所在も発見した。今回の実地調査の活動を記念するために、通行した中年の人に、我らの記念写真を撮って貰った。正午には、私はみんなに通橋米線(雲南の煮込み米ソーメン)をご馳走した。実地調査に参加した4人は、旅順にはまだ多くの未解決の謎が考証と発見を待っていることを、一致して認めた。

著者 旅順 李華家