泰山神啓蹕回鑾図
岱廟「天貺殿」北宋1009年創建。中国古代三大宮殿の一つ。あと二つは北京故宮の太和殿、曲阜孔廟の大成殿。典型的な九五様式の宮殿建築です。
岱廟の主要な建物として、天貺殿は歴史的に多くの名前を持っていたし、宋代には「嘉寧殿」、元代には「仁安殿」、明清両代には「峻極殿」と呼ばれ、民国には「天貺殿」と改称されました。「貺」とは天から授けられたと言う意味で、即ち本堂が神様から授けられたと言う意味です。地元では「大殿」と呼ぶのが通例しています。
此処も有名な史実と関係があります。北宋の真宗が契丹の遼との講和条約である澶淵の盟を結ぶきっかけとなったのは泰山からもたらされた天書に和を結ぶように記されていたとされていて、真宗はその天書に謝意を表す為泰山で封禅儀式を行い岱廟にこの宮殿を建てました。天書を受けた日が6月6日であり天貺節だったためこの名前が付けられた説もあります。
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主殿の殿内の壁三面に描かれた高さ3.3米、長さ62米の大きな壁画「泰山神啓蹕回鑾図」と言い、泰山の神様が出巡、回鑾する際盛んな様子を描いたもので、絵の中で四輪六馬玉輅に乗ったのは泰山神で、その前には本物の延禧真人と炳霊王が護衛し、文武百官は前後に呼び寄せ、護衛隊は洋洋に見えた。画面には車馬の盛んな往来、点在する樹木などに千姿万態の人物697人を配した大作である。壁画の東面は境界線で、つまり、向かって右側が出巡、西面、同じ左側が回鑾の様子を描いている。宋代の遺作と伝えられている。実は、この絵は北宋時代に描かれたとされていて、部分的に清朝の手(修復)が入っているようです。絵の下部分の人物と宮殿と石橋の部分は当初(北宋時代)だと言っているようです。このような当初の部分は中国古典的絵画技法(三遠技法)見下ろす視点俯瞰「深遠」、見上げる視点抑視「高遠」、水平の視点平視点「平遠」言えますが。(三遠の法のように一枚の絵の中に複数の視点から見た風景を入れ込むことが普通です。)絵の上の方の背景の山や森の木々の一部は異なっていて西洋の遠近表現が少し盛り込まれているようです。焦点が散らばっているような空間表現で描かれているらしいです。なぜなら、西洋の絵画技法は明朝末期から清朝初に中国に入って来たからです。その時代の修復者の描写に置き換えられている可能性があるからです。それで下の主題の人物周辺と、上の方の背景は異なる様式で描かれていると言っているようです。しかし、それでも、専門家はそれが少なくとも「宋王朝の壁画の原型」と保存し、まだ「偉大な洗練された作品」であると信じています。
この壁画は道教の主題であるが、泰山神のイメージは実際には封建皇帝の化身であり、人間社会の実生活の再現である。この絵は皇帝の傲慢さを生き生きと描写している一方で、文官であれ武官であれ、他の役人は殆ど同じように独自の表情を持っており、多くのキャラクターは、小さな回転と視線で互いに響き合って、作品の全体的な感覚を強化し、画家がキャラクターの造型に並外れた把握能力を持っていることがわかります。
「泰山神啓蹕回鑾図」が道教壁画として貴重な素晴らしいものです。長さ62米、高さ3.3米の巨大な壁画が描かれ、泰山の神が巡視に出かける様子が描かれています。宋代の作品で真宗の封禅の様子がモチーフになっていると言われています。当時の封禅の様子をうかがい知ることができます。かなり細かく描かれているので。
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