山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
当社の日本語WECHAT ID:18660355510。当社の日本語対応WECHAT IDを追加し、チャットでお問い合わせも可能です。

中国史上最強の女海賊!娼婦から海の女王になり、犯罪者帝国を支配し、イギリス海軍を撃退した!

19世紀初頭と言えば、中国国内でも世界的にも比較的封建的な国家で、現代人にとってはあまりにも遠い時代である。

特に女性はそうであったが、そのような時代に、卑しい(いやしい)出自の中国人女性が、海上に海賊帝国を築いたのである。

海賊の囚われの娼婦から、知恵と機転と勇気で力をつけ、海賊の夫と美しい養子を助手に、並外れ(なみはずれる)た軍事力と商業力で海を支配し、未曾有(みぞう)の大船団を指揮したのです。

最盛期には大小約1,800隻、総勢7〜8万人の海賊を指揮し、史上最も成功した海賊船団として知られる。

彼女の水軍の実力は、清国、イギリス、プルトガルの水軍でさえも避けなければならないほどで、彼女は海の女王ー石陽であり、より一般的に「鄭一嫂」と言う称呼で知られていた。

映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズに登場する海賊王「レディ・チン」としても知られている。


花船を降りて、盗賊船に乗る

石陽、旧姓香姑は1775年に広州で生まれた海辺の漁家の少女で、世の中の苦難と家の貧しさから娼婦として売り飛ばされ、妓楼で身体を売ることを余儀なくされてきた。

清朝広東花船絵葉書
清朝の嘉慶年間、ヨーロッパの商人や冒険家たちは貿易制限を突破するために、中国沿岸で必死に密貿易の限界を試していた。
清国政府は「鎖国」を敷き、漁民の漁業や商売を制限し、多くの漁民は生活のために犯罪を犯したり、流刑になったりしなければならず、次第に海賊となり商船や人を焼き殺すようになったのです。

内外の問題を抱え、清国の陸海軍の弱体化により密輸業者に対抗することができず、沿岸部では密輸や海賊が横行する結果となった。

1801年、石陽が26歳の時、鄭一と言う海賊に率いられた強力な海賊団が石陽の娼館を襲撃した。


鄭一は非常に強力な男だった。彼は非常に強力な「海賊の家族」から来た、200年前からはこれをやっている。彼は売春婦の石陽、自分の船に彼女を取るだけでなく、彼女と結婚するために取った。

他の人からみれば、殺人海賊の「誘い」に震え上がるだろうが、石陽はこれを絶好のチャンスと考える。

「プロポーズ」に同意して「鄭一の妻」となり、やがて海賊団の中で夫と同じ発言権や支配権を求めて争うようになる。


しかし、当時、鄭家の中で最も人気のある海賊は鄭一ではなく、従兄の鄭七だった。
鄭七の船は兵は強く、実力はあるが、ある港を占領して調子に乗って、民衆を虐め、怒りを買って、最後には港内の民衆と港外の軍隊とで挟み撃ちして、彼を死に追いやった。

彼が死に、鄭家では最も強力な艦隊が頭領をなしていたが、これを機に、鄭一は素早く自分の力と家門の威光を頼りに、鄭七の残した艦隊を引き継いだ。

鄭一の艦隊は侮れ(あなどる)なかったが、沿海では五組の海賊が対抗していて、これらの海賊たちは互いに競争し、摩擦もあった。
しかし石陽は皆に共通の敵がいること、内部(海賊達)で争うより外部と団結した方が良いことをはっきりと見抜いていたのだ。


石陽作戦時の挿絵

こうして、鄭一の「紅旗幫」を始めとする広島の海賊たちは同盟を結び、その後六年間で、紅旗幫の船団はニ00隻から六00隻以上に増え、最終的には一七○○隻から一八○○隻以上にまで膨れ上がった。

海沿いの海賊は勢力を増し、朝廷の手に負えないほどにまで拡大していた。

清朝の水師と海賊達の戦いの画面

美しい養子、母の上位性を推戴する

紅旗幫が日々向上して発展している時に、1807年、首領の鄭一が突然の台風事故で亡くなった。

紅旗幫はまた指導者を失い、これはどうすべきなのか。


慣例によると、新しい上位の首領は当然鄭家の子や甥から選ぶべきであるが、ただし⋯⋯鄭一の未亡人石陽は彼らのこのチャンスを与えなかった。

彼女からはやはりこの海賊集団を掌握していた。

だが彼女も甘くはなく、この狼や虎のような海賊団が女性一人を簡単に上位にさせると考え、彼女は自分が最高の地位に安座するには必要であった。

この助かった人が、彼女と鄭一の養子〜張保であった。


張保、資料の記載してによると、彼は美しく、聡明でまた狂猛さを失わない若者であった。
彼は本来漁師の子で、15歳の時父親と漁をしていると、不幸なことは、顔が抜きんでていたので、海賊の頭領鄭一の目に留まり、直接彼を船に捕まえて、張保を身の回りの小間使いに置いた。
張保の性格は聡慧で、話がうまく、何より⋯⋯見た目が良かった。


張保元型の海賊
顔面コンプレックスの鄭一に好かれたので、張保が頭目に昇格するのに時間は関わらず、また妻の石陽もまた張保を養子にした。
事実は証明していて、張保は美しい容姿をしているだけでなく、彼は脳力も群を抜き、石陽と容姿が似てるばかりでなく感情もつながりがあるようで、鄭一が在世の頃、張保と養母石陽はもう大変親密であったと言われている。

つまり、彼らは鄭一の死後そうとう堅固な陣営を結成し、石陽は紅旗幫の第一の席次となり、これがまた紅旗幫の本当の全盛期を開始した。


石陽は終に幕後に隠れることなくできるようになったため、本当に手足を伸ばして、自分の思維でこの海賊集団を導いた。張保は彼女の手中の最も鋭利(えいり)な刀であった。


海賊の女王は、人は噂を聞くだけで肝を潰した

石陽の管理は容赦がなく、筋道が通り、極道の海賊集団にとって、首領は全てから容赦なく、石陽は完全にこの種の強硬な手段を具えていた。

彼女はしつけに厳格で、数万人の凶残な海賊団を従順に管理するのは、彼女の落雷のような手段は想像に難しくなかった。


彼女の船では、規定が大変厳しく、文章に記されている:
若し命令に服従しなけれが、首をはねて、死体は海へ投げ込む。
若し組織が戦利品を分配している時に、何らかのものを盗んだら同上である。
若し思うままに婦女を暴行すれば、結果は同上である。
若し仕事中に誰かと関係を持ったら、たとえ自発的であっても同上である。
若し許しもなく勝手に上陸したら、同上である⋯⋯。

海賊のようなこの種の犯罪組織では、通常の人に比べて更に厳しい管理方式が加えられ、当然、彼らの心に甘んじて忠誠を尽くさせるには、恩恵と威光で、更に良い「福利」があるべきである。

これもまた石陽の凄い所で、彼女は冷酷で残忍な首領であるばかりでなく、策略は、軍事戦略に限らず商業発展の方面にもあり、紅旗幫はどのように大きくなるのかは、絵に竹を描くように成算があった。

簡単に言えば、私と一緒ならば勝ち戦で、肉を食えるのである。
この二者は相互に補完し合い、彼女の麾下(きか)には張保と始めとする多数の精鋭があり、いつも沿海の町や村、商船を掠奪し、通行料を恐喝した。

お金があれば、彼女は大量の火器を購入して船に備え、勢力を拡張し、紅旗幫の威勢はますます強力となり、装備はますます精良となり、終に多くの海賊が「名を慕って(したう)」加入し、全盛期には7万人余りいたと言い、恥ずべきことのない海上の覇者であった。



これほど多くの人を管理するのは容易ではなく、多大な武力の威嚇と金銭の誘惑だけでなく、全て人心が浮動する時があり、石陽もこの一点を粗忽にしなかった。
彼女は当時の人日の迷信的な特質を理由し、張保が常々よしみを通じた道士と、衆前で自分の思う結果を占うことで、海賊たちに更に言いなりにさせた。

実力はやはり堅実な道理である

石陽は紅旗幫を仕切ったのは三年間で、部下は沿海地区に横行し、悪名は遠く伝わり、張保は紅旗幫の一船隊を率いて、更に向かう所を靡かせた(なびかせる)。
朝廷に水軍が彼らと行き当っても、抵抗することはなかった。
兵力が足りないばかりでなく、武器も多くなく、また海上の邪魔も防ぎようがなかった

時には、海賊は官船を偽装して沿海を巡視し、上陸しては焼殺掠奪し、民衆は誰もが自分に危険があると、官船に対して警戒心を持ち、本物の官船で来ても、皆が集まって戦闘となり、騒ぎが多く混乱した。


このような混乱は他にもあったが、僅か三年で紅旗幫の発展は朝廷の手に負えなくなり、やむなく「外国からの援助」を求めた。
ポルトガル人とイギリス人は朝廷の討伐に協力することに同意したが、これもことごとく打ちのめされた(うちのめす)。
石陽と張保は、ポルトガル艦隊に包囲されていたが、艦隊の一隻を拿捕し、七二人を殺して逃亡した。

大砲二十門を備えたイギリス艦隊も敗北し、船人も捕獲され、一時はアヘン貿易を中止させたこともあり、イギリス軍を驚かせた。

一時、紅旗幫は海上で敵なしとなかったが、血を舐める(なめる)ような商売では、危機は至る所にあった。

まず外部の危機にあって、新任の両広総督百齢は討匪(とうひ)の上新しい考えを出した。禁輸政策、即ち船を海に出すことを禁じ、塩を陸運に回すことをし、海賊に掠奪するものがないようにし、その食糧を断つことであった。彼らがじっとしていられなくなった。沿海の村や町に掠奪に来た時、一方では民衆に自己防衛の訓練を促す、一方では他方の部隊はその隙に乗じて袋の中の鼠となった紅旗幫を捕らえた。
やはり紅旗幫は兵を分けて村や町に出て焼き討ちし掠奪し、朝廷の水軍は待っていたのだが、損害は甚大であったにも関わらず、なんとかその内の一つの張保率いる艦隊を抑えた。

激流勇退、隠された力とその名

張保は恐れて、近くの紅旗幫門下の別の艦隊に救援の手紙を送ったが、その艦隊は助けに来るどころか、首領の郭婆帯はそのまま朝廷に降伏してしまった。

郭婆帯は降伏すると、直接に朝廷水軍の討伐部隊に加わり、そのまま官職に封じられた。
結局のところ、人は安定を求めるものだから、世の中が苦しくなければ、血を舐めたり、殴り殺したりするような道に進まない人も多いだろう。
郭婆帯はの待遇は、石陽の心をも活性化させた。彼女の部下の規模は、郭婆帯の十倍以上になっていた。
自分が犯した罪の方が大きいので、朝廷が受け入れてくれないのではないかと心配したが、噂をさせて、朝廷の反応を探った。

石陽は非常に綿密な計画を持っていた。彼女の目的は明確だった。朝廷の許可を得て、合法的に大金を稼ぐことだった。そのため、海賊勢力の一部を温存しなければならず、最初は80隻の船と5000人の海賊を自分のために残すことを要求した。

しかし朝廷は、一兵も投じずに紅旗幫の強大な艦隊を接収し、石陽に多く「兵力」を残したくなかったため、最初の交渉は決裂した。

石陽は自分が優勢にあることを知っていて、彼女海賊集団の実力の強さは、彼女にできるだけ多くの条件をつけることができたが、当然朝廷も火の油を減らすことなく(手を抜かず)、石陽は仮に一歩引いて、朝廷に彼らの降伏をし、張保個人の艦隊に40隻の塩船の増加を要求した。

表面上は一歩後退しているが、実は上陸後に大いに財産を確保するための十分な準備をした。これは彼女の今回の交渉で最大の成就(じょうじゅ)ではないが、重要なのは、彼女は彼らが降伏しても、後日に一定の権力を掌握できるよう、張保の軍中での一席を求めたのである。
石陽と朝廷はそれぞれ自分の小さなな算盤での思惑があり、相互の往来を長い間探索した。

1810年、終に投降の呼びかけの情勢が最終決定した。


石陽は張保と彼女と直属の一万人余りの海賊と共に投降し、支障なく罪を許され、張保と結婚も許可する、皇帝の命を得た。


当時、波乱万丈を経た石陽はやっと35歳、張保は僅か27歳で、彼ら二人の結婚の時には広東広西両省の総督を媒酌(ばいしゃく)として、結婚後生まれた子どもは張玉麟と言った。

両人の「上陸」後の生活は十分順調であったはずで、軍位を授けられ、また私設艦隊の保留地も承認された。

彼はずっと軍中で匪賊討伐を担当し、能力はここで十分に突出し、軍功でしばしば昇進し最後は総兵に昇るはずであったが、朝廷の家臣の反対で取りやめとなり、彼の出身は終始同僚に見下され、39歳で任務上に亡くなった。
二番目の夫が亡くなっても、石陽は依然として血気(けっき)盛んで、話によるとマカオに引っ越し、マカオでカジノを形成しまた塩業にも携わり、蓄財は少なくなかったという。
一部の報道では「金の盥で手を洗(悪事から足を洗う)」って30年後に、アヘン戦争が勃発した時、彼女は積極的に抗戦し、イギリス軍を攻撃するために画策(かくさく)した。

結局、波乱万丈の海賊生活終結後、彼女は豊かな生活を長くして、平静で富裕なまま1844年に亡くなった。享年69歳である。

石陽の一生を回顧すると、実に彼女が独自に海賊集団を掌握した時間は三年に過ぎなかったが、この三年は、既に彼女を歴史上最も成功した海賊の一人とするのに十分である。彼女の雷のような手腕と人に抜きん出た頭脳は当時の人を恐懼(きょうく)させ、また後世の人を震撼させた。悪党の首領として、彼女は確実に多くの悪事をして、この一点は反論の余地がないが、イギリスの作家リヤ・リナ(Ria Lina)が言うように、このような映画中にしかいないような人物が、歴史上の真実に惣菜(そうざい)していたのを知ったことは、それ自体人を興奮させる事情である。

彼女は一つの深い泥沼(どろぬま)の女郎から着実に海賊の女王となり、最後は完全に引退して、長寿を全うした。このような経歴は本当に伝説的である。