結婚34年の同居はベッドを共にせず、夫は彼女のために方言を覚えるのに、胃痛となったが、蘇雪林は一杯のスープさえ運んでこなかった。
才女蘇雪林は、夫と結婚して34年になるが同居してもベッドを共にしなかった。
夫は1か月をかけて彼女の田舎方言を覚え、義母の細心の注意を払っていたのに、(夫が)病気の時、蘇雪林は「私は新女性なので、あなたにスープを作って飲ますことはできません。」と言った。
蘇雪林は民国の才女で魯迅の学生であった。
しかし、魯迅が無くなると、彼女は恩師への誹謗(ひぼう)を公言し、彼を「辛辣残酷な記録係で、陰険無比で、人格も卑劣で比べようもないつまらない人である」と評価した。
人生の大半を魯迅を罵ることの、主要な原因は自分の結婚が不幸であったからである。
蘇雪林は旧式の家庭に生まれ、祖父は県知事で箱入り娘であった。そのため、蘇雪林も幼少から「良妻賢母」となるように教育された。
しかし、蘇雪林は元々反抗的な性格であった。
1897年に出生した彼女は、4歳で纏足強制された。
彼女の兄達は学堂へ読み書きに行くことができたが、彼女だけはできなかったので、15歳になった時、彼女は自殺で強要したので、ようやく安慶の新式女子学堂で学ぶことができた。
小さな頃、彼女は兄達の教本をこっそり読んだが、学校へ入って学ぶようになると、彼女は更に努力した。
21歳のこの年、彼女は優秀な成績で卒業し、学校に残り教育する資格を得た。
23歳のこの年、蘇雪林は北京女子高等師範学校に考査入学したが、彼女の祖母は彼女が人前に出て勉強することを許さなかったなか。幸いなことに、彼女の母親はこっそりと自分の持参金の銀40元を、彼女に差し入れた。
その後、蘇雪林は大学で研究し、また外国へ留学した。
彼女の結婚も、典型的な旧式の結婚であった。
16歳の時、彼女は父母により、商家の出身で、ずば抜けた才能で、留学をして、マサチューセッツ工科大学で学んでいた相手と婚約させられた。
蘇雪林と婚約した男性は、張宝齢という。
彼は典型的な理工系の男子であったが、蘇雪林は典型的な文学系であった。二人は性分が合わず、蘇雪林もずっと父母に反抗していたが、29歳になって、母親が危篤となり、母親の心配に耐えかね、婚約に従って張宝齢と結婚した。
張宝齢は良い男性だったと、言わざるを得ない。
彼は言葉巧みなロマンスを知らなかったが、始終実際の行動で妻を守っていた。
彼と蘇雪林は同地方の人間ではなかったが、彼はたったの一ヶ月で、蘇雪林の田舎の方言を覚えて、その後、細やかに危篤の義母の看病をした。
張宝齢も才人で、彼は初め東呉大学で教授し、後に武漢大学に移った。
彼はまた才能が有り、荒地を開墾し作物を植え、詩を読み絵を描いたりと色々精通していた。
張宝齢の家は大変裕福であったので、彼と一緒に生活した蘇雪林は、衣食住の心配がなかった。
だが蘇雪林は不満足であった。
彼女が期待した意中の人は、徐志摩のような、浪漫と熱烈な男性で、美辞麗句で自分の機嫌を取る男性を好んだ。
しかし張宝齢は違っていた。
蘇雪林が美しい花の甘い時を求めても、張宝齢はいつも彼女に科学の美しい植物図鑑を挙げた。
蘇雪林が月が丸いわねと感慨している時に、張宝齢は「コンパスが描くほど丸い円はないよ。」と言葉を継いだ。
蘇雪林はこのような無関心に飽き飽きしていたが、彼女は実際夫の良さを享受していなかったことに、気が付いていなかった。
例えば、彼女は自分が新しいタイプの女性であると自負していたので、家事を拒否したので、家庭内の事柄は全て張宝齢がやっていた。
蘇雪林は夫は無関心で、会話を好まないと思っていたが、実際には、張宝齢は武漢大学で三年教授し、大変学生に好まれ、評判も間違えなかった。
蘇雪林はキリスト教に反対であったが、張宝齢は逆に「信仰は人間の自由であり、人が文学や科学を自由に研究するのと、全く同等の特別な嗜好である。必要もなくまたそれに反対する理由もない。
ある時張宝齢は胃痛になり、一口のスープをのみたくなったが、この時家には蘇雪林しかいなかった。
しかし蘇雪林は自分は新しいタイプの女性であるから、絶対に夫のために厨房に入ることはできないと言った。
最終的に、二人の関係は次第に離れて行き、みすみす同居してもベッドを共にしない生活をした。彼らは結婚して36年で、一緒に過ごした時間は4年に満たず、この間に、蘇雪林は子供も生まれず、ようやく、二人はそれぞれ一人の子供を養子とし、後には、手紙を書かず、音信も全くなかった。彼らは二人とも再婚をしなかった。
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その後、蘇雪林は台湾へ行き、張宝齢は大陸に留まり、彼らは再び会うことはなかった。
60年代初頭に、張宝齢は亡くなり、1999年に、蘇雪林は亡くなり、享年102歳であった。
蘇雪林は晩年に婚姻を振り返り「私は張宝齢の配慮に不行き届きで、大変済まないことをした。」と強く自責した。
蘇雪林が魯迅を罵ったのは、それは突然で、まるで突然のように、彼女は魯迅の怨恨は同様であった。
彼女は「半生の『魯迅への反逆』は、⋯⋯今さらに理解するもう嬉しくない。」と言った。
そして彼女が魯迅を罵るのをやめる前に、こんなエピソードが発生した。
つまり張宝齢の姪が蘇雪林に、晩年の張宝齢が、彼女が彼に送ったマフラーをまだ持っていると伝えたのである。
その時、姪は張宝齢の為にマフラーを挙げようとしていたが、ケイトが足りなくなったので、古いマフラーを取り出して、ほどいて編み物を続けようとしたのである。
その結果、年配の張宝齢は、急にマフラーを取り上げ、「糸が足りなければ、買えばいいじゃないか、これはお前のおばさんのものだから、私は記念にとっておきたいのだ。」と言った。
話しながら、彼は目に涙して「私は昔お前のおばさんにひどいことをしたが、今さら悔んでも仕方がないのだ。」と言った。
そしてこの話を聞いた蘇雪林は、一瞬にして全てを投げ捨て、自分の欠点まで反省し初めた。」
実際、蘇雪林と夫の張宝齢の間には、絶対的に本当の愛情が有り、そうでなければ、二人は名ばかりの結婚を守って、敢えて離婚しないことはなかった。
残念なことは、理工系の男性と文系の女性の間の壁と、これに加えて二人とも頭を下げなかったことが、最終的には一生の遺憾を形成した。
あるよく書けている一篇の詩「満目の山河は空しく遠くを念(おも)い、落花風雨は更に春を傷み、眼前の人を憐れみ取るに如かず。」があるが。
相愛は簡単ではなく、相守ることは更に難かしく、眼前の人を大切にすることを忘れてはいけないということである。
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