山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
当社の日本語WECHAT ID:18660355510。当社の日本語対応WECHAT IDを追加し、チャットでお問い合わせも可能です。

西京開封府の安済坊

北宋崇寧元年、西暦1102年、宋の徽宗皇帝は開封府に新機構安済坊を設置させ、病気で立ち直れない貧乏人に医療救済を提供するために使用し、また地方の郡県にも模倣実行するように要求した。安済坊と共に開始した新機構には、居養院(身寄りのない人々を保護)と漏沢園(都市の貧民に墓地を提供する)がある。


宋の徽宗皇帝は古代皇帝堯と舜に匹敵する徳を追求したので、この種の新機構を重視し、少なからぬ財力と精力を消耗した。地方での実行を督促するために、徽宗皇帝と彼の腹心の権臣に新創機構の働きの良し悪しを、当該地域の官員の核心的指標とした。しかし北宋の民衆は、当代の堯舜に恩を感じず、彼らは民謡を使って宋の徽宗を、彼の行為は全くつまらないことで、「健児を養わず、却って乞児を養い、活人を管らず、只だ、死屍を管る」と嘲笑した。民衆はなぜ嘲笑したのであろうか。陸游は後にある解釈をした。


陸游は、安済坊などの新機構は費用が膨大であり、朝廷もまたこれを地方官員の評価の核心項目とし、大いに運動の比較評価を行い、積極的なものは賞賛し、消極的なものは厳罰し、地方の州郡では内部競合するしかなく、粉粉と尽力と物力を尽くしてこの種の事情を行わなければならなかった。その結果兵糧は無くなったので、民間の力はこの事に搾取され、全く管理できなくなった。地方の州郡は安済坊、居養院と漏沢園ばかりに目を向け、他州の人に後れを取り罪を得ることを恐れた。

この種の一見底辺の人に福利保障を提供するようであって、評価上で上に対して責任を負い、下に対して責任を負わない政策は、必ずいい加減な結果を生み出すに違いない。『宋史』では、宋の徽宗と蔡京の制定した批評考査を通過することできるように、地方の州県はありったけの知恵を絞り、多くの途方もない様式で弄び、例えば本来身寄りのないものを救済する居養院は「几帳を具えて、乳母を雇う」の情況で湧き立ち、部屋の中には高価な蚊帳で蚊虫を徐け、救済者には乳母や侍女が充てがわれた。原因としては、評定審査に勝つには不十分であったことである。結局、徽宗皇帝も見ておられず、詔勅(しょうちょく)で地方の州郡の責任を問い、あなた方救済を受けさせるものは「蚊帳を設置し、酒肉を提供し、神饌を食し、恩賞を加えている」と言い、実際にやり過ぎていて、天下の人に仕事もさせずに遊ばせて救済を食い物にしているのである。


居養院は出鱈目で、安済坊も同様である。安済坊の職責は、病気を見ることの出来ない貧しい人に医療を提供することである。現代の堯舜の成功を引き上げる為に宋の徽宗皇帝は安済坊のために管理条例の制定を命じた。暫くすると、人民達は安済坊にどんなものか理解し、安済坊で働く医師に対して良く印象を持てなくなった。此処で、またとんでもない事件が起こった。この事件は陸游が記している。事件の大筋は、宋の徽宗皇帝は安済坊を大変持ち上げ、治癒率で地方の州県を評価し、地方の州県では健康な人を患者に充当して査定に対応した。そこで本当に腕のある医者は、安済坊での仕事の履歴が自分の経歴を傷つけることを恐れて、皆安済坊に入って作業することを恐れて、皆安済坊に入って作業することを願望無くなった。地方の州県では出鱈目を継続して出鱈目を覆い隠すしかなく〜越州に林彪というやぶ医者がいて、誰も彼に診察したがらなかったので、そこで彼は専ら彼の医者の姓名を冒して安済坊に行き来きどうにか賃金にありついた。医師の傅容平が安済坊に来て診察した時、当然来たのは林彪であった。医師の丁資が安済坊に来て診察した時、当然来たのは林彪であった。医師の僧寧が安済坊に来て診察した時、当然来たのは林彪であった。など安済坊が廃所された時、この林彪は衣食に事欠かない家庭になっていた。

安済坊を管理する官員が林彪が何年も他の医師の名を語ったので、面目を保ち、技術水準のある医師は安済坊に入りたがらず、地方州県は朝廷にこの点を報告できなかったので、徽宗皇帝の現代の堯舜の夢は打ち破れなかったのである。林彪のような薮医者が長年安済坊に貪りついて、皇帝の理想を打破できなかったのは、概ね地方の州県が長期に渉って無病の人を患者として朝廷の治癒の指標を完成していたのも原因と一つであった。廟堂の詐欺師と市中の詐欺師が結託して、本当に医療支援を必要としている貧困者については、もとより誰も気にかけないのである。