山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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趙括の父親趙奢は秦国に一度勝っただけで、どうして一生輝いて、名将と呼ばれているのか。

戦国の四大名将には、それぞれ白起、王翦(おうせん)、廉頗(れんぱ)と李牧がある。しかし、戦国時期の名将は、この四名に留まらないが、彼ら四名が併称される由縁は、やはり『千字文』の文句に「起翦頗牧は、軍を用いて最も精なり。威は砂漠に宣べ、誉れを丹青に馳せる。(秦の名将白起と王翦、廉頗、李牧の四将は、軍を率いるに最も精通し、匈奴とも良く闘い勇名を轟かせ、名誉は画に描かれ名を馳せた)」とある賜物である。


細かく数えれば、戦国時期の名将には、当然馬服君趙奢を含む、田単、楽毅、匡章等等がある。彼の名声は何故か響かなかったかもしれないが、彼の息子は多くの人に知れ渡り、紙上で出兵を語った趙括は彼の息子で、行っても仕方がないが、現代人は趙奢のことを話すと、必ず彼は趙括の父親と言われ、まるで彼は息子のために有名になったようなものである。しかし戦国時代には、人々が趙括を語る時、彼は趙奢の息子であり、趙括は後に趙国数十万の大軍の頭領となることができたのは、やはり趙奢の名声のおかげであった。趙王が幾ら凡庸であっても、家産を全部渡すことができたのであろう。

しかし趙括は確実に力を与えられず、本来ならば、彼は名将となる機会があったのであるが、もし彼の相手が白起でねければ、考えれば、白起と同じ時代であったが、それは趙括一個人の悲哀ではなく、殆ど全ての将軍に悲哀でもあった。

まるでバスケットボールのジョーダン同様に、彼と同じ時代の、そのほかの選手がまた優秀であっても、ジョーダンの前ではやはり精彩を欠くものである。つまり、自身が強大でないのではなく、相手が大変優秀であり、趙括はこのように惨めな人であったのか、彼の父親の趙奢でさえ白起に対して、殆ど勝算がなかったので、趙括を任命せざるを得なかった。

趙奢は実際大変強く、もし戦国の十大名将を選出すれば、趙奢は必ずその中に入るであろう。こういうと、あるいはすぐさま疑問が出るかもしれないが、趙括の父親趙奢が秦国に一度勝っただけで、なぜ一生輝くできたのか、そして名将と称されているのか。これは秦国とのこの一戦は、趙奢の真実の水準を打ち出したのか、我々は一緒に見てみましょう。

趙奢は戦国時代の趙国の人である。当初彼は武将ではなく、文官であり、彼の職務は年貢を徴収する官吏であり、仕途は見たところ大変地味であったが、趙奢は却って熱心にして、公平公正な心で受け入れ、趙国のため租税を徴集した。

統治権趙国は趙王のほかに、大変気難しい主君が居て、この人は戦国の四公子の一人平原君趙勝である。趙勝は趙国での権勢も大きく、頼りにする手下の門客も多く、趙王さえみそれなりに認めざるを得なく、しかも偶然にも、趙勝の土地はほぼ趙奢が租税を徴集する「勢力範囲」にあった。趙奢は平原君へ税収に行ったが、平原君の家臣は根本的に趙奢を眼中に置かず、租税の納付に応じなかったので、趙奢は却って遠慮なく、平原君の家中の九人の管理人を斬殺してしまった。飼い犬を倒すには主人を見なければならず、趙奢のこの挙動は明らかに趙勝の顔面を打ちのめしたものであった。趙勝は堪え難く、彼は自分の権勢と地位に頼って、強引に趙奢を殺そうとしたが、趙奢は、卑屈でも傲慢でもなく、平原君に言った:

君於趙為貴公子,今纵君家而不奉公則法削,法削則国弱,国弱則諸侯加兵,諸侯加兵是無趙也,君安得有此富乎?—『史記·廉頗藺相如列伝 』

言わんとする所は、あなたは趙国の貴公子で率先して法を守らなければ、法令の信憑性が下がり、趙国を衰退させ、更には趙国を滅亡させることになるが、もしあなたが率先して法を守れば、それは趙国は盛んとなり、あなたの地位は安泰となる。

趙勝はこの人に才能を感じ、そこで彼を趙王に推薦し、趙王は直接趙奢に全国の徴税作業を担当させ、一時に国庫を充実させた。自身は文官である趙奢はいったいいつ何のために軍を率いて戦争に赴いたのか、これにはもう具体的な資料はないが、趙奢は自分が将軍に向いていると考え趙王に自分が軍を率いて戦争に出たいと請求したものと考えられる。趙奢は一生で一回戦っただけではなく、歴史的に記載されている秦国とのあの大戦のほかには、他に斉国との小戦があり、歴史上麦丘の戦いという。『史記・趙世家』ではこの戦争には僅か数語:19年、趙奢将は斉の麦丘を責めてこれを取るとだけある。

あるいは今回の戦争が根本的に全く難しくないため、またあるいは老齢の趙奢が直接電光石火耳をつんざく勢いで麦丘を奪い取ったのであろう。そして趙王が敢えて趙奢に秦国を攻めに行かせたのは、一瞬ののぼせ上がりの無冷静ではなく、確実に趙奢の身から発する「香り」に名将の息があったからである。

それでは、我々は趙奢を有名にした一戦〜閼与(あつよ)の戦いについて語ろう。

紀元前270年、秦国は韓国(河南省周辺)に進攻して、軍隊を閼与に駐在させたが、韓国は敵わず、趙国に救いを求めた。救援すべきかどうかについて、趙王はまず二人の大将、廉頗、楽乗に、意見を求めた。廉頗の意見は、閼与は趙国は余りに遠く、道路も大変通行し難く、救援は割りに合わずので、救援しないであったが、廉頗は本来防戦の上手い将軍であったので、彼に進攻させるのは比較的難しく、この建議には理があった。楽乗の意見も廉頗と同様であった。だが、趙王は実際には大変この戦いをしたかったので、彼はまた趙奢の意見を求めに行ったが、趙奢は、趙王がこの戦いを望んでいることが分かったので、彼は仔細に考慮してから、趙王にこう言った:【其道遠く険狭とは、これを譬えれば猶穴中に両鼠の如く、将に勇者勝つべし】『史記』現在の話で言えば、狭い路で逢った勇者が勝つということで、また言うまでもなく、趙奢のこの軍事思想は影響は極めて深遠で、この話だけで、彼は名将というに間違えがない。趙奢の話は趙王の心中に響いたので、趙王は趙奢に兵を率いて閼与に向かわせた。


趙奢出兵後も、秦軍に堅く守って出兵していないという見せかけを作って、趙奢も秦軍の間者を招待して飲み食いし、韓国を救援する意思のないことを示した。秦国の間者が去るのを待って、趙奢はすぐさま兵士に軽装で閼与へ向かわせ、その後部下の建議で有利な高台の地形を占拠した。

秦軍が反応した頃には、天の時と地の利は既に失われており、趙軍は高台から秦軍を攻め下ろしに出て来て、閼与の守備軍も呼応して城を出てきて、両者の挟み撃ちの元に、秦軍は死傷逃散する者が大半に上がり、大敗して帰った。閼与の戦いは趙奢の一方的な完勝で終了を告げた。

趙王は趙奢が本当に自分の面目を施したので、自分の封賞も少ないわけにもいかず、そこで趙奢を馬服君の称号を与えたので、、趙括は馬服子と呼ばれるようになったのも事実老父の栄光のおかげであった。

しかしこの大戦の後は、趙奢は史書中に記載がなく、少なくとも、どんな大戦もやっていないことはないはずであるが、なぜ趙奢は何もしていないのであろう。当然兵書を書いていたはずである。長平の戦中に趙王が趙括を廉頗に替えて武将とした時、丞相の藺相如は反対を示して、藺相如はこのように言った。【趙括は良く其の父の書伝を読むも、和変を知らざるなり。】『史記』。この言葉から、趙奢が兵書を書いていたことが推断でき、この事は藺相如も知っていて、趙括も読んでいて、彼の書いた兵書は何処に行ったかというと、趙括が長平の戦いに持っていた後に、失われたのであろう。当然、これは重要ではなく、重要なことは我々は趙奢を理解することで、また彼が何のために秦国に一度勝ったことで名将と呼ばれたことを理解することである。

一つには、当時の秦軍の戦闘力は大変強かったので、秦軍を打ち破ったことは、指揮能力が大変強かったことを説明している。二つに趙奢は兵法を書いているが、歴史上には名将が多くとも、本当に兵法を書ける人は、余りいないことである。三つに、趙奢の軍事理論はしっかりしていて、特に彼が持ち出した「狭路で相い逢えば勇者が勝つ」は、我が国に数千年の影響をして、近現代でも、この理論は時代遅れとならず、軍事家達に真理として奉られている。