山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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ロックハートの『山東紀行』(済南)

威海衛から出発して芝罘まで靖海号に乗り、小清河口からの羊角溝に至り、小舟に乗り換え小清河を遡上し済南に着いた。

4月27日月曜、間もなく黄台橋に着く頃、我々は正式に上陸する準備をした。笑えることには、これまでずっと私服で我々に同行してきた4名の華華営の兵士が、船員達の羨望のまなざしの下でボタンを磨いてきっちりと着込んで、明らかに好印象を与えようとしていた。彼らは最終的に灰色の制服を着て、赤いベルトと紺色の頭巾を付けて、甲板に勢揃いした勇姿は颯爽(さっそう)としていた。その内二人の付けている勲章は、最近華北地区の華勇営と共に自分達に反体する同胞(どうほう)と戦った時に獲得したものである。


身なりを整えた華勇営の兵士

黄台橋に到達した時、数百艘の船がごった返す中を通り抜けなければならなかったが、これは運河の交易が相当多いことを表明している。


黄台橋埠頭の船隊

午後の3時半頃に埠頭に到着し、我々も制服を身に付け上陸し、迎えに来たのは巡撫が派遣して来た代表と護衛で組織された儀仗(ぎじょう)隊と騎兵団であった。我々のために特別に準備された接待所でしばらく滞在した後に、我々は担ぎ輿に乗って済南へ向かった。


上陸後の済南儀仗隊

代表達と数名の騎馬の士官、また巡撫が派遣して来た20名の護衛の騎馬隊が先頭に立って道を開けた。4名の華勇営の兵士はすぐさま我々の輿の前を走行して護衛し、我々の後ろにはバーンズ大尉と私の中国語秘書も続いた。

城内に入る途中で、13発の礼砲が我々を迎えてくれた。城内に入る時、1,500名の兵士が両側に立って我々に敬礼をした。総兵と道台を含む数名の職員が迎賓館で我々を迎えてくれ、道台は巡撫に我々の長旅の知識や、挨拶を伝達した後に、我々に準備してあった宿所へ案内した。

ここで私は羊角溝で我々に同行した数名の代表とも会った。我々に与えられた一間は、室内にヨーロッパ風の家具が配置してあった。バーンズ大尉は我々と同じ棟に滞在した。

夜には、外交事務を担当する主要官員の一人楊道台が私を訪問してきて、2時間ほど楽しく歓談した。楊氏は海軍の将校であり、広東で生まれ教育も受けた。同文館でサンプソン氏(

Mr.Sampson)を師として英語を学び、その後ドイツに数年住んでいた。彼は英語とドイツ語が流暢で、聞く所では彼は巡撫に対して大変な影響があった。

4月27日の月曜から5月5日の火曜まで、済南市内を参観した。この期間に、巡撫と主な職員は熱心に我々を歓待し、城内外の名勝古跡の遊覧を手配し、我々が愉快に過ごせるように尽力してくれた。


ロックハート(中)と山東巡撫周馥、バーンズ上尉


ロックハートと済南官員の撮影

4月28日火曜日、すなわち我々が到着した翌日、私は巡撫を公式訪問するように進められた。巡撫は宴席を設けて招待し、私を宴席に出席していた高級官僚に紹介した。

これらのゲストの1名はドイツカトリック教会のアンガー主教(Bishop Anger)、もう1名はフランスカトリック教会のギーセン主教(Bishop Giesen)の二人のカトリック司教も含まれており、二人とも中国の官服を着て、赤い天津帽を被っていた。また中国の税関職員オリバー氏(Mr.Oliver)とタイラー氏(Mr.Tyler)、済南大学で助手を務めるアメリカ人ゴッドセル氏(Mr.Godsell)とドイツ国の済南駐在領事のランゲ氏(Mr.Lange)がいた。巡撫自ら敷地が広く建築物の多い巡撫庁舎を案内してくれたが、ここは嘗て王爺の行宮であった。巡撫の私的な事務室には電話があり、市内のほかの主要官庁と連絡ができた。役所内には電信線が設置され、何処へも直接発信できた。


巡撫衙門内の珍珠泉


巡撫衙門内

巡撫庁舎には天然の泉と池があった。池辺の建物で我々のために盛大な宴会が挙行され、高官と前述の外国人がみな参加した。巡撫は祝杯を挙げ、清国皇帝、イギリス王と威海衛の行政長官の健康長寿を願い、我々は巡撫の健康長寿を願った。巡撫の祝辞は以下の通りである。

最初の乾杯:

我が国皇帝と、グレートプリテン及び北アイルランド連合王国及びインド皇帝の健康と限りない長壽を記念できることを大変光栄に存じます。乾杯。

二度目の乾杯:

私の就任一年目の関頭が数週間で、青島と威海衛二ヶ所の租借地の傑出した官員の先生が相次ぎ済南にお見えになったことは誠に光栄に存じます。乾杯。
今宵、威海衛の尊貴な駱(ロックハート)大臣と御同席させていただくことは大変光栄でございます。この機会を利用し、私は謹んで本省全体の役員と人民を代表して、辛苦を厭わず遥々お見えになった駱大臣に熱烈な歓迎を表し、彼の友好訪問が我々に栄光をもたらしたことを感謝いたします。
中英両国の平和と友好は永遠不変であります。相互の信頼と尊重を基本とする交流と和睦の関係を強化し、中英両国は永遠に団結しましょう。この度、聖マイケル・聖ジョージ勲章を獲得した尊敬する威海衛総務大臣駱任延(ロックハート)先生に乾杯の挨拶をさせていただくことを大変光栄に存じます。大臣閣下の為に酒を満たして南山の長寿と東海のような弘福を祈って乾杯。」
宴会後、湖上で花火が打ち上げられ、気分を盛り上げた。巡撫には私的バンドはあり、宴会では絶えず外国の楽曲を演奏したが、タイミング良く『God Save the King(国王万歳)』が演奏された。
4月29日水曜日、つまり宴会の翌日、巡撫は私を訪ねて来た。私の再三の願いで、彼はお子さんを一緒に連れて来た。彼は私を宴会に招いた目的は、彼のイギリスに対する感激の気持ちと(中国の)一般民衆がどのようにヨーロッパ人に対応するのかを教えるためであると語った。彼はイギリスの起業連合が鎮江から天津までの鉄道を早く完成させ、ドイツの勢力を均衡することを願った。彼は新聞で、南アフリカ戦争でイギリスが大量の資金を使い果たしたことを知ったと言った。彼は鉄道建設を支持し、山東地区での早期完成を希望している。30年前に、多くの人の反対に遭いながらも、彼は天津から開平に至る鉄道を建設した。彼はまた小清河を浚渫して内陸との連携を強化することを希望したが、各種の困難と克服すべきことがあったが、この困難の主要な原因は山東人の保守的な資質に因るものであった。彼は我々が済南に滞在する期間の行程は手配してあり、我々が楽しく過ごせることを願っていた。
大明湖に官員達との撮影

大明湖風光

大明湖の亭子

大明湖の船々
巡撫の訪問後、知府と知県は私達を市の近くの大明湖に連れて行きました。大明湖は本当にリラクゼーションの場所で、広大な敷地を持ち、湖の中には島があり、湖は葦と蓮でいっぱいです。蓮と水草、そして湖畔の絵画のような楼閣が美しい風景を形成しています。
湖上の船は非常に特別で、中央には帆布の天幕があり、両側が開いていて、船上から様々な風景を楽しむことができます。私達が訪れた日は風が強く、知県の一人が非常に痩せていて、風に吹き飛ばされるのではないかと心配でした。彼は巡撫の命令で私を世話するようになったので、彼は非常に焦っていました。彼のその様子を見て、私は感動して笑ってしまいました。彼こそが真に苦しんでいる人だと思います。
4月29日の夜、再び宴会に招かれました。今回私達を招待したのは市内の主要な役人達で、布政使、按察使、塩運使、潘道台、陳道台、楊道台、そして知府知県でした。ゲストは前回の巡撫の宴会に参加しました。巡撫の楽団はまだ宴会で音楽を演奏しています。私はこの宴会が済南で最も豪華な宴会だと思います。楊道台は私達に乾杯し、威海衛行政長官の健康を祝いました。私は東道主達に乾杯することを提案しました。陳道台兼山東大学総辦が返礼しました。皆さんは非常に楽しい夜を過ごしました。海関税務司オリバー(欧禮斐)先生は私に言いました。「中国に住んで多年、しかし中国官員がこんなに熱心にもてなすことを見たことがありません」。

山東大学堂を見学
我々は、設立されて間も無い山東大学を訪れました。現在、この大学は陳道台が管理しており、彼は福建出身で、嘗て北洋艦隊で勤務し、ラング艦長(副総督)の下で働いていました。羅豊禄氏が中国の英国大使として任命された際、彼は使節団の一員でした。彼の助手には王艦長、羅氏、そしてアメリカ人のゴールドセール氏がおり、前二人は海軍将校です。現在、学校には400人の学生がいますが、全ての学生を収容することはできません。そのため、新しい建物が建設中で、そこにはより良い設備を備えた教室やジムがあり、400人の学生を収容することができます。新しい建物が完成すれば、全省96の郡から来る学生達がここで学び、彼らを通じて西洋の知識を全省に広めることを期待しています。以前の校長はアメリカ人のヘイズ博士(Dr.Hayes)でしたが、最近辞任しました。これは中国当局と孔子問題について中国の学生(キリスト教徒かどうかに関わらず)をどう扱うべきかについて意見が合わなかったためです。しかし私の理解では、中国政府が彼を排除した真の目的は中国人に大学を管理させることであり、そのために孔子問題を利用したということです。大学では使用されているヨーロッパ言語は英語だけです。陳道台とその助手達は英語を流暢に話します。
4月30日木曜、我々は洋式の訓練を受けている済南駐在軍約500人の視察に行った。大部分の高級文官と全員の高級武官がそこで我々を迎え、兵士の隊列は整然としており、まるでドイツの練兵方法のように厳格な訓練を進行していた。

済南閲兵

済南閲兵
訓練を見終わると、軍備学校を参観した。校長は清朝の重臣で直隷総督の袁世凱のお兄さんであった。我々は学生の教育課程の段どりを詳しく知ることはできないが、訓令方法から言えばここの学生は技術兵としては訓練できていないようである。

ロックハートと済南軍備学堂官員との撮影
校長は中国の刀剣収蔵に熱心であり、我々に収蔵品を見せてくれたが、その中には珍品も多かった。
4月30日午後、我々は済南で最も有名な泉➖小清河の源流と言う趵突泉(ハクトッセン)を見物した。伝説では済南は趵突泉を中心とする水上の宝塔に停泊しているという。もし宝塔が倒壊すれば済南が水没するであろう。


趵突泉
趵突泉から、済南道の朱知事と肖先生が管理する、各種の製品を生産する国立製造工場に行った。工場では、済南に導入されたばかりの、例えば絨毯、刀剣、人力車やその他多くの品物のような珍しい新製品が生産されていた。ここのシルクの刺繍は我々を魅了するが、それは中国の南方の工場が女子を使用するからのとは違って、男性労働者を使っていた。国立の製造工場の目的は省全体の製造能力を高めるためであるが、その主要の生産品は一般工場と競合するため、この工場は歓迎されていなかった。もし中国がそのほかの地域や日本の熟練した労働者を済南に呼んで生産に従事させなかったり、あるいはその他の国家の技術者に新しい生産方法を教授させなければ、山東の製造業を改善することは難しいであろう。まだ製造されていないので価格表は得られなかったが、該当の工場の製品の一部は日本の大阪の見本市の展示に送られている。

黄河辺


黄河

5月1日金曜日、我々は済南の北方5マイルの黄河沿岸の濼口)ラクコウ)に行った。濼口はかつて山東省の港湾として重要な場所であったが、現在は重要視されておらずほとんど何の交易もなかった。黄河の氾濫で遺棄され、貿易センターとしては機能しなくなった。黄河の水はいつもここで溢れるが、前述の通り黄河問題はいつも中国政府の大きな関心を集めている。
濼口から我々は、黄河から1マイル離れた済南東北の北端にある軍需工場に来た。ドイツ人バッセ(Basse)上尉が軍需工場を管理しており、バッセ上尉は直隷総督に雇われ、、主に当省に居住し、道の劉知事の管轄下にあった。現在工場には500名の職人と200人の監督がおり、毎月80,000発のモーゼル銃の弾を生産している。軍需工場の設備は優れていると言われるが、我々の視察に同行したタイラー氏は我々に、以前は機器の設備は、注意されていなかったが、巡撫はかつて視察を派遣して報告を出させており、最近の機器の改良はタイラー氏の報告書を考察した結果によるものであると言っている。我々が見た現在している機器のほかに、ここで使用されていない機器には毎日砲弾と25丁の新式モーゼル銃を生産できる未使用の機器があった。
彼らには大運河の山東地区の徳州に直隷と河南、山東が共用する軍需工場を建設する計画があると言う。

5月1日の夜、我々を宴に招いたのは城内の商工会議所と有力紳士達であった。宴会は大明湖の畔(ほとり)のある建物で行われた。宴会の主催者の一人は、彼は湖北の学長であり現在の衍聖公(孔子家当主)の叔父であり、孔子の75代目の子孫の孔祥霖であった。彼は済南で日本留学に出かける中国人学生を組織しており、文化的造詣(ぞうけい)が大変が大変深い学者であり、我々が彼の祖先の出生地の曲阜に同行することを許してくれた。

宴席では商業に対して興味のある重要な人物がたくさんいた。私は楊道台と按察使が私と乾杯したチャンスを利用して、海峡植民地と香港の植民地を例にすると、この二つの英国植民地の大部分の交易と利益のほとんどが中国人の手に渡っているように、中国はイギリス国旗を中国付近に立てることで多大の利点があることを、返杯の時に指摘した。この二つの植民地に例は中国人が威海衛の商業の発展を支援することを鼓舞し、威海衛の発展は中国、特に山東省に有利となることを期待した。


ロックハートと主教などの撮影

5月2日土曜日、我々は、オランダ生まれでフランシスコ会の司祭を務めた最近河南から山東へ来たカトリック主教ギーセンを訪問した。カトリック教会は山東を三つの教区に分割し、一つは、本部が芝罘にあるセザール司教の東教区、一つは本部が済南にある北教区、南教区は本部が兖州府にあり、司教はアンガーであった。東部と北部の教区は済南に多いが、彼らはアンガー司祭の率いる南部教区ほどの活躍はなかった。アンガー司祭は学校と住宅兼用の一棟の建築物と、美しい教会を立てたばかりであった。

済南で我々は城内の一等地に住んでいたアメリカの宣教師数名にもあった。ニール(Neale)医師は男性専門科目の病院を開設し、多くの中国人が診察を受けに来た。女医のバーナムが婦人科病院を開設した。

彼らの診察対象は済南の高級官僚と住民である。中国の官僚と宣教師の間の密接な関係が印象的であった。我々のために準備された宴席で、二名のカトリック司祭に逢ったが、ニール医師は省の巡撫と行政長官の診察もしていると言った。ここで逢った宣教師はおおむね華南地方の宣教師より教養があるようだ。

5月2日の夜、済南がドイツ国利益会代表のラング氏が宴会に招いてくれたが、私にくれた名刺には「ドイツ帝国皇帝領事」と書いてあった。彼が領事の職責を代行していたことは疑問の余地もなかったが、彼は正式には領事に任命されておらず、何の肩書も無いようであった。済南に代表を派遣していない国家にとっては、彼が済南ではドイツ国へ一定の利益をもたらしていた。


千仏山から見た済南


千仏山


千仏山

5月3日、巡撫が我々に千仏山を遊覧するように手配してくれた。千仏山は済南平原に聳え立ち、山頂に立てば済南城市街と周囲の郷村全体を見渡すことができた。府知事と県知事は我々のために、我々が旅行を楽しめるように一切の手配をしてくれた。

山に上る時は、泰山に登った時のような特殊な担ぎ輿に乗った山上には寺廟が多く、香火の盛んな寺廟には子宝を求める参詣者の願いをかなるいう神像があった。私も神像にお祈りしたら、帰りには男の子の「赤ちゃん」を授かった。彼らは、私に男の子が誇れる父親になるだろうと鄭重に語った。実際には私は女児をもうけたばかりだったので、ここでは毎年一万人近い人々が子宝を求めて焼香しに来ているにも関わらず、神像を信じることができなかった。


千仏山の輿


千仏山にてロックハート達の撮影


千仏山にて随行者達の撮影

済南平原は歴史的意義が重大で、中国の初期の歴史では、各諸侯の国家間で大口の有名な戦争がここで行われた。

下山後、我々は巡撫と一緒に会食をした。巡撫は済南付近で起こった戦争や、太平天国軍に抗戦した昔話をしてくれたが、当時彼は14歳年上の李鴻章の草稿を担当していた。彼はまた、傭兵の「常勝軍」が中国を救った時、ゴードン(Gordon)の手下として働いたので、ゴードンも敬愛したことを表明している。

5月4日月曜、巡撫はまた我々に会いに来て、『中英続議通商行船条約』への同意を示したが、フランスとドイツ領国の支持を得られるかどうかは懐疑的であった。彼はイギリスは中国を分割したくないと声明しているという電報について言及し、彼はイギリスの誠意を信じてはいるが、彼らがもし中国が分割された場合、彼らが呼応する配分を得られないのを恐れて、他の国家が同意を示していると考えていた。彼はまた電報に西太后慈禧難いを望んでないことを声明していることにも触れ、他の国家がこの事に触れていないのでこの電報に重要な意義があること言った。中国の改革については、皇帝は康有为の改革を支持しているが、改革を急ぎ過ぎたために、中国を混乱から救うために西太后が静止せざるを得なかったと主張している。彼は、もし中国が康有為を死刑に処さないと保証すれば、康有為を中国に還すことができるかどうか、イギリス政府は本当に康有為をしているのかと質問した。彼は諸役人が私に書いてくれた詩に興味を示し、私のために詩を詠むことの許可を求めた。

巡撫と別れてから、私はこの城市の商人を訪問し、彼らが威海衛に行き業務を開拓して、そこで全面的な支持を得られることを希望した。夜は、我々は潘道台との晩餐を共にした。按察使と塩運使を正式に招いたわけではなかったがいい彼らは友好を示してつぎつぎと宴会に現れた。

5月5日火曜、我々は曲阜行の準備をした。渡した旅行前に巡撫へ彼らの温かいもてなしに感謝する手紙を投函しなければならないと考えた。我々は客舎で愉快な時間を過ごし、出発前には客舎の職員を全て召集して、彼らの至れり尽くせりの思いやりに対して感謝を表した。

駱(ロックハート)大臣から山東巡撫への書簡

巡撫:

私が済南を離れる前夜に、あなたに深い感激の気持ちを伝えずにはいられません。閣下の私や、バーンズと一行への心尽くしの歓待、我々は閣下の統治下で、繁栄した様子である山東省の土地に踏み込んでから、ところどころで母親の愛情のような至れり尽くせりな配慮を受けたことに感謝します。
閣下が中英両国間の友好関係の強化を通して両国の繁栄を促進し、両国人民の間の密接な交流を通して、両国間の相互理解を深めることを希望していることははっきりわかります。
閣下や官員の皆様との頻繁な接触を通じて、私達は済南の生活に大変深く入り込む事ができました。閣下のこの重要な省の管理能力と、諸官員が閣下の処理する各種複雑な事項への補佐する脳力に我々は深く感銘いたしました。私は閣下の開進的な政策が山東に繁栄をもたらし、閣下の職が人々の記憶に開化発展の時代となることを確信しています。
閣下が私を友と呼んだことは、私には幸栄であり喜びを感じました。それは閣下が要職にあるからではなく、閣下の職責の遂行方法と閣下の人格と気質に対し尊敬しているからです。
当時閣下が遭遇し、一つ一つ克服して来た多くの困難や、閣下が李鴻章との最初の出会いと長年の密接な関係、閣下と今の英雄ゴードンとの関係についてなど、閣下の若い頃のお話は大変興味深く拝聴いたしました。
私に聖人孔子第75代の孔祥霖閣下をご紹介いただき、我々のために孔子は誕生地と陵墓を参詣する手配をしていただきありがとうございました。孔子の名は全世界に聴こええ、その哲学思想は誰もが敬仰する所であります。
また閣下は私に済南の名勝古跡を漫遊することをお許しいただき感謝に耐えません。このような環境で、済南がこれほど偉大な詩人を生み出したことは不思議ではなりません。官員の皆様の詩作を戴けたことは、私にとって大変光栄であり、また閣下の傑作を頂けたことは幸甚の至りでございます。
閣下の終始一貫した暖かい配慮がと惜しみのない接客は、私達の済南での旅行を円満愉快にさせ、永遠に美しい思い出を作りました。
間もなくお別れとなりますが、閣下の我と一行への善意に対し深く感謝を表して再びお会いできることを願って一筆したためずにはおられませんでした。閣下とご家族が永遠に健康で幸福であり、子にとっての父のように一番の偉業を為すことを願っております。
閣下の忠実な僕、駱任廷(J.Steward Lockhat の中国名) 
    1903年5月5日 済南

送別時、官員達との撮影

歓送

歓送
続いて我々は市街を通って南門まで行ったが、巡撫と高級官僚達はそこで我々を待ち別れを告げた。巡撫は、私と随行者の健康と、旅の安全、また双方の友誼が万々代系継続くすることを願って乾杯をした。巡撫と官員達と別れを告げて、っ我々は出発した。南門を過ぎると、13発の礼砲が鳴り響き、1,500名の兵士が道端に整列して我々を歓送してくれた。

【本文の写真は1903年のロックハートの旅行期間中に撮影されたもの】