山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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瞳(あなたの最初の漢字教材・甲骨文)

瞳は心の窓であり、つまり心眼聡明な人に、自分の主観的な意思で物事を観察させることである。彼の見ているものは、客観的事実ではない。古代には「士分かれて三日ならば、即ち当に刮目して相待つべし」という古典があるが、意味は、人はみな進歩するものであるので、同じ目で人を見てはいけないということである。

この出典は東呉の名将呂蒙で、『三国志・呂蒙伝』の記載によれば、初め孫権が呂蒙に「卿(きみ)今当に掌事を涂(ぬ)るべく、学ばざるベからず」と言ったが、呂蒙は軍中の諸事を辞任した。孫権は「孤(われ)」は豈に卿の経を治め博士とならんとするか、ただし渉猟を担当し、往事を見るのみ。卿が言は、多務にして、孰が孤が若きか。孤は常に読書し、自ら以爲(おもえ)らく大いに益する所有り。」呂蒙は始終勉学した。魯粛が尋陽を過ぎる時、呂蒙と議論となり、「卿の今の才略は、また呉下の阿蒙あらざるや。」呂蒙は「士分かれて三日ならば、即ち更に刮目して相待つべし、大兄何ぞ事の晩きを見んや。」粛は終に呂蒙の母の面会し、交友を結んで分かれた。


呂蒙はもともとは東呉の一介の兵卒であり、低い身分の出身で、教養もなかった。戦功が顕著だったので将軍に昇進したものの、見識のない田舎者と視られ「呉下の阿蒙」と揶揄われて呼ばれた。このため、孫権は呂蒙に言った。「君は現在守備隊の一方の将軍となり、軍権を握っているが、学がなくては話にならない!」呂蒙は言い訳して言った。「実は軍務がとても繁雑で重いので学ぶ時間がないのです」孫権は言った。「まさか、君は経史典籍を研鑚して深い学識のある六経博士になる必要がある。そんなことを私が思うはずはなかろう。読書は知識を学び、道理を明らかにするためであって、何でもかんでも研鑚を積むには及ばない。君は軍務を処理する時間がないと言ったが、私は君主として日々政務に忙殺されているのだから、私よりも忙しい人間があろうか?私は常々読書をし、大いに利益を上げたと自分で感じているぞ」そこで呂蒙は学習を始めた。後に魯粛が尋陽に通りがかり、呂蒙と天下の大事を検討した時、魯粛は呂蒙の見解を聞いて非常に不思議に思い、言った。「君に今のような才智があろうとは、昔のあの呉下の阿蒙じゃないな!」呂蒙は言った。「士別れて三日たれば、当に刮目して相見る、です。気がつくのが遅いではありませんか!」魯粛は呂蒙の母親に面会し、呂蒙と親友の交わりを結んでから別れを告げ、出かけた。

魯粛は大変才能のある人物で、彼が嘗ての呉のあほうに心服したのも、道理がないわけではない。呂蒙との会話で言及した「看見」と関係する「目」「相」「見」の三文字から、呂蒙の並々ならぬ進歩という魯粛の驚くべき発見をすることになる。


「目」の甲骨文     は人間の眼を象る。篆書の「目」   、  は金文字形の「つぶらな瞳」  、  、   を「竪目」に書いている。刮目相待(見直す)以外に目と関係する熟語には「目に丁を知らず(字を知らない)」「目不暇接(いちいち見ていられない)」「目不転睛(見つめる)」「目瞪口呆(あっけにとられる)」「目空一切(傲慢)」「目中無人(見下す)」などなどがある。

字を知らない人を例えて「目に丁を知らず」あるいは「一丁を知らず」と良く言う。「丁」字は単純で、認識しやすいので、「丁」字も知らないということである。これは当然の解釈で、「丁」字に比べて更に簡単で分かりやすい「一」の字を知らないことは、どうして「目に一を知らず」とは言わないのであろう。ここには出典がある。

熟語の「目に丁を知らず」の出典は『晋書・苻堅伝』は群臣と前殿に宴会して、演奏と作詩をした。姜平子という名の役人が献上した詩に「丁」の字があったが、この人は不注意であり、「丁」字の下の鉤はねを書き忘れて「丅」字に書いてしまった。苻堅は知らなかったので、何の字か尋ねると、姜平子はさりげなく、、「臣は丁は堅いもので曲げてはだめで、曲げて正しくないものは献上するに当たらないと考えています。」と答えた。苻堅は聴くと大変喜び、姜平子(の詩)を一等賞にした。実際姜平子は皇帝が教養のない氐族の人だと、小ばかにして、自身が聡明であると「丅」字を書いたが、実はこれは金文の「下」字であった。姜平子はこれが古文とは知らばかったが、苻堅はもとより異民族であり、当然事情を知らなかったので、姜平子を誉めたのである。後にこの出典から、字をあまり知らなかったりすることを「目に丁を知らず」と言ったのである。『旧唐書・張弘靖伝』に、張弘靖が節度使(辺境軍監)として、兵士に「君達は二丁の石弓を引くことができるが、一丁字も知らないではないか。」字を学ぶことを進めた。「丁」字は本来「个」に作るが、説明の通りに「一个(箇)の字を知る」のは、字形が相似しており、後世の人が「目に丁を知らず」と書いたのも、またいささかの文字を知っているの意味である。陳寅恪の詩に「一生を悔恨し一丁を知る」の句があるが、決して最も簡単な「丁」字を知っていることを悔やんでるのではなく、また一字を知ったことを悔やむわけでもなく、ここでの「一丁」は、文字を知ることには限りがあることを指すが、実際には自身の学問を謙虚に指しているのである。

熟語の「刮目相待」はまた「刮目相看」とも書く(注目すること)。手を目の上にかざして見ることが「看」である。


篆書の「看」は、眉の上を「手」でで太陽をかざし、手の下の「目」    との構成である。造字の本義は、手を挙げ太陽をかざし、遠望して観察すること。「看」の篆書の異体字 

は戦旗「倝」と「目」   との構成で、将軍が遠望して偵察していることを表す。

地上に生活する人間は、毎日太陽を見ることができるが、果たして誰がはっきり見ているのであろうか。誰もが太陽は、起床後に裏庭からちらっと見たり、昼間には額を手でかざして目を細め強烈さに感嘆しながら見ている。夕方には東屋に座って川風に向かって落日を見ながら詩吟する。だが太陽の面目とは、はっきり言えないが一体何だろう。それは朝夕には赤く、昼間は白いからである。太陽はいったい何色だろう。眩しい光以外にも、三本脚の金の鳥などの模様があるのだろうか。それがもしなくても、太陽の黒点はどんなことで、どう形容したら良いのであろう。形容できなければ、どう見るべきなのか。太陽は明る過ぎて目を刺すので、直視できない。人間はその詳細を見ることができなく、その真面目を見ることもその真相を知ることもない。

甲骨文の中に「看」の字はないが、「見」の字がある。座った人が一人、目を大きく見開いて前を見ているのを表す。早期甲骨文の「見」    は、上辺が横になった「目」    であり、下辺は右に跪座する「人」   である。造字は誇張した手法で描画された人の眼であるが、目的のためには「見る」眼光が鋭く、きらきらと輝いてる必要があった。正に目がまじまじと探す対象を注視している最中である。晩期の甲骨文は「見」の眼を丸々と大きく描いた。こうすることで「見つめるという本義の意味が更に突出しした。金文の「見」は    を書く、篆書の「見」     も甲骨文の字形を継続している。清朝の段玉裁は「目を用いる人というのは会意である」と注を付けた。許慎の解釈は「見」と「視」の区別を無視したが、段玉裁の注釈は許慎の不足を補足した。突出してした「見」が指すのは「視」の動作ではなく、「看」の結果である。「視て見ざる」が看るとかえって見えなくなるであるように。明らかに、「視」が単に見る行為を表すということを強調しなかった結果である。一方「見」は看た結果を重視する。そこで「看て見る」となる。やがて人々は「看て見る」から「面」を見る(対面)という意味を派生させた。『詩経・衞風』のように「一日見ざれば三秋の如し」である。その意味は、「あたしは本当にあなたが大好き。あたしたち、一日でも会わないと、3年も会わないような気分よ」。

漢朝人の生活はとても風情があった。諺「小見多怪」はもともと、見聞の少ない人にとっては目新しい事物が奇怪に感じられることを指した。後に見識の浅い人を嘲笑するのに常用されるようになった。『抱朴子』によると、「夫れ見るところ少なきは即ち怪しむところ多し。世の常なり」後漢の牟融の『牟子』も「見るところ少なきは怪しむところ多し。駱駝を見て馬の背中が腫れていると謂う」と説く。当時笑い話があった。関中平原が水不足になったが、ある人は遠出をしたところ、偶然海辺で蟹を一匹拾った。彼は食べず、また食べる度胸もなく、この我が物顔で横歩きする代物をおっかなびっくり乾かし、動物標本にして、家に帰っては門額に掲げて辟邪とした。この怪物、人が見たことがないばかりか、鬼だって見たことがない!という意図である。

上古には「現」という字がなかった。そこで「現」という字の現代の意味である「現れる、表現、出来合い」などの意味を「見」が兼ね備えていた。ただし「見」が「現」の区別がつかず、しばしば笑い話を起こした。『詩経・項羽本紀』に「軍、糧を見ず」という句がある。この句を「軍隊が食糧を見ない」と解釈する人もいるが、それでは意味が通じない。ここでの「見」は昔の「現」の字であって、「手元にある」という意味である。「軍、糧を見ず」の本当の意味は、軍隊の兵糧庫がすっかり空になっていて、少しも兵糧が無いということである。また、推薦、紹介といった文脈でも「見」を現と読む。『墨子・公輸』あるように、「なぜ私を王に見せないのか?」が例である。この意味は「何故私を大王に推薦してくれないのか?」である。

古人は前を向いて看ることを「見」、頭を回して看ることを「艮」と呼んだ。後先を良く考えると、イメージはとても単純明白である。「艮」は「眼」の本字であり、甲骨文の「艮」    は、立っている人が目を大きく開けて後を看ることを表す。金文の「艮」    は、「目が背後にある」というイメージを際立たせ、警戒して頭を巡らすことを強調している。『説文解字』は「艮、很、頭を巡らして睨み付ける(にらみつける)ことなり」字形は「匕、目」の会意を採用する。匕目は、まるで眼光が剣のように鋭い場合のように、睨み合って譲歩しないこと。『易』は「艮とは限」と言う。「匕目は艮の意味である。見知らぬ人に出逢った時、自分の眼光は必ずや相手の腰部にある刀鞘に釘付けとなり、相手から暗殺されるのを防止する。後に「艮」は意味が単純化され、篆文は本字に「彳」偏を加えて「很」「目」を加えて「眼」の字を作った。金文の「眼」    は振り向いて目を見張る「艮」    の前に縦「目」    を加えている。完全に振り向いて両目で見ることを表している。造字の本義は、「眼」は両目であり、人間だれしも両目があり客観的に世間を観察すること。

聞くところでは、魏晋時代の「竹林の七賢人」の一人阮籍は良く「青白眼」を使い分けたと言う。「青眼」はつまり黒目であり、両目で正視する時、黒目が多いことがつまり「青眼」である。白目をむき出している横目がつまり「白眼」である。阮籍は歓迎したくない人に対しては白眼視していた。『晋書・阮籍伝』に、阮籍の母親が死んだ時、嵇喜(けいき)が葬儀へ来た時、阮籍は彼を「白眼」視で(しらっと)迎えたが、その後、嵇康が酒と琴を以て阮籍を慰問した時阮籍は「青眼」にくるっと変わった。この話から、後に「青睞(セイライ)、好評」「白眼狼(恩知らず)」「翻白眼(白眼を向く)」「遭人白眼(白い眼で見られる)」などの言葉が生まれた。

「木」の上に「目」があれば「相」であり、遠くを観察することを表す。初期の甲骨文「相」    は「木」と「目」の上下の構造で、造字の本義は、古代人は木に登り、高いところから遠望し、遠くを見渡し警戒すること。後期の甲骨文の「相」     は左右の構造となっている。『説文解字』に、相は、省視(かえりみる)なり。字形は「目、木」を採用した会意文字である。「易経」では、「地に観るべきは、木に見るべきは莫し。」という。意味は地上で簡単に遠くを観察できる場所は、大樹以外はないと言うことである。『詩経』の詩句では「鼠を相(み)るに皮有るも、人にして儀無きあり。人にして儀無きは、死せざるも何をか為さん。」言っていることは、ある鼠に厚い毛皮があることを注目しなさい。隣の人には毛皮もなく、顔もなく、マナーもないこのような人は鼠にも劣り、生きていて何の用があるものか。

「目」が「性(心)」の下に在るものが「省」であり、本質を見極めることを表す。甲骨文の「省」    は小草「屮」   と「目」との構成である。「生」    は「性」に通じており、意味は本心、本能、欲望である。造字の本義は、心静かに瞑想し、内観し、自我の本性を細かく看、分ふ相応の考えを断ち切る。篆書の「省」     は金文の「生」を「眉」に似て「眉」にあらざるように書く。『説文解字』に「省、視るなり。眉の省に従い屮に従う。」という。

『説文解字』の解釈では、相は「御機嫌伺い」であり、「相」と「省」は同義語に属することができるようである。だが甲骨文の造字の由来から分析すると、許慎の解釈は粗略に失くしている。文字が初めて作られた殷商時代には、甲骨文は一字一姿、一意義であったからである。言い換えれば一字形と一つの意味があり第二の同義語はないのである。甲骨文の卜辞と『詩経』中の「相」と「省」の字義と用途には実に大きな差異がある。

「相」は目に従い、本義は目で一本の木を観察することであり、具体的な目標に相対的な観察を進行することである。『詩経』にも「爾の茅を相(み)る」「彼の泉水を相る」と言った語句がある。『詩経』に言及する爾の茅、彼の鳥、投兎泉水などは動と静があり、全て自然界で生き生きとしているものである。「相」の本義は一個一個の具体的な目標物、あるいは一株の樹木、一本の草花、あるいは一羽の鳥、一人の人を観察することである。そこから派生してなにかをチェックすることとなった。例えば甲骨の卜辞「日を相るに今允(まこと)に雨ふるか」は、つまり太陽を観察し日がかげるかどうか、今日雨が降るかどうかを見ること。

「省」字は「目」と「屮」に従う。甲骨文では「生」    の本義は「芽生え」であり、草の種が地面から目を出したばかりのこと。そして「屮」    の本義は、新芽が地面から萌え出て伸びることである。「生」の横一は地面を表し、地平線から草の芽「屮」が出ていることを表す。このことから、甲骨文の「省」の本義は生えたばかりの小さい草を目で注意深く観察し、同時にこの草がどのように成長するのかを観察することだと考えられる。こういう観察は、「相」の観察の深さよりも近い距離で、より深刻であり、小細さが必要であった。後に「省」字は詳細な観察に発展し、後に甲骨卜辞では、「省」字は商王専用の語句となりの例えば「貞(と)う、王往きて牛を省(み)る。」のように、帝王が自身の領地を視察、訪問する意味に使われた。『詩経』の305種の中で、「省」は二度出現しており、例えば「帝 其の山を省みる」「此の徐土を省る」のように、共に「君王の視察」の解釈に作っている。「省」と「相」のこの種の区別は『詩経』にあるばかりでなく、西周の『易経・観卦』の八卦にも「象に曰く、風の地上に行くは観なり。先王以て方を省み、民を観て教えを設く。」とある。ここでの「省」字は、「君王の熟視」の意味を完全に固定している。

反省、自省、共を深省するの「省」はみなセイ(xing=シン)と読む。また例えば唐代の「三省六部」、元代の「行中書省」など、官庁名称の「省」はショウ(sheng=ション)と読む。「省」は最高一級の地方政府であり、元朝に設置された。元代には首都付近地区を中書省に直属し、河南、江浙、湖広、陝西、遼陽、甘粛、嶺北、雲南などの場所に11カ所の「行中書省」略称「行省」を設置した。明代には15行省を設置し、長官は左右の布政使が担当し、一省の行政を担当した。戦争があると、朝廷の家臣が地方の巡視に派遣され、軍事を処理したので巡撫と呼ばれた。複数の省にまたがる軍事問題を遭遇して、巡撫が明けで解決しない場合は、総督が処理に派遣された。清代には行省は22カ所に増加し、巡撫は一省の最高行政長官とされた。総督は2〜3省の軍政事務を掌握し、全国には直隷、両江、両広、湖広、閩浙、陝甘、雲南、四川8カ所の総督を設立した。

古代人は深い眠りから朝目覚めた時に、すっきり目覚める状態を「覚」、泥酔してはっきりしない夢見心地の状態から精神が明晰になった瞬間の感覚を「醒」と言った。心慮が清浄で、真相を洞察することを「慧」と言い、精神を明らかにし、自我を発見することを「悟」と言った。これら一切は、全て自我の内「省」から来ている。

「夢」の初期の甲骨文       は「眉」    、「人  」    、「床」    の構成である。ここで「眉」はポイントの文字で、瞼(まぶた)を表している。造字の本義は、眠ってからの瞼の動きで、無意識に見聞きしていることである。後期の甲骨文の「夢」     では「眉」を「目」と書き、人物の前方に「爪」を加えて、手で目を蔽っ(おおう)て眠っていることを表している。『説文解字』に、   、     は明らかざるなり(はっきりしない意識)である。南宋の詩人陸游の『十一月四日、風雨大(はげし)きときの作』に「鐡馬 冰河 夢に 入り來たる。(夢に出てきた)」。

「學(学)」の「子」を略した「覺(覚)」の冠の部分は、獲得した経験や、知識を表す。金文の「覺(覚)」    は「學」    と「見」    との構成であリ、「學」は学習を通して獲得した経験であり、「見」は物事の真相を発見することである。造字の本義は、内在する経験によってある種の真相を獲得すること。


古代人は円を描く基準を「規」と言い、方格を描く基準を「矩」と呼んだ。「規」の篆書「規」の左側は「夫」であり、成人である。「見」は発見、観察することである。造字の本義は、初めて社会に出る後輩が先輩を観察して学習することである。


「雚」は「觀(観)」の本字である。甲骨文の「觀」    、  、   が描くのは一羽の大鳥であり、頭部は「」で、見つめる大きい眼に上部の一対の人目を引く「眉毛」であり、、梟(フクロウ)類の大きな目玉の猛禽類を表す。初期の金文「雚」   、   、   は基本的の甲骨文の字形を継続している。造字の本義は、      フクロウは大きく鋭い眼で鋭敏に察知する。本義が消失すると後期の「金文の「觀」    には「見」を加えて新たに「觀」を作り代替し、猛禽の大きな目の「及ぶところのない」洞察力を誇張した。常套句「馬を走らせ花を観、坐に井して天観る(表面を見、見識もない)」がある。


初期の甲骨文「眉」     字にも、瞳を表す「目」があり、その目を除いた偏旁は瞳の上の毛髪を表し、しかも同じ高さで瞳と連接して交差しており、この部首と「目」との水平の高さも重複している。高さが目と重複して瞳の上にある一筋の毛が「眉」毛である。後期の甲骨文の「眉」    は瞳     の上に一筋の皺(しわ)のある横線(瞼の二重)       があて嵌められている。     造字の本義は、目張りの上の横皺である。常套語彙としては、眉清目秀(眉目秀麗)、眉來眼去(色目を使う)、眉飛色舞(得意漫面)、眉開眼笑(満面喜色)がある。

「媚」の甲骨文     で、左の.    はスマートな女性であり、右の     は美しく長いまつ毛のつぶらな瞳をしている。造字の本義は、女性が目を見張り、自分の好きな男性を艶っぽく看ていること。


「牟」は、本来音声を形容しており、「哞(mou)」は素朴な牛の鳴き声である。「眸」の篆書「眸」は「目」と「牟」との構成である。造字の本義は、眼を下にして慎重に見、単純素朴な眼差しのこと。古代人は「明眸皓齒(メイボウコウシ)」は女児が美しく成長したことを形容しており、白居易は「眸(ひとみ)を廻らし一笑すれば百媚生じ、六宮の粉黛 顔色無し」と、傾城の美女楊貴妃を形容している。

「厓」は「涯」の本字であり、水際を表すので、篆書の「睚」は「目」と「厓」との構成であり、本義は「目頭、目尻」を指している。『史記・范雎蔡沢伝』に秦国の権臣范雎(ハンショ)は恩と怨みがはっきりしていたが、器量は狭小であったが、一旦権利を手にすると、すぐさま号令を発し、決断は思い切りが良く、恩と怨みははっきりし、「一膳の飯でも恩を忘れず、些細な怨みは必ず晴らす」の境地であった。

眼差し(まなざし)や視線に関する文字には睹、眺、瞻、曼、睦、蔑、眨、眯、冥、盲がある。

「者」は音符であり意符でもあり、「堵」の省略であり、遮る、塞ぐことを表す。「睹」の篆書の「睹」は「目」と「者(堵)」の構成で、「堵」は垣根で遮ることなので、不意に何かを見ることを指す。常套句に耳聞目睹(見聞する)、睹物思人(遺品で偲ぶ)、先睹為快(盗み見する)などがある。

「兆」は音符であり意符でもあり、予見を表す。「眺」の篆書の「眺」は「目」と「兆」との組み合わせで、造字の本義は目を細め遠望し、偵察して警戒に当たることである。『説文解字』に、眺は不正を目すなり。


「詹(セン)」は「瞻(セン)」の本字である。金文の「詹」の上部は体を低く抑え、潜伏している偵察兵を「人」で、下部は潜んでいる洞穴「穴」であり、内面の「言」は予言と警告を表している。造字の本義は、古代の偵察兵は岩窟に居住して、遠望警戒した。後に、「詹」の「高い所へ登り遠望する」本義が消失すると、篆書の「瞻」には「目」を加えて新たに「瞻」を作り、例えば瞻仰(仰ぎ見る)、高瞻遠矚(広遠な志)、瞻前顧後(慎重な考え)などと代替した。

「曼」の初期の甲骨文     は上下二本の手.    で目.    を抑えているように見える。後期の甲骨文の「曼」   は目     の四周に大きな被覆(ひふく)       を加えて、布で目を覆うことを表している。造字の本義は、目隠してるすること。『説文解字』に、曼は引くなり「引き離すこと)。展開して果たしてしない、尽きないの意味の「漫」となった。『楚辞・離騷」に、「路曼曼として其れ修遠なり。吾正に上下して求索せんとす」とある。「曼」      の「目の覆い」の本義が消失すると、「巾」字を加えて「幔」を作り、幔幕を表し、「心」を加えて「慢」を作り、「不本意」「不満足」を表した。つまり「曼」は目隠しする動作、「漫」は大水が氾濫する自然現象、「慢」は積極的になれない態度である。篆書「慢」は心と「慢」の構成で、造字の本義は、目隠しされた奴隷の態度が傲慢、怠慢であること。動作を表す語彙には、緩慢、慢車(各列車)、慢吞吞(ぐずぐずする)、慢条斯理(悠長)がある。

睦隣友好(=善隣友好)の「睦」は、金文では     と書く、其の主体は「三つの六」     であり、整然と並んだ田舎家であり、横で「見」   は、隣居同志が、友好的往来し、様子を見に相互に訪問することを表す。大篆     は.    を代わりに     を書き、「見」    を窓を表す「囧」    と書き、石鼓文の「睦」の字形に近い。篆書の「睦」     は金文の.    を.    に書き、田舎家.    を単純に     と書いた。『説文解字』に、睦 は、目順うなり(柔順な眼差し)。一説では、「睦」は相互に敬愛と和睦の意味である。



「蔑」の甲骨文     、 金文.    は「眉」「人」「戈」の構成であり、造字の本義は死刑を宣告された犯罪者が断首の死刑に臨むこと。『説文解字』に、蔑は、労(つか)れ目に精なきなり(活力の無い疲れ目)。

「乏」は、音符であり意符でもあり、欠乏を表す。篆書の「眨(ソウ、またたく)」はひとみの「目」と眠さで無気力な「乏」との構成であり、造字の本義は、眠さで注意力が散漫となり、うつらうつらと目を閉じる事。

「眯(ベイ、すがめ)」は瞼(まぶた)を垂らして、眼を細めにする事。初期の金文「眯」は糠(ぬか)の「米」と見つめる「見」との構成である。造字の本義は糠などの異物が人の目に入ってはっきり見えないことである。

上下の瞼を合わせることは「冥」である。甲骨文の「冥」    は   【房屋、陰宅、地宮)  と   (     双手 ➕   旦、世間の部屋のそっくり ) の構成である。金文の「冥」     の上部の「冖」  で、屋根を表し、下の       は、おそらく「目」の省略である。下部の「六(廬)」   は、家屋の主体である。造字の本義は、日没後、人が屋内で目を閉じ眠ること。「冥」  、   の「眠ること」の本義が消失すると、篆書の「瞑」では「目」を加えて「瞑」を作り代替した。『説文解字』に、冥は幽なり(夕闇である)。日時を計算すると、10日を1旬とする。旧暦の16日の過ぎの月はかけ初めて暗くなる。

また「目」と関係があり、3,000年間理解に難しくない、特別の意味のある文字がある。理由は簡単で、この甲骨文「望」   が象形文字だからである。初めの祖の主体「壬」   は「人」字であり、この人は高い場所から見上げて遠望している。「人」と「士」との構成で、身を直立する姿であり、詹の上部にあった「人」とは全く異なる。壬の人字の上部には誇張された大きな瞳があるが、これがつまり甲骨文の「臣」    であり、これは誠心誠意かしこまり注意深い人である。

つまり、この身を伸ばした大きな瞳の人は、高い所に登り、目を見開いて、ほんやり遠くを見つめているのである。我々にはこの人が一体何を見つめているのかはよくわからない。あるいは狩人が遠方のヘラジカの群れを物干しそうに見ているのかもしれないし、あるいは過程で妻が外出している夫の帰宅を心配しているのかもしれない。うっかり黄土高原に踏み込んで、目前に現れた非日常的な風景に立ち止まらずにいられないのかもしれない。曹操が泰山に登って磨崖碑を読み、滄海の潮の満ち干を眺め、風が雲を運ぶことを見たように。

殷商時代末期、金文「望」      は本字の右上に「月」    を加えて、満月の夜に、遥かな人も目を挙げ遠望して思いを託す気持ちを表している。『説文解字』に「望」    は、出でて外に在りて亡び、其の還るを望むなり(外地に流された親族が、帰京することを望むこと)。常套句に一望無際(果たしてない)、望塵莫及(遠く及ばない)、望而生畏(畏れて近寄らない)、望而卻步(尻込みする。)、望風而逃(様子を見て逃げる)、望洋興嘆(大を見て小を嘆く)、望梅止渴(妄想で慰める)がある。

甲骨文の「見」    と篆書の「看」を比較すると、「望」    字は面白みがある。いずれにせよ意識的に高く登って眺望することに始まり、また無目的にそぞろ歩きして意外なことに足を止めて、我々はそれが人物の動作の一連を包含することを陽気に察知している。望見する一瞬に、人々は足を止め凝視し、視線を現実空間の一点に集中すると同時に、時は突然止まる。

そして、「望」字も発展していて、未だ完成していない「看」とも言える。完成していない理由は、そこにいるものがまだ完全に見ていないからであり、またはっきり見えていても、心中は取り留めもなく朦朧としてはっきりと思考が纏まらないためである。極論すれば、こういう観察者は特定の対象の行為を期待しており、根本的に現れなければ、将来的に出現することがないと恐れているのである。

秦代末期、天下は大乱した。秦の二世皇帝は横暴な課税をして残酷に人民を虐待し、安心して生活ができなかった。誰もが秦二世の転覆と王朝の交代を切望し、更に人民が良い生活を送れるように、後継者が秦朝の厳しい法律を撤廃することを願った。残念なことに、西楚の覇王項羽は秦朝を倒した後に罪無き人々を殺害してしまった。彼は前線で20万人の戦争捕虜を穴埋めにして、関中に入り秦人達の年配者達を妄りに殺害し、また墳墓を盗掘し阿房宮を焼き払った。その結果、秦人達は大変失望した。この例は、「望」字は目の動作を表す以外に、凝視、期待、また孤独、喪失、挫折の意味まである。

《三国志・蜀志・諸葛亮伝』に、後漢の最後の皇帝劉禅の建興す三年(紀元225年)、南蛮王孟獲は雲南・貴州高原の各方向の蛮族と反乱を起こしたので、諸葛亮は大軍を率いて南征した。彼は敵を待ち伏せ誘致する計略で、錦帯山で孟獲を捕えた。諸葛亮は戦争俘虜達に食事を与え、その後全員釈放して、「お前達の父母兄弟、妻子達はみなと口で待っているだろう。もし敗戦を聞いたならば、きっと腹わたをかきむしり(割肚牽腸)、血の涙を流して待ちわびる(望眼欲穿)であろう。君達は戦いを止めてすぐ家に帰るべきだ。熟語の「望眼欲穿」「割肚牽腸」は同じ意味で、大きな気掛かりや不安心を形容している。

李白の甲骨文の「望」字を書いているような詩があり、「高丘に登り、遠海望む、六鼇の骨は巳に霜となり、三山は今 安くにか在る、扶桑 半ば摧折し、白日 光彩を沉む、銀台金闕 夢中の如く、秦皇・漢武 相い待す。」詩で言及している「六鼇」とは、神話世界の六匹の神亀であり、大地の果てを取り囲み、天柱を支える海上の仙山を背負っている。「三山」とは、東海にある蓬莱、瀛州、方丈という名の仙山である。「扶桑」は、日の出の地の火を恐れない天に通じる仙木であり、毎日陽が西に沈む時、三本脚の金の鳥が太陽を背負って此処へきて樹上に休み、翌日太陽はここから昇ってゆく。凡人の目で、どうしてこのような神仙世界を見ることができたのであろう。雄大な知恵と雄才大略の秦の始皇帝、漢の武帝でさえも、生死老病と言った自然界の決まり事からは逃れられず、辛抱強く道を探って仙人となる事を夢見るしかなかった。

毛沢東の秦の始皇帝や漢の武帝に対する評価は、全て「文才に欠ける」という事で、全く間違えとは言えない。毛沢東がこの「望」という文字をどのように使用したのかを見て見ると、遠望するには好天を選んで高くへ登り、また活動を照合するものが必要で、更に感慨を催す情景で、雄大な理想を表現する必要がある。毛沢東は中国工農紅軍を引率(いんそつ)して、高い六盤山に登り、嘗て『清平楽・六盤山』一種を書いた:天高く 雲淡く、南飛の雁を望断す。長城に到らざれば 好漢に非らざる、屈指の行程 二萬。六盤山上の高峰、紅旗 西風 長纓(チョウエイ)手に在り、何れの時か 蒼龍を縛り住(とど)めん。

我々が目の動きを形容する時、しばしば「看」と「望」を使う。「醤油を買いに行くだけ*」の通行人Aは、行く必要のない所に入った時、往々にして、「見に来た(望望)」ではなく「見てるだけ(看看)」と言っている。もし友達に合うために出かけたら、だれだれに「会い(看望)」に来たと言うであろう。この事から、「望」は、目的があり、単純に「看」字と比較して、動作や、意識、集中してみることや、躊躇いの動作による時間的な暗示まで包括する。「瞭望(眺望する)」「希望」「盼望(切望する)」「守望相助(見まもり互助)」「等待観望(形勢伺い)」「大失所望(大いに失望)」等等を想像してください。渇望を表す「魍魅(モウミ)」、希望を表す「望子成龍(子供の出世を望む)」などに至っては言うまでもない。これらは、理解出来ても言い表せない情報を含んでおり、言い尽くせない意味を見出すには詳細に琢磨することである。

陶淵明の『雑詩』に「菊を採る東籬の下、悠然として南山を見る。」とある。この詩の「見」字の用法は適切でないので「望」に帰る方が最良であるという意見があったが、蘇東坡はこの考えには反体した。蘇東坡の『東坡題跋·淵明の飲酒の詩の後に題す』に、「菊を採るに因りて山を見る、境と意会して、此の句に最も妙有る処なりしが、近歳俗本はみな『南山を望む』に作る。則ち此の一篇の神気都(み)な索然たり(=望にすると味気なくなる)。」と言っている。彼蘇東坡は芸術的観点から「見」の素晴らしい点を論述した。実際陶淵明が、「望」を使用せずに「見」を使ったのは、詩人の文章能力と文字素養を物語るものである。

古代中国語では、「望」字は主に「登高望遠(高所から遠望する)」を指している。もし「悠然として南山を望む」と書けば、「南山」の優美な風景が、客観的には作者と遠く離れるだけでなく、主観的にも心中に何もなくなり、作者が遠く離れてしまうのである。この「見」字に改めることは、つまり遠くの南山を作者の眼前に浮かび上が施ることである。正にこの「見」字は、陶淵明の「五斗米の為に腰を折る」として、暗黒の官庁を離れ、田園に隠居し、菊を摘みながら、遠山の景色を楽しむ自由な生活を、紙面に躍如させている。人間の景色は尽く作者の眼底に収まるのに、官界ではなぜこの楽しみを享受できないのかとも言える。このように「見」字は近くの東籬、遠くの南山を渾然一体として全て「境地に入」って、作者の超人の境域を突出している。

東晋の名士陶淵明は低い家柄の出身で、9歳の時に父親が亡くなり、家運が傾いたので、彼は妹と母親と共に母方の祖父の家で生活をした。不幸なことに彼が12歳の時に母親もまた病死し、天涯ただ二人で助け合うしかなかった。彼の外祖父孟嘉は儒学に通じたインテリアであったことが幸いして、陶淵明は彼とたくさんの書物を読んだ。東晋の孝武帝の太元18年、29歳の陶淵明は初めて出仕して江州の教育行政の長祭酒を担当した。当時は門閥制度が厳格で、彼は本家筋でもなかったため、同僚からは軽視され、根本的に官界の裏社会に足掛かりはなかった。13年間の点々とする無断な時間を過ごし、紀元405年に陶淵明は難関の彭沢県知事となり、就任81日で、潯陽郡督郵が彭沢県の試験幹部へ来た(中国では郡上県下)。経験豊富で、慎重派の部下が陶淵明に、この督郵は農村の子供であるが、彼は監查の権力を掌握しており、万が一でも機嫌を損ねないように、(督郵の)行く先々で、「束帯(正装)の礼儀でもって歓迎すべき」であると忠告した。これを聴くと陶淵明はため息をついて、「吾れ五斗の米の為に腰を折り、拳拳として郷里の小人に事(つかえ)ること能わざるや。」と言って、印綬を返して職を去った。

陶淵明は若い頃から「猛志 四海に逸(はひ) る」大志があったが、当時の門閥制度は厳格で、名家の子弟には一生明るい未来が待っていた。社会に対して彼らは一種「事不関己高高挂起(そんなの関係ねえ)」の態度であったが、一見孤高隱棲のようであるが、実際は君子危うきに近寄らずなのである。こういう人間は冷徹利己的で、直接悪事を働かないが、見返りもなく良いことはない。更にまずいことには、劉裕は権力を掌握すると(陶淵明伝の)一般人「郷里の小人」を重要した。こういう人事の原則は「人は己の為めならず、天地誅滅す(自分のためには他人を犠牲にする)」であり、彼らは恥も知らず、利益第一で、自分が有利でありまた一切を顧みないことができた。陶淵明は当時の残酷な社会の現実を見た、世襲高官名士と親近な小人は本質的には区別がなく、彼らは手にした権力をあらゆる手段を私利私欲に使った。利益を最大限度にするため、この政界の達人はどこにもない利益膨大な共同体を結成した。彼らは相互に結託し、相互に庇護し、相互に喧伝し、相互に提携し、相互に利用した。個人の利益に関係する限り、士族、庶民に関係なく一穴のムジナであった。個人の出世蓄財のためには、国民を災損しても、塗炭の苦しみに陥れても、躊躇することはなかった。官界には私欲の網が天地を覆い、様々な邪悪勢力の手練手管を弄している。孤立無援の陶淵明は防ぎようのない邪悪の包囲網で、将来どんな運命があるのが想像も付かなかった。陶淵明は国や民を愁い、時に国家と国民の利益を考え、自然とこの甘い汁を吸う輩達とは水と油のように合い入れなかった。

陶淵明は29歳の時に仕官したが、それは元々の東晋であるかまたは後の劉宋であり、彼は祭酒(学政)、従軍、地方役人のような、胡麻緑豆のような子役人で、「衆生を救う」という勇壮な感情は根本的に発展できず、目標を下げざるしかなく、身を公職の人物のうわべに合わせるしかなかった。彭沢県知事を辞任すると、彼は一生官途に就かず、反省することもなく田園へ隠匿する路を歩み始めた。曲がった道を選ぶより、むしろ真っ直ぐな道を取るべきである。

「直」の甲骨文     は瞳.    に縦線が真っ直ぐ     入っており、眼光を前方に向いていることを表す。造字の本義は、正視し対面して裂けないこと。金文の       「直」は甲骨文の字形が継続している。

「直」の「前方を正視する」本義が失われると、篆書には「人」を加えて「値」を作り代替した。

熟語の「得を以て怨みに報う」は孔子の『論語』から出て、元は「徳を以て怨みに報う。何を以てか徳に報いん。直を以て怨みに報う。徳を以て徳に報いん。」である。徳を以て得に報うの意味は明白で、解釈の必要もなかろう。いわゆる「直」は、「公正、正義」の行為であり、筋が通ればざっくばらんとなる。

「直」と「民」は相互対象の同源の文字である。「直」はし眼光が前を向き真っ直ぐ直視しており。「民」は視線を下に向けている。「民」の甲骨文   は瞳     の下に手「十」    を加えている。この.    は手の「又」の簡単な書き方であり手でつかむことを表す。造字の本義は、手に刃物を持って捕虜の目を刺し潰し、逃亡しないようにして、従順な奴隷としたこと、瞳を失明した奴隷は「僮」と言った。後に「民」の奴隷の本義が消失すると、その字は「数多くの民間人」の意味に変化した。そこで篆書の「岷」には.    字の隣に    「亡」(去失)を加えて新たに「氓」を作り代替し、両目を失明した奴隷を強調している。「民」の本義は瞳を針で指すことで、また視線を下に向けることで、瞼が閉じて睡眠状態にある意味でもある。氓山とは山頂が(眠ったままで目覚めないような)万年雪の峰である。「眠」は瞼が下がり熟睡している状態を表す。「抿」は例えば頭髪を剥いたり、微笑むように、手で閉じたり撫でるように軽く払うことである。「泯」は、瞼が目を覆い一切を見えなくするように、大水が覆い尽くすこと。「氓」は視線を塞がれ、前方が見えず、あちこち放浪して、食うや食わずの職もない浮浪者のことである。


この小型の跪いた玉人は、婦好墓中から出土した。彼は全くハンサムでもなく、恐らくただの奴隷である。小型玉人の両手は真面目に膝の上に置かれ、そこへ長く坐っていたものである。彼の瞳は大きく、素直に、目を上に向け、まるで何かを待っているようである。これが典型的な「民」なのである。

古代の民衆は負担が大変大きかった。自分の田畑を耕作するだけでなく、人頭税や、地籍献金、また大量の雑役の負担も必要であった。例えば造船舗装、城壁の修造、家屋の建設、水利の設置工事、埠頭や倉庫の建造などである。これらいわゆる「雑役」じゃ実際には無償労働である。朝廷のために無償で働くばかりでなく、何の賃金もなく、うまく働かなければ、むち打ちされ虐待された。病気になっても休めず、疲れ死んでも補償はなかった。民衆が雑役を引き受けた時、しばしば監督によって生殺しにさえされた。そのほか生産工具と生活用品、更に食事さえ自己負担であり、官庁は提供もしなかった。いづれにせよ雑役は比べようもなく苦痛なものであった。歴史的に雑役の重荷が原因で爆発した動乱は少数ではなかった。元末の農民の武力闘争の期間に、民衆が発した悲痛な叫びは、今日読んでも感動的な内容である。「天高く皇帝遠し、民少く相公多し。一天三遍打たれ、反せずして何をか待たん。」

「臣」は「目」の変形であり、「臣」の甲骨文     は下を見ている様子である。造字の本義は、首を下げて、屈服して命令を聞くこと。『説文解字』に、「牽くなり、君に事えるなり。屈服の形に象る。」臣は人に導かれることで君主への奉仕を表す。字形は屈服する様子である。古代の官吏は帝王の監督でもあったので、この「臣」も瞳を表している。


甲骨文の「目」「臣」「盲」の三文字は大変似かよっている。横に書いた「目」    は正常な瞳を指している。「臣」    の縦書きなのは目線を下に向けた瞳であり、商王の家臣を表す。往(臣)      字の中間に点を加えると、瞳を刺している意味で、瞳の視力がなくなったことを意味する。金文「盲」は失うことを表す「亡」と「目」との構成で、篆書の「盲」は金文の字形を継承している。『説文解字』に、盲は、目に牟子(ボウシ=瞳)無きなり。段玉裁の注に「牟子無きとは、白黒別れざるこれなり。今俗に青盲と謂う。」瞳はもう見えなくされているので、眼中に傷跡が残り、同時に身分記号を止めている。茫然としているのは、敵石から来た捕虜である。

西周から清末まで、誰も殷商時代に甲骨文があったことを知らなかった。そのため甲骨文の「臣」字は、許慎も見たことがなかった。もし許慎が甲骨文を知っていたならば、彼はああいう解釈をしなかったであろう。甲骨文の「臣」は、はっきりと左目の眼球が飛び出した(ひっくり目の)、人の片目を描いており、一心に感心していることを表している。許慎が見た篆書は、背を屈めたようであった。そのため許慎の解釈した「臣」は文武百官が皇帝の面前で背を屈め身を丸めていると、この「臣」の字を曲解している。実際には甲骨文の「臣」字の書き方は、目線を下に向けた瞳であり、意味は「瞳を大きく見開きじっと見る」ことである。

現代では、あるリーダーが某所を「視察」すると言うが、この視察の動作が、つまり「臣」と「監」の古い意味と関係している。この「同時監理」の「監」字を見ると、甲骨文の「監」    の左にいは水盤「皿」     であり、片側は人が「見」    であり、大きく目を見開き鏡を覗き込んでいる。造字の本義は、水盤に写る自分の面影を見ること。遥か古代には水盤に水を以て鏡とし、殷商時代以後は青銅鏡があり、人々は水盤をを鏡にすることは無くなったので、元の字「監」に「金」を加えて新たに「鑑」字を作り「監」と代替した。『説文解字』に、監は、下を臨むなり(俯瞰す)。  

大駕光臨(来訪)をリードするの金文の「臨」    は会意文字である。右上の「人」の身分は頭を垂れて下を向いていて、「臣」は多くの細かいもの(品)を見ていることである。造字の本義は、首を下げ観察すること。「臨」と「監」には「臣」があり、特に「群衆の仕事を見張る」監督と、監督の動作をさしている。「督」字の下にも「目」があり、やはり目で看ることである。「臣」は最初末端でみんなのすることを管理する人員を指し、「看園」「看場子(地回り)」「奴隷の管理」の責任を負い、君主の臣下、リーダーの部下、また「小臣「大臣」「臣服」等等の意味に発展した。


「癸」は、声符であり意符でもある。大勢で十字形の柄のついた地突き棒を共同で持ちあげるヨイトマケを表している。金文の「睽(キ、みはる)」     は両目と多人数の共同作業を表す「癸」との構成で、篆書の「睽」は金文の「双目」を       と書き金文の「癸」と「」を書き、象形の様子を完全に失っている。造字の本義は、「衆目睽睽(衆人環視)」のように多くの人間が同時に注目すること。『説文解字』に、睽は、目して相い聴くかざるなり(相互に睨めつけ、譲らないこと)。

『三国志・劉表伝』に、後漢の末に諸侯が割拠したと記す。劉表の傭兵10万人、荊州の雄と称した。彼見た目は知的で優雅であったが、内心は疑り深かった。西暦200年、曹操と袁紹は中原に覇権を争い、官渡の戦いで意気盛んになった。双方は使者を荊州に派遣し劉の支持を争奪しあった。劉表はお茶を濁して口先で回答したが、実際には兵も動かさず様子見をしていた。劉表が両方に登記するようなやり方は部下から疑問視されていた。ある日、策士韓嵩は「曹操と袁紹は互いに譲らず、軍は均衡している。もし大きなことをしたいのであれば、両雄闘争の機会に乗じて、漁夫の利を得るべきである。そうでなければ、善い方を選んで従うべきである。もし曖昧な態度を継続すれば、あなたも中立を保てなくなる。」と忠告した。韓嵩は更に「曹操は明晰な賢君であり、天下の賢俊が推戴しているので必ず勝利するだろう。一旦袁紹を撃破すれば彼は江漢を進攻するために兵を移動するだろうが、その時には抵抗することは難しいであろう。だから曹操に就くのが完全策である。」と付け加えた。劉表は依然訝しんでいたが、「今のように天下が大乱すれば、決心するのは難しい。目下曹操は許昌で、彼らの動静虚実を、あなたが私の代わりに先に入って偵察するのはいかがであろう」と詳しく説明である。韓嵩は劉表が不安定な心境のまま自分が手伝いを派遣しても、何の結果萌えないことは必至であろうと、衆前で劉表に「私はあなたの部下であり、力を尽くします。煮え湯も熱い火も辞さずに踏み超えます。しかしあなたが私を首都に派遣する気がないのならばどうしようもない。もし皇帝が私を職に封じたならば、私はあなたの部下ではなく皇帝の臣下となってします。道義的に言えば、もはや将軍のために死を賭すことはできなくなります。その時、私に難癖をつけないでください。」と忠告した。劉表はこの話を聞くと、あなたがまず行ってみてどうかと言ってくれと、言葉を濁した。

劉表は、曹操の真相を探る目的で、韓嵩を漢の献帝に面会させる名目で許昌へ派遣した。しかし抜け目のない曹操は、これが韓嵩を抱き込め、劉表集団を分裂させる絶好の機会であるとすぐに気づいた。そこで曹操は献帝の名義で韓嵩を侍中の役職に封じ、零陵の太守に遷した。韓嵩ももとは「官吏」であったが、地方に割拠する軍閥の与えた官であり、かつ「偽せの官」で、曹操が彼に与えたのは朝廷の官吏であり「正統」なものであった。この前程がどれほど大きいかは誰にも明白であった。これは曹操が「皇帝を介して諸侯に命ずる」最大の政治的優位性であるので、曹操はは永遠の正統派なのであったこの種の高官高給の「現生」の攻撃の威力は大変強かった。劉表は「鶏を偸 (ぬす)んでならず返って一把の米を蝕まれる(=かえって損をする)」で、情報を得ようとして、自分の情報を相手に送ってしまった。

更に悪いことに零陵は本来劉表の地盤(本拠地)であった。曹操は山を指して宝石を売るような人であり、それを韓嵩に送った。韓嵩は許昌から零陵へ赴任するのに、荊州を通らなければいけなかった。韓嵩は荊州へ戻ると誰にも曹操を高く評価してたので、劉表のヘソを曲げさせた。彼は韓嵩を恩知らずの叛逆者と考え、数百人の部下を招集して大会を開き、ホールに死刑執行人をひそませ、韓嵩を斬首にするための公開裁判を準備した。

韓嵩がホールへ進むと、劉表はいきなり「韓嵩の裏切り者、よく反逆したな。」と切り出した。しかし韓嵩は驚きもせず、正気凛々として「(韓)嵩は早く己に言の先に在れて有り、今日のことは、是れ将軍嵩に負け、是れ嵩の将軍に負けざるなり。」劉表は言葉を失った。劉表の妻はこの情景を見て声潜めて、「韓嵩に頗る声望あり、况んや且つ理直気壮(筋が通って理にかなっている)。彼を殺せば恐怕(おそら)く衆人不服ならん(納得しないであろう)。」と忠告した。劉表は自身が理にかなっていないことを知っていたので、韓嵩の死罪を赦免して。彼を監獄へ投獄した。8年後に劉表が病死すると、劉琮は曹操に降伏したので韓嵩は九卿の一つの大鴻臚に抜擢された。熟語の「赴湯蹈火(例え火の中水の中)「はこれに由来するが、意味は沸き立つお湯や、灼熱の火の海でも、敢えて踏み超え、困難・危険を恐れず、勇気を持って前進する例えである。

これから、曹操と劉備玄徳が酒を酌み交わし英雄を語り有った時に、曹操が劉表を見掛け倒しの「護衛犬」と風刺したのは、道理の無いことでもなかった。