山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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イギリス人フォークソンと煙台の物語

1861年、フォークソンは煙台にフォークソン会社を設立し、煙台が開港して以来、主に海運業に従事した最初の外国海運貿易会社でした。

1867年、フォークソンの船はカーディフ湾から煙台への直行便を運行し、1907年には煙台山西側の太平湾の北に「フォークソン・ピア」と呼ばれるターミナルを建設しました。実業家として、フォークソンは煙台とその内陸部間の輸送の不便を深く理解しています。1867年5月、清国駐在のイギリス公使のアリ・グオが各通商港を訪れ、煙台に到着した後、フォークソンは煙台から済南鉄道の建設に関する大胆な提案を初めて提出した。1867年7月、煙台の英国領事となったフォークソンは、彼が清国政権に鉄道建設の要請をするのを助ける為に、再びアリに手紙を書きました。計画中の鉄道の出発点は煙台で、莱州、維県、青州を経て済南に到着しました。しかし、アリは計画に自信が持てており、フォークソン氏に「鉄道建設が承認される可能性は低いが、条件が許す限り責任を負う」と述べた。

冷遇の後、フォークソンは落胆しなかったが、その後、煙台のベルギー領事としての地位を利用して、1871年11月にベルギー外務省に鉄道建設の提案書を提出したと伝えた。

彼の計画はより壮大です:鉄道は煙台から維県、済南、天津に北京に直行しますが、まだ何の反応も得られていない。1875年2月、フォークソンの帰国中、彼は再び英国外務省に鉄道建設を提案した。間も無く、外務省は、彼らが計画を正式に支持する為に大清の英国公使に指示出来ないと答えたが、文書は彼に直接渡されます。その後、何も返事がないままに終わらめません。

1937年にイギリスのアメッドによってコンパイルされた「図説煙台」の本の中で、彼は事件に言及しました:“煙台鉄道計画の最初の議論は、1868年に遡り、煙台に設立された英国の商業会社、フォークソンは、当時の英国の首相にこの提案を行ったが、それは海に沈んだ。それから7年後、フォークソンは北京の英国大使館に再び同じ提案をし、何の結果も得なかった。”

注:1914年には、煙台龍口の日本商人、龍口洋行監督田中末雄は、「龍口から満洲への鉄道は交通の近道」、龍維鉄道は「済南・奉天への近道」という理由で、龍口から維県までの鉄道計画を提案し、日本政府に手紙を出しています。この提案は日本政府から高く評価されていたが、第一次世界大戦であった為、一時的に棚上げされた。

注:煙台市公文書館には、1914年頃煙台に駐留する米国モービル石油会社のディーラーであるモービル洋行によって描かれた山東省の鉄道設計図が保管されています。

また、2つの未修理の鉄道ルートがマークされ、一つは高密・徐州鉄道で、もう一つは煙台・維坊鉄道は煙台から蓬莱、龍口、莱州を経由し、維県と膠済鉄道が合流する。この設計図の背景には、モービル洋行が煙台・維県の鉄道建設を支援した背景があります。

注:1898年、ドイツは青島を占領、青島はドイツの殖民地となった。ドイツは山東省内陸部との貿易を急速に発展する為、清国と「膠澳租借条約」を締結し、1899年、ドイツハインリッヒ皇子夫妻の臨席の下、青島から済南までの膠済鉄道の起工式を開いた。大港建設の着工が翌年の1900年であること、ドイツが膠済線の敷設を如何に重視し急いでいた。膠済線は膠州湾の青島と山東省の省都済南を結ぶ、山東省を横切る大動脈である。邯濟線と一体となり、山西省の石炭を、青島の港へ運ぶ南ルートとしての役目も担っている。

膠済線の全通は、山東省の経済に大きな変革をもたらした。それまで、山東省の貿易拠点は芝罘(煙台)であった。ただ、芝罘までの内陸部輸送は馬車輸送であったから、輸送日時とコストの点で鉄道輸送に太刀打ち出来ず、膠済線全線の開通と共に山東省の貿易は青島港に重点が移り、青島港の貿易は数年ならずして芝罘を追い越してしまった。更に津浦線を経由して天津から輸出されていた河北省・河南省など内陸部の産品の一部は、済南を中継して膠済線を経由し、青島から輸送されることとなった。膠済線はこのように中国北部地方の経済・物流に大きな影響を及ぼしたのである。

最後、ドイツは山東省が自分の勢力範囲と認めて、煙台と威海衛の鉄道建設を牽制して利益独占となった。