威海衛のイギリス総督ロックハートが済南を訪問
1903年の済南は、イギリス威海衛の役人ロックハートが済南を訪問し、清兵の鼓笛隊が歓迎した。
1903年、当時の威海衛行政長官ロックハートは山東省周馥の求めを受けて、山東地内の訪問視察をした。彼の引率(いんそつ)で外輪(蒸気機関車)に乗って海岸線に沿って羊角溝鎮入り口から入り、その後乗船して小清河から西南に向かい、済南黄台橋埠頭から上陸した。
本画像は当時彼が最初に訪問した山東の省府済南の様子である。
1903年の黄台橋埠頭。小清河沿岸に波止場(はとば)が林立し、黄台橋埠頭は最も有名な一つであった。そこは済南から渤海へ向かう唯一の出入り港であった。清末時期、黄台埠頭は大変に繁盛(はんじょう)し、済南海塩の進出中枢であった。
黄台橋埠頭はやじ馬で満ち溢れ、周辺の人々は役人が来ると聞いて、高い鼻で青い目の西洋人の様子を見に見に掛け寄って来た。
河岸に立って西洋人を待つの儀丈隊、後ろのやじ馬の人々、その中には婦人や子供も高い所に居て、役人も多く立っていた。
前列の歩兵は礼装帽のような帽子をかぶってきたが、明らかに西洋風の影響が東洋に及んだ結果であった。後列のかぶる帽子は伝統的な抹額(まっこう、額当て布)であった。現在の審美基準では、抹額は不格好であった。面白いのは、兵士の傍らでは、庶民が地上に残った住宅根をちょうど抜いていて、おそらく現場の美観をよくするためであった。
上陸後、ロックハート一行は騎馬で黄台橋から済南府へ進んだ。道沿いに1,500名の清兵が黄道沿いで銅鑼と太鼓を打ち鳴らして歓迎を示した。
済南の城壁には色とりどりの旗がはためき、官兵は早々に城外に隊列で待ち構えたが、左側には銅管(ラッパ類)の楽隊だが、前面に立つ隊長はちょうど欠伸(あくび)をして、待つのに疲れたのか喫煙中毒なのか知れない。
同じ角度で連続撮影された二番目の写真では、騎馬の役人が右側立つ隊列の後ろ回り込んで、まるで並列(へいれつ)を巡視しているようで、銃を持つ兵士の隊列もきちんとせず、精神は萎え(なえる)ていた。
済南城外の石橋のほとりには出迎えの場面が整えられたが、場所は大変広く、橋から遠くないところで、また吹奏隊が待ち構えた。近景には橋に敷き詰められた絨毯を見ることができた。
会場の中間には、兵士が列を組み行進し、橋の袂(たもと)にはやじ馬と多くの腰輿が満ち溢れた。遠くを眺望すれば、連綿と起伏する千仏山を見ることができた。ロックハートは白馬に乗り儀仗隊を検閲したが、一名の長い辮髪の馬夫が前面で彼を助けて手綱を引き、傍らには麦藁帽の中国の役人が随行した。
ロックハートと歓迎者達の記念写真、右側はバーンズ大尉、大尉の横には嘗て山東大学堂校長の周学熙である。彼は山東巡撫周馥の四男である。
来訪者は山東巡撫役所を訪れ、歓迎の隊列には同様に吹奏隊がいて、銅鑼太鼓の吹奏者の後ろには、高大な画像の屏風が掛けられた。ロックハートは中国通で、「洋儒生(西洋人儒者)」と称し、中国書画、貨幣と工芸品の収集を大変好んだので、(屏風の)この配置はちょうど良かった。
兵士は巡撫役所の中庭で両隊に隊列して、ロックハートの検閲を待った。これらの兵士の動作を注目すると、左手に銃を握り、右掌で銃床を支えていた。
66歳の山東巡撫周馥と来訪者の記念撮影
周馥は清末の山東巡撫、両江総督、両広総督などの職に任じられ、李鴻章に随って30年余りの長きをに務め、清末淮系(派)の集団の中で大変功績を樹立し影響のある人物である。
来訪者と当時の済南の主要な役人との記念撮影。ロックハートは威海衛の行政長官に任じられた期間、山東との政治要人との関係を重視し、1903年から1909年の期間に、彼は前後三回済南を訪問した。
周馥の子とロックハートの記念撮影。周馥には6人の子があった。長男周学海、次男周学銘、三男周学涵、四男周学熙、五男周学淵。
画像の青年の年齢から見ると、当然周馥の一番小さい子の周学輝で、後に有名な企業家となっている。
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