山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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威海衛のイギリス総督ロックハートが済南を訪問

1903年の済南は、イギリス威海衛の役人ロックハートが済南を訪問し、清兵の鼓笛隊が歓迎した。

1903年、当時の威海衛行政長官ロックハートは山東省周馥の求めを受けて、山東地内の訪問視察をした。彼の引率(いんそつ)で外輪(蒸気機関車)に乗って海岸線に沿って羊角溝鎮入り口から入り、その後乗船して小清河から西南に向かい、済南黄台橋埠頭から上陸した。

本画像は当時彼が最初に訪問した山東の省府済南の様子である。

1903年の黄台橋埠頭。小清河沿岸に波止場(はとば)が林立し、黄台橋埠頭は最も有名な一つであった。そこは済南から渤海へ向かう唯一の出入り港であった。清末時期、黄台埠頭は大変に繁盛(はんじょう)し、済南海塩の進出中枢であった。

黄台橋埠頭はやじ馬で満ち溢れ、周辺の人々は役人が来ると聞いて、高い鼻で青い目の西洋人の様子を見に見に掛け寄って来た。

河岸に立って西洋人を待つの儀丈隊、後ろのやじ馬の人々、その中には婦人や子供も高い所に居て、役人も多く立っていた。

前列の歩兵は礼装帽のような帽子をかぶってきたが、明らかに西洋風の影響が東洋に及んだ結果であった。後列のかぶる帽子は伝統的な抹額(まっこう、額当て布)であった。現在の審美基準では、抹額は不格好であった。面白いのは、兵士の傍らでは、庶民が地上に残った住宅根をちょうど抜いていて、おそらく現場の美観をよくするためであった。

上陸後、ロックハート一行は騎馬で黄台橋から済南府へ進んだ。道沿いに1,500名の清兵が黄道沿いで銅鑼と太鼓を打ち鳴らして歓迎を示した。

済南の城壁には色とりどりの旗がはためき、官兵は早々に城外に隊列で待ち構えたが、左側には銅管(ラッパ類)の楽隊だが、前面に立つ隊長はちょうど欠伸(あくび)をして、待つのに疲れたのか喫煙中毒なのか知れない。

同じ角度で連続撮影された二番目の写真では、騎馬の役人が右側立つ隊列の後ろ回り込んで、まるで並列(へいれつ)を巡視しているようで、銃を持つ兵士の隊列もきちんとせず、精神は萎え(なえる)ていた。

済南城外の石橋のほとりには出迎えの場面が整えられたが、場所は大変広く、橋から遠くないところで、また吹奏隊が待ち構えた。近景には橋に敷き詰められた絨毯を見ることができた。

会場の中間には、兵士が列を組み行進し、橋の袂(たもと)にはやじ馬と多くの腰輿が満ち溢れた。遠くを眺望すれば、連綿と起伏する千仏山を見ることができた。 ロックハートは白馬に乗り儀仗隊を検閲したが、一名の長い辮髪の馬夫が前面で彼を助けて手綱を引き、傍らには麦藁帽の中国の役人が随行した。

ロックハートと歓迎者達の記念写真、右側はバーンズ大尉、大尉の横には嘗て山東大学堂校長の周学熙である。彼は山東巡撫周馥の四男である。

来訪者は山東巡撫役所を訪れ、歓迎の隊列には同様に吹奏隊がいて、銅鑼太鼓の吹奏者の後ろには、高大な画像の屏風が掛けられた。ロックハートは中国通で、「洋儒生(西洋人儒者)」と称し、中国書画、貨幣と工芸品の収集を大変好んだので、(屏風の)この配置はちょうど良かった。

兵士は巡撫役所の中庭で両隊に隊列して、ロックハートの検閲を待った。これらの兵士の動作を注目すると、左手に銃を握り、右掌で銃床を支えていた。

66歳の山東巡撫周馥と来訪者の記念撮影

周馥は清末の山東巡撫、両江総督、両広総督などの職に任じられ、李鴻章に随って30年余りの長きをに務め、清末淮系(派)の集団の中で大変功績を樹立し影響のある人物である。

来訪者と当時の済南の主要な役人との記念撮影。ロックハートは威海衛の行政長官に任じられた期間、山東との政治要人との関係を重視し、1903年から1909年の期間に、彼は前後三回済南を訪問した。

周馥の子とロックハートの記念撮影。周馥には6人の子があった。長男周学海、次男周学銘、三男周学涵、四男周学熙、五男周学淵。

画像の青年の年齢から見ると、当然周馥の一番小さい子の周学輝で、後に有名な企業家となっている。