旅順黄金山海水浴場の歴史沿革
黄金山浴場は大連地区で最も早くに開発された海水浴場である。旅順港東部に位置して、青山を枕とし、黄海に面しており、東は模珠礁、西は黄金山電岩砲台である。此処の風景は秀麗で、環境は幽静、水質は透明、砂浜は平坦、空気は清新、夏の観光避暑の名勝である。
ロシア強租旅大時期の黄金山浴場
この海水浴場の来歴は、資料に記載がある。「黄金山浴場は大連で最も早く開発された海水浴場である、この海水浴場は1898年に開発され、当時帝政ロシアの民政署の領地でした⋯⋯」。当時ロシア軍や政治関係者が此処で海を臨んだ別荘と自宅を建設し、浜辺には専用もしくは公用の更衣室(こういしつ)を建て、海水浴場として初めて規模を具え(そなえる)、後に次第に帝政ロシアの官兵の専用海水浴場となった。
日本殖民統治下の黄金山浴場
1911年、日本の殖民当局は旅順に居る日本人のために海浜リゾート地を提供するために、修復と拡張を進行し、黄金山湾を遠近に有名な海水浴場をして建設し、日本の満鉄株式会社が経営を占拠し、もっぱら官吏紳士の楽しみに提供した。第一次世界大戦の期間に、中国本土から旅順に来る外国人は次第に増加し、満鉄株式会社は此処に海水浴場を作り、観光客に開放した。
(鄧小平の国際化)改革開放後、黄金山浴場には巨大な変化が発生した、総延長252メートルの防波堤、面積1,050平方メートル、八つの水路を具える標準プール、また高さ1メートル、3メートル、5メートルの三つのクラス別飛び込み台を併設した。プールの四周には四つの高架灯を設置し、夜間に使用し、人々は此処で思う存分楽しむことができます。プールには休憩室、更衣室、シャワー室、レストラン、ホテル、小売店、駐車場などのサービス施設が設備された。毎年夏には遊楽客がひっきりなしに続く。
現在の黄金山海水浴場:ロシアと日本の頃に建設された一切の施設はすっかり跡形もなくなり、
改革開放後の黄金山浴場
(改革開放後の)数年前に建設したサービス施設の影も見えなくなった。ある年の冬に、私は黄金山浴場に行って冬季遊楽の写真を撮ってが、寒中水泳の愛好家が自らの手で建てた二つの露天更衣室を発見した。貧相(ひんそう)ではあったが、ただ自ら着手し、刻苦奮闘した精神を具えていた。
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