山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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西洋食品行: 煙台大馬路のドイツレストラン

葉書の広告で実証されるのは 煙台西洋食品行がフリッツホテルである

筆者はある国外のインターネットで1930年の中国語を英語に交えた広告の宣伝ビラを発見した。この広告ビラはある煙台西洋食品店という企業で、所在地は煙台東路、これは私を大変怪しく感じさせるのだが、煙台東路は現在の芝罘区の大馬路であり、それは近代煙台の繁華が立ち興った縮刷(しゅくさつ)であった。煙台は開港以来、大馬路には200余りの中国と西洋の商店、外国商社、病院、学校、新聞社など、例えば張裕葡萄酒公司、仁徳洋行、崇正中学校、キリスト教パブテスト教会、英文日報などが寄せ集まった。この食品店は大馬路の一等地を占有しているが、見た所通り普通の輩ではない。ならばそれは一体どんな機構であろうか。煙台の歴史上でそんな役柄(やくがら)を演じたのであろうか。
この広告の英語を読んでみると、「Restaurant ‘ Fritz’ Chefoo Shan-ting-China, Tung Ma Lou no . 127, Founded 16th October 1923」。つまり「洋食屋、東馬路127号、創業1923年10月16日」である。英語版と中国語版のリーフレットをを見比べると、この「フリッツ」の中国語名が「煙台西洋食品行」であることが一め瞭然である。そして、「フリッツ」とは誰だったのか。ふと、西洋人の老人とアメリカ人の水兵が写っている写真を思い出した。調べてみると「Fritz Trendel , Chefoo Shantung 1935」,つまり「フリッツ・トレンデル、山東省煙台市、1935年」と書かれていて、その後に裏面の文章から、写っている老人は「Fritz’s Place」のオーナー、フリッツ・トレンデル氏であることがわかる。この「Fritz’s Place」は「煙台洋食店」なのだろうか?もう一枚の絵葉書も私の疑念を裏付けるもので、この絵葉書の文章から「フリッツの所は煙台洋食屋だ」という当然の結論に達した。

ドイツのオーナーは中国通 西洋食品店は精美な洋食で西洋人労働者の胃を引きつけた


煙台西洋食品店の店主フリッツ・トリンドルは、どんなの人であろうか。資料を収集すると、彼が大変物語のある人で、ドイツのバイエルン州の小都市クルムバッハから、20世紀初めに中国に来て、中国で四〜五十年生活した、正真正銘の中国通で、彼の兄ヴィルヘルム、弟デオドルは、中国との深いつながりがある。
煙台に来る前は、フリッツは前後して天津と済南で生活した。天津では、兄ヴィルヘルムと弟のデオドルは、トリンドル兄弟会社(Verlag: GebrTrendel,Tientsin)を成立していた。主に「図連達(トレンダ、図連達はTrendelの中国語音訳)の葉書を発行した。この葉書は今でもネット上のオークションで見かけ、コレクターの追っかけを受けている。
その後、フリッツは済南にトレンダホテルをオープンしました。大東日報の1914年版「済南ガイド」には、「トレンダ、ドイツ旅館、十王殿、、洋食屋」とトレンダホテルの記載されています。トレンダホテルは外国人が済南にオープンした最初で最大の西洋料理店の一つです。済南滞在中、フリッツは家主(やぬし)(済南著名の営造商侯永魁)と経済紛争を起こし、裁判所に姿を見せた。1921年10月、フリッツは煙台に煙台アメリカ商の利豊洋行に雇われたという口実で、済南から煙台に到着しました。1923年10月6日、彼は煙台東馬路に煙台西洋料理店をオープンしました。西洋料理のレストランとバーの両方であり、西洋料理も販売しています。ホテルの主な顧客は、西洋人と、毎年夏に煙台で夏を避けるために来たアメリカのアジア艦隊の船員でした。煙台西洋食品が開店後、多くの西洋人が食事に来た。当時のアメリカ人の追憶によると、「ここはフリッツのレストランと呼ばれ、顧客のために各種各様の精美な食品と飲み物を提供し、一度の食事には往々十数種の精美な料理があり、料理ごとに各種の飲み物を配し、最後の一品はこれまで我々が見たことのないもので、美しい栗(くり)を挟んだケーキであった。今でも尽きない味わいに涎して(よだれしい)いる。

アメリカの水兵は此処に泊まり続けたが、「売掛(うりかけ)おことわり」は「無料の昼食」に立ち塞がった

毎年夏には、多くのアメリカ艦隊の水兵が煙台に避暑に来たが、彼らは煙台で2〜3か月滞在した。これは遠く異国他郷に居るアメリカの水兵が煙台食品店に一種の久しぶりの家庭的感覚的にたどり着けさせ、彼らは店主と一緒にドイツの水タバコを吸い、酒を飲んで過ごした。フリッツもこの年若いアメリカの客人を大変歓迎した。1937年6月、フリッツはアメリカ水兵の到来を歓迎するために、特に煙台に来るアメリカの「ブラック・ホーク号」駆逐艦の幾人かの水兵に「ストロベリー・ウォッカを貴方がたのために準備できています」と電報を発信した。
煙台西洋食品店で食事をする西洋人の多いが、無料で西洋料理を食べたいと思うものも少なくなかった。このためフリッツはレストランの壁に、「ご友人方に規則申し上げます。私は確実にどなたが信じられるかわかりませんので、私はかつて多くの人を信じていましたが、かえって私は傷つきました。だから今日はすぐさまお支払いをお願いいたします。(そうすれば)明日は私が貴方を信用することができます」と書きつけた。このようにして、煙台西洋食品店の公告ビラには明確に、「売掛いたしません(Positively no Chits)」記してある。思うに、フリッツは無料のランチを食べたい人に対して感心がなく、そして中国人の「年のためあらかじめ言って置く」という規則を大変理解していたのである。
諺に、人に千日の好(よ)きことなく、花に百日の紅(あか)きはなしという。間もなく、煙台西洋食品店は克服の難しい困難に遭遇した。1938年、日本軍が煙台に進入後、憚りなく(はばかる)同盟国の人民を逮捕し、差し押さえ、同盟国の外国人商社、学校などを没収した。ドイツは日本の「第二次世界大戦」時期の盟友であり、フリッツと彼のホテルは日本軍の撹乱はなかった。しかし、欧米など(中国の)同盟国の人々は続々と煙台を離れたので,ホテルの顧客は大量に流出し、ホテルの経営も全く前に及ばなかった。「第二次世界大戦」収束後、敗戦国人民に属したので,フリッツと彼の全家族はドイツに送り返され、西洋食品店はこれから煙台の街から徹底的に消失した。

著者 煙台 魏春洋