大連の金州古城
調査によれば金州古城は遼金時代に城址があり、当時は土壁であった。明の洪武八年から十年にかけて金州城・堀を増改修して方形の城とした。清代の康熙年間に、金州城はまた再建された。古城には四門がある。金州古城は、山に依リ海が近く、城外に堀河が守護し、雄大壮観で、気勢に満ちている。城内は十字路街で、東西の街には、富豪、権門、宦官、役所の住宅が多い。南北の街には店舗と手工業(しゅこうぎょう)の制作所街が多い。この古城は遼東半島金州地峡の北端に位置し、元王朝から清末年迄、ずっと遼東半島の南端の州、府、県の駐屯地と政治、経済、文化、軍事の中心であったが、19世紀の末になって、ロシアが旅順大連を強制租借してから、遼東半島南部と中心の地位は、やっと金州から次第に旅順、大連に移転した。金州古城の取り壊しは解放戦争の時期に始まり、金州文書館と、博物館に一部の遺蹟文物と秦代以後の古城の写真が保存されているだけである。
三つの王朝が造営した金州古城は、その後数百年の時間で、遼東半島南部の政治、経済、文化と軍事要衝の作用を発揮し、後の人に「遼東の雄鎮」とたえられた。専門家は、もし金州古城が完全に保存されていたならば、その歴史的価値は平遥古城と麗江古城に次ぐという。惜しいことに、遼東半島上のこの古城はもう遠い過去となってしまった。
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