李懋荘老人は泣いた
旅順の旧市街は天后宮から100メートル離れており、現在は旅順に神市場がニューオープンしたあの場所である。解放前に、李涵盛という鋼材、石炭を商売とする金持ちの人が住んでいて、ハルビンで売買をしていた。李涵盛は算盤が得意で、算盤で平方根を求めることができた。日本が旅順大連を植民統治時期に人間を、日本人、半島人(朝鮮人)、台湾人、関東州人の四等級に分けていた。李涵盛は気骨があり日本の「国人」とならないことを決心し、家をあげて青島へ帰った。老婦人は行かずにとどまって家を見、子供の李懋莊は母親に従って旅順で学生をした。
李茂荘の話では、1945年、ソ連軍は太陽溝の羅振玉の大雲書庫を占領し、蔵書と全て階下へ押し退けた(おしのける)。政府は馬車を借用し大雲書庫の書籍を天后宮へ運んだが、彼らの家は天后宮に大変近かったので、一部の書籍は我々の庭に露天で積み上げられ、大きく一山となった。付近で小売業をしていた人は皆そこに行き書籍を持ち出し包装紙にした。当時、旅順の路上で瓜(メロン)を買ったり、お菓子を売ったりするための包装紙は、彼らの家の庭で取り上げられていた。書籍の山は数日ですっかり無くなった。それは全て良書で、多くは線装(糸綴じ本)で、全く惜しむべきであった。ここに話が及ぶこと、老人はこの上もなく憎み恨んだ。
彼らの家には一組の『御批通鑑輯覧』、合計22冊が残る。1966年に旅順中学の紅衛兵が家財を没収するのを恐れて、あの夜(紅衛兵)不備に乗じて、李懋荘は書籍を馬営后の溝に運んで焼却してしまった。老人は私との話で、彼は本当に燃やすを得ず、現在も思い出しても心に受け難いと、話しながら老人は涙を流した。当時旅順高校中学部に勉強し班長であった時、土城子修空港で働き、旅順中学校の挑発的な日本人学生を殴り、学校から退学を命じられ、青島に戻り勉強するしかなく、旅順を離れる彼は涙も流さなかった。現在90歳余りの老人は、羅家のあの失われた図書と文革中に自信で焼いた良書を思い起こすと涙をはらはらと流した。
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