山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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朱安(魯迅元の夫人)の手紙

朱安が内山先生に書いた手紙にある人に対して付け加えられた称賛があり、この人は魯迅と断交したが、魯迅が病死して何年も後に、朱安は生活が困窮し、魯迅先生が北平(北京)に残した蔵書を売ろうとしたが、そのニュースが伝わると、反響は大変強烈で、魯迅先生の生前の日本の良き友内山完造は全く反対し、朱安に手紙を書いて、この事を阻止しようとしたので、朱安は内山完造に返信したが内容は次のようであった。



内山完造先生:

お会いしたことはございませんが、以前より魯迅先生はいつも先生の道徳と学問を誉めていたので、私の意識ではまるで先生を熟知しお慕い(したう)申し上げている次第で、現に先生の惜しまない教えを承り⋯⋯道義精神には、全く感動いたしました。私個人の身上については、本来お話しするに値致しませんが、ただし残った薄暮(はくぼ)の時代に私の人生を追求する計りごとのために、率直にならざるを得なく要点を先生にお話し、最も先生の公正の友誼を以て、私の一切への同情を望みます。

魯迅は生前、私と老母周老婦人との生活費に、毎月前払いで送っていました。年末年始は格別に豊富で、別に一千元余りを貯蓄(ちょちく)し、不測の事態に備え、私も私の天職を尽くして、処々に節制いたしました。

魯迅が亡くなって以来、私は老母の意思を受け、貯蓄の金を分割して家内の家庭用に回しましたが、当時許寿裳先生は、許女士を代わりに来て魯迅先生生前の出版権を求めましたが、許女士以後北京のアパートに返す生活費が、不足させないよう担保として、同時に許女士もまた版権を求める手紙をよこしてきて、極端な好意を示しましたので、私は自から無能を羞じ(はじる)、心良く承諾しましたが、許女士がどのように処理し、いまだに通告もなく、話もまたいまだかつて問い合わせたことがございません。

28年の冬に、家用が不足したため、私の老母周老婦人が許女士に書面で相談し、毎月20元の増額を請求しましたが、いまだ成し遂げられておりませんので、以後は周老母の経費は、全て周作人(魯迅の弟)が担当し、お金のほか、米や小麦粉と石炭を、常に送って来て、果物や餅菓子類も全て揃っていて、家屋も修理されました。


31年5月に、私は毎月4〜50元のはした金の見込みもなく、ただ身に付ける物を抵当に入れ、補充するしかございませんが、32年3月に、私の姑(しゅうとめ)周老母が亡くなると、一切の葬祭費用は、全て周作人先生が負担なされ、また毎月私に150元を送って下さり、誠に感謝すべきでございます。この僅かなお金は焼け石に水ではございますが、一寸を得て一尺を進もうとするように欲望が、過不足を考えさせます。生活は飛ぶように急上昇し、私の債務も一日一日と増え続け4,000元に達し、本当に首が回りません。

私は周老母に38年仕えて、あの世に見送りましたし、私は今年もう66歳で、平生にはただ衣服と暖かいご飯で満たしたいだけで、少しもほかに豪華を望みは無く、つまり陽の暮れて意味の行き詰まった現在に至りましたわけで、私ももとより名誉と信用は大変貴重であると存じていますが、如何ともしがたい一日一日の生活の圧迫は、信用や名誉よりも更に深刻でありまして、やむを得ずに、差し迫ったものを急ぐばかりに、本を売り債務を返し、生命を維持してまいりましたが、もし少しでもできることであれば、自然とこれを求めましたが得られず、このような下手な計りごとをわざわざ致しましょうか。北京での生活は恐らく上海ほどではございませんが、前月の華北新報のある記事には、一人一月の最低生活費用は600元とありました。私は年老い(としおい)てまた病弱で、炊飯や種々の家事や、また一人の家政婦を雇わねばなりませんし、これによって毎月最低限度も千元前後が必要で、私のように無収入の人間には、実に「手も足も出ない」ものでございます。


これが正に朱安が内山完造に与えた手紙であるが、書いてあることは本当に凄まじく憐れむ(あわれむ)べきで、人を同情させる。その中で魯迅の実弟周作人に言及し、朱安が周作人を賞賛して加え、この手紙の周作人に関する紹介は「以後姑の費用は、全てが周作人先生の負担で、お金のほか、米や小麦粉と石炭を、常に送って来て、果物や餅菓子類も全て揃っていて、家屋も修理した。32年3月に、私の姑周老母が亡くなると、一切の葬祭費用は、全て周作人先生が負担し、また毎月私に150元を送り、本当に感謝すべきである。この僅かなお金は焼け石に水であるが、一寸を得て一尺を進もうとするように欲望が、過不足を考えさる。」である。


誰もが知っている当時の魯迅と周作人が絶交した時、周老夫人は魯迅の傍にいて、魯迅と八洞湾へ引っ越ししたが、魯迅が病没してから、周夫人には資産が残されておらず、周夫人の姑と嫁は魯迅の版権を許広平に引き渡し、許広平に生活費を負担させたが、許広平は彼女に一人では引き受けられないと、周作人に分担させるように話した。(どうして三弟の周建人は分担しなかったであろうか。)

周作人は許広平と周夫人の姑と嫁の扶養の、生活費は一人半分と応答したが、後に許広平は投獄されたので郵送は不通となり周夫人の姑と嫁の生活費は三年断絶し、この期間周夫人の姑と嫁は周作人一人が扶養した。もし今の子供と交替したら、自身と長兄は対立断交し母親が自身で扶養するのは、心中不平は確実で、金を出しても出じゃばらず、最低の生活費を払うだけである。だが、周作人はこのようにしなかった

朱安の書信には、周作人の母親に対する扶養は周到的で、出金しただけでなく、協力も惜しまず、家屋を修繕し、果物や菓子を送り、母親の生活等級は下がらなかったとある。この説明は周作人に母親が長兄周辺に在って仇を記していない。周夫人の晩年の生活は間違えの無いものであった。

魯迅は1936年病死し、周夫人は1943年に病死したが、周夫人は魯迅が病没後また7年生きて、享年85歳であり、中華民国のその頃の年代では、やかり大変長寿であった。周夫人の生活は間違いがなかったが、70〜80歳の老人は早すぎる病死でないとは言えない。

朱安は1955年に本を売ろうとしたが、多方面から。阻止され売ることができず、その後許広平の郵送手段が再開し、朱安が生活費を送ったが、朱安も1947年に病死したが、貧困から零落(れいらく)して病死したので、朱安はたった三年しか用ができず、享年は69歳であった。これは朱安の晩年の生活が周夫人ほどではなかったことを説明するものである。周夫人は少なくとも一人進んで彼女を宣揚する子の周作人が居た。

周作人は実直でも欠点があったが、家庭に対する効果は間違えなく、もっともどうしても好きでなかった母親に対して孝行と支援の義務を尽くしたので、朱安が内山先生に出した手紙でも、たとえ魯迅と断交した人であっても、彼に対して大いに賞賛した。