山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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一代の名流「李載之」

開港後、近代煙台の中外貿易は一時に隆盛を極め、商業の繁盛が出現し、商人が雲集する状況となり、煙台街から来た中国の広東商人、潮州商人、寧波商人、福建商人、関里商人と錦州(東北地方沿海地方)商人ら「六地方商」が煙台の商人界で異常に活躍した。これらのの外国人中国人ビジネスマンの中には、香山県出身のビジネスマンがいた。国内の政治の舞台では、彼はヘビー級であり、洋務を行い、外交を行い、鉄道を修理した。煙台に、一名の評判が卓越した社会的名流が、赤十字を創立、果樹園を作り、公益を成した。彼は煙台ないしは中国の近代化の歴史過程を目撃し参与し、煙台に深い印象を残した。この煙台の商売会で立ち回りの上手かった名人が、つまり李載之である。


洋務行い

李載之は、1860年に広東香山(現在広東中山)に生まれ、かつて香港の中央書院(現在皇仁学院、Queen’s College)に学び、孫中山と同郷であり、また校友(1884--1887年、孫中山は香港中央書院に勉強した)であった。

李載之の郷里は広東の香山で、場所は西洋と中国の文化の交流する所で、近代ではずっと風潮の先端を開いた。中国の「早期の買弁(対外)商人の大多数は香山人と見られ」、例えば大買弁の呉建彰、徐潤、唐廷枢、鄭観应などであった。近代広東香山商人の同郷観念は極めて強く、地縁と血縁とで紐付けを建立し、緊密な商業ネットワークを連携した。

香港の中央書院を卒業後、李載之は輪船招商局に入って仕事をした。輪船招商局は中国で最初に設立された汽船運送会社であり、また李鴻章が創業した最大規模の一つの政府監督の民間経営の企業である。この会社で、香山商人は大変見るべき割合を占め、彼の最初の総弁唐廷枢、会弁徐潤は皆香山人で、他に鄭観応などの香山人も前後して総弁を勤めた。ある種の角度から、李載之が招商局へ進入できたのは、香山人の身分と無関係ではない。

これから、李載之の半生は輪船招商局の外交事務(洋務)を行い、彼は洋務運動を煙台招商局の補佐から始まり、福州招商局の局長に終わった。

1880年、20歳の李載之は輪船招商船から煙台に派遣され、主席補佐「Chief Assistant (キーフ・アシスタート)」の仕事で招商局の具体的な業務作業を担当した。輪船招商局の職務以外に、李載之は登莱青道台から洋務委員、拯濟局委員に招聘され、道台(省下の地方行政)の英語秘書を担当し、道台と煙台駐在の各国領事の交渉作業の責任を負った。1885〜1893年、紅頂商人(高官とパイプのある起業家)盛宣懷が登莱青兵備道道台兼東海税関監督を担当した。盛宣懐は元は輪船招商局の監督、助監督で招商局とは尋常ならざる連携があった。それで、煙台に居た期間に、李載之と盛宣懐は終生の友誼を建立し、彼のその後の事業の発展はほぼ盛宣懐と意気が通じていた。

煙台では、李載之はほぼ全ての時間を輪船招商局で務め、しばらく開平鉱物局の駐在煙台局長も担当したばかりか、招商局業務を代理する怡順公司の責任者を代理した。1900年に、李載之は煙台輪船招商局に戻り、総督に昇任した。1904年に日露戦争期間に、李載之は登莱青道台を代表し日、露両国が煙台で紛糾した外交を妥当な処理をした後に、ロシア皇帝からは「アンナ勲章」を授けられ、日本天皇からは「四等旭日章」を授けられ、同時に清朝から山東候補、直隷州知州を授けられ、成り行きは並ぶものはなかった。

鉄道修理


1911年、李載之は当時郵伝部(運輸交通等の省)大臣に任じられていた盛宣懐から大清鉄道部の任職を提携された。この時盛宣懐は官界では順風満帆で、官界での勢力頂点であった。1月6日に、清朝政府によって郵伝部大臣を授けられ、5月8日、清朝の「皇族内閣」に進入して、4人の漢族内閣の一人となった。当時、盛宣懐が全権を握った郵伝部は大部署で、鉄道部、交通部、電信部、郵政部の四大機能を総合していたが、特に鉄道部が大きかった。そして自分の実力を強固とし、盛宣懐は李載之を鉄道部の職に招いて、「大清第一の交通」の名のある京奉鉄道局の総督に任命した。官界は険悪で、人生は無常である。1911年末に、鉄道の国有政策を推進したので、民衆の抵抗運動が起こり、盛宣懐は清朝に郵伝部大臣の職務を解除、「再登用しないこととなった。盛宣懐は官界で勢力を失い、日本に亡命を迫られ、宿怨のあった梁士詒が出て、郵伝部の副大臣、大臣に任じられた。
梁士詒は広東の三水の人で、袁世凱の腹心であった。1912年ごろ、梁士詒は国内の政壇で風雨を喚起すると言うべきで、世間では「第二総統」と呼んでいる。故郷同士の関係で、李載之は梁士詒と関係がつながり、梁士詒、葉恭綽を首領とする旧交通系の中核となった。
元の交通系は北洋軍閥が統治した重要な政治派閥で、金代の中国を左右する事40〜50年に達した。梁士詒は「長年交通部へ配置」され、当時「五路財神(五路は京奉、京漢京浽、津浦、滬寧線の諸鉄道)」と呼ばれ、李載之は「五路」のトップ京奉鉄道管理局の局長となった。こうしてみると、李載之は梁士詒の信任を深く得て、京奉鉄道管理局の局長を1916年11月まで担当していた。当時の張裕の醸造(じょうぞう)師でオーストリア・ハンガリー帝国の煙台駐領事のポーバオ男爵が結婚後中国へ帰った時、彼が乗った汽車が京奉鉄道を通過する一駅ごとに、全ての人がホーム上で銅鑼太鼓を打ち鳴らした。最初彼は意に介せず、誰か中国の高官を歓迎しているのだと思っていたが、後で、これは京奉鉄道管理局局長を担当している旧友李載之が彼が京奉鉄道管理局の汽車に乗っているのを聴いて、特別に彼を礼遇したのだと知った。
煙台に居た間に、李載之は熱心に社会公益事業に参与し、山東最初の赤十字会の末端組織〜煙台赤十字会支部を創業した。1904年2月、日露戦争が勃発し、大勢の東北難民が流浪離散した。
この難民を救助するため、同月、上海万国赤十字会が上海で成立したが、当時工部左侍郎(産業省長官)盛宣懐が主要な創立者であった。煙台が難民を救助するのに優越な地理条件であることを考慮して、上海万国赤十字総会はすぐさま煙台招商局の李載之に電報を入れた。「上海は中国西洋共同万国赤十字会を設けたが、東北3省の難民が民船で渡ったという噂があり、また、太古、四川などの汽船が難民三千数百人を乗せ、共に煙台に着いたが、流浪離散は憐れむべきで、中国西洋取締役が共同で支部を設立し、この種の難民に遭遇すれば、情況を斟酌(しんしゃく)し、そのような難民が適切な場合には、そのような難民を特定し、適切な資金を受け取ることを提案し、上海赤十字会によって分配返還した。1904年3月8日、煙台道員何秋輦は返電で「既に李載之へ中国西洋の理事を招請し、速やかに赤十字会支部を設け、有事の際の指揮を命じた。」と答えた。同月、煙台赤十字会支部は李載之の責任の下に正式に成立した。煙台赤十字会支部には、中国、西洋の理事が17人いて、彼らは煙台の名士であった。その内、李載之はトップに列し、他に順太号の店主梁浩池、小清河汽車公司の社長唐栄浩、煙台駐在アメリカ領事ファチュ、イギリス領事オビレンなどがいた。

煙台赤十字会支部は難民救助の行動中に重要な作用を発揮した。煙台支部は赤十字の国際条例を遵守(じゅんしゅ)し、「中国人西洋人いずれの国の人であろうと、平均的に接待し⋯煙台は嘗てロシア人、韓国人を救助し、それぞれ本国へ送り返し」、充分に人道博愛精神を反映した。『電報』に掲載した煙台支部の電報にはしばしば送還された難民の帰還のニュースに言及し、「旅順、青泥洼(チンニーワ)から煙台に来た何みんなは、調査で貧苦者652名、ほかに韓人1名がいて、共に厚遇して帰郷させた」などである。統計によると5月11〜21日で、煙台支部は難民の姓氏、出身地を明らかにし、旧籍に送った者は1,412名となった。7月11日から20日、援助を得た難民1,803名に遣わした(つかわす)。当然、難民は多すぎて、一時的に資金援助できなくて、一時的に煙台に落ち着かせ、「広仁堂及び事務所の空室は少なく、差し入れることは難しく、賃貸(ちんたい)に居住する予定で、家賃、衣食は赤十字により、5日ごとに支払う予定である。」以上に列挙した数字から見れば、2か月内に大量の難民を送還した。
赤十字会煙台支部は山東の歴史上最初の赤十字の末端組織で、その誕生は山東赤十字運動の出現を示すものである。
李載之は山東煙台の果物産業の発展にも引くからぬ貢献を創出した。1936年、張翰根は『煙台蠡測録』書中で「粵(広東)人李載之、張広池二君は、煙台の果物産業に対して、園地開拓と栽培、優良品種の輸入、生産の発展などの項目で、また功労者であるというべきである。」と称す。
李載之が煙台の果物産業に対する貢献の主要体現は大規模植栽、西洋リンゴの普及である。最初の西洋リングを煙台に導入したのはアメリカの宣教師ジョン・ネビウス(John L. Nevius、1829〜1893)である。1870年、ネビウスは煙台毓璜頂の東山麓に広興果物園を開設し、グラヴェンシュタイン(gravenstein)などの西洋リングを植栽を開始した。「続いて前招商局の李載之氏は煙台の南山李園及び西沙芝圃園に植栽を開いた。南山李園は、敷地150畝(10ヘクタール)である。南山李園の建設記事については、学者は1913年と認識しているが、実際には1930年以前であるべきである。1903年7月に、金代北方実業の父周学熙が日本へ視察へ行ったが、彼が残した『東遊日記』に「招商局李載之面会し、南山果園を訪問する。煙台山には外国の果物、リンゴ、ブドウ、ナシ、モモのような種類を植えて、極めて旺盛である」との記述がある。このほか1912年3月には、李載之は天津で京奉鉄道管理局局長を担当した。この事から、南山李園の建立時期は1903年以前であるべきである。このほか、南山李園は完全には家庭の果実園とは言えず、まるで荘園であった。当時余瑞年が李園に遊覧した時、園内に「桜台花木の勝景」の称があり、また園内の西楼には一対の聯に「傑閣臨みに憑き、一面峰巒三面の海。荒木構え結び、二分の人力八分の天(険しい峯峰を三面から囲う海に寄り添う立派な建物は、原木で構造して、二分の人力に八分の天然)」と題す。この事から知れるのは、南山李園は煙台の壮大な盛んな景色である。
西沙旺芝圃園は、1920年代初期に建立された。この時、李載之は福州招商局局長の任から引退し、煙台で隠居していた。芝圃園は敷地150畝(10ヘクタール)、園内にはリンゴを植栽し、国内で数十年流行している「赤バナナ」種と「青バナナ」リンゴを導入し、またアメリカから直接「マーシャル系」の品種を導入した。まさしくこれは李載之が西洋リンゴに対する植栽の積極的推進であって、「これより以降は、煙台一帯の人々の西洋リンゴの栽培は日頃に多く」なった。煙台に今日「リンゴの故郷」の美称があるのは、李載之の功は無視できないと言える。

公益を為して公益を作る

清末、李載之は煙台で盛名の卓越した商業界のリーダーであり、「六幫(六団体)」商会のトップの広東幫(集団)のトップであった。1910年1月、煙台は半自治の社会管理機構華洋工学局を成立し、李載之は中国方の取締の主任に推薦された。李載之は社会の公益事業に積極的に参加し、郷里に幸福をもたらした。彼は毓璜頂の英文学館に賛助し、私立広東小学校を創業に資金調達をした。1894年、アメリカの宣教師韋豊年(ウィイ・フェン(George Cornwell )が煙台へ布教に来た。煙台の開港後を考えると、英語翻訳の人材は欠乏し、韋豊年は学校を興して、英語の人材培養を決意した。煙台の紳士李伯軒、李載之、梁浩池などの人が聞きつけ、毎年白銀2,000両を学校経営の費用として賛助することを協議決定した。韋豊年が創設した毓璜頂英文学館は中国の為に多くの高級商業人材を養成した。1912年、李載之と陳季安など15人は広東駐煙台同郷会の名義で、経費6,200余り銀元を調達し、私立広東小学校を創設し、主に煙台駐在の広東の子弟を招いた。
光緒29年の春、李載之は出資して広東の何賢、梁子琴を招いて『山東燕台街道図』を描かせた。1910年、煙台華洋工部局の道路橋梁専門管理の李載之は現在もある広仁路西口路北に道路の用地買収と建設の出資をして、道路完成後「載之路」と命名された。
校長の李載之が煙台広仁路に用地買収して階層建物を建て、「新校舎」とした。煙台の名流李載之に対して言えば、この種類郷里に福をもたらす義挙は枚挙にいとまがない。
この人はもう亡くなったが、遺業は長く残った。この方は生前に名声赫赫であったが、今ではかえって知られていない煙台の名人は、その人の業績は煙台人の記憶に値する。

著者 煙台 魏春洋