山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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100年前の東北の疫病の経緯

1903年、『中国・米国通商船更新条約』に基づき、丹東は、日本、米国、英国、その他の国が丹東に領事館を設立した。丹東海関も1907年3月に鴨緑江の辺りで中国の関税主権を行使(こうし)した。丹東が開港すると、山東省及び中国北部から大量の移民が流入し、公衆衛生問題も顕在化し始めました。この論文は、中国東北部と丹東における公衆衛生と伝染病予防の主権の歴史を振り返り、海外で100年間眠った英語史資料を掘り起こそうとしている。


1910年10月、疫病は中国東北部を襲い、一つまたは複数のペストを運ぶシベリアアマーモット(タービガンとも呼ばれる)が都会の田園地帯に侵入したため、ペストが中国の東北部を襲った。ペストは、肺ペストの臨床形態で現れ、その後、中国、日本、ロシアによって支配されていた地域の鉄道沿線線路に沿って空路で広がり、非常に伝染性であった。後で、違った防疫観点と植民当局のとの間に疫病発生の起源と伝播経路及び疫病抑制の最も良い施策に激烈(げきれつ)な争議と衝突を産出した。



伍連徳博士

このペストは(中国)東北に6万人の死亡者を造成し、4万人の病人を確定したが、回復した病人は3人のみの記録があり、ペストが1億ドルの経済損失を造成した。全社会がペストに対して危惧に満ちており、被災を受けた街の社会と商業活動は全て静止状態であり、そのペストに感染した人々は公共の場所と親友の家庭さえも侵入を拒絶され、彼らの生存は全て隣家が門外に提供した食物に依存した。清朝がこの場の疫情対策を指揮するために派遣した重要人物は伍連徳医師で、1910年に、この方はマレーシアに生まれ、英国で医学教育を受けた華僑でペストの防止の命を受け満州里へ行き、伍連徳は清朝政府の任命で三省ペスト防止の全権総医官となり、伍連徳は1911年1月にハリビンで最初のペスト研究所を建立し、ハルビンで調査と予防治療を進行した。これは人類史上最も深刻なペスト禍でした。伍連徳はハルビンの傅家甸(地名)で初めて発生した、動物を媒介することなく、人の呼吸による飛沫(ひまつ)で感染するペストの一種を発見しました。彼はこれを肺ペストと命名しました。彼は最も有名な医学雑誌ランセットで論文を発表中国人です。彼の貢献に対し、北京大学、香港大学と東京大学により名誉博士の学位を与えてられました。1935年、彼は1910年東北流行り病の闘争を責任者として主導し、タバガンマーモット(ネズミの一種)の疾病(しっぺい)の伝播における役割を確定して、ノーベル賞候補(こうほ)人を指名しました。

1911年東北流行りの疾禍の中の中国を顧みると、清政府は、現代医学の知識複雑な東北地区を頼りにペストの大流行を阻止し、同時に国家権益の主権も擁護した、数少ない歴史的な成功例となりました。


東北の背景は、中国に対する入植者の影響に応じて、場所によって異なります。ハルビンを支配するロシア人は、ペスト感染者の家を燃やすために準軍事検疫手段を採用しました。大連を支配する日本人は、乗客を鉄道車両から隔離するためにベルベット手袋を使用しています。奉天で伍連徳は、より中国的なアプローチを採用し、幾つかの外国のオブザーバーの記録したように、東北の疫病に対する予防と管理措置遺産は、中国の公衆衛生の概念全体の発展と中国における現代医学の普及に影響を与えた、より広範な主権、アイデンティティ、国家福祉の責任の概念に「健康」の概念を導入しました。


中国政府は、流行病、特にペストやコレラの近代的な機関の発展に対応して、現代医学と公衆衛生の継続的な変化を促進している。国際戦線における中国の威信は、東北の疫病への挑戦と「健康の現代性」「衛生の近代性」の更なる強化と、1920年代の科学主義と「科学先生」の国家アイコンとしての信頼から、この初期の成功の恩恵を受けた。


1910〜1911年のペストの大流行は中国医学の現代化の転換点であり、但し殆どの中国東北の住民は単にこの種の流行病を人間の悲劇として見ており、どうして病院に入った病人が永遠に戻って来ないのかを、あるいはどうしてペストの抑制がこのように非人道的でなければならない理由を、彼らに信頼できる解釈がないために、伍連徳と彼の同業者達に肺ペストを治癒する方法がないと考えていた。ペストを攻撃する医者の視点で撮影した歴史的な写真だが、我々がこの流行病の社会的障害と人間の病死を理解する助けにはならず、それは現代のペスト予防の成功とここの地域社会との疎遠な深い溝を覆い隠している。大流行の終結後にも、当局は数年の時間の共同努力を経て、衛生と伝染病予防の対策をようやく公衆に普及伝授した。東北部の流行病を研究している人員は、この事件の人間性と社会的側面を失わないように、しっかり記憶しておく必要がある。


伍連徳の流疫予防段も巨大な危険と抵抗に遭遇し、彼らは第二回の流疫攻撃の総括報告で、「民衆は我々が病人を隔離点に隔離し、濃密な接触者を隔離し、ホテルその他の感染源を系統的に検査し、劇場や、妓楼(芸子屋)を閉鎖し、鉄道交通の制限をする政策に、懐疑と偏見を抱いた。我々はペスト患者を救助する力がなく、噂は四方に広がり、この噂は我々の威信と人道使命の権威性を大いに傷つけた。」と書いている。伍連徳のチームは、病害区の民衆にマスクの着用と、隔離キャンプを建立し死体の火葬を規定し、厳格な措置を採用した。

具体的な措置は(次の3点を)包括する:

1、病気を疑われる人が出現したら、すぐさま防疫官に通知して病人を検査し、即刻病人を病院へ移送して確実に診察する。

2、密接な接触者は必ずマスクとヘルメットを着け感染を予防し、チモールと温水を使用してうがいする必要がある。

3、防疫官は確定診察を証明した病人は病院へ移送できる。


しかし、清政府は流疫予防の措置の執行にも険悪の一面があり、丹東では、日本人が防疫を利用して鴨緑江の交通運輸への参与と検査を求めたが、中国人には彼ら(日本人)の動機がはっきりしており、アメリカの駐丹東副領事は「各種の方法で鴨緑江を抑制しようと試みた」と書いている。

丹東は朝鮮が東北地区に入る入り口で、1910年の資料の記載では、丹東の旧市街沙河の住民は2万人で、日本人居留地の住民は8千人であった。丹奉鉄道と鴨緑江大橋は1911年に相次いで竣工し、流行病も鉄道に沿って迅速に蔓延し、中国方面では流行病が丹奉線を通過するして丹東に伝播する事を特に心配して、中国税関方面は奉天方面に来る鉄道交通の衛生管理に切実となっており、日本人は中国税関が流疫予防の主権の執行を妬ましく(ねたましい)思い、日本警察も独自に丹東の一般市民の流疫予防の管理に参与し、市街の通行人、汽車、汽船の中国人乗客での対し、また重要街区で、家屋検査と消毒、ネズミの捕獲作業を行った。鴨緑江沿岸では、日本人部署の1,000名あまりの兵士が、中国人が凍った河面を通過して朝鮮境内に進入するのを阻止したが、アメリカ領事は「日本人は丹東の疫病予防を阻止するためにあらゆる手段を講じ、所有する司法管制権の放棄は願わず、むしろ丹東でペストで千百人を上回る死を願った。このような結果は必ず中国政権の弱小化、日本の警察権力の拡大化を導く。」と書いている。

1917年には、丹東で再び天然痘が爆発し、丹東の貧窮した民衆は皆ワクチン接種が天然痘を防止できることを知っていたが。彼らはむしろ痘神娘娘(疱瘡神)の法力信じたかった。丹東当局が建立した伝染病病院の施設は、それは強制隔離の条例と感染者の住居の消毒がなかったために、無駄骨であった。1918年の関東税関の公共衛生の報告を根拠にすると、丹東当局は既に衛生警察隊があり、都市の衛生条件はいささか改善があり、丹東では既に八年間コレラの発生がなかったが、1919年に丹東でコレラが再爆発し、丹東当局には隔離した病人の面倒を見る現代の医師が十分でなかった。八月から十月にかけて、中国は1221人の感染を確認し、554人が死亡した。日本人は303人の感染を確認、156人が死亡した。

1921年に丹東赤十字会は三道浪税関付近に丹東隔離病院を建設したが、丹東当局が1911年にペスト隔離の経費を利用して建立したもので、ようやく隔離隔離病棟を建設しただけが、医療機械を購入する経費はなかった。官署当局はもともとそれを普通病院として作り、流行発生機関に隔離病院とすることを計画していた。丹東税関は十年の報告に記載している。「1921年、日本人居留地には日本の医学部卒業した医師8人のがいた。デンマークルーテル病院の一名のデンマークの医者が担当し、二人の中国奉天医科大学卒業の医者と、丹東医院で合格した三名の医師で丹東隔離病院を組織し、1912年から、丹東の商工会議所は毎月小洋銀で600元の資金援助を日常経費とした。

伍連徳は中国東北での肺ペストとの闘争を除いて、伍連徳は中国の現代衛生サービス建立の最前線に立っていた。伍連徳はまた中国の海港での検疫の主権の回収を促進し、彼は何度も「自己で検疫を行う」ことをアピールし、またその指導する東北三省防疫事物総管理所に属する陸路と海港検疫所の技術事務を基礎として、検疫主権の回復と全国の検疫事項の統一を関係機関に提唱した。

当時、北京医科大学の卒業生が一緒に防疫作業に参加したが、鄧松年もその一人であった。1923年に丹東税関は浪塔の丹東海港検疫所建設費に銀3万両を充当し、東北三省免疫総局は大黒河病院医官の史偉華を丹東へ検疫に異動した。後に鄧松年を丹東港検疫所長に任命派遣したが、当該検疫所には先進的な施設があり、合格した中国の医務員が高能率のサービスを提供した。入港する船舶は全て検査をして、また情況を根拠に感染した人員に対して隔離を進行し、飼所には感染症の発見あるいは疑似(ぎじ)症例に関わらず適当な処理してできる施設がある。

丹東では民国20年(1931)10月15日に丹東海港検疫の事務を回収し、丹東海港検疫所を成立し、海港検疫管理所の管理を編入し、鄧松年を所長とした。しかし、一年後に満州事変が発生し、東北三省は陥落し、丹東などの部分は閉鎖に迫られ、丹東検疫所は日本の統治下の税関の支配となった。