山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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スタブス(蘇道璞)/一台の自転車によって殺害された宣教師

四川成都の華西壩の協和大学に、居た多くの宣教師の中で、陶維新、楊振華、蘇道璞(C.M.Stubbs)3人を区別して、華誼会の「華西三傑」と呼ばれた。

1881年、スタブスはイングランド中部で生まれ父親はキリスト教長老会の牧師、母親は優しく仕事のできる女性で、彼にクリフォード.M.スタブスと名付けた。


スタブス(1888-1930)

1895年、スタブスが7歳の時、全家族でニュージーランドへ移民した。15歳の年に、母親が亡くなったが、彼は大変聡明で勤勉で、学校の成績は優秀で、毎年奨学金を得て、1902年の家族の記念写真は、左から右へ、スタブス、ヴィニーフレデリカ、エリック、フレデリック、エマである。


集合絵

1909年、21歳のスタブスはニュージーランド大学を卒業し、文学修士号を習得し、さらにイギリスリバプール大学へ行きさらに研究し理科博士の学位を獲得した。


1913年のスタブス

1912年、スタブスは大学を卒業し、英国議会で一度講演したが、主題は侵略戦争の反対と世界平和を主張した。1913年、スタブスは華西協和大学からイギリスに休暇で帰国した華西大学副校長のシルヴォック(Harry T. Silvock)と会見し、イギリス交誼会に華西協和大学との工作を申請し、同年、彼は成都に到達し科学科の講師となった。華西協和大学に科学科を創設した。彼はイギリスから先進的な科学設備と器材を導入し、華西協和高等中学の理科二年生の化学の教授を担当した。


シルヴォックと教育係の卒業生

1914年、スタブスの婚約者マーガレット・リース(Margaret Lees )はバーミンガムを離れ成都に来て、1915年2月2日に成都で結婚した。


結婚撮影

1927年、スタブス博士の一家がイギリスへ休暇で戻った時には、科学科の仕事はシュウエルが代理し、スタブスはミゼットカーを運転して妻と子女を載せ各地へ旅行と講演に出かけ、子供達も得難い父の愛を享受した。


2月16日、スタブスは世界に轟い(とどろく)た「万県事件」のあと、イギリス議会下院の要請で、常に中国人の立場に立って、イギリス政府を猛烈批判した。彼は初めに「万県事件」の一連の統計を公表した。押収されたイギリス商船の争奪の時、イギリス人は中国軍に撲殺(ぼくさつ)された者が7人、その後、イギリス軍艦が万県城にを砲撃し、討死した者604人。けが人398人、打ち壊された民家は1,000余室であった。彼の反駁(はんばく)できない事実で、聴衆は汗ばんだ。


シュウエル(Weliam Sewell)

1930年5月30日の夜8時過ぎで、空は既に暗かった。スタブスは自転車に乗って家に帰ったが、赫斐楼を過ぎると、よく茂った樹枝の下に、突然一連の黒い影が露われ、彼が叫ぶ前に、天秤棒(てんびんぼう)が振り下され、彼の頭部に撃中し、続いて、背後にはまた二人の人が飛び掛かり、手に持ったナイフで、彼の身体を激しく突き刺して逃げた。スタブスが地面に倒れた時、3名の悪党が自転車に乗って、ようようと逃げました。


1927年、英国に休暇

1930年5月31日午後、四圣祠仁済病院の全力の応急措置で、スタブスは遂に意識不明から回復し、彼は極度の衰弱の中で、痛みに耐えた。

彼は自分の42歳の人生が終わりに近づいていることに気づき、断続的にウィルフォード(E.C.Wilford)と彼の意志を口述した。:「私の代わりに学校から中国政府に、私の重傷のために、中英両国の関係悪化を招かないよう、伝言を要求する。」


ウィルフォード

1930年6月1日、スタブスは主の懐(ふところ)で安らかな眠りに就き、享年42歳であったが、声を失い泣き崩れる学生は歯を食いしばり、手ひどく言った。「犯人を捕まえ、その皮に寝て、その血を綴っても、心頭の恨みは解かれない。」スタブスの妻マーガレットはスタブスの最後の願いを示した。:「中国政府に殺人犯を処刑しないよう、彼らの妻が寡婦(やもめ)とならないよう希望します。我が家で一人死んだけで、家族全員が苦痛に耐えられません。私は政府が銃殺しないよう、更に多くの家庭が苦痛ならないことを希望します。」スタブスの遺言は、華西壩私震撼させ、また古い成都も震撼させた。後に成都の警察は北新街のある自転車店でこの「三鉄砲」印の自転車を発見し、「莽娃儿」と言うあだ名の悪党が逮捕され、そのほかの二人も告白された。


マーガレット

1930年6月2日、成都公誼会が広誼学院で簡素ながら厳粛な追悼礼拝を行い、2、3日後には学校でが旧図書館で彼のために盛大な追悼式を行い、省政府と市政府の各クラスの指導者、全校の師生が皆スタブスの追悼会に参加し、各界の人士が贈った弔幕や、哀悼の対聯、花輪が大ホール一杯に並べられた。追悼式が終了すると、9人の学生がスタブスの遺体を華西協和大学の霊園に葬られたが、1958年に人民路路建設の時に霊園は破壊された。


図書館内の追悼会現場

1930年にスタブス副校長が亡くなると、彼の夫人は直ぐに後事(こうじ)処理をして5歳の息子ジョンを連れ、英国へ帰り上の二人の中学生の娘を育てるために、中国を離れたが、長女のルース(蘇茹絲、Ruth)は医師となり、彼女と同じクラスのレスリーウェスト(衛斯理、Leslie West)と結婚した。次女ジャン(蘇錦、Jean)は大学を卒業後、中学のラテン語教師となったが、ずっと結婚することなく、二人の娘が大学を卒業した後まもなくスタブス夫人は亡くなり、ジョン(蘇約翰)は父親の凄惨(せいさん)な死に大変影響を受け、小学校を卒業する前に精神分裂症を患い(わずらう)、母親が亡くなって彼らは、親切で彼より十歳あまり年上の女性クリスチャンが彼が亡くなるまで身の周りの世話をした。


スタブス一家と召使い冷加新、料理人彭師一家

1940年、抗戦の大変苦しい時期に、斉魯大学や金陵女子大学など五大学が、連合して校舎を建て、蘇道璞(スタブス)楼と命名した。当時の省長張群と多くの政治要員が荘重の除幕式(じょまくしき)典に参加し、庁舎の前には前項の師生の贈った扁額が掲げられたが、扁額には有名な書家の趙蘊玉が「所過者化(過ぐる所は化す、孟子)」の四文字が書いたが、現在は四川大学西校区の第二校舎となっている。


著者は蘇道璞(スタブス)楼前の尋ね

1985年と、1990年にスタブスの娘ジャン(蘇錦)は二度と華西に来て創立記念日に参加し、当時父親の学生と友人から送られた弔辞、掛け軸、記念文章を華西校史陳列館に寄付し1995年の創立記念時にはヘンリーはもう亡くなっていた。ジャンは多病で85周年の祝賀活動には参加できなかった。


蘇道璞は中国華西の家

1999年、ジャンは余裕の少ない中学のラテン教師の退職年金から特別支出として確保して、華西から英国へ行き学習する学生に資金援助としたが、華西精神病科の黄頤教授がこの資金援助を獲得した。


蘇錦(ジャン)と黄頤

著者 候小勇