山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
当社の日本語WECHAT ID:18660355510。当社の日本語対応WECHAT IDを追加し、チャットでお問い合わせも可能です。

邵元冲:女神を口説く度に難題を出されて来た。13年間奮闘して、晴れて帰国将軍になり、再度アプローチしたら、やっと願いを叶えられた。

1924年、十数文字程度の手紙を読み終えて、当時孫文の秘書である邵元冲が、歓喜の声を上げた。

「やった!彼女がやっと結婚してくれる!!」彼はすぐさま駅に向かって飛び出した。愛おしい彼女に逢いに行った。

駅に向かう途中、彼はふと足元に目をやった。なんと、左足は革靴で、右足はスリッパだ。

自分の滑稽(こっけい)極まりない様子に、邵元冲は泣くも笑うも出来ず、頭を振るった。

孫文先生の秘書として、普段は冷静沈着だが、男女のことでは咄嗟に(とっさに)振る舞いができなかった。

邵元冲が、丸々12年も待って、ようやく慕ってた張黙君が結婚してくれた。

その手紙に、張黙君がこう書いた:

「私の心が鏡のように清らか、あなたと末長くいたい。」


民国早期のトップ才媛として、張黙君は子供の時から書籍を読み漁って(よみあさる)いたので詩歌や文章に長けていた。

それだけでなく、父親の影響で新鋭思想にも受けて、とても前衛だった。

1904年、張黙君は試験に合格し上海務本女子校に入学し、在学中に同盟会に加入して、また積極的に革命活動に参加した。

辛亥革命の時期には、張黙君は同窓生と共に、「上海女子北伐決死隊」を創設し、内外に衝撃を与えた。


この驚きの行動に、孫文先生は彼女を刮目(かつもく)の目で見て、彼女を志のある青年女子であると称した。

この時の張黙君は、溌剌(はつらつ)果敢な性格で、世俗を超越した気質は、邵元冲の関心を強く引きつけた。

惜しむらくは、落花情あれども、流水意なし(一方通行の情)であった。

自分より六歳若い青年に対して、張黙君は全く意に介していなかった。

この時、彼女は既に心に決めており、革命軍のリーダーで湖北の人蒋介作賓を好きになっていた。


ある時、彼女は口実を設け蒋作賓を自宅に招いて、家族が娘の意中の男性を見て、自分を手伝いに係る事を希望した。

しかし考えもしないことに、蒋作賓はついに自分の三番目の妹に一目惚れし、しかも大胆に告白し、張黙君の母親に三番目の妹に自分と結婚するように頼んだ。

意中の人は意外にも妹の夫となり、張黙君の傷心は止まず、誰と結婚しないと誓った。

この事を知って、邵元冲は再び張黙君へ攻勢を展開し、自分の愛慕の気持ちを伝えた。


邵元冲の無差別攻撃で、張黙君は相変わらず彼に対して興味がなかったが、直接拒絶するわけにもいかず、そこで三つの大変過酷な条件を提供した:

【海帰高知=海外留学で才を付ける、文武全才=文化財に万能となる、官位顕赫=官位を顕著に上げる】

この三つの条件を同時に満足させれば、彼女はやっと結婚を許し、そうでなければ妄想(もうそう)も不要であった。

元々、張黙君は邵元冲を引き下がらせたいだけであったが、邵元冲が本気になるとは思ってなかった。


右上は邵元冲

これ以来、邵元冲はゼンマイ仕掛けの動力車のように、身分のために鍍金(メッキ、ときん)を重ねた。

孫文の注意を引くために、有名な革命家宋教仁が殺害された一件の捜査には、自ら命令を受けた。

僅か1ヶ月で、彼は殺害犯を順調に逮捕して解決し、着実に孫文の目を輝かせた。

邵元冲の傑出した顕示で、また孫文も次第に彼に対して重責を任せるようになった。

孫文が広州軍政府の元帥となった時、邵元冲も地位の大変高い、重要機密部秘書に任命された。

1919年に、邵元冲はアメリカへ留学したが、張黙君と偶然に再会した。

しかし、アメリカでの今回の遭遇では、二人は依然出会いの火花には出会わなかった。

邵元冲は更に努力して、自身を張黙君の提出した要求に合わせた。
1924年、黄埔军校が成立し、邵元冲が政治部主任を任命して周恩来の上司となった。
この年、邵元冲は34歳であった。

男が大人になれば結婚し、女も大人になれば結婚し、その時邵元冲の身辺にも求婚者が少なからずいたが、張黙君に対する感情は全く変わらなかったなか。

彼は再び勇気を鼓舞して、張黙君に手紙を書いて、自分の感情を伝えようとした。

邵元冲の手紙を受け取り、張黙君は感慨無量であった。
当時の冗談の話が、意外にもこの色情(しきじょう)うつつな男を真剣にさせ、闇雲に、激励して彼を人中の龍鳳のように突出させるとは、彼女も想像もつかなかった。
彼女はついに決定し、邵元冲の愛を受け入れ、上述の返信で、明確に回答を成した。
手紙の中で、彼女は畏る(かしこまる)ことなく、邵元冲の才能を大いに賞賛し、自分の思いの心を控えめに伝えた。
その後の事情は、水到渠成(すいとうきょせい)と成就した。
1924年の秋、邵元冲と張黙君は上海で婚礼を挙行し、想い人は遂に家族となった。

結婚後、二人は琴と瑟の事が共鳴するように、日々(仲が)良くなった。
本物の愛は、歳月の経過を恐れず、青年から中年に至るまで、張黙君は邵元冲の心中の最良の伴侶(はんりょ)であった。
張黙君はもう青春ではなかったが、邵元冲も自分の初心を固く守るつもりであった。