山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
当社の日本語WECHAT ID:18660355510。当社の日本語対応WECHAT IDを追加し、チャットでお問い合わせも可能です。

山東の仏教名勝を訪ねて



2000年ほど前、仏教がインドから中国へ伝えられた頃、既に固有の高い精神文化を育てていた中華民族は、新しい異質な仏教文化の受容においても極めて個性的、かつ多岐にわたって繊細に反応しました。中国人に受容実践され次第に中国化されて、現在もよく使われている「世界観」、「方法論」、「弁証法」、「彼岸」、「方便」などの語は仏教経典からの「外来語」です。現在の山東省エリア内で仏教の濫觴と思われるのは、まだはっきりしませんが、臨沂市沂南県の北寨漢墓(推測:伏湛?一37年)の画像石に仏像らしい彫刻や鄒城市博物館収蔵の漢画像石(六歯の象と僧侶像のような画像が上げられます。今、山東省内には仏教名勝がたくさん保存されています。有意義な旅となるでしょう。


霊岩寺

AAAAクラス景勝区
霊岩寺はさすが名刹の誉れ高い寺だけあって、風格があった。創建以来1600年以上の歴史を持った古い禅寺である。最盛期の唐宋代には、殿閣50余、禅房500間、僧侶500人を擁していたという。当時は「四絶之中最先」と称されていた。四絶とは浙江省天台宗国清寺、湖北省江陵の玉泉寺、江蘇省南京の棲霞寺とこの寺をいう。そのトップの位置を占めていた。日本から多くの僧侶がここを訪れて修行した。
千仏殿は唐代初年創建され、宋代に拡張され、明代に重修されている。千仏殿がいわば霊岩寺の主体と言える。千仏殿の主尊は一般的に三身仏と呼ばれる(左から)盧舎那(ルシャナ)、毘盧舎那(ビルシャナ)、阿弥陀仏で真中に観音様のような花やかな蓮華台に乗ったビルシャナの仏像が置かれている。この蓮華座は千葉蓮花で、蓮の一花弁が一三千大世界をあらわし、蓮華座全体で華蔵世界を表している。これは宋代の木刻である。ルシャナは瞑想印、光背を花園のように見えた。阿弥陀仏は触地印、光背に誘惑のものたち、悪魔、野獣、美女などが配されている。壁面上部と三尊背後の壁にはびっくりと高さ30センチほどの瞑想する仏像がはめられている。千仏殿と呼ばれる所である。
傑作は脇を固めた50体の実物大(座高1.23米)羅漢像である。羅漢はそれぞれに実に写実的で、あるものは穏やかな表情を見せ、あるものは眼光鋭く激しい表情で、またあるものは懐疑的に浮かばぬ表情を見せている。その表情は全て異なる。羅漢の像は中国の宋代の有名な彫刻家が作られたもので、見るだけなら、彫刻の像と思わない、人間です。
近代著名学者の梁啓超筆になる「海内第一名塑」と書画大師劉絵粟の手になる「天下第一名塑」の石刻が仙仏殿の前に置かれているのも。これらの羅漢像は、正しく圧巻である。

千仏殿に向かって左(西北)にある僻支塔はこの寺のシンボルである。創建は唐代天宝十二年(753)であるが、現存の塔の石刻によると、現在の塔は宋代の994ー1057年に建てられたものである。塔は八角九層で高さが54米、境内のどこから見える。
慧崇塔は霊岩寺の始祖の墓所となる塔である。墓塔林はこの寺の歴代住持の墓所である。唐代から清代に渡っている。塔の総数は167、墓碑が81ある。その多くは彫刻が施されている。中国で匹敵するのは、少林寺の塔林のみであるという。中に日本人僧邵元(しょうげん)の選書の碑がある。
東晋時代「朗公」(一説では外来僧)によって建立された霊岩寺(351年前後)は、当時「海内四大名刹」の筆頭に挙げられています。開山の和尚さんの説法が大変うまく、そばの岩が生きている人間のように頭を下げてうなずいて見せたことからお寺の名前となったと言われています。「千仏殿」には、40尊の宋代の彩塑羅漢を安置。本物を思わせる迫真(はくしん)の造形は、梁啓超によって「海内第一名塑」と称えられました。歴代住職のお墓である「塔林に立つ「息庵禅師道行碑記700年前の43代目住職を追悼する)」の碑は、日本国山陰道伹州正法禅寺住職沙門邵元によって書かれた作品です。
場所:済南市長清区万徳鎮、済南の南45km、泰安の南25km
交通:北京ー福州高速道路の万徳料金所より出て、国道104号線に入り、北方向300m、霊岩広場で東方向約6km。

四門塔

神通寺は東晋(317ー416年)初めに、つまり、四世紀に創建された寺院で、当初は郎公寺と呼ばれた。351年には禅僧が500人以上おったという。とにかくこの時代における渡来僧の布教活動は、極めて盛んであった。その後、北魏、北周代に壊滅されたが、隋唐代に再建修復された。開皇三年(583)隋の文帝楊堅が勅命を以て、寺名を神通寺と改めた。
隋の文帝の仏教信仰は厚く、隋の新しい統一国家完成の根本に、仏教治国政策を置き、仏教寺院の復興、建設を大いに推進した。特に開皇三年には北周の廃仏によって廃絶した寺の修復を命じている。唐代仏教の隆盛は、この時期の基礎をおいている。
現存の四門塔、龍虎塔、千仏崖の石像などは、大部分、隋唐代に建造されたものであるが、神通寺の現在の建物は、ごく最近復元されたものである。
四門塔は神通寺の東側、青龍山山麓にある。造営は隋代の611年とあるから、既に1400年近く経っている。中国に数々ある石塔の中でも、最古の一つである。高さはおよそ15米、壁の一面は7.4米と、あまり大きいものではない。塔といえば、見上げるものが多い中で、単層の塔は珍しい。その姿は如何にも質実剛健といった様子で、何の飾り気もない。塔の東西南北壁面にそれぞれ上面がアーチ形の龕があって、それぞれの龕内に仏座像が安置されていた。四門の由来である。東面は阿閦仏「薬師如来」、西面は無量寿仏、南面は宝生仏、北面は微妙声の石仏である。これらは金光明経に歌われる四方四仏である。
四門塔の脇には、「九頂松」が立っている。この参天古柏は、上部が九つの枝に分かれているので、こう呼ばれるようになったという。この樹は開祖郎公禅師のお手植えと伝えられているが。
四門塔(隋:611年)は山東省済南市南部(約30km)の柳埠鎮にあります。中国最古の石塔で、高さ15.4m、片側の幅約7.4m、塔頂部は23枚の石板を一枚一枚重ね、四方の壁面には半円形のアーチ型門が設置されています。塔内に石積みの四角柱、四方に一体ずつ仏像があります。塔の近くには高く聳え立つ古柏があり、9本松とも。実に千年に昇る樹齢にもかかわらず、今も枝葉を茂らせ、生き生きと成長しています。四門塔近郊に在る神通寺は、泰山の西側の霊岩寺と同じく東晋「朗公」(『高僧伝』に載る)が建立したお寺。付近には千仏崖、龍虎塔、九頂塔、竹林寺などの名勝もあります。

千仏崖

千仏崖は神通寺の西側、白虎山にある。千仏崖までは500米もなかった。千仏崖は山東地区における唐代芸術の主要な遺存である。
第一龕には、:一体の大仏が鎮座していた。結跏趺座の如来像である。3米ほどの高さ。顕慶様式(唐高宗年号)を残しているとあるから、七世紀半ばの造像である。
第二龕:横長の龕で、中央に柱があって、その両脇に高さ2米ほどの如来像が二体、結跏趺坐(けっかふざ)の形に彫り出されている。この龕にはそのほか、小さな如来像が多数彫られている。この龕内の壁面に「この像は青州刺史趙王福か顕慶三年(658年)に発願造像した阿弥陀如来である」と記した銘記がある。
第三龕の二体の如来像である。肉髻が大きく、螺髪が見られない。お顔はやや細面である。両手は膝の上に置かれている。瞑想を表す定印ではない。こちらの如来像には、まだ隋の様式が残っているように見えた。
造像の題記が46あり、それらによれば唐代初めの60年間に貴族、僧侶などが、父母、兄弟、子女の「祈福」のために作らせたものであると資料にあった(幸福を祈願する)。

龍虎塔


龍虎塔は歴代和尚の墓所である塔林の中にあった。そもそもこの塔は神通寺の祖師である郎公禅師の墓塔で、郎公塔と呼ばれている。一般には、塔身に彫刻された見事な竜や虎から、龍虎塔と呼ばれるようになったものである。始建時代は明らかでないが、塔の造りから見て唐代であろうと推測されている。父頂のみ宋代とする。
龍虎塔は高さ11米弱、塔全体に龍、虎、仏、菩薩、力士、伎楽、飛天などの素晴らしい彫刻が施されている。塔の造形は優美、彫刻は精細で盛唐における造型彫刻芸術の精華で、中国でも稀有の古建築である。
石塔であるが、塔の上部は木造建築を模して、肘木(ひじき)を持った屋根組を表現しており、その下の塔身には龍、虎、天人や天部などの像が精緻に彫り出されていて、華やかである。インド寺院でよく見る薬師像のような豊満な姿態の彫像があったのは珍しい。この塔の龕にも、東西南北にそれぞれの如来像が安置されている。
住所: 済南市歴城区柳埠鎮蘇家荘
電話:0531--82840444

九頂塔

歴城県柳埠村、霊鷲山の九頂寺の遺構にある。唐代の建立。八角単層で高さ13.3米、塔頂に小塔が九つある。南面に仏室があり、木彫の仏陀を一つ、僧侶を二つ安置。周囲の壁に壁画が残存。

青州博物館造像

山東省には地方都市では初の「国家一級博物館」があります。当館の収蔵文物は2万件余り。殷商時代の青銅器や古銭、特に1996年中国考古十大発見となった「龍興照埋蔵石仏」は世界を驚かせました。青州龍興寺は古文献にも記され、日本の遣唐使や円仁法師とゆかりが深いことで有名。それに青島博物館、諸城博物館、臨朐古生物化石博物館、博興博物館、山東石刻芸術館、山東博物館などでは青州様式(青州龍興寺石仏の様式)と言われる北朝石仏を展示しています。ほかに兗州博物館でも1993年発見された北斉河清三年(564年)の「河清三年造像の碑」や多くの石刻経の残片が展示されています。

中国山東省旅行:ゴルフ:ご宿泊施設:レンタカー等も何でもお任せください。

青州市博物館は1959年に建設が始まり、1984年には新館がしたとある。収蔵品は文物三万余とある。青州は遠古の昔は、東夷ノ地と呼ばれ、既に夏、商の先史時代からの遺址がある。博物館の説明では、この地方には大汶口(だいぶんこう)文化遺址22個所、竜山文化遺址85個所あり、そこからは駝鳥蛋化石、夏商土器などが発見されていて、展示されている。
青州石仏大きさは3m を超えるものから50cmほどのものまで様々です。材質は青州産の石灰岩がほとんどですが、ほかに僅かながら大理石、鉄、木、陶製の像もあります。出土した仏像の内最も古い年号を持つものは北魏の永安2年(529年)で、新しいものは北宋の天聖4年目(1026年)です。この間の500年間の仏像が埋められていたことになります。現存するこの時代の単体石仏は数が限られていたため、青州石仏の発見は質の高さと数の多さから世界の仏教芸術研究者を驚かせる大事件でした。

菩薩像この裙(くん)の襞(ひだ)は日本の飛鳥(あすか)時代の彫刻との関連が指摘されています。

如来仏像(北斉550ー577年)、与願印(人々の願いに応じて施しを与える印)と施無畏印(人々の恐れを取り去る印)を結んでいます。

盧舎那仏像は仏身に一切の世界を包容すると説かれていることから、仏像の体に図像を表現したと思われます。

龍興寺址から本像を含め、少なくとも3体の半跏思惟像は発見されました。この微笑みを讃えた半跏思惟菩薩像は日本の法隆寺や中宮寺にある飛鳥時代作の国宝・半跏思惟菩薩像の源流を考えて言えます。(朝鮮半島及び日本に伝わる半跏菩薩像との関連が注目され、文化市上重要位置を占める。)

山東省青州(山東半島青州)は海に面しています。海上交通を通じ、南北中国や海外へも結ばれています。中国の仏教芸術がインドからの影響を受け入れ流れも、中国独自の変化を遂げ、やがて朝鮮半島や日本へ波及していったことは飛鳥仏を見れば明らかです。この35体の青州石仏は、現代に通じる美的感覚を持ち、高度の芸術をうかがわせます。出土した歴代の仏像を見たところ、像の上の図絵は、ごく稀に見る例である。これらの造像の風格特色を見れば、現代の我々の創作に啓示を与えることができる。またこの静かな世界に心に安らぎを与えてくれます。
場所:青州市博物館
電話:0536--3261736

北朝石刻経遺跡

中国5000年の文明史の中の一瞬と言える南北朝末期の20数年間に外来文化が急速に現地化し、世界最大規模かつ多様な石刻経の世界が形成されました。これは、どの国類を見ない現象です。この激動の20数年間に作られた各地の山々(山東省中部と南部、河北省の南部の主に邯鄲周辺、河南省の北部の主に安陽周辺)に散在する仏教遺跡に約22万文字の石刻経が眠っています。嘗て歴史の流れの底に千年以上埋没し、清代にようやく文献に現れましたが、僅かに書道の立場からのみ評価されていました。乾隆年間の済寧知州の黄易氏により泰山経石峪摩崖、岡山摩崖、尖山摩崖、葛山摩崖が最初に調査・記録されました。その後、阮元氏、包世臣氏、葉昌熾氏、康有為氏などの文人達などの文人達がそれらの摩崖「榜書」を見て感嘆しました。1965年に郭沫若氏は泰山を視察、その経石峪の金剛経を目の当たりにしたい感動を「人民日報」に「千年風韻在、一畝石坪鋪、経字大如斗、本是唐人書。」と発表。当時、鄒城文物管理所に勤めている王軒という青年に成立年代の誤解を指摘され、文学泰斗と言われている郭氏も素直に「本是唐人書」を「北斉人所書」に訂正しました。このような誤解エピソードは他にもあり、泰山と同じ仏経典と思われて、鄒城鉄山摩崖は1980年代末まで一般に金剛経だと誤解されていました。北斉石刻経の総合的研究の闕如からでした。ようやく、総合調査が始まったのは二十数年前です。
東平県洪頂山摩崖刻経

1995年に発見されました。時空を超えて歴史に刻まれるべき大遺蹟。「大空王佛」(縦9.3m、幅3.55m)という巨大仏名は大変独特で、その仏字に仏手の形が図案化されています。ユニークな書き方は必見です。また『文殊般若経』、『仁王般若経』、『大品般若経』『摩訶衍経』題記:「僧安道一」、「安校之碑」、「大沙門僧安」、「六波羅蜜」、「大山厳佛」、「高山佛」、「安王佛」、「式佛」、「維衛佛」、「眦葉佛」、「烋奈佛」、「南無舎牟尼佛」、「牟尼佛」、「阿弥陀佛」、「弥勒佛」、「釈迦葉佛」、「観世音佛」、「大勢至佛」、「具千万光相佛」、「安楽佛」、「薬師瑠璃光「大口口佛」(双鈎、横書)、「釈法洪」河清三年(564)題記、また「双林後一千六百二十二年」、歴史的に貴重な僧安道壹の題記など見どころ多数。
東平県文物管理所保管 重修海檀寺碑陰にある「観世音経」皇建元年(559年)
東平湖西岸の銀山「佛說摩訶般若波羅蜜」北斉?
   司里山「文殊般若経」憍陣如品、「佛言」など大字はは残留、経名不詳。一つ小さい佛龕の題記:「皇建二年」(561)
泗水県文物管理所保管「維摩経」碑 阿閼佛品 皇建二年(561)
巨野県文物管理所保管 「華厳経」碑 「河清三年」(564)

泰安市徂徠山映佛崖「文殊般若経」下、「般若波羅蜜」、題記: 経主王子椿、武平元年(570年)

徂徠山光華寺巨岩 「十八空」(『大品般若経』序品出)、「大空王佛」、「弥勒佛」、「阿弥陀佛」、「観世音佛」、題記: 経主王子椿、武平元年(570年)


鄒城四山摩崖刻經:

(1)山東省鄒城市嶧山腰經(妖精)洞佛崖 武平年間(570〜572年)『文殊般若経』下

(2)鉄山佛崖 『大方等大集経』海慧菩薩品、題記:「東嶺僧安道壹署経」、「大象元年」(579年)など

(3)葛山佛崖『維摩詰所説経』見阿閦佛品、題記:大象二年(580年)

(4)岡山佛崖『佛説感無量寿経』『入楞伽経』、「大空王佛」、「阿弥陀佛」、「釈迦文佛」、「弥勒尊佛」、題記:比丘恵暉大象二年(580年)、など


泰山摩崖刻経 泰山は「中国摩崖石刻博物館」とも呼ばれている。摩崖石刻は2200余ヵ所あります。中でも、中腹の経石峪にある北朝摩崖刻石「泰山金剛経」(575〜576?未完成のまま)は、渓谷の広大な岩肌を覆うような巨大な文字の群れは周囲の景色を圧する雄大さ。泰山を訪れたら是非とも見ておきたいスポットです。
ご覧の通り、二つの山頂の間の谷底には、古くて有名な「金剛般若経」が刻まれた滑らかな石の広い領域があります。経石峪「金剛般若経」は中国最大の現存する仏教の摩崖石刻です。
経文は、2000平方メートル以上の緩やかな斜面の石の床に刻まれています。東から西に、仏教の「金剛般若経」が刻まれており、合計44行、毎行125語又は10語、合計2799語です。単語の直径は50cmです。石刻は千年以上の風雨によって侵食されており、まだ41行、1069語が残っています。
経石峪の30行目から双鉤字(籠字)が出現し始めて、明らかにこの経文は刻が完成していない。専門家は是には重大な事件の発生がその刻字に影響していると考えている。紀元4〜6世紀には北魏の太武帝、北周の武帝など4度の大きな廃仏運動があり、経石峪の彫刻を停止した。また学者は当時の斉魯の領地は北斉に属していたので、北斉の滅亡がはやり本当の彫刻中止の原因であると指摘している。
経石峪の摩崖石刻は筆法が跳躍し、点画は厳重で、骨力勇健で、筆法鋭利である。字体は隷書が主である。
経石峪の字が非常に大きくて立派だというので、書道の方でも珍重されているものです。これは国家文化財ですから、普通、柵の中には入れないんですが。こういう形で、本来ならここに川があって、河水が流れていたんです。それを北斉の時代に上流を塞ぎ止めて工事をしたそうです。非常に大きな字で、「金剛般若経」が彫ってあります。こういう赤い字になっているのは、ペンキが塗ってあるんですね、わかりやすいように。六世紀の後半になります。ですから、現在からしますとほぼ1500年ほど前のものになりますけれども、それが現在もこうして残っております。
注:西暦401年、西域高僧鳩摩羅什が中国に到着してから地元に暮らすことにした。それから、413年で円寂(なくす)ようになった。この間(12年間)では彼は中国語で訳した74部の総合384巻お経があり、それらの中に広く世の中に流通するのは「金剛経」。今にも現存する年代が古い「金剛経」は868年に敦煌蔵経楼に収蔵(コレクト)した物である。1900年に海外に流失した。目前はイギリス博物館に保存した。西暦六世紀の経石峪に刻んだ「金剛経」よりも三百年ぐらいに遅いのだ。
(経石峪金剛経)その著者について、専門家は異なる意見を持ち、一部の人々は、彼らが晋朝の王羲之の一人であると信じ、より多くの人々は、四大高僧の一人の安道義に焦点を当てました。泰安東平の洪頂山、ニ洪山の摩崖刻石は、書道や結び目の両方で、目の前の刻石と非常に類似しています。だから、専門家は、これは同じ人の手であるべきだと考えています。
経石峪の美しさは周囲の環境と調和しています。周囲にはまだ多くの刻石があり、特に明隆慶六年明の人が題した「高山流水(高い山の流れる水)」があり、神来の筆と呼ばれています。経石峪が高山流水の詩文になります。詩や絵画に満ちていることです。
「金剛般若経」は大乗経典の一つ。鳩摩羅什の漢訳が知られる。空・無我の道理を記き、禅宗では特に重視される。真実の知恵は通常の認識によっては得られず、空によることを明らかにする。

平陰県翠屏山摩崖「大空王佛」題記:「比丘僧太」ほか五比丘名、北斉?
書院山摩崖 「大空王佛」(二ヶ所)北斉?
鼓山の石道 「大空王佛」(その佛字に仏手の形)北斉!題記:「比丘僧太、道顒、僧安一、程伯仁」ほか四比丘名
大寨山摩崖「阿弥陀佛」北斉?
寧陽県神童(鳳凰)山「大空王佛」、「弥勒佛」、題記:「彭大買」北斉?
滕州市陶山摩崖「般若波羅蜜」、「阿弥陀佛」、「観世音佛」、題記:「経主空」北斉?
それの中、北周の最後の2〜3年間に作られた旧北斉エリアの作品も、同じ系統に属する石刻経であると考えられます。
北斉20数年間の石刻経ブームは、社会、政治、民族、文化、宗教信仰、各方面にわたる原因があるでしょう。

千仏山

済南市内にある歴山は、4000年前の舜という王様が民を連れてこの山の麓で耕作したと伝えられ、初め舜耕山とされました。のち、隋の開皇年間(581--660年)に山の中腹に仏教石窟が作られ、崖には仏像も彫刻されたことから、千仏山とも呼ばれるようになりました。済南市の市街南方2.5キロにある。海抜285米で、緑が多く、東西にそれぞれ300段前後の登山道があり、渓谷沿いに曲折し、中腹から北を望むと、済南北方の山並みを見渡すことができる。
絶壁の下に唐の貞観年間(627〜649年)創建の興国寺があり、境内の千仏崖に隋の開皇7年(587)から唐の貞観年肩にかけて彫った多数の仏像がある。崖下の極楽・竜泉・黔婁などの洞穴の壁にも多数の仏像が彫られた。伽藍背後の山上の一覧亭に登って遠望すると、大明湖や黄河を一望することができる。
これらの仏像は隋の開皇七年(587)から開皇十五年(595)に彫られたもので、石窟が九窟、130余尊の仏像があるという。隋代に開山、当時はこの寺は千仏寺と称されていたが、唐代の仏教最盛期に拡張され、興国禅寺と改称された。本殿の大雄宝殿は釈迦牟尼を主尊とし、両脇に文殊、勢至の両菩薩が控え、その前に仏十大弟子の塑像が安置されている。そのほか、観音殿、弥勒殿、対華亭などがある。現在の建物は明清代に重修されたものである。

千仏山石窟の圧巻は、開皇十一年(591)に作られた極楽洞。主尊は大勢至、観音菩薩に添われた釈迦牟尼。迦葉、阿難も型通りに両脇に控えている。

場所: 済南市歴下区経十一路18号

縁日(中国語:廟会):千仏山付近は柿が多く、中でも「大盒柿」は最も有名。毎年、旧暦の「九月九日重陽節(ちょうようせつ)が縁日です。ちょうど「大盒柿」の実るこのシーズンには、お祭りに来た人がたくさん柿を買って帰りますので、千仏山の縁日は「柿の会」とも言われています。こういう縁日は大昔からの習慣で、もちろんほかにもお土産は多くあります。

大仏頭:済南市街の北方3.5Km、歴城県の仏慧山の北斜面にある。岩に高さ7.8米、幅5.35米の仏頭が彫刻されており、これを一般に大仏頭と呼ぶ、制作年代は北宋の景祐年間(1035)説と唐代の天宝年間(742〜756)説があり、まだ確定していない。

黄石崖:済南市の東南部、螺絲頂山主峰の西側にある。岩肌が黄色いので黄石崖と言う。北魏の正先4年(523)から東魏の興和2年(540)にかけて彫られ、山沿いに岩壁と天然の洞窟の中に分布し、大小合わせて19の仏龕、85体の仏陀と菩薩のレリーフがある。保存状態は良好で、芸術の価値も高いとされている。

汶山県水牛山摩崖刻経と宝相寺


水牛山摩崖刻経: 

汶山県から十数kmの東の農村地帯に小さな山があり、水牛山と呼ばれています。山の上に仏教摩崖刻経(「文殊般若経」の冒頭部)と洞窟があり、汶上県博物館蔵の水牛山文殊般若経碑「文殊般若経」下は、北斉と推測されていますので、同じ北斉のものでしょう。

宝相寺

汶上県の街に唐代に建立された昭空寺があります。宋の貞宗は泰山への封禅の儀に際して汶上に行幸され、昭空寺は宝相寺と命名されました。1994年、宝相寺の修理中、「太子霊踪塔」という銘文の石の函が発見され、その中に舎利などがありました。
地址: 山東省済寧市汶上県
交通:G3 京台(京福)高速ー磁窖出口から、寧陽県城を通って汶上県上へ、尚書路から北へ、宝相寺路。所用時間:高速道路から下りてから約60分。

赤山法華院

AAAA クラス景勝区
日本の僧侶円仁法師の渡唐の地として有名。まだ新羅の張保皋伝記館もある。「一寺連三国、情伝中韓日」と言われ、中国、日本、韓国が手を繋ぎ合ったお寺。

「赤山大明神」は先史時代から当地の人々が崇拝している太陽の神です。赤山は太陽神の宿る山であります。この近くに先史時代の岩画があり、元の斉地八神の日主神(日神)の祭祀の地はこの近くにあります。

新羅人張保皋という人物が唐の軍隊に入隊し、功績を残しました。軍を去った後石島にやってきて、唐·日本・新羅の三国間の海上貿易を初めたのです。「赤山大明神」は「海上の王」と呼ばれる新羅の張保皋の海上貿易を保護したり、日本平安時代の僧円仁法師が海上遭難しそうになった時に助けたと言われています。実は新羅の張保皋が在新羅の二代の唐人(二代中国人)のであった。赤山法華院は張保皋が投資になって建てた仏教寺院だったのです。円仁の修業の旅を可能にしてくれたのは赤山法華院の人々の好意であり、張保皋の配慮があったればこそでした。赤山法華院を寄進するとともに短期で帰国しなければならなかった入唐僧円仁の長期不法を実現して円仁の為に地方役人と交渉して旅行許可証を取り付けるしたのを初め、円仁の9年6ヶ月の求法の旅を物心両面に渡って支援した。実在慈覚大師円仁の求法を支援。
円仁(794〜864年)比叡山延暦寺第3代座主で天台宗山門派の祖。835年勅を受けて遣唐使に加わり、三度目の航海で遂に入唐を果たす。五台山を巡礼し、長安に長く留まる。会昌の法難により帰国。この入唐の記録を残した『入唐求法巡礼行記』は有名である。
円仁と弟子たちも847年、この赤山を最後に大唐を離れたのである。慈覚大師円仁には唐から数多くの経文や仏像を持ち帰ったが、それとともに赤山大明神信仰を日本に招来した。
住所:威海石島区法華路
電話:0631--7326666
場所:威海市石島区港湾街道北の赤山
交通: 威海から80km

南山寺

唐の石泉寺の遺跡は1999年に再建され、南山禅寺、香水庵、霊源観、文峰塔、南山古文化苑などがあります。ブロンズで鋳造された南山大仏は、高さ28.66米、重さ380トン、大仏の蓮台の下に功徳堂、万仏堂(999尊の仏像があり、上の大仏と合わせて万仏と言う)、仏教歴史博物館もあります。近くに、南山国際ゴルフ倶楽部、南山康乐宫、南山賓館、南山文化会議センターなども揃っています。
場所:煙台龍口市黄城の南、7km
交通:濰烏高速道路の黄城出口から下りて約20分


臨清磚塔(舎利宝塔)

臨清市の西北部、大運河の北岸にある。
創建年代は未明、明の正徳16年(1521年)再建。高さ約60米、磚と木からなる八角楼閣式の塔。塔身は九層で、内部に頂上まで貫く心柱、それを取り巻くように階建があり、最上層まで登る事ができる。最上層に登って眺めると、大運河が一本のベルトように延び、帆影が疎らに閃き、極めて清趣に富む。

梵唄寺

梵唄寺は山東省聊城市東阿県城南黄河北岸- -魚山に位置しています。中国の三国時代の英雄曹操の息子ー曹植が梵唄を発明しました。梵唄は仏教の中で仏教の頌歌です。梵唄の中に有名なのは曹植が作った声明です。後は日本に伝えました。
三国時代の英雄曹操の息子曹植(192〜232年)が斉の国の東阿の王であった頃、魚山と言う丘の上で、天上から響く音楽を聴き、その節に模して讃歌を作成したのが、中国声明の初めであると言うのです。「法苑珠林」によると、魏の曹植が山東省魚山で梵音を感得して梵唄を創作したと伝え、それが「魚山声明」と称する声明の起源とされる。
日本の声明と言う音楽の発祥地は梵唄寺です。人々の人生ってを浄化する意味です。梵唄寺は中国の梵唄の発祥地です。1996年中国重要な保護地になりました。梵唄寺は仏教の禅宗流派です。

各地に見られる仏教遺跡

済南市龍洞北朝大仏、済南市張夏鎮張夏村臥仏山義浄寺石刻、淄博市臨淄石刻館北朝大仏(他に阿育王石経幢・宋代など)、鄄城県文物管理所所存 北斉皇建元年(560年)造像碑、濱州市博興県丈八仏村興国寺の北朝大仏、膠南市夾溝村の北朝石窟、煙台大基山摩崖石造像、煙台盟格荘村仏龕石造像、威海市槎山千仏洞北朝石窟などなど。


これらの多くは宋代までの仏教遺跡です。面白いことに現在の山東省エリアの仏教遺跡は東部と北部は主に仏像で、中部と南部は主に仏経です。さてその理由は?考えていただけませんか。

煙台莱州盖平山仏教石窟

山東省博物館
威海石島区龍岩禅院遺跡(金)


済南歴山(千仏山)