山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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書法と文字載体(にないて)

甲骨文:

書聿筆尹君伊吏史使事管典冊竹支枝弟

現代常用字:

竿等簡笺簿箭管算答第策箱笑籃匡筐策箸筷篇符築丁個


中国文化は博大精深、無数の貴重な文化財が出土している。これらの文化財の中で、銘文のある陶器や、青銅器はやはり本物の「宝物の中の放物」である。我々は毎日文字を書き、毎日文字を読むが、文字はありきたりではあるが、もし文字がなかったら、我々の歴史は空白となり、文明、文化の伝承と発展は更に話題とすることもできないのである。ジャイアントパンダは有史以前のどうぶつであるが、現在でも生きていることは、一種の奇跡である。中国の漢字も文字の中のパンダであり、遠い過去から来ているのである。現代社会になっても、それは依然世界上での使用人数が最多の文字であり、一層大したものなのである。世界上の文明の古い国ではは中国一箇に止まらないが、歴史と文明の伝承では、中国は唯一断絶したことがない。もし大河の流れに例えれば、中国文明の源流は遠長であり、今もなお流れているのは、まずは漢字の伝承の賜物であると言える。

殷商時代の甲骨文は世界が公認する中国最古の文字である。甲骨文の後の、周代の金文と、石鼓文は、青銅器上に鋳込まれ、石材に刻まれた文字である。春秋戦国時代には、全国統一の文字がなく、多種の大篆(籀文=ちゅうぶん)が使用された。秦の始皇帝が中国を統一すると、秦国で通用していた小篆を標準として全国的の文字を統一した。当時の書写材料の主要は木牘と竹簡であり、しかも小篆の書き方は湾曲していて、小刀で筆画を刻むことは不便であった。そのため漢時代に簡略化された書写方法は、漢字の筆画から湾曲を取り去り直線的となり、「隷書」と称した。隷書の出現に連れて、漢字の造字の歴史は基本的に一段落した。現在いわゆる漢字は、年代区分により「古文」と「今文」の両種に分けられる。「古文」は甲骨文、金文、大篆、小篆を包含し、今文とは隷書、楷書、行書、草書を包括する。
漢字の書写の担い手は、陶器、亀甲、青銅器、竹片、紙への変化を経歴した。字を書くのに使う筆記具は、小刀、木べら、竹の枝から、動物の毛発と植物の茎を組み合わせた毛筆へ変化し、使用したインクも植物の汁液から人工合成した墨汁となった。これらは、どれも自然物から取れている。
実際に、甲骨文は中国最古の文字ではなく中国の文字の発生は甲骨文以前に発生しており、しかも殷商王朝の文化と連接している。現在発見されている甲骨文には、一部には五帝時代や夏王朝の作られた文字も含まれることは、肯定できる。殷商時代になって、突然に4〜5千の高度にまた筆記できる文字ができたとは、考えることができないためである。文字の創造は、発展の過程が必要である。自然を起源としてより自然的な「文(紋様)」は、絵画を経て模写され、、組み合わせ(会意)、要約し(帰納)、単純化し、精製され、意味を付与された。我々が現在使用している漢字は、全て古代の祖先が数えきれない年月をかけて自然の文(紋様)から学び、抽出した神髄であり、ここに「文書」がある。
現代中国語では「文書」を文献、書籍を指す言葉として常用している。『孟子・万章上』に「故に「詩」と説くに、文を以て辞を害さず、辞を以て意を害さず。」とは、意味は『詩経』を読む人は、一字の表面の意味にこだわって語句を誤解しては行けず、また語句の影響を受けて詩の本意を誤解してはいけないということである。「文章、文献」は「文字」から派生している。『論語・学而』の「行に余力有らば、即ち文を学ぶを以てす。」とは、意味は、親身に実践して、もし精力が残っていれば、文書を習うすべきである。
陶文は陶器上に刻まれた文字で、6,000年余り前にはもう出現した。陶器は壊れやすいので、保存されにくい。後に、人里は重要な著作を長期保存するため、文字を丈夫なもの、例えば動物の骨、植物の木片、崖の岩石、他に貴重な青銅器などに文字を書くようになった。これらのものは大変嵩張り、また貴重であったので、例えば宗教文書、政治法律、帝王の功績などしか、記載して保存できなかった。
孔子は『尚書序』で、遥か昔中国には、『三墳』『五典』『八索』『九丘』という四部の、大変有名な著作があったと記載している。孔子は「伏羲、神農、黄帝の書を、『三墳』と言い、正道を語っている。少昊(しょうこう)、顓頊(せんぎょく)、高辛、唐堯、虞舜の書を『五典』と言い、常道を語っている。夏、商、周の書籍となると、歴代重宝し、大訓(教訓)とした。八卦の説は、これを『八索』と言い、その正義を求めた。九州の志は、これを『九丘」と言い、丘は、集合することで、九州のある所、土地の生ずるところ、気風の適宜なこと、みなこの書に集めることを言う。」
もちろん、年代があまりにも長くなったために墓、典、索、お菓子が見えない。それらは恐らく異なる図書記号で書かれた古代文献を指すだろう。墳は大きな意味を持つが、当時の本が厚くて厚い泥板や陶片、陶製のうつわで作られていたことを意味するものとみられる。広い意味で「土」には石も含まれているため、三墳の本は文字が刻まれた碑石や岩画である可能性もある。蒼頡は文字を発明し鳥獣の足跡にヒントを得て、洞窟の中や岩に絵を描くのも理にかなっている。
「殿」は「常規、法典」という意味です。典籍は元々「五帝の書」を指すが、孔子が『尚書』に『堯典』と『舜典』がある。甲骨文において、二文字の字形は非常に似ている。第一文字は長短が異なる竹簡で編んで作った本の形で、それが正に「冊」であり、第二文字は両手で慎重に持っている重要な典籍であり、これが正に辞書、経典の「典」字である。
漢字の典、共、供、具、兵、其、六、冀等字には、共通する一つの符号がある。横一の下に二つの支持する点があり、これらの符号は物品を置いた脚のある机を表現している。もちろん、これは普通の机ではなく、廟堂の本殿に置かれ、重大な儀式の大机台である。このため、「典」の元の意味はある意味机に重要な意義のある文章を陳列あるいは安置することを指しており、その作用は掲示板、公約書、神勅書、法規文書と行動規範の刻字に相当する。それは契約から変化したもので、つまり小型で収納に便利な契約を大型化、公開し、厳粛化して、その材質は木板、竹片、石塊、あるいは青銅の鼎などの金属材料であった。
「典」の一歩変化したものが「冊」で、『大雅・承頌』では先人の文化的繁栄を称賛して「典あり冊有り」という。「冊」は後の竹簡や木簡で、これらは「典」として絶えず小型化、軽量化し、折り畳み、丸めるなどにより形成したものである。甲骨文の「冊」は革紐で一列の竹片あるいは木片を連ねた書簡である。『説文解字』に、冊は、朝廷の授権(権利の付与)を記録し、分封(ぶんぽう)の信息の文本す(領地付与文書)という。封土を分け与えられた諸侯は朝廷に入り王として封ぜられた。「冊」を象る字形は札片を一長一短を配列し、中央に二本の紐で編み込む形状である。
「索」は元麻縄を指し、「探索」「牽引」の意味を派生している。だが、「索」は一種の文書あるいは手紙の体裁として、縄を結んで符号を記録する体系や、これから派生した陰陽八卦を指すはずである。中国人はまず養蚕と絹布を発明したので、古代より絹布「帛」で手紙の体裁としたので、「帛書」と呼び、単位は「巻」であった。八卦は元「八索」と言い、それは記録、占卜を結縄することを淵源とした。絹布文書を指し、正に『尚書』に「古は伏羲氏の天下に王たるや、初めて八卦を画き、書契を作り、以て結縄の政に代え、是に由って文籍生ずるなり」と言う。
「丘」の甲骨文字形は     、  、 で、古語は「四方高、中央低は丘」で、まるで聚宝盆のように「集まる」という意味です。人口が集まっている地域も丘で、つまり「四邑は丘」です。字形から言えば、「丘」は緩やかな傾斜を持つ丘陵を指す。「九丘」という本が「丘」という字を選んだのは、「山川、区域、巨大」という意味を持っているからです。上記の意味を総合して、立体的な実物地図のように見えます。つまり、異なるシミュレーション区域にその地理的な方向を象徴する物産があり、今日の言葉で言えば、社稷(しゃしょく)壇の五色土です。対応する方位の物産が陳列されている。もっと深く言えば、「丘」という字は『九丘』で使われ、中央政府の統治権力が天下の四方八方に広がっていることを示している。『尚書序』は「九州の志は、いわゆる『九丘』」;丘、聚也、九州所有、土地が生まれ、風気が適切で、皆この書に集まる」と書かれている。『九丘』は実は『山海経』の『五蔵山経』で、4200年前の中国景観を記録しています。『九丘』は実物地図地理書です。今日の模型沙盤に少し似ていて、巨大な絵かもしれません。五区九州の山川地形と物産、帝禹時代の人文景観が描かれています。『五蔵山経』に記録された東、西、南、北、中の五つの区域で、山々447個、河川258箇所、地名348箇所、鉱物673種、植物525種、動物473種、人文活動シーン95箇所が含まれています。
我々の祖先は符号を記事に使用した当初、小刀で竹片や木板に絵文字を刻んだという証拠が残っている。小刀は石器時代にはもう発明されており、人類が最初に使用した工具の一つで、また最も広範に使用された工具であり、竹片木板も先人たちが日常生活でなくてはならないものであった。それで、我々の祖先は小刀で図形符号を刻んで記憶の幫助としたのは大変自然なことであった。長期使用の過程で、図形符号は次第に増えていって、基準が統一され、また更に複雑な事情を記録できるようになり、最終的に申し分のない文字の系統を形成し、同時に竹片木板上の絵文字の方法も自然諸習慣化し、技術も更に熟練を加えて、従って成熟した書写方法へと発展した。孔子の編著の『尚書』の主要な内容は古代の告示で、最も古いものは『堯典』『皋陶謨』の二篇で文句は古めかしく、孔子が過ごした春秋時代の言語の特徴とは完全に異なるものである。これは孔子が得たこの二篇の典籍は、口語伝承によらず、むしろ「書籍」から書写されたものである。
実際古代人は、「文」と「書」の概念は同様ではなかった。古代には、陶文、甲骨文、また金文、篆書があった。秦末漢初になると、隷書と楷書があった。同様に文字はどうして隷文、楷文と言わないのであろう。これは、「文」は「紋」に通じ、小刀で模様を刻んでできた象形のデザインであるからである。「文」は自然界の客観的字物を模写したものである。野獣の体内の、動物の生存を維持する血管が文である。川の流れの痕跡が文であり、自然の規律に従って高きより低きに流れている。木の葉の模様の葉脈も文であり、この種の紋様(文)は実際は植物の血脈であり、根部から吸い取った栄養と、水分を葉に注ぎ込むのである。これらの「文」は皆自然を淵源とし、自然から生まれ、自然の中に廃退するもので、天地と共存し、我々一人一人の人生がこの世に存在する道理と同様である。
甲骨文の    「書」は、毛筆を硯(すずり)の墨汁をつけて   、写実的に、躍動的なので、明らかに筆を手    で掴んでおり、竹簡で作った毛筆     と、墨池、硯台を使用している。金文の    「書」は「者」を    「口」に替えて、字を書く前に墨池に「浸して」、毛筆を柔らかくして、ようやく書けることができることを強調している。
字を書く時に墨をつける動作を、「点」と言う。金文の    「點(点)」は墨汁を表す     「黒」と染料をつける「沾」字の略字    「占」の組成で、造字の本義は、古代人が墨汁をつけた毛筆で書に丸い粒上の記号をつけ、文の切れ目や読み方の規則を示している。篆書の点は   を書く。隷化後の楷書の点は   を書く。
「書」は毛筆で書かれた表意符号であり、つまり抽象的な四角い文字である。従って、秦朝以前の象形文字は高明に「甲骨文」「金文」であって、「甲骨書」「金書」とは言わないのである。漢朝以後単純化、抽象化された漢字は「隷書」「楷書」であり、「隷文」「楷文」とは呼ばないのである。先秦時代(秦以前)の大篆と秦代の小篆は、漢字の過渡期の段階であるので、それを「篆文」とも称すことも、「篆書」と称すこともできる。
「書」の本義は文字符号である。しかし現在言及される「書」とは、文字符号と「漢字の六書」の造字方法に限らず、書法(書道)芸術まで抱括される。書法は中国民族に大変深遠な影響を与えた。古代人は「金」「石」「書」「画」と併称し、青銅器、石碑、書法(書道作品)、絵画に分類される。これらは全て中国の古典文化の精華である。
書法は一種の芸術であり、また広大な人民に大いに歓迎される芸術である。古代人は優れた書法作品と「法書」と称したが、これはこの作品が十分に書法(書作品)であることを意味している。手本と書するに堪えている。古文では「書法」「書道」「書芸」は全て書写の方法を指し、後に一律に「書法」と呼ばれるようになった。
古代人には「字はその人の如し」という言い方があった。優雅に言えば「尺簡素書は、千里の面目なり」。意味は、一通の遠方の便りは、その人に会うような、親近感があるということである。書法は古代よりこのように、人に人格と人物像を代表させるものであった。

「聿」は「毛筆」の本字であり、毛筆をさしている。もし甲骨に刻字しようとすれば、堅い「小刀の筆」を使用して、積極あるいは青銅でできた小刀を使ったので、墨汁は省略して、線刻の痕跡を留めれば良いのである。甲骨文と簡牘に文字を書く人を、人々は具体的に「刀筆吏(鉄筆役)」と称した。しかし日常生活では、人々は毛筆を使用することを好んだ。どんな筆であれ、毛先が筆管に装着されているので、甲骨文   と金文    、 では、筆の字形は「聿」で、みな手に竹管で字を書いていることを象っている。篆書の字形の   「聿」は筆を持つ手(又)と筆管(竹)を上下に繋ぐ形となっている。後に、「聿」は単純の文字となったので、篆文    にはまた「竹」を加えて別に「筆」を作り替えたが、造字の本義は、筆管をつかんで書写する事である。隷書「聿」は    、 を書く。『説文解字』に聿は書写の工具。楚国では「聿(いつ)」と言い、呉国ではこれを「不律(ふりつ)」と言い、燕国ではこれを「弗(ふつ)」と称し、秦国人は之を「筆(ひつ)」と呼んだ。我々が現在見ることができる中国最古の毛筆は、戦国時代のものが出土している。当時の筆先は獣毛を筆管の外側に括り付け(くくりつける)ていた。秦時代、紀元前223年に蒙恬は兵隊を率いて、匈奴を討伐し、長城に駐在する作戦をした。秦の始皇帝に戦況を知らせるために、蒙恬は毎日戦況報告を朝廷に書く必要があった。しかし当時使用していた毛筆は手に馴染まず、書写速度が大変遅かった。ある日、蒙恬は何羽かの野兎を捕まえて、それを連ねて、兵営に持ち帰った。天幕に戻ると、彼は一羽の兎の尻尾(しっぽ)から、地面に血の水がうねうねと痕跡を描いていた。蒙恬は大いに啓発され、兎の尻尾の毛を束ね(たばねる)て一縛りにし、筆頭を作り、また筆管の先に空洞を開け、筆頭を穴に差し込み、新式の毛筆を作り出した。試行錯誤の末に、筆の製造過程は108の工程を経て、後に「文房四宝」と呼ばれる一つ毛筆がようやく完成した。この新式の毛筆の美観と耐用度があったので、すぐさま全国に普及し始め、人民達は之を「毛錐子(毛の錐)」と呼んだ。それで、武将の蒙恬は筆製造者が公認する始祖となった。秦朝から始まった毛筆の「笔」字は、「筆」に統一されたが、(「笔」字の)字形は小型の竹筒「竹」と獣毛と材料として製造されていることを強調している。
筆の製造は竹筒が必要で、竹筒(たけづつ)は竹から製造される。竹は甲骨文   では二本の細い枝に6枚の葉が下がる様子である。金文の竹は   を書く。籀文の竹は     、 を書く。篆書の竹は  を書く。隷書の竹は   を書く。造字の本義は、温帯あるいは熱帯のイネ科の植物で、芯がなく、節があり、筍(たけのこ)が成長する。竹は中国の重要な林業資源で、南は海南まで、北は黄河流域、東は台湾から、西はチベットヤルツォンプ川(雅鲁藏布江)下遊までの広大な地域に分布している。その中でも孟宗竹(中国では毛竹、また茅竹、楠竹とも言う)の経済価値は最も高く、全国の竹林総面積の80%前後を占めている。その用途は広く、成長速度は早く、産量も多く、材質はしなやかで強く、ほぼ真っ直ぐで、「竹林の王」と称された。筍が土から出ると一般にたった60日で竹となり、高さは10メートル前後、直径6〜20センチメートル、5〜6年をかけて成熟した材料となり、その繊維を取り出せば製紙材料となり、当年に植栽すれば、当年に収穫することができる。
中国は竹の歴史と中華文明史を切っても切れないものと扱っている。浙江省余姚河姆渡原始遺跡の中から竹製品が出土した。今から6、7千年前の遺跡である。甲骨文の中にも「簋(き)」や「箙(えびら)」等の竹冠の文字がある。金文と篆書の関係のように書籍に関係のある文字の多くが「竹」という文字と関係がある。昔の人は竹を愛し、竹を描き、竹の用途が広いことを称え、竹を「君子」に見立てた。「食べるは筍、庇は竹瓦、載るは竹筏、炊ぐ(かしぐ)は朱薪、着るは竹皮、書くは竹紙、履くは竹靴。正にこの君亡くして一日と言えない」と説いたのである。蘇軾はこうも説いた。「肉を食べなくてもどうということないが、竹なしには住んでいられるない。肉がない人は痩せるが、竹がなかったら人は俗になる。人は痩せたらまた太れば良いが、俗人は直しようもない!」

竹と書は密接不可分である。「南山の竹尽きるとも、罪書き足らず。東海の波が堤防を決壊させ、毒を流して切れるものではない」この二句の逸話(いつわ)が初めて見られるのは、李密が隋王朝の統治を転覆しようとした件である。彼は各方面の義軍及び文武官員を糾合し、隋の都洛陽に侵攻していた時に討伐の一檄文を発布した。檄文には煬帝が国と民に災いをもたらし、暴戻専横を行った十大罪状が一つ一つ列挙してあった。この二句は大昔から伝わる名言中の名言である。成語「罄竹難書(けいちくなんしょ)」の意味は、隋煬帝の罪は悪逆の極み、秦嶺山脈終南山に生える竹を切り尽くして書物にしても書き尽くせない、ということである。

「支」は、「枝」の本字であり、竹枝を表している。甲骨文では    と書き、これは上下の構造であり、竹の半分    と、動く手     、また一段の竹の枝  からの構成である。造字の本義は、杖に使う竹竿である。造字の本義は、杖に使う竹竿である。篆書の    「支」では一本(竹の枝)    が省略され、隷書の    「支」では篆文の     が真っ直ぐに伸びて    と書かれている。その後、「支」は抽象的な「分支」に拡張されずに「竹の杖」の本来の意味は無くなりました。篆文では原字の横に「木」を加え、代わりに「枝」の字を作る。「説文解字」:竹の幹を残す竹の枝、つまり、竹の関節に成長する細い竹の枝。

竿,篆書の「竿」は「竹」と「干」から構成され、「干」は主茎、主幹を表している。竹の幹を切り落として、節を取り、一片に割いて、竹簡を作った。生の青竹を火で焙る(あぶる)と、字を書けるようになる。青竹を火で焙ると汗を流すが、「汗青」という。南宋の文天祥の有名な詩『零丁洋を過ぐ』の、一節の「人生古えより誰か死無からん、丹心を留取して汗青を照らさん(人生は昔から死なない者はないのであって、どうせ死ぬならばまごころを留めて歴史の上を照らしたいものである。)」では「汗青」で史書を表現している。成語の「名を青史に垂れる(名を歴史に残す)」の「青」も、竹簡を指している。
簡,石鼓文の「簡」、篆書の「簡」は共に「竹」「間」から構成され、「間」は一緒に交わることを表示している。造字の本義は、字を書いた竹片を編み込んだものである。古代の祖先は文字を、甲骨や金属器に刻んだり、鋳造し情報を永久保存した。しかし「典」字に関係する文字の発見から、殷商時代に一般的な書写工具は甲骨ではなく、竹簡であった。ただし我々が発見した最古の竹簡は紀元前400年の春秋時代であった。これは古代の祖先が竹木などその他の物に文字記号を残さなかったわけではなく、年代が実に古いために、竹簡、木片の甲骨のように耐久性がなく現代人には発見できないわけである。
竹簡に抱えれた文字は、篆書が多い。篆とは、篆書の「篆」は「竹」と「彖」の組み合わせで、「彖」は易占の卦の言葉であり、造字の本義は、卦の言葉を記した竹簡である。小篆は、秦が六国を統一してから竹片上に記録した規範字体である。『説文解字』に、篆は、運筆して書写するなり(とある)。

甲骨と鐘鼎(青銅器)は通常の書写材利用ではなく、前者は甲骨文を刻んで吉凶(きっきょう)を占うものであり、後者は銘文を器物に記ものであるが、本当の書写材料は、字を専門に書いた記事や言葉を記した品物である。日常の経験から文字の使用の原則は最も迅速で、最も有効に情報を伝えることである。理由を推測すると、少なくとも殷商時代には、我々の祖先は既に完全に熟練した書写の技術体系を形成した。この種の書写体系は、小刀を使って書写道具として、竹片あるいは狭い木板を書写材料として、小刀を使って竹片あるいは木板に文字を刻むのである。竹簡は甲骨や青銅器に用に堅くはないが、加工は便利で、書写も効率的で、実用に便利である。その後人々は、木片は竹片ほど湿気や腐食に強くないが、木片に書写するのは便利で、重量は軽く、携帯がしやすいことを発見したので、「札(木簡)」と「牘(木板)」がある。
古代の文献は、牘、簡、札、冊に分類される。竹片を使用して書写したものは「木牘(とく)」あるいは「木札」と言い、幾つかの「木簡」あるいは「木札(さつ)」を一緒に綴り、「篇」と呼んだ。多くの篇章を一緒に綴り片牘纏めて、「巻」と「冊」を構成した。
古代人は、より少ない文字で記事を取り、精巧に記録し、一つの事は、単に数十の文字を使用しました。文書を書写するための木板は、秦朝が統一された仕様を持ち、幅約20cm、長さ約60cm、これは「牘」です。このような大きな木牘は、1片毎に約100以上の文字を書くことができ、基本的に、一般的な記事のニーズを満たしています。しかし、一度に記録する内容が多すぎると、多くの木牘が使用し、短時間にバインドされなければ混乱を引き起こし、将来の読書に不便をもたらす。そして、木牘の最大の欠点は、製本の不便さです。したがって、紙が発明される前は、古代人は竹簡を最も多く使用しました。竹簡を一緒に、耐摩耗性(たいまもうせい)の皮紐で一つに纏めると、束に簡単にロールすることができます。特に重要なことは、竹簡の数が適切である限り、ロールアップされた簡冊がちょうど手のひらに保持され、左手が非常にしっかりと簡冊を握って保持することができ、右手でしっかりと刻字できるようになるということです。簡冊のもう一つの大きな便利さは、持ち運び運びが容易であり、一人の刀筆吏は、多くの簡冊の巻を持ち運ぶことができます。このように、古代人は、通常の書き込みのための二つの材料を見つけました:木牘と簡冊です。文字数が少ない時に木牘で書きます。国が法律を制定する等、多くの文字が使われる時は、簡冊が使用されます。
札、篆文「札」は木片「木」と縛った縄の「乙」から組成され、造字の本義は、幾つかの細い木片あるいは竹簡を束ねることである。隷書の「札」は篆書の「木」は「木」を書いたもので、篆書の「乙」を「乚」と書いている。
篇、篆書の「篇」は「竹」と「扁」の構成であり、造字の本義は、多くの竹簡で編成された冊子である。「扁」は「匾」の本字であり、本来の意味は字を書くための竹片である。
編、甲骨文の    「編」は竹簡により編成された書冊と竹簡を縛った絹紐      、 で構成されている。造字の本義は、順次配列した竹簡で、紐で連ねた竹簡で冊子にすることである。

「弟」は、声旁(音符)であり、形旁(意符)であり、「第」の本字でもある。弟の甲骨文     と金文    は、表示しているのは重要な戦前準備作業で、一筋の革紐を使用し、戈戟(二又、三又の剣のついた槍)の握りの部分に順序良く巻き付け、青銅の鉾先と握りの部分を一緒にして、順序良く中心を合わせば、その切れ味は金属をも絶ち切れたが、敵陣に突撃するのに持ってゆく兵器は弟(革の握りのある戈戟)であった。後に「弟」は小弟を指して、本来の「順序良く序列」するから本義は消失した。そこで篆書の「弟」は本字の上に「竹」を加え、別に「第」字を作り代替し、竹札、簡冊の順次を表した。造字の本義は、竹簡を順番に連ねて書冊にすることである。『説文解字』に、第は、次序(順序)とある。
「薄」は厚くない小冊子を示している。篆書の    薄は   「竹」と     「溥」の組み合わせであり、「溥」の意味は「押し広げる」ことである。隷書の薄は    を書く。造字の本義は、古代に重要事項を記録した冊子で、製作は精細で、普通の竹簡より更に薄く、更に軽い。
戋(戔)、声旁(音符)であり、形旁(意符)であり、小刀を表示し、字を刻む工具を代表している。箋の、篆書は「竹」と「戔」の構成で、戔は刻字用の小刀で、造字の本義は、便箋であり、つまり「書簡の中の簡(竹片)」であり、古代には竹簡の中の竹簡の重要な文字に対して注釈した小竹簡があった。
「耤」は根拠、依拠を表示する。「籍」の撰書の中の「竹」は薄い、書冊を表し、耤は、根拠依拠であり、造字の本義は、戸籍の簿冊で、つまり役所が人口、戸籍を統計する冊子である。
「刪」、甲骨文は「刪」を書き、冊と小刀により構成されている。この字の説明は、もし冊子上の書写を間違えたら、削り取る操作は相当面倒で、右側の小刀は間違えた文字を削り、くりぬく必要があったのである。左側の符号は「冊」で、これは竹簡で編成された書冊である。
符、戦国時代の虎符の「符」は「竹」と「付」により構成される。付は「下げ渡し、委託」であり、造字の本義は、古代の朝廷は命令を受け取る者は、その身分と権力を竹製の信用物件で代表した。文字と図案を刻んだ竹片を半分にして、朝廷が伝達する命令の証拠として、半分を朝廷、半分を民間に渡し、所有の竹札で持ってきた竹札と符合して身分の真贋(真贋)を見極めた。
古代に、帝王が軍隊を動員する時に、使者が持った兵符を証拠とした。兵符は通常は虎の形をしていたので、また「虎符」と呼び、金属で鋳造され、表面に文字があり、半分に分け、半分は軍に、半分は朝廷に置いた。帝王が軍隊を指揮するために将軍を派遣するのに、手中の(虎符の)半分を彼に渡し、彼はこの半分と軍中の半分を照合して、指揮権を獲得した。戦国時代には、秦の兵が趙国を攻め、趙国の都城邯鄲を包囲し、趙国は魏国に救援を求めた。魏の公子信陵君は趙国を救援しようとしたが、魏国の兵を率いた将校達は動かなかったので、信陵君は仕方なく、自分の食客達を戦場で死相を賭けたに向かわせた。城門の門番は彼に、王妃を通じて王宮にある虎符の半分を盗み出すことを教えた。そして信陵君は盗み出した虎符で出兵の権利を盗み出し、邯鄲城の包囲を解くために出兵した。
検、篆書の「檢(検)」は「木」と「僉」の構成である。「僉」は「簽」の省略で、書簡書冊の位置を記した小さな木片を表している。造字の本義は、古代の書簡書冊の内容を明示した。検索に便利な見出しの栞(しおり)である。
票は、文字を書くための薄い木片を表している。標、篆書の「標」は木札「木」と文字を書く薄い木片「票」の構成であり、造字の本義は、地面に立てて標識にする文字を書いた木札である。隷書の「標」は篆書の「」を簡略化して「西」となる。漢略字の楷書では「标(標)」の上部の「西」を省略し、「票」を「示」としている。
古代の教育は選抜教育で、読書ができ、文字が書ける人は、平凡浅薄な人ではなく、彼らは帝王将軍宰相でなければ、才能ある佳良な人であった。ごく普通の人が筆を持つのではなく、古代の造字者の手は、畢竟のところ吏、事、使、史、尹、君等から出て変遷し、甲骨文字に連なり、邦国を安泰に統治することに関連した。
甲骨文の     、  、 「吏」は、後に「事」と通用する。「吏、事」は伝令を表示する「口」、指揮の杖、監督を示す「卜」を示し、物をつかむ手   「又」の構成で、造字の本義は、政府の命令の伝達と監督の実施である。また早期の狩猟時代には、獲物を統計し、肉食を分配する管理者があり、これが「吏」であると言う、別の解釈がある。そこで「吏」の字形は手に禽獣を捕える長い柄のタモの形であり、元は狩猟の時に獲物を統計する人を指し、後に官吏の意味が派生した。狩猟は部落の一大事であり、それで「吏」と「事」は通用する。『説文解字』は、吏は、百姓を管治(管理処理)する人と説明している。金文は甲骨文の指揮の杖「卜」を「屮 」と書き、そこで「事」の字ができた。『説文解字』に、事は、つまり官府のために当差する(役人になる)ことであると言う。ある帝国、朝廷、境域を維持するために、精神あるいは勇気であり、また歴史伝承が必要であるが、最も重要なものは管理機構である、また各階級の事務を管理する役人である。完璧な制度でも、人が具合的な処理をしなければならない。この管理されるものと直接関わる基本的な役人が、つまり「吏」である。
古代の「吏」は政務のために役人となり、人民を管理し、末端の行政役人に属す。後に「吏」は(官吏の)専用字となり、金文は本字(吏)に「人」を加え「使」を旁、重大な使命の派遣役員を表示した。「三国演義」で、人々が劉備を「劉使君」と呼ぶのは、劉備が王を称する前の官職が「豫州牧」であり、州牧の仕事が包括することは、「天子に代わり地方を視察し、人民を管理する」ことである。
史、甲骨文の     、  、 「史」は     、  、 「中」と   「手」を組み合わせで、仲裁や決断を示し、手で筆を取って記述することを表す。金文の史は     、 を書く。隷書の史は   を書く。造字の本義は、占星の観測、占いでの吉凶など重大な活動での論断を書冊に記録することである。古代には博学多才の文官を「史」と称し、生産の第一線で末端の管理作業に従事する行政官を「吏」と称した。我が国家の史官(修史官)の制度は大変早く、左史が言行を記録し、右史が事件を記録した。史官は君主の左右に控えて、君主の言行挙動を記録した。『説文解字』に史は、宮中で重大な事件を記録する官員であるとする。字形は「又」を採用して「中」を持つように作る。「中」は史官が記録した内容が客観公平であることを示している。
甲骨文では、  「尹」は手「又」    で指揮の杖   「l(棍)」を持ち、国家事務を管理する人物を象る。甲骨文伊は     を書く。書の「尹」は捻じ曲げ(ねじまげる)た字形で、「又」と「/(l)」を交差し、現在の「尹」の形に発達している。「説文解字」に「尹は、治なり。又に従い、事を握る者なり。」と言う。許慎は「尹」の本義が「管轄する」あるいは「統治する」ことを明確に指示している。例えば『左伝・定公四年』の「故に周公の王室を相(たす)けて以て天下を尹(おさ)む」。いわゆる「周公天下を尹む」は、周公が西周王室の宰相となり、国家の政治を取り仕切る事である。これから「尹」は「治める、管理する」から派生して「成果を管理する人」、即ち朝廷の高官を指すようになった。甲骨文に関する材料から見れば「尹」は殷商時代の官位が顕著で、君主の身辺に常在し、国家あるいは君王に関する事務を管理した。後世の「宰相」に相当した。『史記・殷本紀」は「伊尹は商の湯の時の賢相で、姓は伊、等等は摯,官名は尹。」と記載する。伊尹は奴隷の出身だが、国政の治め方を理解していたので、商の湯王は彼を尹に昇進し、国勢を補佐させた。伊尹は商の湯王が夏の桀王を滅ぼし、象徴を建立した。商の湯王が死後、伊尹は継続して、外丙、仲壬、太甲の三王を補佐して、国政を処理した。太甲が帝位を継いで三年すると、あまりに残虐で、湯王の遺訓を軽んじたので、伊尹は彼を先王の墓地の桐官に追放し、自身が自ら摂政し、諸侯を統帥した。三年後、太甲が悔い改めると、伊尹は彼を連れ戻して、継続して彼の政治復帰を補佐した。これより「諸侯は咸(み)な殷に帰して、百姓は以て寧(やす)ん」じた。西周時代に「尹」の地位は大変高く、よって君王の補佐官であった。春秋戦国時代になると、楚国の官吏の多くは「尹」となり、「左尹、右尹」の称があった。漢代以後、首都の行政官もまた、「京兆尹」のように「尹」と称した。地方の行政官も「河南尹」のように、「尹」と称した。その後「尹」の使用は更に広まった。
後に「尹」の指揮の杖の本義が消失し、、また「口(命令の意味)」を加えて、「君」を作り、「人」を加えて、「伊」を作った。
もし、「尹」が古代に政治管理の高官とすれば、これと相関する「君」も政治管理であり、また命令指示する最高高官である。古代には刃の付いた木製の武器を木製の武器を持つ首領を「帝」と呼び、手に斧鉞を持つ首領を「王」と呼び、手に指揮の杖を持て天下に号令する首領を「君」と呼び、金冠を載せた王を「皇」と呼んだ。
甲骨文の「君」は    に作り、上部は   「尹」字で、政治管理を示し、その下を    「口」として、号令施行を示す。金文の「君」     、 は、甲骨文の手と指揮の杖    で「」となった。造字の本義は、号令施行、執政治国である。上古の「君」は人口、土地、軍隊を所有する統治者の通称で、通常は天子、諸侯などを指した。『説文解字・口部』に「君は、尊ぶなり。尹に従い、発号(発令)する、故に口に従う。」『儀礼・丧服』に「君は、至尊なり。天子、諸侯及び卿大夫に地有る者皆な君と曰う。後漢の史学家班固は『白虎通・号篇』で「君とは、群下(部下)の心を帰す所なり。」ここでは「君」は権威ある人を指摘しており、国君は原始部落の集団が発展してきたことを説明している。私有制度の発生に従い、もともとの部落首領は次第に中央集権を強化し、階級社会の国家元首となり、至高無上の地位をと具有するようになった。「君」字の意義の転変は、君が「群したの心を帰す所」の部族首領の転変が封建社会最高統治者の歴史過程を反映している。「君」とは「天子」、「諸侯」などの人を指し、これらの人は古代は人に対する尊称として代用された。『戦国策・斉策四』に「狡兎(ずるいうさぎ)に三窟有り、僅かにその死を免るを得るのみ。今君に一窟有り、未だ高枕して臥すを得ずなり。」とある。
漢朝以前、竹簡の製作は相当面倒だったため、輸送と保存もとても不便だった。このため人々は非常に簡潔で、文字を金のように惜しんだと言って良い。単独の字で表せる意味を表すのに決して二つ、三つを使わず、一句で描述できる事物に決して二句、三句と使わなかった。かくして古代の典籍は皆直截的、且つ節約的である。『易経』は中華の諸経典の筆頭であるが、簡約さは神秘的な程度に達していて、孔子でさえも頭痛に苛ま(さいなむ)された!言うまでもないが、竹簡で記録された年月では、読書は決して簡単なことではなかった。種々の原因により書籍の大多数は名門高家に独占欲され、普通の人が読書しようとすると、非常に厄介だった。

更に厄介だったのは、春秋戦国年間の中国は、現在の欧州のように、国家が四分五裂していて、文字も不統一であったことである。斉国人が書いたものと燕国人が書いたものは一様ではなく、趙国の字は魏国の字と差異がとても大きかった。形も色も様々な「鳥虫書」や「蝌蚪(かと=おたまじゃくし)文」の形態は、非常に怪異に変貌していて、字形は十分に複雑であった。まして各国の文字は、本国しか使用できず、人々が国境をちょっと出ると、馬上にいるのは文盲の人となり、少しでも進むことが難しくなるのである。紀元前223年になると、秦の始皇帝は丞相李斯に「その秦の文と合わざる者は罷めよ」と号令し、全国内で一種の「小篆」という名の簡体字の使用を強制し、周朝とその他の六国で使用された繁雑で相互に差異がある「蝌蚪文(当時の筆文字)」の字体を全て廃止した。小篆の筆画の多くは円弧で、竹簡木板への書写と線刻は不便であったので、後に全国へ字体を簡略化した「隷書」の規定を一歩進めた。これは中国の歴史上で政府が発動した、文字に対する劇的な改革で、元は大変煩雑で扱いにくい文字を融通性のある実用的に変えたことは、深刻な問題もなく、一歩前進させた、中国文化最大の躍進である。その後、漢字は行書、草書、楷書などの字体に継続して変化したが、携帯は却って大々的な変化は発生していない。
全国統一した文字「小篆」以後、中国社会も戦国時代の各諸侯国の「車途は軌がこと異なり、律令は法が異なり、言語は声が異なり、文字は形が異なる」状況は、秦朝の時代には書と言語の一大統一の時代へと進入した。これと同時に、秦の始皇帝はまた「焚書」令を到達し、秦国の書籍を、国内所有の小篆書法と合わない書籍文書を総て焼却することを決定した。彼は「厚古非今(古代尊重主義)」の罪名で数百名の政治非難者、焚書拒絶の儒者を殺害したが、これが歴史的に有名な「焚書坑儒」である。文字の統一は不同の種族を、融合して一つの偉大な民族とした。歳月の変遷に伴い、天下は分裂と統合をして、これ以来、「書」と「同文(言語統一)」は、漢字に終始堅持された不変の原則となり、中華文明を結ぶ帯紐となった。秦朝は書と同文を一代統一で、諸侯の紛争が終結したばかりか、長期にわたって文字の混雑の局面が収束した。これ以来、中国はどれほど分裂しても、人民は「分久必合(別れても一つになる)」で、世界上の唯一の中国、中国は一つとずっと信じてきたのである。
秦朝は厳しい法律と刑罰で天下を統治し、政令は大変疎通して、誰も反抗するものが無かった。北方の砂漠から南海の浜辺まで、「胡人は敢て南下して馬を牧(やしな)わず、士人は敢て弓を挽き、怨みを抱かず。」であった。この最初の文化界の統一行動(焚書坑儒)が導いた結果は、古墓に残存した僅か数枚出土した竹簡のほかは、書面材料には秦朝から現在まで保存されているものは殆どない。『史記・秦始皇本紀』には、「天下のことは、既に全てのことがお上に決定された。お上は、書の重さを秤(はかり)で図り、日夜それを読み、読み終えない内は、休まなかった。」書かれている。秦漢の竹簡は、大きさと書く文字の数の基準があって、竹簡一枚につき、38字から45字を書くことができた。『史記』は、ぜんぶで130篇、526,000字、必要な竹簡は13,800枚。こんなにたくさんの竹簡を大きな台車で運ぶ必要があった。「衡」は天秤の重りで、石は重さの単位だった。一石は、60,000グラム(60キログラム)である。秦の始皇帝は、毎日臣下の上奏文を60キログラム読むと決めて、読み終わらないうちは、休息しなかった。始皇帝が毎日読んだ文書の数量は多かったが、こんな大変な困難の元、朝廷が政令を上意下達するのにも多くの困難があっただろうと考えることができる。後漢になると、科学者蔡蔡倫が造紙を発明し、このような状況を一気に変えた。
蔡倫(公元62ー121年)は、製紙業界で紙の始祖「紙の神様」として崇められている。蔡倫は、湖南省のある貧乏な家で生まれ、衣食がままならなかった。家が貧乏だったために、宦官の道に進まざるを得ず、蔡倫が13歳の年に皇宮に送られ、彼の悲劇的な一生が始まった。封建社会では、宦官は一種と特殊な階層であった。宦官は宮廷に入る前には、必ず宮刑を受けた。生殖能力を無くされて、家系を継ぐことができず、先祖を辱める不吉なの人とされ、肉体的な欠損に限らず、精神的にも極大に苛まされた。嘗て宮刑を受けた『史記』の作者司馬遷は彼の友人任安に充てた書信で、「このような祖先を侮辱する卑劣(ひれつ)な行為はなく、宮刑に比べて更に恥辱な事情はなく、宮刑を受けた人は、君子と比較して語ることはできない」とこの種の心理状態を、語っている。この種の認識は一代のものではなく、その根源は遥か彼方である。昔、衛の霊公と宦官の雍渠が孔子と同じ車に座った時、孔子は大変恥辱を感じ、衛国を去り、陳国へ行った。商鞅は宦官景監の紹介で官職を得たが、賢臣趙良はこのため肝を冷やした……この種の事情は、古来民間から官吏に至るまで宦官を蔑視してきたことを説明している。
蔡倫は自分の苦痛の心境を文字に描写していないが、「後漢書」中には彼の内心が大変苦痛であったことを漠然と露している。蔡倫は普段「閉門絶賓(門を閉じ客に会わない)」して、一般人と往来しなかった。時には「体を田野に曝(さら)し」、自然に自分の体、心身の苦痛を曝け出した。中国歴史上の宦官は、後漢の蔡倫や、明朝の鄭和のように特に優れたものや、秦朝の趙高、宋朝の童貫、清朝の李蓮英のように、特に悪いものもいた。これは想像できないような傷害を彼らの心身に受けて、悪く言えば、性格は変態で、過激、よく言えば、極めて直向きで、まじめである。
宮廷にあり帝王に服務し、蔡倫は自ら国家の科学、文化、対外交流など多方面に在って輝かしい成功を得たが、また深刻に使い勝手の良い実用的な書写材料がないことに不便を感じていた。蔡倫は宮中で尚文令(右筆)を担当し、太后鄧綰に服務した期間に、民間の麻のほぐし、製縄の経験から、八年の実験を繰り返して、終に今日に沿用される製紙技術を発明して、後世の人々に「蔡侯紙」と呼ばれた。
漢時代に蚕糸を育てる工芸は既に非常に成熟した。蚕が系を吐いて繭を作った後、質の高い繭を沸騰(ふっとう)した水で煮た後、糸を引いて紡ぐのです。繊維質の悪い糸を引き殺して絹織物を作るのに使われる。その方法は繭を水に浸して叩いた後、繭を壊した後、竹のゴザの上に広げて乾かすと、綿入れの詰め物「シルキー」が作られる。このような絹織物を作る方法は「飘絮法(綿織物法)」と呼ばれる。竹のゴザから絹糸を一塊にした後、竹のゴザに薄い絹糸が残っている場合が多いが、この乾燥した絹糸の繊維を剥がした後、これが最初の「紙」になる。西安では嘗て前漢時代の「灞橋紙」が出土されたことがあるが、正にこのような原始的な紙は比較的多くの有機物を含有して成形が良くなく、厚さが不均一で、強度が非常に悪く、また、インクを良く吸収できないために包装紙としてのみ使用することができ、文字を書くことができない。
精製して有機物が含まれていない植物繊維をつくるためには、「沤麻」技術を参考にしなければならない。元末から明朝にかけて綿が中国に伝わる前は、高官や王は絹織物を着ていたが、普通の人々は麻製品を着ていた。麻の繊維から繊維材料を作る前に、池に麻の皮を置く必要があり、池の水は流れ、池に浸漬され、日照は水温を上昇させ、池の真菌は繁殖し、真菌は栄養食品として麻のペクチンを食用し、それらを綺麗に分解し、クリーンで純粋な麻繊維を作り、これは「沤麻(ヒマシ)」です。
前者(「飘絮」「沤麻」)に触発され、蔡倫は、新しい紙を作る決意を固め、繰り返し練習した後、彼は紙原料のコストを下げ、材料が豊かになるように、布、古い麻ロープ、壊れた魚網、樹皮などを使用することを選択しました。製紙プロセスでは、材料(原料を作る)、灰水(石灰水で浸漬)、大きなパルプ(発泡した原料をパルプに成形する)、レトルト、カーテンコピー、ベーキング、紙を剥がすなど、製紙の七つのプロセスを要約しました。重要な原材料処理プロセスでは、清浄、ミジン切り、泡立ちなどのリンクを強化するだけでなく、草木灰と石灰水で作られた弱アルカリ性水を追加し、パルプをアルカリ調理するプロセスを追加しました。このプロセスにより、細菌を完全に殺すことができ、植物繊維の分解速度が速くなり、より均一で細かい分解が可能になり、紙の効率と品質が工場します。紀元105年、蔡倫は、自分で作った紙を漢和帝に献呈しました。漢和帝は彼の才能を高く評価し、全国に「蔡倫紙」を広めるために命じられました。
蔡倫が紙を発明して以来、紙は社会生活の様々な分野に徐々に浸透してきました。公文書は紙であり、回覧や公告に便利であり、行政の機能を大幅に簡素化することができ、公判は記録が包括的かつ正確であり、保存が容易である。紙の使用はまた、政府が文書を送受信することを容易にする、勘定収支など方面の管理手段の改変。これらは全て、政府の業務効率を改善し、その管理方法を強化し、その機能を強化しました。民間では、紙は経済生活に浸透しており、紙は賃貸、売買、雇用、貸与、などの活動に広く使用されています。
紙が文化の発展と社会生活に与える影響は計り知れません。要するに、筆記具としての紙がなければ、漢王朝以降の中華民族の文化科学分野での発展は想像を絶っするものです。印刷の発明を生み出すことはできず、中華文明の発展の規模も大幅に縮小する可能性があります。筆書写の材料としての紙の出現は、中華民族の文明史の進歩を大きく促進しました。
それだけでなく、数年後、製紙、印刷、指南(コンパス)、火薬は一緒に海外に出て、中世ヨーロッパに広がり、人類の文明全体に大きな影響を与えました。

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