山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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巫師(占い師)占卜


甲骨文:

巫占卜貞偵卦兆示司夙哀冥鬼魅異凶畏

現代常用字:

占站異款偵真鬼卑


唐朝の詩人白居易は『放言五首・之三』詩に「君に一法を贈り狐疑を決す、鑽亀と祝蓍を用いず。玉を試るに焼くを要すこと三日にして満ちるも、才を弁ずるにすべからく待つべし七年の期。周公は留言の日を恐惧し、王莽は未だ奪(うば)わざるの時を謙恭す。もし当初をして身便ち死すれば、一生真偽復た誰か知らん。(亀甲と筮竹を用いず、偽物を見つける方法を教える。玉石を見分けるには三日燃やせば良いが、能弁を見分けるには七年待たなければならない。周公は置き忘れた日々を恐れ王莽は帝位を簒奪する前は謙虚であった。もし初めから死んでいれば、誰がその真偽を知る事が出来ようか。)」と書いている。
贈君一法決狐疑,不用鑽龜与祝蓍。
試玉要燒三日満,辨材須待七年期。
周公恐懼流言日,王莽謙恭未篡時。
假使当初身便死,一生真偽复誰知。
この詩の内容は「人を見るには一日の態度だけを見るのではなく、その人の一生全てを見よ。周公は善良な人で、一生全く不法をはたらかなかったが、王莽は自分の外孫の前漢皇帝の玉座を奪った。だがその前には王莽の謙虚さと美徳は人々に称賛されていた。だがもし周公が噂で騒ぎ立てられたまま死んでいたり、王莽が王位を簒奪する前に死んでいたらどうであろう。歴史はこの二人に与えられた評価は、あるいはどんなものになっていたのかとおもうのである。」というものである。

詩の中に登場する「鑽亀」と「祝蓍(めどぎ)」は、古代の占い師が占った両種の方法である。

甲骨文の    「占」字は、占い師が占う場景を表現している。古代、解決の難しい大事に直面した時、部族の首領は占い師に占いをさせたが、これが白居易の詩の「鑽亀」であり、つまり火で亀甲や牛の肩甲骨を焼き焦がす(こがす)方法である。まず錐(きり)で甲骨に窪みを作り、火で焙る(あぶる)と甲骨は破裂して、ひび割れが出現する。占い師は甲殻の表面に現れた紋様の大小や角度を根拠に、神霊の意思を解釈する。そして、占い師は甲骨上の兆しの形状を根拠に、吉凶禍福(きっきょうかふく)を判断する。殷商朝末には、甲骨文の「占」は    「占」に作り、字形は甲骨文の形状の    「口」を省略している。造字の本義は、占いであり、神のお告げを言い、天の心を人々告知することである。


殷商時代の占い師は「貞人」とも言った。「貞」は「偵」の本字であり、甲骨文の     、  、  、  、 「貞」は「鼎(かなえ)」の形に書き、神鼎を用いて占卜することを表示している。金文の    「貞(鼑」の下部は「鼎」であり、祭祀の神器を示している。上部の「卜」は指揮の杖であり、神の降臨する法術を示している。造字の本義は、占い師が神鼎の上方で祭礼卜占して、霊験を確認することである。篆書    「貞」は金文の「鼎」を「貝」と書き、占い師に卜占を頼む時に。銭貨を支払い、献上物を購入する必要があったことを意味している。「貞」の「霊験確認」の本義が消失すると、篆書には待た「人」を加えて「偵」を別に作り、代替した。隷書の貞は    を書く。

殷商時代の占い師は大亀の腹甲を卜占に使用した。周代になると人口が増えて、動物は少なくなり、大型の黒亀はなかなか見つからなくなり、天に通じる神亀は更に稀覯なものとなった。そこで、占い師はメドギ(筮竹)占いに改めた。目を閉じ、問題の思考を反復し黙々と神霊に向かい加護を祈祷し、その後一握りのメドギをばら撒いて、メドギの図案を根拠に神託を解答する。しかし大変困難な問題の時は、やはり亀甲を探して卜占することが求められ、しかも亀甲卜占の結果に優先権があった。各諸侯の国では皆亀甲を国を平定する瑞宝として、水火の災に遭えば、重要な作業は良質の亀甲を保護する事であった。士大夫達が政治闘争で失策し、国外逃亡になった時、本国の亀甲を盗み出すこともしばしばあった。
現代人から見れば、「巫」字は称賛の言葉ではない。それは常々童話の中で子供を食べ、悪事を行い、箒に乗って空を飛ぶ魔女と一緒で、良い印象がない。遥か地方の農村では、今でも跳大神(神がかり)や、呪文で「病を治す」巫女や神官が残存しているが、明らかに大ぼらで詐欺を働いているのである。民国時代には確かに巫医で難治病を治すことがしばしばあったが。現代社会では仏医、道医がしばしば祝遊術を利用して難治病を治療し、鍼灸を利用して難治病を治すことがしばしばあります。しかし、古代の占い師は、(今のエセ占いとは)明白に異なっていて、それは高尚な職業で、当時の知識人集団であった。殷商時代の占い師は、特別な政府の管理階級であり、当時は「巫、祝、卜、史」はもともと一体で、政府の卜占、祭祀、医薬、暦法、史書は全て占い師が管理していた。
卜占は、高級な上古の人々が自然を畏敬(いけい)した一種の儀式であった。戦争、農耕、祖先祭祀、また天気を見、雨乞いをし、男子女子を育てるたびに、宮廷内の占い師は太鼓と踊りを伴い、多くの踊り手の中で数百年も継続して、数え切れない刻字のある甲骨を残した。15万点余りの殷商時代の甲骨文にはある神秘的な社会の政治、経済、軍事、文化と自然界に発生した多くの大事件と、多くの先住民族の理解できない事物を記録している。彼らの愚昧(ぐまい)、迷信をバカにしてはならず、その天神と人類を疎通できる「巫祝」「貞人」達は、当時の最高科学技術水準の代表とするに足り、彼らは天文地理に精通し、また政治、軍事を理解し、彼らは聡明な知恵で絶えず想像し、亀甲獣骨の上の文字を完璧に刻んだが、後世の人間は軽々しく「殷代商王は迷信で、大事小事に関わらず全て神に卜占した」と言って評価しできるのであろうか。3,000年以上前に、「卜占」は王室の重要な政治活動であり、「封建的迷信」と無関係に、漢字生産の原始的活力となった。現在使用している漢字の中、巫、筮、若、匿、如、夭、笑、吳、而、需、令、兄、祝等の文字は、全て占い師の象形であり、卜、占、貞(鼑)、卦等の文字は、全て卜占と関連している。

甲骨文の「巫」の、字形は大変神秘的で、頭脳がはっきりしない様子を髣髴(ほうふつ)当時させ、ある人はこの字が両袖を振り回して踊る様子といい、またある人は占い師が法術を行う時にもちいる道具であるという。造字の本義は、古代の部落の知恵があり神に通じるものが、神秘的な法器を持ち、神霊と対話し、神霊を祭祀の現場に降臨し、神勅を下すことを請うた。この神勅を取得する祝詞を上げる者が、「祝」である。
卜、甲骨文の    と     、  、  、  、  、 は、全て神を請う権杖を指して、また亀甲を焼いた後の縦横のひび割れの様子を象る。ひび割れがどこを指すかで、神々の意思がどうであるのかを表してる。例えば殷商時代の国王武丁は、ある日出征しようとしたが、心中は気が気でなく不安になった。偶然にも、彼は歯が悪くなり、痛くて仕方がなかった。武丁は、これは私の祖先が何か暗示したのではないかと考えた。殷商時代の神学界の決まりでは、祖先が古いほど、法力は強大であった。尊大な神は大事を担当し、小さな神は小事を担当する。国王の歯痛は、どういう大事でもなかった。武丁は占い師に亀甲上に彼の父親と三名の叔父の名を書いて、家中に置いて焙ると、急に「ポク」という音が聞こえ、亀甲にひびが入り、亀裂が彼の叔父の霊一人を指した。そこで武丁は大急ぎで祭壇に上り、豚と羊を殺して、叔父にお供えして、叔父に甥(である武丁)の歯がまた痛まないように、そして先陣で敵を楽勝に殺せるように願った。金文の卜は  、  、  、 を書く。篆書の卜は   、 を書く。
殷商時代の卜占行為と国家の大事は密接に関係していて、占い師の卜辞は中国最古の国家の歴史的文書であり、卜占の王室の占い師は中国最古の史籍官であった。

伝説の中で、中国巫師の祖先は、燧人氏集団の燧人禜子である。彼の神通は、「禳災術(じょうさいじゅつ)」であった。古漢字の「災」は、三種の字形を持ち、三種の「災源」を表している。甲骨文の「災」は、洪水と大火、篆文の「災」は火災と戦争である。
早期甲骨文の水災は、川の横書きであり、形は洪水が溢れる様子を表す。晩期甲骨文の「災」は指事字であり、「川」の字の中央に一と横に指事符号を加えて、鉄砲水が起こったこと、河道の排水が滞って(とどこおる)いること、香水が河道から溢れ出ていることを表しているが、平地では四つの氾濫がある。水災の別種の書法は、河道を表す「川」と家屋の梁柱の「才」を組み合わせ、洪水の氾濫が災となり民家の建物を崩壊させることを表す。
甲骨文は「灾」で火災を表し、上部の才は家屋の柱と梁を表す。下部の「火」は、柱梁「才」を燃える家がもっている甲骨文のウ冠「宀」で代替させることによりもう一歩明確に「焼ける家」という含意を明確にした。
篆文の「災」は、大禹が治水を行った後に出現する。この時点では中原の水患は既に重要ではなくなっていて、災難の根源は火災と戦争にあった。この字形は、「才」、「火」、「戈」を組み合わせ、大火、戦争が人類の二大災源であることを強調する。その造字の本義は、焼ける住居、戦争、殺戮等の毀財毀命(きざいきめい)が作りなす苦難である。
洪水は古代最大の自然災害で、洪水の発生前には往々にして大雨が盆をひっくり返したようで、川の流れが氾濫し、大型の土木建築がなかった時代には、人民は天を衝かんばかりの洪水に囲われ、大変苦しむことになった。古代人も愚鈍(ぐどん)ではなく、彼らは水害、火災、兵禍を総称して「災害」と言ったが、その救済方法は同様ではなかった。洪水に遭えば、水路を掘って治め、火災を抑制するには予防をし、戦場では占い師が部隊を用いる場所を定める。彼らは兵士を鼓舞し、負傷者を治療し、葬儀を主催し、戦功を記録することができた。神話伝説では、彼らは魔法を使って敵に勝利することもできた。
古代には占い師は皆高級なリーダーの職を担当した。当時、部落の筆頭の大行事はやはり呪術であった。神霊を祭祀するのに、最上に肥えた豚、牛、ひつじを供えて、恭しく神主(神の憑代よりしろ)へ招き、お供えの香を享受した。その後皆で祭肉を腹いっぱいにいただき、仲間と戦場に出かけた。これがいわゆる「国の大事は、祀り在り戎(たたか)い在り。」である。部落の首領で占いに熟練して、かつ戦争に勇敢であれば彼を族長に推挙した。占い師は当時の精鋭分子(エリート)でったので、後世の人間は占い師が歓迎される光景を追憶する時、彼らを「智は能く上下は義を比し、其の聖は能く光遠宣朗し、其の明るきは能く之を照らし。其の聡きは能く之を聴徹す」という。つまり占い師は皆知識が豊富で高級な半神的人物で、かつ千里眼で、耳が聡く、よく的確に未来の吉凶を予測できたということである。

初期の職業占い師は実際に我々に最も古く有名な姓の始祖であったことは、理解に難くない。黄帝や、蚩尤(東夷の神、後は斉の兵神、後は日本の兵主神)は、皆「呪術」が最高の占い師であった。其のほか歴史上に名を残す古い君主賢人の殆どが、呪術と絶技を持っていたのである。大禹が治水の時には大熊に化て(ばける)、その大きな掌で龍門を断ち割ったという。商代湯王は雨乞いのために、衆前で燃え盛る穴に飛び込んだが、全く無傷で抜け出すことができた。
中華民族の人本主義の祖黄帝は、間違いなく多いなる知恵を持ち、政治家、科学者、軍事家を一体とした大英雄であった。5,000年前には黄帝と九黎部族の首領蚩尤が涿鹿の荒野で会戦を展開したが、これが歴史上最古の有名な大戦の一つであった。
蚩尤の側は青銅の兵器を使用する作戦で、彼は81個の銅頭鉄臂の強靭な部族と力を合わせて、また風使い、雨乞いの占い師の助けを借りた。黄帝側では、弓矢や石斧を使用して、熊、ヒグマ、虎、豹を追撃に駆使して敵を殺した。黄帝旗下の占い師には、文字を発明した蒼頡や、算術を発明した隷首、暦法を発明した容成等多士済々であった。晋朝の道教の師匠葛洪の『枕中書』に、混沌未開の前には、天地の精有り、「元始天王」と号してその中に遊び、後に太元玉女と結婚し、女児西王母を生み、崑崙山に住在した。西王母はまず天が陰り気(かげりき)が凝縮(ぎょうしゅく)してなり、天上天下、三界十方、女子に道を得て仙に登る者は、全て西王母の管轄に隷属したと記す。『山海経』には、上古の時、黄帝は蚩尤の謀略を討伐し、西王母は九天玄女を派遣し黄帝に「三宮五意、陰陽の略、太乙の遁甲、六壬歩斗の術、陰符の機、霊宝五符五勝の文」を授けたという。黄帝は十分信用して、蚩尤と冀中で戦った。
両軍の交戦当初、勢力が拮抗(きっこう)して勝負が付かなかったが、蚩尤の方が変幻が多く、煙霧を吹き付けた。濃霧が三日三晩散らず、黄帝の兵士は皆道に迷った。黄帝は風后に指南車を作らせ、彼の部隊は濃霧の中に入っても方向が分かるようにした。そこで蚩尤は風伯を派遣し、雨師に魔法を行わせた。瞬く間に空に山を倒し樹木を根刮ぎ(こそぎ)するような狂風が吹き、滝のような大雨が降って、大地の上を波が滔滔と流れて一面の海となった。黄帝が九天玄女に救援を求め、女神に頼んで旱魃が助太刀(すけだち)してくれるようにしてもらった。旱魃の相貌は恐ろしく凶悪で、殭屍(きょうし)が変身したのだという。目玉は頭の天辺に生え、頭髪は一本一本が小蛇、全身白い毛に覆われていた。旱魃が行くと、そこは一滴も雨が降ることはなく、往々にして3年も大干ばつが続きが続き、赤く不毛になった大地が千里も広がり、生物がいても全部渇き死んだ。旱魃が出現すると、風伯も雨師も狼狽して逃走し、忽ち風雨が止み、大水が消失、泥濘(ぬかるみ)は干し上がった。黄帝は機に乗じて反攻し、九黎集団は大敗、蚩尤は戦死、残りの民衆は三つに分かれた。第一のグループは黄帝から投降を進められ、中原の屠姓、鄒姓の祖となった。第二のグループは南に逃走し、雲南、貴州省の連綿と続く山々の中に定住して苗族の祖先となったそうである。第三のグループは朝鮮に至るまで北東に逃げて、朝鮮人から始祖と奉られている。
甲骨文の「蚩」字は、足の指を示す「止」と頭が三角形の毒蛇の組み合わせによる。この字は、毒蛇や蠍(さそり)が多く、人間の安全が脅威にされた未開地区を示している。
殷商時代から漢代にかけて、軍属の占い師は「媚蠱(びこ)の術」と呼ばれる呪詛で敵に祟った(たたる)。

甲骨文蠱
「蠱」は会意文字で、字形は   「蟲(虫)」を器に入れ、壺或いは地下   に埋め敵に呪詛をかけるものである。金文、篆書は基本的に甲骨文字の形を継承しているが、器の中の虫は一匹増えている。『説文解字』では、蠱は腹の中の回虫であると言っている。『春秋伝』は、「皿」の上に「虫」を加えると「蠱」の組み合わせであるが。腹の蠱毒は淫乱の種です。
古代人はそうだとは知っているが、なぜそうなのかは知らないが、現代医学から解釈すれば、やはり科学的な道理がある。サナダムシも、回虫も、はたまた住血吸虫に限らず、全て人類の健康の大敵である。これらの虫の卵は、生命力が特別に強い。人体に侵入すると、次第に成長して、恐ろしい寄生虫になった。この虫は人体の血肉を食いつくして、人を生きたままに死に至らせる。長沙の馬王堆漢墓の主人軑侯婦人辛追は、住血吸虫に罹患(りかん)していた。
古代人は、呪詛(じゅそ)には効き目があり、占い師が凶悪な悪霊を扱えて、自分の力とすることができると考えていた。「鬼」は会意文字である。「個人的な非人間」の怪物を指している。甲骨文と金文の「鬼」字の下部は「人」であり、上部は怪異的な、恐るべき頭部を象り、人々が想像した人型の人間ではない怪物であった。
甲骨文鬼

金文鬼
甲骨文   「鬼」はお面「甶(田)」と占い師「大」の組み合わせで、面を付けた人物を象り、祭祀儀式の最中に頭に恐怖の面を被った占い師を表示している。祭祀儀式で、占い師が恐怖の面をつけて幽霊、物の怪に扮装していることである。金文の鬼は甲骨文の形に続いている。ある金文には「攵」、つまり逆さまの「止」を書いて、仮面をつけて幽霊、物の怪に扮装した占い師が巫術の舞踏(ぶとう)を演芸していることを表示している。
「鬼」は漢字部首の一つであり、「鬼」に従う(「鬼」の部首)文字の多くは鬼神に関係している。『説文・鬼部』に「鬼は、人の兄に帰すゆえん。」として、「帰」は回帰で、即ち大地への回帰、死亡を指している。古代人は、人が死ぬと霊魂は肉体を離れても存在を継続することができ、人体が大地に帰ると、霊魂は、鬼怪(化け物)、鬼魂(亡霊)、鬼神(妖怪)などのように「鬼」に変わると考えていた。『礼記・祭義』の「鬼」に対する解釈も同様に、「衆生必ず死し、死すれば必ず土に帰り、此之(これ)を鬼と謂う。」と分かりやすい。現代出版の「辞海」では、「鬼」の項目に以下の六点がある。その内第一点は『説文解字』に最も近く、迷信は人が死後の精霊は消滅せず、これを鬼と言う。『左伝・宣公四年』に「鬼は猶お食を求めるごとく、若敖氏の鬼もそれ餒(う)えざらんや(無縁仏は飢える)」とある。中国では天神、地祇、人鬼は一緒に称される。『道蔵経・女青鬼律』には多くの鬼(幽霊)の名が多く載っている。鬼は一般には仙人世界には上らず、本性は邪悪で、これに対して邪悪を避け追い出すなどの師が必要である。
古代人は、生きている人には、「三つの魂と七つの魄(こころ)」を持っていると考えていた。「魂」は精神的神秘的エネルギーを統括し、また「陽神」とも称し、意識状態以下の精神感覚、思想活動を掌る。「魄」は肉体の神秘的エネルギーを統括し、また「陰神」とも称し、無意識状態下の肉体的感知、新陳代謝などの生理的本能を司る。人は死んだら、肉体は灰となると言っても、ただし魂魄は依然と存在している。言い伝えでは人が死ぬと鬼となり、鬼は九泉の下で自身の子孫を加護し、占い師の召しだしに応えて、その陰寒の気で敵人を懲らしめる。
「畏」の甲骨文字の形        は      ➕   と構成されている。ある    は      ➕    (   ) と構成されている。ある甲骨文の「畏」は    を書く。鬼面を被った占い師が手に霊杖を持った鬼形の怪物を象り、この怪物の右側は鬼で、左側は一本の棒である。そこで、この字の表す意味は、棒を持った大きな頭の鬼に、人が恐れていることである。金文の「畏」は     、  を書く。篆書の「畏」は    を書く。
甲骨文の   「卑」、金文の   「卑」の上部の   「甶」は長い柄の扇子のようで、   「又」は、手でつかむこと、扇子を平げることを表示する。造字の本義は、手に扇子を持ち主人に仕えることである。篆書の   「卑」は省略されて変形している。隷書の 
「卑」は篆書の「又」を簡単に「十」としている。『説文解字』に「卑は賤しいことを指し、主人は牛馬のように使われ、労働に迫られた使用人の事である。


「異」の甲骨文の形は、鬼頭の人が両手を挙げ、人を驚かせる動作をしている。これは恐ろしい「異形」で、顔に仮面を付け、両手を挙げ、人を捕まえようとする悪鬼である。未開化の民俗の仮面には、形状はみな人を驚かせる異常なもので、彼らは面体が異常なものには精霊がその身に宿ると考えていたので、故に「異」字には奇異、驚異などの意味がある。
現代人はよく「鬼」と「神」を繋げ(つなげる)て使いますよう「鬼を弄る神をふり」「鬼泣き神嚎」などです。商朝の人から見ると、鬼は鬼で、神は神で、両者ははっきり区別できます。「鬼とは、もともと風化人の死体を呼ぶ言葉です。人鬼に比べて、自然神は神と呼ばれる。神は電光の象に神格化したものである。両者を合わせて鬼神と呼びます。商朝では、死鬼は決して神になれなかった。ただ商朝が滅亡した時、姜子牙は封神式を主催し、彼は改朝交代期間に戦死した仙、妖、人を「神」に封じた。その時から、私達が良く知っている玉皇大帝をはじめとする瓊楼玉宇、霊霄宝殿、そして多くの天兵天将、例えば托塔李天王、太白金星、哪吒、二郎神など。この観点から見ると、中国人の歴史はあまりにも長く、中国神の歴史より何年も長いです。
鬼神と関連した甲骨文は、鬼、畏、異のほか、戴、翼、冀、魃などがあり、この数文字の共通点は「田」部があることです。それは土地ではなく、醜い幽霊の仮面を意味する。
戦国時代の哲学家荀子は、多くの聖人の容貌は凡人とは違った姿をしていると言った。孔子の顔は、鬼神を駆逐するような仮面を被っているようで、周公は猫背で、まるで枝を落とした枯木のようであり、皋陶の老顔は青白く、まるで皮をむいた冬瓜のようであり、大禹は片足を曳いていて、ぴょこぴょこと歩いていた。殷商王朝の湯王は中風(脳卒中)で、晩年は半身不随であった。最も不思議なのは有虞氏の舜帝は両目に二つの瞳を持っていたことである。荀子の言い方は滑稽(こっけい)ではないです。古代の聖人の殆どは占い師であり、占い師は人を驚かせ、悪鬼を駆逐しするために、自身を醜くさを気に掛けないばかりでなく、さらに醜く奇怪な仮面をつける必要があった。
『左伝』は、堯舜の時代、天下には四大悪人がいたと説く。渾沌(こんとん)、窮奇(きゅうき)、杌(げつ)、饕餮(とうてつ)である。舜はそれらを全部捕まえてきて軍に編入し、辺境地帯に配備して魑魅魍魎(ちみもうりょう)を食い止めるのに使った。魑魅魍魎はみな山林の霊気から生まれた怪物である。舜が四大悪人を妖怪達を駆逐する道具として使ったのは明らかである。実在する神話の中では、この四体の悪人はみな現実生活には存在しない怪物である。渾沌の姿は気嚢(きのう)に似ていて、足が6本、羽が2対、また歌舞に調子を付けるのも理解していた。饕餮は身体が長くて羊身人面、眼は脇の下、虎のような牙(きば)、赤子のような声で鳴いた、杌の姿は虎に似ていて、体毛は2尺、顔は人間、足は虎、牙は豚。尻尾は1丈8尺もの長さで、喧嘩となったら命知らずであった。窮奇も又体が長く、虎に似ていて、羽を持ち、人の脳漿(のうしょう)を食べるのを好んだ。この凶神疫病神四体を差し向けて妖魔怪物に対処させたとは、これ以上素晴らしいことがあろうか。
占い師の作法では、鼙鼓(へいこ、攻め太鼓)、羽毛、醇酒(濃い酒)などなどの神と交流できる法器を準備する必要がある。動物を使用することも可能であるが、動物は神と心を交わすとは言え、畢竟野生は飼いならすことは難しく、占い師が豹や、虎を伴って法術を演出するには、万一失敗して自分の助手に噛み殺されたら、メンツが丸潰れである。だから別の方法を考えなければならなかった。

方法の一つは、動物の凶猛な姿を青銅器上に鋳造することである。殷周時代の青銅器は王室の高級な占い師が天と交信するための法器である。青銅器の動物紋様は、単なる装飾だけではなく、占い師が天と交信するための作用を幫助した。

方法のもう一つは、例えば野牛や、猛虎、饕餮(何でも喰らう猛獣)、飛龍などなどの動物の形象をしたお面を付けることである。占い師は於面を付けることで、動物と一体化し、動物と交信する能力を備えて、また妖魔鬼怪に挑戦する能力を備えた。この時のお面は、最も無敵の神通力のある化身であった。
鬼怪を駆逐しようとすれば、まずそれらを脅かす必要があるので、青銅器の紋様も、お面の造型も、みな特別に恐ろしい。饕餮に代表される殷代の青銅器の紋様は、ある種無限に深遠な原始的エネルギーを顕示しており、それは神秘、畏怖、怯え、残酷と凶暴さを示している。
「伝説時代」は占い師の黄金時代であり、事実や、文字証拠の時代になると、占い師の能力の信憑性(しんぴょうせい)は低くなった。黄帝の孫の顓頊が人間が天界に通じる門を閉鎖してから、占い師の法力は殆ど利かなくなったという。彼らは生き残るために、手近(てぢか)な実技で人間の帝王に服務しなければならなかった。
殷商王朝建立以来、国王は高遠な理想で、多忙な政務を熟したが、政治活動は次第に増えたので、宗教行事は自らこなすが出来なくなった。それは手下の臣下に任せるしかなかった。これ以来、占い師の業務は次第に細かくなった。そこで、占いの記録を専門的に整理した「史」、祈祷を専門とする「祝1、亀を殺して占いの穴あけを専門にする「卜」があった。真の原始的な意味での占い師(祈祷師)は、王宮門外の広場で雨乞いの舞踏をするしかなかった。更に悲惨なのは、当時は「卑劣な占い師」の語り口が流行っていた。旱魃になると、祈祷師は炎天下に晒され、天地に、雨水を求めた。時には祈祷師は頭や額を日に焼かれても、天の神々は雨を降らせることを拒ん(こばむ)だ。祈祷師はこの点で本当に失敗の極点であったのである。
これに限らず、殷王は常々指揮を超えて、自ら卜占(ぼくせん)活動に参与した。或いはこの亀甲の孔の開け方が悪く、焼き方が透け(すける)らないと言い、また明日雨が降るかどうかを見に来たというのであった。更にとんでもないことには、殷王はしばしば占卜をきちんとせずに、しばしば神霊たち掛け合うことがあった。そのため、甲骨文にはしばしば「王占いて曰く」という刻辞があるが、この種の卜辞が一旦出現すれば、勝者は我等の王である。
周代になると、文明の程度は更に高度となった。周公は「徳を以て国を治む」を提唱し、「天は我が民より聴くを聴き、天は我が民より視るを視る。」を重んじた。周公は百姓はやはり天の代弁者であり、占い師の言葉は軽重するに足らずと考えた。これ以来、占い師の日々は更に悪くなった。『周礼』の記載では、周朝の官職は高いものから分別すると、卿、上大夫、下大夫、上士、中士、下士、占い師から生まれた職業の卜、祝、史の爵位は下大夫より下であったが、乗車可能であった。占い師の本職である司巫(占い師長)、男巫、女巫の爵位は中士で、既に使い走りとなった役所の小遣い程度に成り下がっていた。
史書の記載を根拠にすれば、春秋戦国時代には、確実に何人かの有能な占い師が出現していた。『左伝』に桑田巫の物語がある。紀元前581年に、晋の景公が夢に大鬼が宮殿に侵入して自分を追い詰め、天帝の命令だと言ったという夢を見たと言う。夢から覚めると彼は桑田巫に吉凶を占わせると、桑田巫は「あなたは恐らく今年の新麦は食べられるないであろう。」と言った。晋の景公は聞くと、その場で倒れた。彼は人を秦国に派遣して名医に診察させたところ、名医はあなたの病気は既に膏肓に入り(末期的で)、治療はない。」と言った。ならばただ安らかに死を待つしかなかった。思いもよらず、6月6日に、新麦が贈られてきた。晋の景公は急に気分が良くなり、彼は人を読んで麦飯を焚かせて、その後桑田巫を捕まえて殺害した。占い師は死の前に、彼は最後に自分の眼で新麦を見たがった。占い師を殺した後に、晋の景公は座って、安心して宮廷で炊いた麦を食べようとしたところ、急に腹痛で便意で宮廷の便所に入ったが肥え(こえる)貯め(ためる)に転がり落ちて死んでしまったので、やはり新米を食べることはできなかった。桑田巫は突然亡くなっても、彼は生命を賭けて自分の予言を守ったのである。
占い師はそれなりの能力があったが、時代は進歩していて、ある程度知恵のある人はみな占い師をあまり良く見ておらず、往々にして占い師を反面教師として使っていた。孔子はかつて、「南人に言有りて『人として恒無きは、巫医と做すを以てすべからず(不変のないものは占い師になり得ない)』と曰く」と説明している。意味は、ある人に根気がなければ、占い師となってもうまくいかないということである。後に、名医扁鵲は更にはっきりと「巫を信じて医を信じず、医を信じて巫を信じず。」と言い切った。彼のこの宣言の意味は、我々医学界は、あなた方無能の占い師とは、根本的に仲間ではない。」ということである。唐代の名医孙思邈は確かに名医であるが、実は彼は道一(道医)であるが、道教の医者である。道医も巫師の一種である。現代も道医は祝遊術或いは鍼灸で難治病を治すの神秘的な占い師である。
しかし民間の占い師の経営方法は大変融通(ゆうづう)的で、彼らは思想家達にも見向きもされなかったが、民間のある部分では、彼らはやはり影響力がなかった。西门豹治鄴が、統治したのは民間の占い師であった。ある70歳過ぎの占いの老婆は、魏国の鄴城の所有する占い産業を支配するばかりか、郷官(村役人)「三老」と県吏「延掾」とで邪悪な利権共同体を結成し、金欲しさに殺害する勾当(担当役)従事していた。彼らは「河童の嫁取り」を旗印に、意のままに民間女性を捕まえて漳河に投げ込み、無数の民間人を殺害した。西門豹は鄴城に到着すると、この占いの老婆と)バックのボス」を捕まえて、一緒に漳河に投げ込み溺死させたことは、本当に因果応報である。

戦国中後期、新しい祈祷師流派「方士」集団が次第に形成された。中国の昔の伝説では、海中に三仙山有り、名を蓬莱、方丈、瀛州という。斉の山東半島の蓬莱は昔から良く蜃気楼が現れたので、当時の人達はこの自然現象に対して科学の解釈するすべはなく、あれは海上の神山で、山上には神仙が住み,神様が住む国(先進国)へ移住したいです。一時期、斉の東海岸全部に方士達が出没し、斉の威王、斉の宣王、燕の昭王は、次から次へと方士を派遣して渡海させ、仙人の蓬莱仙島を探索させた。
秦の始皇帝が中国を統一した後、最も熱中したことは神仙と不老薬を捜すことではなく、先進国へ行って大秦帝国を長い保つに治国文化知識が欲しいから。阿房宮に出入りする方士の中で有名で姓もあるのは十人余りいたが、その中には三千の童男童女を引き連れた徐福が含まれていた。徐福達は山東半島の先端から出発してとうとう神様の国日本へ到着しました。徐福達に代表する渡来系の人々が、多くの高度な技術を日本にもたらし、縄文から弥生への急激な変化を遂げることになった。

  碩鼠   先秦

碩鼠碩鼠,無食我黍!三歲貫女,莫我肯顧。逝將去女,適彼樂土。樂土,爰得我所。
碩鼠碩鼠,無食我麦!三歲貫女,莫我肯德。逝將去女,適彼樂國。樂国樂国,爰得我直。
碩鼠碩鼠,無食我苗!三歲貫女,莫我肯勞。逝將去女,適彼樂郊。樂郊樂郊,誰之永号?
始皇帝も再三再四巡行に出かけ、名山大河を祀り、秦国の山河社稷を永久に保つことを祈り求めた。秦国滅亡後、漢の武帝は努力に努力を重ね、求仙の大旗を高く掲げて、更に先進的な文明史制度を探し求めた。方士は更に任ずるが多くなり、文化水準は更に高くなった。祈祷師は「方士」に改名し、前漢初年には前途洋々だった。漢武帝は一再ならずペテンに掛けられたが、求仙の情熱は終始一貫してふめつであった。漢の元光二年(紀元前133年)、彼は最後の巡行で再び神山に行きたいと願ったがかなわず、他ならぬ、この築起の小さい城を蓬莱と名付けました。これにより、実在の仙境「蓬莱(煙台)」がこの世に存在するようになりました。
紀元前132年、つまり前漢武帝の元光三年の春、黄河が古衛国内の瓠子河部分で決壊した。沸き起こる洪水は現在の河南の濮陽から東南に振れ動いて、河道を飛び出し、まず魯の西南の巨野に乗り込み、泗水から淮河に流れ込み、河水は23年間、16郡に渡って氾濫した。当時に蘇軾が住んだ彭城は古代の楚国の地に属しており、当時は楚国の人も黄河特産の「鱣魚(センギョ、ダウリアチョウザメ)」をすくいあげていた。前漢の武帝の元封二年(公元前109年)、武帝は泰山で封禅してから漸く水害の事を顧みて、大臣の汲仁、郭昌に命じて十数万人の人民を率いて瓠子河の決壊口を埋め立てさせた。工事開始に先立ち、漢の武帝は越の地の祈祷師を黎津の白馬の傍の黄河南岸に沈み、河神の祭祀(生贄いけにえ)に奉じた(更に致命的だったのは、黄河が一旦決壊すると、武帝はすぐで態度を一変させる人だったである。真っ先に洪水の中に投げ入れられて水死したのは、やはりこの不運の時にばっちりを受けた祈祷師であった。)。皇帝は自ら臨席して祭祀の儀式を主催し、その後群臣諸官に木柴を運ばせ決壊を塞いだ。黄河を旧河道に戻した後に、漢の武帝は自ら『瓠子(ふくべ)の歌』詩二篇を詠んで慶祝を示した。
  瓠子歌二首
その一
  瓠子決兮将奈何?
  浩浩洋洋兮閭殫為河。
  殫為河兮地不得寧,
  功無已時兮吾山平。
  吾山平分巨野溢,
  魚沸郁兮柏冬日。
  正道弛兮離常流,
  蛟龍騁兮方遠游。
  歸旧川兮神哉沛,
  不封禪兮安知外?
  為我謂河伯兮何不仁,
  泛濫不止兮愁吾人。
  齧桑浮兮淮泗満,
  久不反兮水維緩。
その二
  河湯湯兮激潺湲,
  北渡迂兮浚流難。
  搴長筊兮沉美玉,
  河伯許兮薪不属。
  薪不属兮衛人罪,
  燒蕭条兮噫乎何以御水?
  頹林竹兮楗石菑,
  宣房塞兮万福来!

   河复

君不見西漢元光、元封間、河決瓠子二十年。
巨野東傾淮泗満、楚人恣食黄河鱣。
万里沙回封禪罷,初遣越巫沈白馬。
河公未許人力窮,薪刍万計隨流下。
                          作者: 蘇軾

注:中国では病気を治す呪術を祝由術と読んでいた。祝由術の「由」は「病気の原由)」即ち病気の原由を意味する言葉だ。祝術により治療を行う医師を巫医という。中国ではそもそも医者は呪術師であった。古い毉という字には巫が含まれているのだ。古代の医師は呪術、薬草、鍼灸を駆使しながら治療を行っていた。後に薬の専門家、鍼灸の専門家、呪術の専門家が文化するが分化するが、どの専門家も医者と看做されていたのだ。現在の中国民間の巫医の数少ないです。中国民間巫医は道一と名付け、道教医師の意味します。時代に変わって道医と呼ばれています。道医は古代の祝由術を利用して患者の病の源が見えることができます。即ち「望」、「聞」、「問」、「切」の「四診」という診察法が用いられる。いずれも、医師の五感と経験による方法で、長期間の修練を要するものである。陰陽、風水の術も必要である。多分、鍼灸を駆使して患者の難治病を治すことが多いです。巫医は縁がないと治療を行っていないと状況が有ります。