山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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遠古の祭祀儀式(あなたの最初の漢字教材甲骨文)

甲骨文:

神 示 視 祭 祀 吉 凶 咼 礼 又 佑 录 且 祖 宗 俎 社 共 供 兄 兑 祝 福 祉 神 聖 靈 孰 熟 彝 奠 尊 款 奈 司 后

現代常用字

禍  祠  祿  遵  拝 票 曲 禁



祭祀と戦争は、古代社会では最も重大な事情であった。当時、世界各地の原始宗教は大変盛んで、死霊信仰と祖先崇拝がない所はなく、中国でも例外ではなかった。

『山海経・五藏山経』の各章の後半には、雄鶏、犬、牡羊、玉器の圭、璧、璋、糈(しょ、神饌の穀物)⋯⋯など祭祀に使用したものが列挙されている。これらの神饌品では、「糈」字の出現回数が最も多い。「糈は、精米、神に享すゆえん。」というのは、祈祷師が精米を神祇(しんぎ)の祭祀に使用していたことを言う。『山海経』の書中では神を祭祀する物には糈を使用し、また医薬、呪禁、神仙怪異などの記述が多い。それで魯迅は『中国小説史略』で、『山海経』は、古代の祈祷師の本であろうと言う。

中国古代の祭祀活動は一万年以上の歴史があるのかも知れないが、祖先崇拝はやや遅くて、大凡3,600年前の殷商時代にやっと形成され、これは甲骨文の文字の記載に見られる。「我」字と青銅器には関連があり、青銅器の時代になると、我々の祖先はようやく「我」の概念があり、「我が祖先」の祭祀を開始した。商人は早期に最高神「上帝」として崇拝し、祖先の神霊と日月、山川、水火等の自然は全て「上帝」に帰すると指導し、「下帝」と呼んだ。その後、人々は上帝と自分の距離が大変遠く、一人ぼっちで寂しい上帝は大変忙しいだろうし、上帝は多くの衆生のこんなにも多くのつまらないことどもには手を下さず、ましてや公平さに無頓着であって、物事は必ずしも自分の助けにならない、やはり自分の祖先の方が頼りになると感じた。そこで祖先の霊魂から変化(へんげ)した「鬼」が商人の守護神となったのである。商朝末期に到って、祖霊の権威は完全に確立し、祖先信仰に関しては、他宗教の信仰を排斥し始めた。「上帝」は決して家族範囲を超越した普遍の「上帝」ではなく、統治家族の祖先霊であった。何故か?我々自身、既に上帝の子孫だからである。

その後、商の紂王が死に、国が滅んだため、教訓は十分深刻であった。周朝の統治者は、革命が起きることを頼りにし、民心の重要性をわきまえ、単に上帝祖先の守護を頼るのでは頼りにならない、国家が長く安泰であるようにするためには、天を敬い祖先に従い、政に勤しみ(いそしむ)民を愛し、徳を持って国を治めなければならないと見なした。このため、周人の宗教が尊崇するのは「天」であった。周公は「天」の観念と商人の「帝」の観念を結合し、至高無上の神霊を「天帝」と呼んで、合わせて天帝に理性と道徳上の新たな内容を賦与し、天帝を理性と道徳の化身として民心の向くところを代表させた。「天は自らの民が見るを見、天は自らの民が聞くを聞く」である。

天子(皇帝)は天を祀り、民間は祖先を祀る。古代の祭礼は、「廟祭」と「郊祭」の二種に分かれていた。廟祭の対象は人と鬼霊であり、郊祭の対象は天と神霊であった。宋代の程頤は「祭は、先祖を祭るなり。祭神とは外神を祭ることである。祖先を祀ることは孝行を主として、神を祭ることは尊敬を主とする。」と言う。家祭は内心に感動することがあり、最初の意義を表現できるものである。神祭は外出要因によるものではなく、人はそうせざるを得ないものである。只内心に誠意があるがゆえに、祭祀の意義を表現できるものである。孔子は、「その誠があればその神あり、その誠が無くばその神無しと言っている。誠意は実体であり、儀礼は空虚である。祭礼があれば、祭神が存在するようなものである。

祭祀は古代社会の活動では最も重要な儀式であり、最も古い漢字の甲骨卜辞は祭祀を記録した工具であった。甲骨文字の、祭祀に関する常用字には史、吏、こと、使、祭、祀、有、宜などがある。史、事、使、吏は祭祀の使者であり得ない祭、敢、有、宜は全て肉を供物(くもつ)とすることに関連がある文字である。

原始社会の社会性は極めて低く、人間の智識が貧困で、自らの努力によって自らの運命を把握することは困難である。客観的な世界に対する彼らの認識は、まだ非常に曖昧で混乱している。台湾のキャンパスの歌は、この混乱と幻想を視覚的に描写しています:

太陽が常に山の側面に降りている理由を誰も知らないし、誰も山に神が住んでいるかどうかを教えてくれない。何日もの間、空に直面して一人ぼっちで、とても好奇心が強いので、とても空想的で、子供時代にとても迷っています。

原始人は、自然の前でしばしば困惑し、日月の運行、山川の分布、風雨雷電等の自然現象の原因について殆ど知らない。突然の疾病、疫病、災害、死亡に対する恐怖は、この全てが暗闇の中で鬼神によって操作されていると信じています。災害が襲うと、ある側の自然の神に逆らったり、あるいは妖魔鬼怪が波を巻き起こしたりするかも知れないことである。

諺にもあるように、「天には不測の風雲があり、人に旦夕(たんせき)の禍福があります。」甲骨文の吉凶禍福の四文字は、非常に明確なイメージを持ち、生き生きと柔軟です。

吉,早期の甲骨文の「吉」   、  、  、  は家祭の廟宇のようなもので、  と  を構成されている。造字本義:神が楽しむための捧げ物。金文  「吉」は甲骨文の尖塔   、  、 を「土」と書いた。もともと舌で美味しそうな「甘」を「口」と書いた。篆文   「吉」はまだ「土」を「士」に変えた。『説文解字』の解釈は:吉、祥瑞美好(美しい)です。隷書の吉は  を書く。

凶,甲骨文の字は「」形であり、陥落した「陥」に近く、まるで一人が土の穴に落ちたかのようだった。

禍の本字は「咼」は、甲骨文の執筆       、 ,砕けた骨のイメージであり、不運な死の結末を示しています。金文の字形「禍」は、祭りの儀式によって示された占いの結果を示す。その中の「骨」は、死を示す。「口」は、人を表します。造字本義:人が神を冒す罪を犯したので、全ての人は神によって罰せられ、災害に遭います。

甲骨文の「福」は、祭祀を表す「示」、巫師の動きを表す手「又」、酒甕(さかがめ)を表す「酉」、酒の供養を表す両手からなり、造字本義:神に美酒を捧げ、繁栄と幸福を祈願することであった。ある甲骨文字の「福」は、「両手を省略した、酒甕と祭祀の「示」に簡略化したものもあります。金文「福」ではこの文字を左右に再編成し、甲骨文字の「示」を「礻」と表記している。篆書では金文の酒甕の形状を「畐」と書かれている。字形は変わりましたが、酒甕を表現しているに変わりはありません。

『説文解字』では、「福」は「加護」を意味する。神霊の祝福と加護を受けるという意味です。本義は「繁栄と幸福を祈るために神に酒を捧げること」である。例えば『左伝・荘公十年』では「神々はまだ小さな信仰で私達を祝福していない」とあります。また「満足している 、理想的な、幸運な」という理想的な状態を表すのにも使われます。例えば「洞天福地」「福星高照」「洪福斉天」「美満」などの言葉です。『韓非子・解老』には「長寿と繁栄を円満と言う」とあり、「円満は東海の常時流れる水の如く、長寿は南山の不老松の如し」とも言われています。しかし、天には予測できない状況があり、人にはそれぞれ不幸がある。福は内、災いは外という言葉があるように、一人ではどうにもならないことがあります。老子曰く、「災いは福のよりどころ、福は災いの隠れ家,禍福は糾える(あざなえる)縄の如し。」「馬を失っても福と知るなかれ」という慣用句は、この真理を指しているのである。

「福」は、最も理想化された漢字である。小さな家庭の幸福から、大きな社会の満足まで、国の泰平や民間の平安は、すべて中国人にとっての「福」である。「福」が代表することは良いことであるが、必ずしも願い通りになるとは限らず、つまるところ朝夕で禍福があるということである。そのため生活は心外なことで満ちていて、人々は「福」字に一種の運休を当てはめるのである。古代人から見れば、幸福は神の御加護である。「幸」は困難が目前となり、正に死にかけの時に許されて生存できることで、「福」は諸神の加護を受けて、生活が豊かで健康であること。

「福」と関係のある象形文字には、奠、尊、遵、祉、禄、祐がある。

奠,甲骨文の「奠」は酒壺の下の横➖の指事符号が地面を表し、酒を地上に注ぐことを表している。造字の本義は、古代人が建築家の地鎮祭で酒を土地神々に奉献し、居所の安帝幸福を求めることである。



尊,甲骨文の「尊」は両手で酒壺を持つ様子である。造字の本義は、手で酒壺を捧げて、再拝の儀式を捧げること。金文は甲骨文字の形を継承している、ある金文の「尊」は、間違えて「酉」を「酋」と書くが、篆書の「尊」は金文の字形を継承している。またある篆書の「尊」は「寸」を両手に替えている。『説文解字』は、尊は、酒を盛る器皿とする。字形は「酋、廾」の会意文字であり、両手で酒壺を持ち上げる様子を採用している。『周礼』に言及する六尊は、犠牲の牛の角で作った酒器、象牙(ぞうげ)で作った酒器、脚のない酒器、底が地面における酒器、壺型の酒器、太古の酒器、山波を刻んだ酒器で、祭祀の準備してと宴会で来賓をもてなす儀礼用の器である。

遵,篆書「遵」の「辵」は行進を表し。「尊」は尊敬を表す。造字の本義は、尊敬して命令に遵うことである。『説文解字』に遵は、随うなり。指示を聞いて、道路に循って一定方向に前進することである。

止,「址」の省略で、基礎、敷地を示す。祉,甲骨文の「址」は「示=祈祷」と「止=基礎」の組み合わせであり、造字の本義は、古代人は新居を建築する時に、神霊の加護を選んだ基礎と、新居の平安を祈祷し祭祀する事である。「福祉」と連用する時の、「祉」も幸福の事である。

彔,甲骨文の    、  、  、 「彔」は、井戸屋形の轆轤(ろくろ)を表すための発音であり、水を汲み器に入れることを表し、また、水を表すための示形であって、汲んでも汲んでも尽きない井戸水を表す。金文の彔は    を書く、隷書の彔は    を書く。隷化後楷書の彔は  を書く。造字の本義は、尽きることのない井戸水であって、比喩的には尽きない幸運を享受することである。

「彔」の「尽きることのない井戸水」という本義が失われた後、篆文は再び礻「示」を加え、代替として別に「禄」を作り、同様に井戸を尽きることのない幸運に喩えた。

又、甲骨文の  「又」は、手を一本伸ばすのに似ていて、指示、援助を表す。「又」の「支持」という本義が失われるに当たって、金文は「又」に再び「くち」(声援)を代わりに加えて「右」を作り、手を出し、口を開いて支持することを表した。「右」が方位名詞になった後、甲骨文は再び「示」(祭神)を加えて「祐」を代わりに作った。造字の本義は神霊の助け、保護である。

福を求め災いを避けるために、生まれた集団を対象にして狩猟することは原始的最早期の祈神駆鬼儀式を産んだ。「シャーマン」というわけである。東北地方大興安嶺山脈の深山老林に住むオロチョン人は、20世紀60年代になってもまだ、原始的トーテモ崇拝を核心的「シャーマンニズム」と見做していた。

「トーテム」の言葉は音訳で、北米の先住民オジブワ族の方言に由来し、「彼の親戚」を意味します。この先住民の生活様式は、おそらく18,000年前の北京の山頂洞窟の子孫である中国のオロチョン人に似ています。これらの狩猟民は、人間と特定の鳥獣、草木や山石、流水、雷電の間に特別な血統があり、各一族は、特定の動物、植物の、更には自然現象に由来し、これは「トーテム」であると考えています。トーテムは、この一族の祖先であり、保護神であり、その一族の紋章、シンボル、シンボルです。

オロチョンの人々か熊を「トーテム」と呼びます、熊を崇拝する儀礼があり、熊を「山の神」と称しています。しかし、この礼拝は精神的なレベルではに留まり、インド人が「神牛」を崇拝するほど信心深いものからはほど遠い。ハンターは山に狩に行き、口から熊肉を決して放さない。狩中、熊が殺されたら、熊の「魂を混乱させる」ように最善を尽くします。熊は息絶えたばかりに「山神お爺ちゃんは家に帰ってください」と言った。熊を家に持ち帰る途中、群衆は泣くふりをした。熊が村囲いに運ばれると、そこの男たちは、高らかな声で「森の王がやって来たぞ」出迎え、先を争って熊に口付けをして、敬意を表した。よく切れる刃物で熊皮を剥ぐ時は、「(切れない)石包丁で剥ぐぞ」と語り、肉を食べる時には、「声を揃えて、「カラスがお前の肉を食うぞ、オロチョン人がお前の肉を食うのではないぞ」というのである。熊肉を食べた後は、熊の葬式を挙行する。人々は熊の骨を草で包み、又あるいは柳ごうりに並べて、森の中に運び、二本の木の間に風葬を行った。参列者は悲痛、嗚咽(おえつ)を装い(よそう)、老人は若者を引き連れ跪き、熊に香を焚き、額付き、熊に祈祷をあげた。最も貴重な熊の皮は、各家庭を一個一個一巡らし、最後は最高齢で地位も最高の長老に贈られた。


中国最初の祭祀儀式は六千年余り前の原始農耕時代早期に遡ることができる。周代の古典『礼記』の『礼運』篇には、礼の起源に対して概説している:「夫礼之初,始諸飲食,其燔(fan)黍捭(bai)豚,污尊而抔(poi)飲,蕢(kui)桴(fu)而土鼓,猶若可以致其敬于鬼神。夫れ礼の初めは、諸(これ)を飲食に初め、黍を燔(や)き豚を捭(ひら)く、汚尊(わそん)して抔飲(ほういん)し、蕢桴(かいふ)して土鼓し、猶若(ゆうじゃく)以って致其の鬼神に敬うべし。」この段の話は古代には、「人類最初の儀礼は、食品で鬼神を祭祀する事である。アワや豚肉を熱した石で炙って(あぶる)食すことである。地面に杭を打って容器として、手で掬って(すくう)飲む。また茅草の茎を縛って鼓槌として、地面に据えた土製の土鼓(土壺に革を張った物」叩いて、鬼神に対する祭祀を表示した。これが最も初期の「儀礼」である。


甲骨文の「禮(礼)」の、原字は「豊」であり、神を祭る供物の机に置かれた食品の総称である。「禮」の字形は豆(トウ、高杯)形の器に玉くじを満たしたもので、人々がもっとも良い物品「玉圭」を持ち出して、神霊を崇拝したことを表示している。金文の「禮」の字は変形して「禮」となり、2本の玉串を容器に乗せ鬼神に奉献する場景を示している。『説文解字』の解釈は、「禮(礼)は、履なり、神に事(つか)えて福を致すゆえんなり。」としている。

遥かな昔、古代人は無数の種類の祭祀儀式を持っていたが、皆明確な原因と目的があった。太陽を祀るのは光明を引き留めておくためであった。大地を祀るのは増産豊作のためであった。名山大河、河川湖海を祀るのは、それらによって衣食住に必要な各種生産と生活物資を人類に提供するためであった。要するに、崇拝される自然物は人にとって有用であり、それらを崇拝しに出かけたのである。これらの祭祀活動は、崇拝対象の庇護を得て災厄(さいやく)を消し去るためであった。

古代中国人は、天地、日月、山河、水火が全て宇宙で最も崇高な事物であり、これら一切の神霊を掌握することは、当然最重要の祭祀対象であると見做した。「神」は天地万物の最高主催者であった。万能の神は、天上に居住地し、風雨雷電を管掌した。雨に程よく降り、風に程よく吹いてもらいたければ、まだ必要なのが天を祭ることであった。

神の甲骨文の元の字は   「申」であり、神秘的で予測できない、瞬間的に爆裂する霹靂雷電を象っていた。金文の申は    、  を書く。篆書の申は   を書く。隷書の申は    を書く。造字の本義は、古代人が崇拝する天の神様であり、万物の創造者、掌握者である。古代人は雷鳴稲光(いなびかり)至高無上であり、万物を創造して世の中に送出する天神が操縦していると見做した。「申」の「天神」という本義が消失した後、金文      は再び   「示」(礻)と   加え、別途「神」を作って代替とした。

天神の霊験を、「示」という。「示」の初期の甲骨文は 「丅」に作り、上部は横   で、「天」を捕らえており、下部の縦    は垂直に天の方向に向かう事を表している。ある甲骨文   「示」は「天」の    を    として、上が短く下が長いのは「上」を表し、「天に上る」の意味でもある。こうしてみると、字義は「頭を擡げ(もたげる)て、天の意思がどうであるかを確かめること」である。後期の甲骨文「示」は左右に両側に    を加えるが、これは「兮」を省略した書き方で、儀式を執り行う神官がぶつぶつと、低い声で祈祷を念じていることを示す。造字の本義は、天に向かい拝礼して天帝の霊験を祈ること。


古代人にとって、「霊」とは天地万物と疎通する神秘的な力で、「神力」の直接的な体現である。霊の繁体字  「靈」は早期の金文の   , 「霝」で、字形は「雨」と    の組成である。「雨」字の下の三つの「口」は、祈祷師が祈り続ける様子である。「靈」は三つの口の下に「巫」を加えて、大旱魃の時に、祈祷師が神に降雨を求めて唱えている様子で、もし本当に雨が降ればそれは祈祷師の功労であった。周代以後「霊」字の書き方は更に増えて「孁、爧、霛、醽、靇、蘦、霊、麢、櫺」などなど、変幻極まりなくなった。在宅子宝、調理火気、戦争必勝、釀造良酒、乾燥降雨、育苗成就、行路安穩、建築安住などに限らず、全ての霊験で、天帝は願いを叶えてくれるのである。

天帝には一体霊験があるのかどうか。雷や雨ならが誰でも見出せるが、亀甲の縦横に交錯する亀裂で天意を判断することは、一般人にはそのような腕前はない。このような専門性の高い問題は、専門家に解決を任せるべきである。祭祀の儀式を行う時、占い師はまた「神官」ともいう。


祭、早期の甲骨文「祭」の右側は一本の手で、血の滴る(したたる)肉塊「夕」を持ち、恭しく祭壇に捧げて、生肉を神霊、祖先へのお供えを表示している。晩期の甲骨文には肉塊の下に「示」を付け加え、心霊に祈祷する主題を強調している。

「祭」は一種の会意文字で、この手に肉を持つ動作は、凡そ人と天帝との疎通させる儀式を体現している。この文字の本義は肉を祭壇上に供えることだけではなく、この字面以外の多くの複雑な手順がある。祭祀は供物を捧げる以外にも本人の願いを黙々と祈祷して、その後焼香し、灯火を焚き、ゆらゆらと煙を天の果ての青空に立ち昇らせ、尊貴な祖先の神霊に享受させる。これは人と天帝との交流を疎通させる「献上」のイメージに変化した文字である。明時代の作家許仲琳の小説『封神演義』では、姜子牙、哪吒(ナタ)など神将はともすれば「祭」を宝刀として、武将を撫で斬りにして功を収めた。此処では、「祭」字は拋、丟、撒、扔、擲、砸、摔(全て投げる意味)などと同系列の動作である。この「祭」字は神将、仙人の動作を形容して、更に迫真、形象を増加している。

我々は古代の祭壇に目を向けると、あなたが神をお祭りするのに、神があなたを見ないという、そんなことがあろうか。

甲骨文の   「視」は祭の祝詞を表す  「示」と、瞳で見ることを表す   「目」の組み合わせであり、造字の本義は、神への祝詞の時に現れた兆し(きざし)を詳しく観察することである。金文の   は   を   代替した。籀文の視は   を書く。篆書の視は   を書く。


「兆」は、金文では「」と書き、卜占の時に亀甲に現れた一本一本の複雑な亀裂を表示している。造字の本義は、卜占の時、亀甲に現れた裂紋の分別を通して、神の暗示を判断し、事態の展開を予見することである。


「拝」の字は、左側は「手」で、右は「頁」である。「頁」は頭の形象で、手を頭に上げて、その本義は敬礼の礼節である。

司、甲骨文の     、  、  、 「司」は祭礼を表す権杖    (卜)と祝福を表す   「口」の構成で、造字の本義は、祭祀を主催し、呪文を指揮することである。金文の「司」   は   ➕   ➕  の構成されている。「司」は「祠」の本字で、元は祭祀を示したが、後に政府権力機関の、人事を管理する司徒、軍隊兵馬を管理する司馬、工事建設を管理する司空等等を包括する(有司(官吏)」を表すようになる。東洋または西洋に限らず、社会組織の発展は一つの共同の規律に従って、まず神権があり、後に政権ができた。神廟の管主は、祭神の儀式の組織を通して部落の収斂した財富と民衆を組織する特権を獲得した。従って最初の社会政治組織を建立し、氏族から部落へ、部落から部族連合へ、その後都国を建立し、現代の政府組織へと発展していったのである。

「司」の「祭祀を主催」する本義が消失すると、金文    には   「示(礻)」を加えて「祠」を作り代替し、祭祀の主題を突出させた。春日の祭祀を「祠」とも言う。

「司」と「后」は同じ由来で、後に文化した。甲骨文「司」   の意味は「法権を掌握し、案件を判断し刑を施行することである。「司」の「法権掌握」の本義が消失してから、篆書の「司」を反転して「后」と書き、母系時代の第一の権利を掌握する女王を表示するようになった。

原始社会の晩期には、父系氏族社会に進入した。知識を保有し、財富を享受する神廟の管主は女性から男性へと変わり通常は部落の長老の長男が継ぎ、この権勢のある長兄が、つまり「祝」である。

「兄」は「祝」の本字である。「兄」、甲骨文「兄」    は一人の人間       が、天に向かい開口   して呪言(ことほぎ)のを象り、本義は神霊に奉斎し、蒼天に向かって寿ぎ(ことほぐ)を告げ、福を給うことを祈ることである。晩期の甲骨文「兄」   は跪く人   を、立っている人   に書いている。金文   「兄」と、篆書     「兄」は晩期の甲骨文の形   を継承している。ある金文「兄」    には「往」    を加えて、祭祀の祈祷儀式で往来することを表示している。「兄」の「祝詞」の本義が消失すると、甲骨文の「兄」     、 には     、 「示(祭祀)」を加え「祝」を作り代替した。造字の本義は、神霊を奉斎し、祝詞を告げて福を求めた。

兑,甲骨文   「兑」の上部の「八」は、発語を示し、下部の     、 「兄」は祝詞を示す。造字の本義は、祝詞で神を寿ぎ、許諾(きょだく)を求める。篆書の「兑」    は甲骨文の字形を継承している。後に「兑」は「公約実行」に多用されるようになると、本来の「神を誉めて承諾を得る」本紀は消失した。そこで、造字者は「言」篇を加えて、  「説」字を作り代替した。



巳は祀の原字で、甲骨文では「祀」と書き、幼子を意味する。甲骨文「祀」は、神への犠牲(示)と幼子「巳」からなる文字であり、幼子を殺して神への贈り物とし、神々を魅惑(みわく)して災難から救うというのが本来の意味であったという。孔子はこの野蛮な習慣を忌み嫌い(いみきらう)、「これを始めた者は、子孫を残さない!」と言った。つまり、人間を象った兵馬俑を生贄(いけにえ)にした者は、その息子や娘を駆逐されて当然だということである。

古代の殺生や生贄の習慣は、原始的な儀式の無知と野蛮さを反映しているのです。この儀式は古い起源を持ち、長い間受け継がれてきたものです。聖書やギリシャ神話では神々への生贄として記録されている。このような野蛮な習慣が蔓延していたことは明らかである。一万年以上前、ヨーロッパ、アジア、アメリカの数多くの原始民族が、天への生贄として殺生を行うという悪習を行った。夜の恐怖から逃れるために、空に浮かぶ太陽に生贄を捧げたのである。日食が起こるたびに、天狗が太陽を飲み込んだと勘違いして大パニックになり、ある者は太鼓を激しく叩いて天狗を追払い、ある者は矢を放って天狗を退治したのです。原始的な部族の中には、天狗に血を吸わせて太陽を逃すために、生贄として殺す習慣があった。商朝殷墟の幾つかの古い墓付近には、沢山の殉葬(じゅんそう)坑があり、国王、或いは貴族が死亡すると、ややもすれば十人、百人という奴隷が殉死させられた。商王が挙行する日常の祭祀活動は、往々にして殺人献祭だったであろう。雲南南西部に居住する佤族も過去には殺人して天を祀る風俗を持っていた。毎年春耕前、佤族部落は往々にして戦士を派遣し、富裕な集落を捜して首狩りを行った。すると族長は厳かに人頭を捧げ、田畑に十分敬虔誠意な埋葬があると、ようやく春耕を開始した。これを利用して天の加護、豊作の証としたのである。

周朝になると、文明的な中原人は人を殺して神を祀る悪習を廃止したが、儀礼はなかなか忘れられず、祭祀は決して少なくならなかった。甲骨文に見られる「夙」にしても、敬虔誠意という意味が充満した字である。人が両手を使って恭敬し、お月様を迎える。祖先は、上天に向かい、自己の願望を表す。

祖先と神霊に対する真摯な敬意を表現するために人々は豪華で堂々とした神廟を建立し、更には祭祀儀式の際は玉器、絹織物、穀物、家畜と言った礼品を奉献した。これらは最も良い貢ぎ(みつぐ「物だからである。

甲骨文では「享」「亨」は通用している。「享」,早期の甲骨文の   「享」は祖先を祭る廟宇を象る。晩期甲骨文の    「享」は数階建ての廟宇を象る。金文の「享」は    、 を書く。篆書の「享」は   を書く。隷書の「享」は    を書く。造字の本義は、祖廟に祭礼品を供え、神霊祖先が香気を受けるようにしている。

「共」は供物の「供」の本字であり、甲骨文「供」は司祭が両手、   、  、 で貴重物品「口」を捧げ、恭しく鬼神に供物を捧げる様子である。造字の本義は、珍品を祭神の供えることである。

「孰」は「熟」の本字であり、甲骨文は    を書き、「吉」   は神を祭る廟宇であり、人が手を伸ばして祭礼品を捧げていることを示している。造字の本義は、香ばしい熟肉を使って祭祀する事である。後に「孰」の本義は消失して、改めて「誰」の意味を表した。秦朝の篆書のは元の字の下に「火」を加えて、別に「熟「字を作り「祭祀で使用した熟肉」に代替した。

羊は温和で順善な動物で、祭祀に常用されるために、「羊」には「吉利、吉祥」の意味を含む。「祥」のある甲骨文は    「羊」と書くものもある。ある甲骨文は    を作り、上部は    「羊」で、祭祀の羊羔(子羊)を代表し、下部は「目」     で、神跡を観察することを表示し、神霊が現れるかどうかを見ることを表示している。金文の祥    は   (示、祭祀)と  (祭祀の羔羊)の構成されています。篆書の祥は   を書く。「祥」の造字の本義は、占い師が縁起の良い子羊を先祖と神霊に捧げて、平安と幸福を求めるものである。


彝、甲骨文「彝」の上部は「鹿」であり、祭礼品を代表し、左側の「卜」は、祭祀を代表し、下部は「双手」であり、奉献することを表す。造字の本義は、鹿を用いて神霊に祭拝することで、篆書の「彝」の字形は複雑化するが、廟堂に常備する祭器の代表である。字形の「糸」は紡績の盛器を表示している。字形の「廾」は、米を盛った器、宝物を盛った器を両手で持つことを表示する。「彑」の字形は「爵」と相似している。

款、甲骨文の「款」は「木柴」、「祭祀」「抓緊」の組み合わせてあり、造字の本義は、木柴を燃やして天を祀る事である。金文の「款」は「木柴」「祭祀」「欠、吟誦(ぎんしょう)」の組み合わせで、祭祀の時の敬虔な祝詞の詠嘆(えいたん)であり、神霊に向かって自己内心の良く求を表達することを示している。後に商品経済が発達すると、貨幣が出現した。貨幣と経済利益は連携しており。「款」は終に金銭を代表するようになった。

祭祀の中で、最も厳重な祭祀は帝王が天地を祭祀する儀式で、「封禅大典」という。封禅は古代の帝王が天地を祭祀する儀式で、封は天を祀り、禅は地を祭る。封禅は大自然の崇拝に起源する。『史書・封禅書』の記載によれば、秦以前の封禅を行ったものは七十ニ家に及んだ。


帝王が「封」のために天を祭るにあたって、祭壇は東岳泰山に置かれる。泰山が五岳の長であり、高さが高く、天への距離が近くて、この世の帝王が泰山の頂上に来て上帝を祀って「天」からの受命を示すことである。泰山が東岳であり、東方が万物の始まりであって、陰陽が交代する地方だからでもあるという。新生王朝を成立させるとすぐに、新たに即位した皇帝は、天神地祇に向かって成功を報告し、そうやって合法的統治する地位を祀る場所を取得するのである。

帝王が「禅」のために地を祭るにあたって、祭壇は泰山の麓の梁父山、粛然山、雲亭山などの地に置かれる。天は上にあり、地は下にあるので、古代人は天が陽、地が陰、天は地よりも高いと見做した。そのため封の儀式が禅の儀式よりも重要であった。漢王朝以来封禅の儀礼は皆、漢武帝の儀式次第に照らして進行した。皇帝がまず梁父山に到着して地を祀り、続いて泰山の東辺山麓に壇を設けて天を祀った。然る後、漢武帝は元老重臣たちを率いて泰山の頂上に登り、再度天を祀った。翌日、君臣は北斜面から下山し、泰山の麓にある粛然山で再び地を祀った。封禅時、長江淮河一帯産の一茅三脊草及び各地の貴重な鳥類と獣で祭祀を行い、五色の土で祭壇に封をした。厳かな音楽が流れる中、漢武帝は黄袍袞服を自ら着て、自身で跪拝した。封禅後、更に漢武帝は改元の詔を下し、併せて泰山の麓で「治邸」を命じたのである。秦始皇、漢武帝以外、泰山に封禅の儀礼を行われたのは後漢光武帝、唐高宗、唐玄宗、宋真宗などなどがあります。

古代帝王が封禅大典に熱中していたのは、天への崇拝を利用して、他人から天下を奪取する合理性を説明するために「天命移譲」を行い、人々の心を安定させ、支配的地位を固めたからである。しかし唐王朝の魏征に代表される幾つかの知識のある役人は、封禅的な封禅的な大衆を動かし、莫大な税金を費やしたので、反対を表明しました。南宋の国力が弱い、皇帝は泰山封禅の儀礼を廃止し、代わりに都で「郊祀」の形で天と地を祭った。1420年、明成祖は北京の南郊に大祀殿を建設し、天と地を祀った。その後、明王朝の嘉靖皇帝は、大祀殿の南側に新築の寰丘(後に天壇に改名)で特別な天を祀り、また、北郊外方沢壇(後に地壇に改名)を建設して地を祀りました。その後、天と地が別に祭祀が行われました。

人々は豊作を祈願して天候に恵まれます。従って、天の神だけでなく、土の神「社」と穀の神「稷」も祭祀にする必要があります。古代文学では、国を表すために「社稷」が良く使われます。国ができたその日から社稷壇を築く必要があるからです。国が滅ぼされると、この国の社稷壇は敵によって破壊されます。「社稷」が国家の象徴となったことで、その祭祀の意義はより特別となった。

「社」は、甲骨文では     「土」と同一での文字で、土地神を表す。原始の部落では、人々は土を集めて墩(築塚)として、祭祀活動中に土墩を巡り、万物を育む土地神を拝礼した。


北京社稷壇

「社」は土地神で、「稷」は穀物神である。古代は農耕が基本であり、このため農業は社稷を祭祀する活動と緊密に連携し、大変重視されていた。社稷祭の由来は古く、西周時代には国家祭祀を司る大宗伯に「血祭を以て社稷を祭る」という責務があり、小宗伯には社稷壇の建設する責務があった。社稷壇は祭祀の場所で、儀礼に基づいて周王の社稷壇には五色の土を敷き詰められた。土色はその方位によって、東は青、南は赤、西は白、北は黒、中央は黄色で、五つの方角を象徴している。現存する北京に中山公園には「五色土」という名の方形の大きい平壇で、これは明代の永楽年間に北京に造営された社稷壇である。周王が社稷を祭るには太牢が必要で、つまり、牛、羊、豚の三種の犠牲を生贄として、更に鐘鼓を打ち鳴らし、歌舞を添えられて、その儀礼は大変盛大熱烈であった。

しかし、社稷祭祀は君王だけの事ではなく、古代の各階層には祭祀活動があった。帝王軍将宰相の場所では、社稷壇と呼び、平民百姓が神を祭った場所では、土穀祠と呼んだ。

金文は「社」字を     と書き、神を祭る事を表す    「示」、成長する植物を表す    「木」、大地を表す 「土」の組み合わせからなる。金文の社は   を書く。籀文の社は   を書く。篆書の社は   を書く。『周礼』の規定では、25戸の人家毎に、土地神を祭拝する社壇を立てなければならず、各社壇には土地土壌の成長に適合した樹木を植栽する。「社」字の本来の意味のゆえんは、村落田畑の独立した樹木や村落の巨大の土墩(盛土)を指して、万物を育む土地神を表して、祭祀の時に人々の崇拝に供した。後に、人々は土地爺(神)が外面にさらされ、風雨が打ちつけるのを、恐縮に考え、その土地爺に祠を立てて、彼に土地嬭(奶奶)を見つけた。この風俗は中国でも農村部では今なお残存している。


威海石島巨石陣:この近くに7000年前の新石器時代の遺跡が発見。

原始社会では、各家毎に祭壇を設立し、土地を祭祀し、また天神を祭祀できた。奴隷社会になると、天を祭祀するのは帝王の特権であり、「天子」だけが自身の家に属する「天壇」を建設して、堂々正々と天を祭祀する事が出来た。社会階級の違いにより、祭祀の対象も区分され、天子は天を祀り、諸侯は先王を祀り、百姓は祖先を祭った。

「祖」の本字は「且」で、祭祀を表す。早期の甲骨文     、  、 は原始の塚墳で、台基の上の高く聳える土盛を象る。造字の本義は、土塚の隆起した先祖墳墓である。晩期の甲骨文は祭祀を表示する「示」と先祖墳墓を表示する「且」の組成で、「祖」の祭祀意義を明確にしている。造字の本義は後世の人が拝む先祖の墳墓である。

「且」の「祖先墳墓」の意義が消失してから、金文では更に「示」を加えて、別に「祖」を作り代替した。金文「祖」は絹製品を表す「糸」   で祭祀を表す      「祖」とつかむことを表す「又」の組み合わせて、造字の本義は、衆人が一堂に会いして、絹製品で祖先を祭祀する事である。

古代人は祖先を埋葬した墳墓を「且」と称し、祖先に提供した家廟を「宗」と言った。

宗、早期の甲骨文「宗」の    「宀」は房屋を表示し、  「示」は拝祭祈祷を表示し、造字の本義は、祖先を崇拝祭礼する祖廟である。中期の甲骨文の「宗」は早期の甲骨文の 「一、天を示す」を  「二」と書き、「天上」を表し、蒼天に向かって拝礼することを強調している。晩期の甲骨文の「宗」は   の両側に   「八(兮)」を加え、もこもこと祈祷を読み上げ祭祀している。

古代の宗廟はまた太廟とも言い、帝王が祖先に供奉(ぐぶ)する宗廟である。歴代の帝王は全て、君主の権利は天帝から授けられたもので、祖先から受け継いで獲得したもので、これによって家と国は一体であり、宗廟が国家の象徴と見られたのである。君王が宮室御建設するには、まず左宗右社(先祖と地祇の制度に従って前面に祖廟を建てる必要がありあった。明清時代になっても、依然この制度は継承された。現在も北京の故宮の門前の右側にある中山公園は、元は皇帝の庭園であり、左の労働人民文化センターは、元の明清時代の太廟であった。

皇帝の宗廟を太廟と呼び、周朝以降の「士」以上の官吏は「家廟」を建てることができた。家廟の祭祀は太廟ほど荘重ではないが、同様に人手を煩わせる。『清史稿·礼志」は、清朝の三品(官位)以上の官員は、四季の家廟祭祀ができ、四から七品の官位は、春、秋の二度、八、九品の官員は春季一度の祭祀ができたと記す。だがそれは小官位であっても、家廟の春祭の儀式も大変繁雑であった。湖北麻城の『鮑氏宗譜』は、清代鮑氏宗族の家廟大祭は、序立に従い、位に就き開始し、「犠牲の)毛血を蒐めることを経過し、旗号を挙げ、鼓楽を作し、神主(=位牌)を迎え、香燭を上り、祭酒を酹(そそ)ぎ、祝文(祝詞)を読み、犠牲などを進献するなど、儀礼のおわりw、退席まで93項目の式序が記されている。

現代中国人の祝祭日は、大多数が古代の祭祀と関係があり、清明節(春の先祖祭祀)、端午の節句、中秋の節句、越年祭まで、殆ど例外がない。古くは『論語』に孔子と子路、冉有(子有)、曾点(曾子)、公西華の対話に現れる。対話では、「孔子は彼の四人の学生に人生の理想を述べさせ、最後に曾子と「祓禊(みそぎ)」に関する発言があり、孔子先生が大いに賞賛している。

祓禊の習俗は次のようである。殷商時代に始まり、春の三月になると、人々は群れをなして、水辺に到り祭祀し、また薬草を浸した水で沐浴し、このようにして身体を清潔にして、疾病と邪悪不祥のものをお祓いした。

この系列の漢字には、修、攸、悠、倏、滌、涤などがある。「攸」の甲骨文の字形     は、ある人    が川辺で腰をかがめて沐浴し、別の人が手    に「如意」   という木の棒を入浴道具として、前面の男性の背中をさすっている様子である。金文  「攸」  は基本的に甲骨文の字形    を継承しているが、前面で聖水で沐浴する人物は大変小さく書かれ、背面のあの手は大きく描かれている。ある金文     は両者の間に    「水」を加えて、川での行事を示している。篆書     は金文の水     を誤って    「丨」に作るが、これは偏旁の「亻」の縦書きの由来となっている。秦の始皇帝の封禅で泰山に残した小篆石刻には小篆の異体字    ではまた元にあった   「人」を省略して、   「水」を強調している。このようにして、字義は大きく変化して、「河川での水浴び」から「老人が棒で河を渡る」に変化した。隷書の    「攸」は篆書の「攴」     は   「文」の旁を反転した「攵」と書く。そのため、漢代の『説文解字」の解釈は「攸は、水を行くなり」としている。

徒歩で水を渡る時の心境を想像すると、川を渡る時は必ず気を付けて、緊張状態を保たなければいけない。『孟子・万章上』にこの種の心境を「攸然として失す」と称している。これに関係する成語には、利害攸关(危機に瀕す)、生死攸关(生死に関わる)、生命攸关(存亡にかかわる)などがある。「老人が杖をついて川を渡るには特に注意が必要」という意味を伝えるには「攸然として失す」を用いるべきである。しかし元々の「川に下りてゆっくり沐浴する」様子をどのように表現すれば良いのか。その方法には篆書では「攸』字の下に「心」を加えて、緩慢、従容の様子を表示した「悠」字を別造して「菊を東籬の下に采リ、悠然として南山を見るの悠久の名句を書いた。

「攸」字の下に、「彩」から借用した「彡」字を加えた、「修」は「形や色を加える」意味がある。小篆の「修」の、字形は「攸」と「彡」との組み合わせで、「丁寧な清潔さ、ゆったりした装飾、心を込めた美化」を表す。これから引き伸ばして「改造、整理」の意味があり、現代社会では、修理工場、修理組立、道路修理者などがある。目に見えるものは修理でき、肉眼が見えない政治も修正できる。『三国志・諸葛亮』中に一篇『隆中対』に、諸葛亮が劉備に「外に孫権と結好し、内政を修理す」は一例である。

早くも漢代には、漢字の簡略化の過程があった。この時期、「脩」と「修」は組み合わせて「修」という一文字となった。篆書の「脩」の「攸」は木片を表し、下の月形は干し肉を表している。つまり「脩」字の本地は「細切りの干し肉」であり、「礼記」の「降りるを屨(賦)ムと説い、坐に昇りて脩(ほしじ)する」は、古代人が部屋に入るには靴を脱ぎ、部屋に座って食べるのは干し肉であることを言う。干し肉は細切りのものであるので」「修」字には「形状が細長い」の意味がある。人の身体がすらりとしていることを形容して「修長」というが、『戦国策・斉策』の「鄒忌は八尺有余を修む」の如きである。東晋の書聖王羲之の『蘭亭序』には「此の地崇山峻嶺、茂林脩竹有り」の名句がある。

晋代になると、祓禊(みそぎ)の祭日は三月三日と固定され、また「曲水流觴」の儀式もあった。この日になると、人々は往々にして親しい友人らと春遊して、曲がりくねった川辺に座って、酒杯を上流から流して、流れのままに酒杯が止まった人が杯を取って飲酒に興じた王羲之の『蘭亭序』には、この酒宴の遊楽の盛況が記載されている。

祓禊の起源は、殷商王朝の祖先「契」の誕生と関係がある。伝説の五帝の第三月位の帝嚳に、簡狄という名の妃がいた。明日仲春の日に、関狄と妹が河水で沐浴すると、何処からともなく天空より美しい三本足の玄鳥(ツバメ)が現れ、くちばしの中の五色の卵を川の中に落としていった。簡狄と妹は争って卵を拾って、一口で呑みこんでしまった。しばらくすると、簡狄は妊娠した商族の始祖「契」を生んだ。契は成長してから、虞夏部落連盟の司徒を担当し、大禹の治水を補佐し功があり、「子」姓を賜い、封地「毫」を獲得した。その後、契の子孫は繁栄して、強大な部落に発展して殷商を建国した。

祖先を記念するために、後世祓禊祭礼の時に「曲水に精進や卵を浮かべる」習俗があり、これは鶏、鴨、鳥の卵を煮て水中に流して、下流で待っている人達が家禽の卵を水中から拾い上げて食すというものであった。これから、始め祓禊祭には「子宝」を求める寓意があった。また別説に祓禊祭には「招魂」の意味があると言う。水辺での招魂は、古代人は死後も霊魂が存在すると考えていて、招魂は一種の再生に対する追及である。しかし、魏晋以後は、「三月三日」は、ようやく文人の集会や宴飲遊楽の祭に変化し、その原始的な祭祀の内容は再び人々に意識されなくなった。