山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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ユダヤの豪商ジマーマン

煙台山前には、南北を縦貫する商店街〜朝陽街がある。文献の記載によると、朝陽街は1872年に建設され、煙台の有名な外国企業や商店の大多数がここに集まり、通りに中国語と英語の看板がここにある。その独特な異国風情が国内外で有名である。現在の朝陽街の幾つかの英語名に体現されている。例えば、初期の〜朝陽街は、Broadway Street(大馬路)と呼ばれ、この外にGipperich Street(吉卜力街)とZimmerman Street (施美門街)街路名があった。吉卜力街の名は朝陽街盎斯洋行の早期的オーナーギッペリの名字に来源し、Zimmerman Street 名の中のZimmerman は誰なのか、ずっと未解決の謎であり異常な神秘である。複雑な商業のネットワークである。筆者の考証によると、朝陽街の英文名字Zimmerman はユダヤ商人と直接の関係がある。このユダヤ商人は、近代煙台の滋美洋行のオーナージマーマンである。多いに多国の商売を成して、山東省の黄牛などの特産品を煙台からこれらの国家に販売した。ジマーマンの対外貿易は活況(かっきょう)を呈した。1905年前後に、朝陽街の盎斯洋行の初期の店主ギッペリヒは煙台を離れた。この時、朝陽街で商売で最も繁栄した商人は、滋美洋行のオーナージマーマンであった。これで、「吉卜力街」の街名は朝陽街の北の入り口に刻まれたが、ただし人々は「ジマーマン」の名称を朝陽街の新名字とした。

ジマーマンは、1872年ロシアシベリアの赤塔市のユダヤ人家庭に出生した。父親は赤塔(ロシア東シベリア)軍隊の医院で作業をして、

ジマーマンは9人の子供の内の2番目であった。その妻ヴィラもユダヤ人であり、1878年にネルチンスク(尼布楚)に出生した。ジマーマンは初めロシア国籍であったが、後にアメリカ公民に帰化した。初期にジマーマンはユダヤ人として帝政ロシアで凌辱(りょうじょく)された。特別なのは1881年にロシア皇帝アレキサンダー2世が刺殺(しさつ)され、ロシア内戦と相まって、多数のユダヤ人が虐殺され、多数のロシア系ユダヤ人がロシアから逃亡した。20世紀の初めまでに、約300万人のユダヤ人が米国に流入し、米国最大規模の第三回ユダヤ人移民の大きな風潮になった。ジマーマンと妻及び一部の親戚(その中には彼妻の兄も同時に含まれその妹の夫ユダヤ人カッツ一家も含まれた)が、1895年ごろにアメリカに移民し、1898年8月18日に26歳のジマーマンは旧金山(サンフランシスコで)アメリカ公民に帰化し、ロシア籍ユダヤ人からアメリカ籍ユダヤ人となった。おそらくユダヤ人の内心にある商業が起因して、ジマーマンは商業冒険の生涯を開始した。彼は太平洋西岸の中国に目を向けた。

1897年、ジマーマンは妻のヴィラと息子のヘンリーと共に中国にやって来て、北部の海港都市である煙台に落ち着いた。彼は朝陽街に外国商店〜滋美洋行を開業した。滋美洋行は主に商業代理、対外貿易業務を経営した。間もなく、その妹の夫カッツも滋美洋行に加入した。1904年ごろに、カッツは滋美洋行を離脱して門戸を独立し、煙台で開治洋行を開始し、経営範囲は滋美洋行と相似し、同様に商業代理を行い対外貿易業務を行った。煙台に在った期間、ジマーマンは自分とロシア、アメリカとの関係を利用して、多いに多国な商売を成して、山東省の黄牛などの特産品を煙台からこれらの国家に販売した。ジマーマンの対外貿易は活況を呈した。1905年前後に、朝陽街の盎斯洋行の初期のオーナーギッペリヒは煙台を離れた。この時、朝陽街で商売で最も繁栄した商人は、滋美洋行のオーナージマーマンであった。これで、「吉卜力街」の街名は朝陽街の北入り口に刻まれたが、ただし人々は「ジマーマン」の名称を朝陽街の新名字とした。

    煙台の国際刑事事件に巻き込まれる

滋美洋行が煙台での対外貿易の商売の勢いが盛んになった時、国際刑事事件の案件に関与して、間接的に滋美洋行は暗然と煙台を離れ青島での発展に向かった。1904年(光緒30年)2月、日露戦争が中国東北地区で勃発した。同年8月17日(中国7月7日)、ドイツは「ダス・キリガン・へんべ」を、フランスは海軍武官「グ・ウェイウェイ」を派遣して東北観戦に向かわせた。11月、観戦に出かけたドイツとフランスの海軍の2人の兵士が、ロシアの兵士の護衛の下、2人兵士がロシア兵の護衛で旅順から船に乗って山海関へ向かった。彼らは旅順で開治洋行のサンパンを雇用して、ジマーマンは通訳ロシア人ヘンキンと開治洋行が雇用したサンパン船の舵取り合意で「舵取りが煙台に戻るのを待って、ジマーマンの手紙でカッツに洋銀80元を取った。結果、運送途中で世界を震撼させた刑事事件が発生した。途中、開治洋行が雇用した舵取りはドイツ、フランス水軍両兵士が「山海関の航程は」馴れておらず煙台に向かうと断言した」。サンパン船は煙台方向へ走り出した。老鉄山の水面に至ると、風雨が大いに興り、舵取りは錨を下ろして停船を求めたが、西洋人は許可しなかった。舵取りは「西洋人の言葉を知らず、手で試して論争が長引いた」。双方には厳重な紛糾(ふんきゅう)が発生した。翌日深夜、ドイツとフランスの水兵2名が熟睡(じゅくすい)している時に、数名の舵取りが「西洋の役人を押し倒し、ロシア兵に組み付いて、三名を水没させ、盗品を分け合った。」。ドイツとフランスの水軍兵士は「旅順から船に乗るので、未だに取調べ場所に居ない」。煙台のドイツ国領事館とフランス国領事館は登莱青道台何彥に助けを求め、巡査の協力を請求した。
この西洋人の案件について、登莱青道台何彥は怠慢(たいまん)することがなかった。すぐにこの案件の主犯3名は逮捕され裁判され(他の多くは逃亡)、盗品は押収された。1905年、登莱青道台で3回の審査が行われた。駐煙台のドイツ国領事レンズとフランス領事グオリン、ロシア領事チーダマンドは皆登莱青道台は皆登莱青道署(役所)に至り審理した。開治洋行のオーナーアメリカ人カッツ、ロシア人(実 アメリカ人である)ジマーマン、通訳ロシア人ヘンジンは皆届け出、三人の主犯と対面した。ドイツとフランスの領事は各々中文翻訳を連れて来て、傍らに自白を記録した。尋問が終わると、登莱青道台何彥は北洋大臣直隷総督袁世凱、山東省巡撫楊士驤に罪状を報告した。光緒31年3月28日(1905年5月2日)、袁世凱と楊士驤は「人命尊重と関係交渉」を理由として、両名は連名で、光緒皇帝に「その凶悪の状況を追跡し、強盗殺人と異ならず、もし厳しく懲罰に従わなければ、警告だけでは不足である。この犯罪などの強盗は首頭に関係なく計画を依頼されたので⋯⋯、施行を請求する」と上奏した。
この世界を震撼させた刑事事件が終結してから、ジマーマンとその妹の夫カッツあるいはこの事件の舵取りは皆煙台付近の人で、彼らは自身の安全に用心できなかった。またこの時期にドイツ租界の青島は商業貿易に於いて徐々に煙台を上回り、ドイツは外国人投資家に青島への投資を奨励する政策を採用しており、1906年以降、ジマーマンとその妹の夫カッツは滋美洋行と開治洋行を煙台から青島へ移転した。嘗て煙台で繁栄していた滋美は煙台からようやく消えていった。この後滋美洋行は煙台で1913年頃迄持続した。

青島で最初のアメリカ商人ボス

ジマーマンが煙台を離れ青島を到着した後、滋美洋行の事業は相変わらず活況を呈した。この時点で、彼の3人の息子は、彼のビジネスの左腕と右腕に成長した。ジマーマンには3人の息子と3人の女児がいます。長男のヘンリーはアメリカで生まれた。次男アルフレッドと3男のマレーは、それぞれ1903年と1904年に煙台で生まれた。3男のマレーは、その後、青島で和記洋行青島公司総経理、英国青島総領事エックフォードの娘ジェラルディンと結婚した。3人の息子の助けのおかげでジマーマンの事業は活況を生んだ。ジマーマンと彼の息子達は、大規模な多国籍貿易グループを設立した。全盛期には、サンフランシスコ、ニューヨーク、シカゴ、ウラジオストク、ニコラエフスク(廟街)、煙台、青島、秦皇島、天津、済南、上海、ハルビン、ウランバートル(庫倫)などには支店や代理店を置き、上海に本社を設立した。しかし、ジマーマンの事業で最も成功した場所はまた青島であった。
青島における滋美洋行の対外貿易事業は、主に黄牛、牛革、冷凍卵の輸出です。1920年代には、青島は国内肉牛の主要な輸出港となりました。記録によると、青島で畜産物の輸出を営むのはロシア企業であり、主な商社は世多、志美、海茂、華順などの洋行と米商開治洋行であった。これらの洋行は、大規模な牛小屋、飼料倉庫、獣医、仲買人(なかがいにん)などのより完全な人員組織を持っています。1915年7月、日本商原口信吉が経営する義生商社と日本に牛肉を供給契約を結んだ。1918年、フィリピンのマニラに駐留する米軍と牛肉の供給契約を結んだ。1918年4月だけでも、二つの洋行が青島港から15,000頭の黄牛を輸出した記録されていた。また、日本と米軍の二つの大きな市場を獲得し、大きな利益を上げていた。
輸出入業務に加え、他の産業にも進出しています。1924年、長男ヘンリーとアメリカ人アダムスは青島に青島万国スポーツ協会を設立し、ヘンリーは体育館の総幹事を務めました。万国スポーツ連盟は青島で競馬場を経営しており、ほぼ週に1回、ヘンリーの巨額の利益を上げています。1926年、青島市普集路に中米冷蔵庫会社を設立。1934年、滋美洋行が投資し、青島と山東省で最も高い建物東海ホテルを建設した。ホテルは、中国北部で最大かつ最も設備の整った休日のホテルでした。当時、中国人と外国人は青島東海ホテルに滞在することを象徴と見做していました。一方、北平路(現在北京路)に青島映画館を建設し、200人以上を収容し、欧米の映画を上映した。商業に大きな成功を収めた滋美洋行は、青島で最も成功した西洋の実業家の一人としてジマーマン家族を作りました。
ジマーマン家族は青島市牟平路と福建路に大邸宅を建てました。家族の人口が多すぎて、人々は彼らの関係を区別できないので、彼らの家族の男性をジマーマンと呼び、青島でナンバーワンのアメリカ人として認められています。
1941年12月8日の太平洋戦争勃発後、滋美洋行は日本軍によって押収されました。ジマーマンの長男ヘンリーは日本軍に拘束された。三男の家族全員が、終戦まで濰県の強制収容所に拘束されました。ジマーマンは、1943年2月に青島で71歳で亡くなり、青島のユダヤ人墓地に埋葬されました。戦後、ジマーマン家族のメンバーは次々にアメリカに帰国しました。その以来、滋美洋行とジマーマン家族は膠東ビジネスの歴史において不可欠な歴史的記憶となっています。

著者 煙台 魏春洋