山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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私は中国で戦って「在中日本人の反戦同盟の膠東支部」の憶い出(一)

中国人は8年間抗日戦争に行った。私は6年間、日本のファシストの野蛮な侵略に対抗して中国人と並んで戦う膠東で過ごしました。最終的な勝利まで。現在と過去を思い起こさせると、過去が鮮明に記憶され、記憶は今でも新鮮で深く感動しています。この経験は現在書き留められており、読者に捧げられています。中国と日本人の人々がより親密度で友好的になり、覇権主義との戦いに貢献するように。


中国を侵略するために軍隊に徴兵された:

1918年、私は大阪府松原市三宅町の一般市民の家族で生まれました。父の小林熊太郎は、「一ニ三料理屋」という簡潔な小さなレストランをオープンしました。時刻で父親を助けることに加えて、母親は家事と子供たちの世話をしなければなりません。私には8人の兄弟姉妹がいて、男の子の中で3番目です。兄と弟はどちらも学校に通い、家でたくさんの仕事をしています。学校から家に帰るときは、母の家事を手伝わなければなりません。

1937年7月7日、日本軍は中国の盧溝橋で武力侵略を開始しました。中国人民は怒り、日本に対する全面戦争が勃発しました。日本政府は、急ぎ、日本国内で侵略のための兵を集め、中国の戦場に送り込め始めました。1938年の初め、私は召集されました。この時、私は大阪工業学校の醸造専攻2年生でした。
父親は、私が卒業後、レストランの仕事を手伝うこと私規模していましたが、私は軍隊に入れられてしまったので、彼の規模は叶いませんでした。軍隊に入った後、私は、日本帝国陸軍大阪十二師団の下等兵になりました。
日本軍の訓練は、物凄く厳しかったです。朝早く、起床の号令が鳴ると、五分以内に軍装に着替え、銃と弾薬を携えて訓練場に集合しなければなりませんでした。しかも、完全武装をして10余里を移動しなければならず、誰も隊から遅れることは許されませんでした。宿舎に帰ってからは、掃除を綺麗にし、便所の掃除をし、自分の場所だけではなく、上官や先輩の便所や部屋の掃除もさせられました。食事は15分で済ませる必要がありました。先に教官や先輩が食べ、その後に自分らが食事を摂りました。時間になると、食べたりなくても、食べるのをやめて食堂から出て行かなくてはなりませんでした。
朝と午後は軍事訓練の時間です:射撃、戦闘、白兵戦(はくへいせん)⋯。訓練を担当する教官は青木と呼ばれ、20年軍齢のベテラン軍人で、訓練要件は極めて厳しい。
ある時、実弾の射撃中に、別の兵士と私が数発の弾丸を逃しました。彼は、慎重に発砲せず、戦闘で敵を殺さず、帝国軍の名誉を屈辱し、「銃を償う(つぐなう)ように」と私達に頼んだことで私達を叱りました。銃台のライフルに敬礼し、大声で言います「タイプ38ライフル、申し訳ありません。私は一生懸命射撃を練習せず、攻撃に失敗し、帝国軍の名誉を傷つけました。お願いします。許してください、次回は間違いなく一生懸命頑張ってください。」「お詫び」の後、教官は私達を激しく非難した:「将来、敵を殺すことはできません。敵はあなたを殺します。このレッスンを思い出させるために永遠に、それぞれ更に20本の平手打ちをします。「日本軍の罰則によると、兵士と私はまっすぐに向かい合い、20本の平手打ちをし、顔が腫れ、涙が胃に飲み込まれた。平手打ちの後、教官は再び尋ねました:“あなたは覚えていますか?”「覚えています」と私達はすぐに答えなければなりませんでした。グループドリルでは、軍の歌を歌いながら練習しました。軍隊は嗄声(させい)になるまで歌い、疲れ果てるまで練習しました。
夕食後、教官は新兵にファシズムの教育を行い、武力を濫用する軍国主義的な思想、外国に対して民族的に憎悪(ぞうお)する大和魂、忠君愛国の武士道精神を植え付けた。我々に天皇に忠誠を尽くし、大日本帝国に誠心誠意地からを尽くせと要求したのである。戦場では命懸けで作戦を行い、もしも負傷したリ捕らわれたりしたならば、「大和男児」の気概を保ち切腹自殺をして、国のために身を捧げなければならない。
また、ネギ際には気をつけの姿勢をしながら大声で歩兵操典、典範や軍人勅諭などを暗唱させられた。日本軍人の慣例に基づくと、古参兵が新兵に対しての教育権を持つ。彼らは将校の忠僕(ちゅうぼく)である。新兵が入隊すると古参兵の教官に割り当てられ、古参兵の命令を聞き、将校や古参兵の仕事を遂行する。銃を磨き、衣服の洗濯し、布団を畳み、革靴を磨く等等の事をする。
私は元々は学生なので、このように厳しく機械的で屈辱的な軍隊生活はとても適応できなかった。軍隊の苦難と懲罰に耐えられなくて、半年足らずで2回も病気になって倒れたが、彼らは休息を許さず、病気を押して訓練に参加せねばならなかった。
半年余りの軍事訓練を経て、徐々に兵舎生活に慣れ、一人前の軍人となり、秋山旅団に配属され、中国への出征の準備をできた。

捕虜としての新しい人生

1938年11月、私は大阪港で両親と兄弟に涙の別れを告げ、中国へ向かう6000トンの軍艦「赤誠」号に乗り込みました。“お大事に⋯⋯”と母は泣きながら、それ以上声を出せなかった。父は涙ながらに、“戦場で自分のことを考えるのではなく、もっと天皇に尽くせ”と言ってくれた。この別れは、永遠の別れとなった。それ以来、大切な家族には会っていない。
航海開始から3日後、軍が中国の青島港に上港すると、私は機関銃射撃手の訓練班に移され、日本の軽機関銃やカタパルトの射撃を学ぶことになった。訓練コースには、訓練生が現場で操作するための軽機関銃20丁とカタパルト4台が用意された。
私はここで4か月勉強し、1939年に卒業した。機関銃の射手上等兵に昇進して、煙台に駐留している日本軍の独立歩兵第19大隊に派遣された。間もなく異動となり、文登に駐屯して都市防衛に当たった。1939年の晩秋、日本軍は掃討作戦で農村へ赴き、昆嵛山の麓にある小さな村落の外で八路軍の第五支隊所属の東海部隊に囲まれた。戦いはとても激しかった。機関銃の射手である私は、戦闘中に弾丸を撃ち尽くしてしまった。私は機関銃を抱えて山奥に逃走したが、追い上げてきた八路軍の兵士に石で頭を殴られ、気を失った。目が目覚めた時、私はハ路軍の担架に横たわっていた私は捕まえられたのだ。眼鏡をかけた、八路軍の一人が日本語を用いて穏やかに話しかけてきたが、私は目を閉じて相手にしなかった。この時の私は、日本の軍人が捕虜になるのは最も屈辱なことであると思っていたのだ。更に中国軍や民間人で、日本軍の焼き尽くす、殺し尽くす、奪い尽くすという政策(三光政策)を心底恨まない者は居ないので、捕らえられた私が死ぬ事は疑いようがない!
そこで密かに決定しました:天皇のために戦い続けることはできまませんが、ただし日本の陸軍の一名の兵士として、むしろ殺されるよりも、天皇に忠誠を誓い、決して降伏したくないことを願った。!私は不遜(ふそん)な態度をとって、彼らに「お前らは私を殺せ、私は死を恐れないぞ」と答えた。
秋の末の(煙台)昆嵛山地区では、夜間は大変冷えた。八路軍からは私に防寒の綿のコートと心温まる(あたたまる)食事が送ってくれ、私は目もくれず、「武士道の精神」で強情(ごうじょう)を張った。
八路軍の駐留地で、私は非常に清潔な部屋に割り振られ、八路軍の仲間が何人が訪ねてきました。その眼鏡をかけた男は日本語で自己紹介し、「私の名前は張琨と言い、敵工科科長である」と言いました。それから彼は人々を私に紹介しました。「この方は王文、五支隊政治委員である。この方は政治部部長の仲㬢東である。」仲㬢東部長は親切に私に言った: 「八路軍へようこそ、あなたは解放されました。私達の八路軍は捕虜を優先的に扱い、あなたを殺害できません。あなたはよく食べ、安心して休んでください!」この話は張琨の傍に立っている人によって、日本語で私に翻訳してくれた。
王文政治委員と仲㬢東主任が去ってちょっとすると、更に数人が、劉芳棟、老喬と布谷が入って来た。まず布谷は最初に私に紹介しました。「私の名前は布谷、日本の北海道出身であり、君と同様に、秋山旅団の兵士であり、一ヶ月以上前に俘虜となった。八路軍は私をとてもよく扱い、我々日本軍隊の人よりも穏やかである!」と紹介した。それから張琨、劉芳棟、老喬が私とおしゃべりを初めました。彼らは完全に日本語を使いました。その後、張琨は、元の名を張志遠、日本の東京帝国大学の留学生で、彼は大変知識があり、流暢な関東弁を話した。彼らは私に日本軍での私の階級は何ですか、そして私が機関銃の射手だったのかと尋ねました。私は敢えて本当の話をせず、普通の兵士として何気なく答えました。張琨は微笑みながら、「では、なぜ機関銃を抱えて逃げたの?」と聞いた。私は「機関銃は日本軍の貴重な武器なので、八路軍に渡すことができないからだ」と答えた。
彼らは私に多くの道理を教えてくれ、彼らはその種の真面目な姿勢と温和な態度を見ると、日本軍隊の捕虜に対する残忍さとは全く違っていた。これから、私はご飯を食べ初めた。彼らは特別に私にご飯と、毎食二品のおかずを作ってくれ、私も遠慮なく、お腹の皮を緩めて一食尽くした。八路軍の面の軍服は私も着けた。
然し私は心中秘かに巡らせ、私は逃げる機会を求めていた。最初に八路軍が夜間に換屯した時、私は本当に逃げる機会を得た。だが人間地に馴れず、ひたすら夜明けまで走り、めちゃくちゃにどこを走ったのかも分からず、お腹も空いてグーグー鳴った。私は小さい村のはずれの旧民家の中庭に忍び込み、何か食べ物を盗もうとしたら、地元の人に見つかった。地元民は私の来ている八路軍の服装を見て、和やかに、「お仲間よ、あなたはどこの部隊かね?」と尋ねた。この質問は、私が中国語が話せないというぼろを出した。地元民は数名の民兵を呼び尋問した。私は形勢不利と見て、撤退して逃げ出したら、民兵に追いつかれ、私の八路軍の外套が脱がされると、内着の日本の黄色いラシャの軍服が露出したので、彼らは私を五支隊の司令部に連れて行った。
仲㬢東主任は笑いながら私に言った「逃げないで。逃げ去ることはできないし、もしも逃げても、良い結果にはならない。」この一言は、私に日本軍の規律の恐怖を呼び起こした。八路軍の捕虜となった兵士は、日本の軍隊に戻ったとしても、また、君は作戦不利で、捕虜となっても自殺する勇気もなく、皇軍の栄誉を傷つけたと、処刑罰を受け、運が悪ければ銃殺となる軍事裁判の審判を受け、そして国内の親や、家庭に恥辱(ちじょく)をもたらせる。日本の軍隊で、軍官が兵士に対し、先輩兵士が新進兵士に対する虐待、叱責する恐ろしい戦地での生活は、全く身の毛のよだつものであった。だがまた、もしこの異国の土地に留まり、孤独で、寂しい生活を過ごしたら、永遠に祖国、我が故郷に戻れず、私の父母や、兄弟姉妹に会うことはできないだろうと考え⋯⋯私は、望郷の涙を流し、私はこの巨大な苦痛に痛ぶられ(いたぶる)た。
私が最もあれこれ考えあぐねた時に、八路軍は暖かい手を差し伸べ、私を苦痛の海から救ってくれた。彼らは生活の処々で私に配慮し、私の賄い(まかなう)の標準も五支隊首長同様に引き上げてくれた。また日本の軍国主義がなぜ生まれたのが、日本の統治者が発動した侵略戦争が、日中両国にもたらした巨大な災難を、深くわかりやすく説明した。国際主義の道理を説明し、狭隘(きょうあい)な民族主義の思想を放擲(ほうてき)するよう求めた。彼らは、延安の「中国の日本人反戦同盟本部」日本人の仲間らが、侵略戦争に反対するため積極的な活動を進行していると、教えてくれた。私は日本人が天皇と「聖戦」に反対するとは信じられなかったが、張琨は「反戦同盟」編著の『日本同胞へ告げる書』やその他の書籍や新聞を私に見せ、また私に小林多喜二の『蟹工船』、『不在地主』などの作品を読ませた。私は、中国人民と日本人民は皆戦争を願わず、この戦争は日本の軍閥が発動した侵略戦争であり、日本の民衆が侵略戦争に反対するのは正義の行動であることを、ようやく理解して、問題の分析と是非の区分する能力を始めて学ぶことができた。
五支隊の王斌司令員、王文政治委員、仲䂀東主任、孫端夫団長などの幹部が、皆捕虜の私に会いに来た(これらの幹部は、日本軍であれば大佐以上の階級であったろう)。彼らは兵士と同じ軍服姿を着け、兵士と一緒に仕事をこなした。彼らは最低限度の生活を過ごし、使用したのは原始的な武器で、世界上最も頑強な敵に対して、過酷に侵略戦争の反対を進行した。崇高な目的のために、自分の祖国を守り、極右国家主義(ファシスト)の侵略に反対したこと、私に大きな驚きと、最大の感動を与えた。
彼らの頑強な意志、おおらかな気持ち、温和な態度、真摯な感情に深く感動し、私に深刻な印象を留めた。八路軍は確実に一般的な軍隊とは異なっていた。この時、私は自分が上等兵で、機関銃の射撃手が本当の身分で、またいささかの日本軍隊の情況を、全て五支隊の指導者らに告白した。

山や川を抜けて延安へ

1940年の旧暦の正月、八路軍山東縦隊第五旅団が一つの戦闘で2人の日本人兵士を捕らえた。渡辺三郎という名前の陸軍軍曹の指揮官であり、ある拠点の分遣隊で見習い少尉の将校を務めた。彼は山形県出身です。もう一人は横田一郎(後に成山一郎と改名)で、山形県出身です。八路軍の同志は私と布谷を彼らに見舞いに行き、八路軍が捕虜を優遇する政策を彼らに教えました。渡辺三郎はランクが高く、資格も高く、武士道の精神も強い。彼は私と布谷を不当に非難した:日本人の骨がなければ、彼の命令に従うように頼まれた売り手だった。横田一郎は正直で、八路軍にとても感謝しているが、彼は渡辺の部下であり、同郷でもあるため、渡辺を最も恐れ、敬意を払い、なすがままにした。
その後、別の戦いで、大阪出身の吉尾次郎という日本人兵士を捕らえ、高校を卒業し、眼鏡をかけ、話すのが大好きではなく、八路軍の教育を比較的迅速に受け入れました。
ある日、張琨科長は上司から延安の「在中国の日本人の工農学校」に留学し、私達の意見を求めるために、上司の指示を伝えました。私達の殆どは同意、渡辺の一人だけが何も言わず、彼に多くのイデオロギー的な仕事を与え、彼は山東縦隊の政治部で勉強することに同意しました。
その後、私は、彼が延安に行くのを嫌がったことを知りました。そして、彼は、彼が捕らえられた後に生きていることを日本軍に知らせたくないので、彼は、この地域の日本軍は、より熟達していたので、延安に行くのを嫌がりました。
1940年10月、渡辺、吉尾、横田、そして私(布谷は病気でいかず)を劉芳棟が率い、小隊に付き添われて、膠済鉄道封鎖線を通って魯中山東縦隊司令部に到着しました。敵工部の首長は私達を受け入れ、「ようこそ!数日の休息を取り、延安に行く準備をしなさい。「そして、新四軍から、魯中と魯南から捕らえられた日本兵を紹介してくれた。
司令部警備隊の小隊に護衛され、敵工部の日本語の侯幹事に付き添われて、私達十数人の日本兵が延安に向けて出発し、渡辺は行き過ぎず、敵工部に留まった。
河南省、山西省、陝西省を通過し、反日基地を通過し、日本軍が占領している地域を潜入し、津浦と平漢の二つの封鎖線を通過し、黄河を横断した。1941年3月末に、彼は中国革命の聖地である延安の陝西省北部の黄土高原に到着しました。五ヶ月間、私達は戸外に住み、山や川を旅しました。私達全員が黒くて痩せていて、足に血性水疱(ぼうそう)があり、顔に埃があり、疲れ果てており、物を運ぶ2頭のロバは殆ど歩くことができませんでした。

在中国の日本農業学校での勉強と生活

延安に到着した時、私達を護衛するためにチームを率いていた姜連長は、私達を八路軍の政治部門の敵工部に引き渡して、私達と別れました。私達を護衛し、交通安全を確保し、あらゆる場所で私達の生活を気遣ってくれた八路軍の仲間達、私達が隠れていた昼間、侯幹事も革命的な話をしてくれました。彼らから無敵の力を見た。私達には深い友情を築いており、そして彼らと別れることは悲痛でした。

私達は宝塔山の窑洞に住んでいて、黄土高原のように、私達は初めて見て、特に目新しさを感じました。私達と一緒に暮らしているのは、新四軍と晋察冀辺区から来た十数人の日本兵でした。彼らは私達よりも少し早く来て、ここで最初の教育してを受けています。
私達のリーダーは岡野進です。秘密のために、私達は彼の正体はわかりませんでしたが、その後、彼は日本共産党の事務局長であり、共産党国際指導者の一人である野坂参三であることを知りました。彼は中程度の身長で、八路軍の制服を着ており、大きな声で、エネルギーに満ち、常に闘志を持っていました。
1941年5月16日、在中国日本人工農業学校が八路軍大講堂で開校式を行った。中国共産党、八路軍本部、辺区政府の代表者が開会式に出席し、スピーチを行いました。岡野進校長がメッセージを述べました。
彼は「中国国内での日本人工農学校の成立は、日本人や中国人民にとって重大な意義を持つ。日本帝国主義の中国に対する侵略戦争は、中国人民の不幸というだけではなく、日本人にとっての不幸でもあった。しかしこの状態は、日本軍国主義の失敗と共に必ず終わりを告げるだろう。」と言った。
「日本人民と中国人民は兄弟であり友達であり、子々孫々いつまでも仲良くしなければならない。」彼は我々に勉強に励み、プロレタリア国際主義の意識を高め、中国人民や八路軍と一緒に日本ファシズムの侵略戦争に反対するよう求めたのである。
反戦同盟の代表も集会で演説した。最後は学生全員で宣誓(せんせい)を行い、革命理論の学習に励んで国際主義の意識を高め、中国人民と一緒に日本の侵略者に抗う(あらがう)ことを表明した。学習課程は、連共党(布)史、社会発展史、マルクス・レーニン主義、日本問題、中国の言語、政治経済学、哲学、政治の常識、中国問題、時事や文化科目などである。
岡野進は、共産党の歴史と日本問題について教えくれました。彼は枣園に住んでいて、重要な仕事を引き受けていますが、週に4回学校に来て、私達に講義をします。
授業の最初の週は日本語で話し、第二週は先週の同じ内容の授業を中国語で話し、議論は中国語、即ち悪い話し方をし、練習しなければならない。私の中国語はうまく話せませんが、日本語の半分は中国語と混ざり合っています。解放日報と軍事政治誌は、時事政治と中国語の学習のための教材です。中国語の新聞や雑誌を読むのは、中国語を話すよりずっと難しい。
ここでは、普通の日本兵、伊田祝男の英雄的な行為についても学びました。「満州」関東軍に駐留する兵士だった伊田氏は、日本軍が中国東北部の人々に対して恐ろしい残虐行為を犯したと嫌悪(けんお)感を抱いていた。1933年、彼は10万発の弾丸やその他の武器を東北反日連合軍に送った。彼は森の中に武器を置き、親愛なる中国の反日ゲリラ同志:「私はあなた方が共産党のゲリラであり、帝国主義であり、またプロレタリアートのインターナショナリスト(無産階級国際主義者)であることも知っている。私はあなた方に会って、共同の敵を打倒しに行きたかったが、ファシストの敵陣に包囲され、逃げ道もなくなったので、自殺を決定し、私は十万発の銃弾と武器をあなた方に送るために運び込んで、松林に隠蔽した。どうか侵略軍に狙いを定めて打ってくれれば、私は死んでも、革命精神は長く残り、神聖な共産主義の留まる事業は早期成功するであろう。伊田助男の高尚な共産主義の情操、プロレタリアの覚悟と歌うべき泣くべき英雄の事跡は、我々に極めて深い印象を留めた。誰もが彼の国際主義の精神には大変深い感動を受けた。彼は我々日本人民の優秀な児女に恥じず、我々は、ファシズムを打倒し、中国人民、日本人民やアジア各国各民族と人民を解放することを、彼から学習する決心をした。
我々はまた、中国共産党中央委員会の幹部や八路軍の官兵と共に、生産労働に参加し、荒地を開墾してピーナッツやトマトを植えた。私の農業は、農村で生まれた横田や橋本には叶わなかったが。しかし私も家では雑用をこなしていたので、吉尾の眼鏡のインテリアよりはましであった。
最も大変なのは糸紡ぎ(つむぐ)で、技術が必要な上に、また根気も必要で、我々日本兵士にとって、これは作戦よりも大変困難であった。一定期間の訓練で、概ね習得したが、当然ながら、質量は落ちた。

余暇には、我々はスポーツ活動を行い、綱引きや、球技の試合をした。。最も興奮したのは、日本で最も普及したスポーツである野球をすることであり、殆どの人が皆できた。毎日夕方になると、我々は宝塔山の麓、延水河畔の練兵場に行き、グラウンドを区画して、野球をします。八路軍の仲間の多くが私達の野球の試合にとても興味を持っていて、みんなが見に来てくれました。中央政府の首長も私達が野球をしているのを見に来て、その時には我々さらに力が入った。
私達はここで連級(中隊クラス)に基づいていた扱いを受け、毎月3元の手当てが支給された。或いは、みんな普段は粟(あわ)ご飯や白いマントーに、毎食肉有りで午前は一汁一菜、午後は一汁ニ菜を食べ、週に一度は白米や餃子を食べたりした。
餃子は自分で包むのだが、みんなで寄ってたかって、我先に慌ただしく乱雑に包んだ結果、餃子は不恰好に仕上がった。中国の同志の手助けもあり、私達はようやく餃子の包み方を身につけることができた。
中国共産党中央委員会と八路軍の首長の心遣いや、教員の育成と教育で、私達の思想意識が高まっていった。岡野進同志が「在華日本人反戦同盟」への参加を呼びかけ、私と横田、吉尾、浜仲間らと申請志願書を書いた。大山一夫の紹介により、1941年の11月に「在華日本人反戦同盟」への加入が承認された。
1942年の5月に、第一期の学生である私達100名以上が卒業した。卒業前に各自で思想の鑑定を行って、反戦同盟本部の指示に従い、前線に出て八路軍と肩を並べて戦い、日本軍に対する政治宣伝を展開する決意を表明した。前線に行きたくない者は、学校に残り第二期の学習に参加した。
軍行前(出発前)に宴会が挙行されたが、当時の延安の物資条件は極端に悪かったが、八路軍の中間は最大の努力を尽くして、宴会に買い揃えたものは相当豊富であった。皆で一堂に集まり、延安醸造の酒を飲みつつ、互いに乾杯し、励まし合い、勝利を祈願した。

再び膠東へ帰る:

反戦同盟本部は私の要求を根拠に、私を山東省へ戻して工作を展開する事となった。私は校長の岡野進と仲間達に別れを告げ、八路軍の敵工部の仲間たちとも別れ、延安から離れて、22名の反戦同盟の戦友と山東省に向け出発した。
八路軍本部の一個連隊の護送で、我々は陝西、山西、河南を経て、黄河を渡り、平漢路(現京広路)の封鎖線を越え、小道を進み、山道に変え、不測の事故もなく、二か月余りで山東に入った。微山湖西側にある魯西根拠地で数日休み、津浦路(京滬鉄道の一部)の封鎖線の敵隊の状況を把握して、ある夜に津浦路を密かに渡り、70里余りの行軍(こうぐん)を強行して、平邑県の解放区に下り落ち着き、最後は山東軍区の司令部の駐屯地五蓮県馬耳山の根拠地に到達した。
山東軍区政治部主任の萧華と山東反戦同盟の担当大山一夫は我々の学習の帰還を歓迎し(大山同志と浜中儀一は一足先に山東に戻っていた)、反戦同盟の全仲間を励まし、ファシズム戦争に反対するため、日中両国の人民解放事業のために多くの貢献をした。私は延安から戻った22名の加盟者を代表して決意を表明した。
山東軍区の工作部では私が率いる吉尾、横田、橋本など六名の加盟者を膠東へ戻り工作を展開し、そのほかの加盟者を魯中、魯南、魯西などの地区へ分配することを決定した。膠東五支隊からもう一個小隊を派遣して我々を迎えてくれた。
敵隊は膠済鉄道両側に数里(1〜2キロメートル)ごとにトーチカ(特火点)を築いており、我々は真夜中に敵兵の見張りが緩やんだ時に、二つのトーチカの間を通過した。ある夜霧の立ち込め月明かりのない夜陰(やいん)に、我々は封鎖線をこっそり越えようとしたら、偵察担当の交通係が駆け寄ってきて、我々に早くうずくまって隠れろと叫んでだ。

その時、遠くから「ゴロ」「ゴロ」という音がして、だんだん近づき、だんだん大きくなり、眩しい(まぶしい)光が鋭い(するどい)剣のように夜霧を突き破り、敵の装甲の警ら車が来た。私達は呼吸を止めて、警ら車の通過を待つと、皆はやっと一息ついて、一人一人迅速に前進した。
我々を護送した張隊長はは、この時荷物を運ぶロバのいななきを最も恐れ、飼料袋をロバの口にかぶせて、五頭のロバの蹄は草藁を使って包み込んだ。戦闘の舞台が鉄道を超えて間もなく、付近の村から戌の吠え声が聞こえてきた。戌の吠え声はロバと共鳴するので、我々はロバの口をきつく掴んで塞いだ。トーチカの敵はロバと戌の吠え声を聞いて、慌てて大声をだした。「誰だ?何をしている?」続いて弾丸を打ち込んできた。
我々の隊列の三分の一がまだ鉄道を通過しておらず、空もまた暗く、鉄道も歩きづらく、どんなに注意しても音を出さないことは難しく、特に口を塞いだロバが、さらに憤怒の威嚇(いかく)の声を加えた。この時、左右両側のトーチカの敵兵が、一斉に機関銃を我々に向け射撃した。敵兵の荒狂で、盲目的な掃射の中を、張隊長は私の手を強くひき、戦士達は我々の仲間を保護しながら、匍匐(ほふく)前進した。敵兵の機関銃が一瞬止まると、我々はすぐさま駆け足で前進し、ようやく膠済鉄道を通り越えた。点検すると、三名の八路軍戦士が軽傷を負っい、仲間の吉尾次郎が近視の眼鏡のせいで転んで怪我をしたほかは、全て問道がなかった。
根拠地の夏荘に到達以降は、我々は今回の行軍を総括して、盟友七名は八路軍の我々に対する関心と保護に深い感謝を表した。今回の行軍で、我々は八路軍の戦士の高尚な資質と革命の犠牲精神を更に理解し、七人は、反戦工作を良くする努力を加えることを決心した。

反戦同盟の膠東支部の成立:

1942年秋、我々七名の日本人は離れて一年余りの膠東へ帰ってきた。膠東の大地に、豊作の様子を見てうれしくなった。第五支隊司令部駐屯地で、王文政治委員、仲𣌀東主任、張琨科長と孟凡同志が我々の学習帰還を熱烈に迎えてくれた。一年余りこれらの年長の首長に会っていなかったので、今回の面会はまるで家に帰ってきて家族に会えように興奮した。
我々は首長達と親しげに話しをした。私は首長に延安での学習と往復途中の状況を報告し、首長らは我々の思想覚悟が多いに向上し、中国語が大変流暢になったことを称賛した。于得水団長が「おやおや、君の中国語は私よりうまいじゃないか」と冗談交じりに語った。首長らは私に当時の膠東の軍事情勢を説明した。膠東の抗日軍と民衆は許世友司令官の指揮で、1941年に勝利した場所で五か月の半投降の戦役が終了し、すでに趙保原、蔡晋康等十数個の大小の投降派部隊を、膠東の中心地区から駆逐していた。この勝利は、国民党反動派が湧き興した第二次反共の高潮を挫き(くじく)、彼らの親日投稿の陰謀を粉砕(ふんさい)し、膠東の反共投降の軍事力量を弱体化させ、抗日の根拠地を拡大した。牙山を中心として、東、西二つの海域が一片に連なり、抗日の武装は倍増し、人民の抗日の熱気は空前に高潮した。この一大な好形勢に、我々は大変喜び勇み立った(いさみたつ)。
私は延安反戦同盟本部の紹介状と指示を張琨科長に渡し、共同で如何に早く反戦同盟膠東支部を成立させ、日本軍に対する宣伝活動を展開する研究した。張琨は前後して捕虜とした江川、松下、斎藤の三人を私に紹介し、私に彼らの教育工作と、彼らの反戦同盟への加入を獲得を求めた。この三人に対する教育作業について、我々は具体的な分業をした。江川は日本の軍曹で、長年隊列にあり、武士道精神の影響を根深く受けていて、日本軍では武威を称揚し兵士を威圧していた。分業した橋本(石田)が彼の教育に行った。橋本は性格が率直で、せっかちで大胆で、江川に一括されるとすぐ怒り、江川を部屋に一人で閉じ込め、懲罰とした。江川に会いに行くと、彼は激しい顔をひきつらせながら一言もしゃべらない。と話しかけると、口を開けて、「国の裏切り者は、天皇に仕えず、まだ人に会う顔をしている。」と罵倒(ばとう)された。橋本と私は、彼があまりに無作法で理屈を聞かないと見るや、まず生活の世話、衣食住の世話、故郷の話をすることから始めました。日が経つにつれ、徐々に顔が解放されていき、家には父、母、若い妻、息子がいて、家族に会いたいのだと話してくれた。私達はその場を借りて、八路軍の政策について、中国人は戦いたくない、日本人も戦いたくない、戦争は中国人と日本人に大きな災いをもたらした、というようなことを話し達。日本の侵略軍は、中国人を焼き殺し、女性を強姦(強姦)し、略奪し、あまりに惨め(みじめる)であったので、どうしてそれを続けることができるのか分からない。江川は「それをやった者達は、八路軍が首を殺してくれるんだろう!」と尋ねた。私は「やった人は中国人民に罪を犯したことになるが、八路軍は日本の侵略軍と日本の帝国主義政府に対抗するだけで、一般の日本人には対抗しない」と言った。「我々の反戦同盟の立場に立ち、侵略戦争に反対し、償い(つぐなう)をすれば、八路軍と中国人民はあなたを許すでしょう。」と述べた。そして、反戦同盟のプロパガンダを見せると、橋本は延安での勉強のことを話した。
斎藤と松下には、吉尾と横田を割り当てた。二人とも、日本の貧しい農民の息子で、中国で戦うために徴兵され、戦争に疲れ、教育を受けやすくなっていたのだ。私達は、彼らと一緒に食事をし、家族のことを話し、ポーカーをし、反戦同盟本部の宣伝や、「在日同胞への手紙」を一緒に勉強し、天皇への忠誠の弊害から脱する手助けをしました。彼らは私達からある程度の教育を受けましたが、祖国や愛する人への郷愁が強くなるにつれ、これは侵略戦争がもたらした災難であり、侵略に対する正義の戦争を行うことによってのみ、中国と日本の人々、そして私達自身の苦しみを取り除くことができると啓発しながら、彼らを同情し慰めたのでした。
数日後、斎藤と松下がやってきて、「学習教材を読んで戦争の真実が明らかになったので、中国と日本の国民の側に立って侵略戦争に反対したい、反戦同盟に参加させて欲しい」と言ってきたのです。吉尾二郎が願書の記入を手伝い、私と横田が入盟の紹介役を務めた。

1942年10月、「中国在住日本人反戦同盟膠東支部」が姜格庄で成立大会を挙行した。膠東区党委員会、膠東区行政役所、八路軍膠東第五旅団、五支隊はいずれも代表者を派遣して参加した。山東軍区政治部と敵工部からの祝電が届き、大会は張琨科長の取り仕切りで行われた。仲𣌀東主任は大会で講演した。彼は「我々共産党と、八路軍は日本人民と日本の軍閥に対しては厳格に区別している。我々が反対しているのは日本のファシストの侵略であり、日本の人民は日本のファシスト侵略軍の犠牲者である我々は日本人民に同情し、被害した日本の兵士を解放します。日本人民と多くの日本の兵士は既に我々が信頼する友人となっており、小林清など反戦同盟の仲間は、侵略戦争に反対することで大きな成績を作出しあげ、彼らは正義を維持する日本人民の代表である」と語った。

王文政治委員は演説の中で、日本の共産主義者である岡野進が率いる在中日本人反戦同盟が、中国共産党や八路軍に対して正義の支援をしたことについて謝意を表明した。彼は中日両国の人民に「足並みをよりいっそう揃え、関係をよりいっそう綿密にして、反侵略で最終的勝利を勝ち取るために、共に奮闘しよう!」と求めた。
その後の支部選挙で、私は支部書記に選ばれた。布谷は組織委員で、石田は宣伝委員となった。
私は反戦同盟膠東支部と全盟員を代表して宣誓(せんせい)をした。誓詞は次の通りである:

我々は新たな職務に励み、また八路軍や共産党と緊密に連携し、中日両国人民の解放事業のために勝利するまで闘う。どのような残酷な闘いに直面しても決して屈服せず、ひいては我々の生命が犠牲になっても名誉と誇りに思うのである!

大会の雰囲気は熱く厳粛であった。最後に斎藤と松下は彼らの加盟申請志願書を読み上げ、支部員全員が一致し、挙手で通過を賛成した。
全体の参加者が熱烈に拍手と歓声をあげた。
反戦同盟の膠東支部の活動が順調に進化するように祈願します!
日本のファシストの打倒を固く決意しよう!
大会後、于得水、回東、林一山、孫端夫、王介、辛冠吾等のリーダーが私と握手の祝賀をし、「我々は本日はあなた方の反戦同盟膠東支部の成立を特別に祝賀し、あなた方一人一人の同盟者が中国人に対する正義の援助に、敬意を表したい。」と言った。私は「我々は八路軍の仲間が我々に進行した偉大な国際主義教育が、我々に日本人民が進むべき道を明らかにしてくれたことに、感謝すべきです。」と答えた。これらのリーダーの仲間は私が捕虜となってから、皆大変私を気に掛け、いつも私を教育し、私を進歩させた。私が戦闘に在った年月で、密接な戦友を結成した。

日本軍への政治宣伝攻撃の実施

反戦同盟の膠東支部の成立後、私達は積極的に準備しながら、社会発展の歴史、日本問題、中国語などを研究するために同盟メンバーを組織し、敵の冬の掃討の前に日本軍に対して強力な政治宣伝を実行するため、反戦同盟の影響力を拡大するための宣伝攻撃。政治部の女同志達は、私達が作った日本文の宣伝に、キャンディーを詰めたお慰問袋をたくさん作るのを手伝ってくれました。
11月、敵工部の劉芳棟同志と渡辺三郎が山東軍区の政治部に戻った。渡辺は、膠東に駐屯している日本軍の秋山旅団、特に中・下級将校の裏話に精通しており、特別に反戦同盟の活動を行うために膠東に送り返した。渡辺の到来は、膠東反戦同盟の活動を大幅に強化した。
軍管区が10月の社会主義革命の日を記念して開催された2日目に、私達は別々に出発しました。劉芳棟同志と渡辺は横田、高橋、田中らを西海域に導き、孟凡同志と私は吉尾、斎藤、橋本、松下らを東海域に導いた。
我々は文登県の泊石荘まで走り、文登城の地下工作者の韓世華同志に連絡を取った。年配の韓同志は日本軍で飼育係を担当していて、彼は私に紹介した:「街の中には一小隊の日本軍と、一大隊の偽軍(日本への協力軍)が駐留し、日本軍の小隊長伊藤は、昨年日本の陸軍の士官学校を卒業してから中国に来たが、まだ大きな戦闘には参加していなかった。この人は若くて強く、文登県内の駐屯守備に不満足で、いつも愚痴(ぐち)をこばしたが、兵士の管理には締まりがなかった。我々はこの状況を踏まえ、年長の韓同志に宣伝(プロパガンダ)品を持たせて密かに市内で配布させ、市内の敵人の練兵場には、我々も宣伝品と慰問袋を放置した。翌日、韓同志から「日本軍の兵士は慰問袋の飴(あめ)を食べ、宣伝品と八路軍の通行証を密かにしまい込み、便所や厩舎(きゅうしゃ)で秘かに盗み見した。」と、報告があった。見たところ我々の仕事は進展があるようで、皆大変盛り上がった。私と孟凡同志は状況を調べて、鉄は熱いうちに打てと決定し、当夜日本軍に向かって大声で宣伝工作を行った。

もう晩秋の季節となり、夜は寒風に襲われた。我々と我々を保護する責任者の八路軍の小隊は寒冷を顧みず、まっすぐ文登城に向かって走った。私は捕虜となる前に文登県城に駐屯して防衛に当たったので、この一帯の地形や人工物に詳しかった。
日本軍のトーチカの近くに身を隠した後、私はトーチカのあの丘の後ろに腹這っ(はらばう)て、ブリキのメガホンを持って、日本語でトーチカに向かって「トーチカに人はいるか?」と叫んだ。「いるぞ、お前はどこから来たのか?」と日本軍の兵士が返事をした。このようにして、双方は対話を開始した。「私は小林清で、反戦同盟の者だ。」「何?反戦同盟か、ならばお前らは敵人であり、お前らは八路軍に買収されている!」
「違うぞ!我々反戦同盟は本当に日本人の立場にあり、侵略戦争に反対しているだけで、あなた方の敵ではない。私は過去には秋山旅団の兵士で、文登県城を駐屯守護していたので、私はあなた方の大先輩だぞ」。
「それならばあなたは何をしにきているのか、我々はあなたの来るのを望んでいない。あなたが過去の戦友だと思えばこそ、すぐに戻れば、死なないぞ。」
「今日は天気も良いが、私は特にあなた方と話をして、あなた方が、中国の土地で亡くなり、あなたの家族を悲しませることがないように、、やって来た。」突然トーチカの中で一騒動が起こった。小隊長の伊藤が我々の話を聞きつけ、ほかの兵士に「お前らは誰と話しているのか」と質問した。ある兵士が慌てて責任を逃れようと、「小隊長に報告します、これは反戦同盟の小林清である、我々は彼と話をしておらず、彼が探してきたのである」と説明した。
小隊長は「機関銃を構えて、射撃準備をせよ」と命令した。そこで、私は小隊長に心理戦を展開した。「なあ、話しているのは誰だ?あなた方は何がしたいのか?話になっていないじゃないか!」
「私が誰であろうと関係なく、あなたに私の機関銃を味合わせるぞ」
「あなたの口ぶりは将校のように聞こえるが、しかし少尉以下である。」
「ちぇっ、そうだね。あなたは深夜に騒ぎを起こしに来ているが、日中に来て正々堂々と我々と一戦して、そのような幼稚な宣伝に従事しないでください。」
「私の宣伝が幼稚なのか、それとも君の頭が幼稚なのか。あなたは日本人民の本当の正義行動を解っていない。」

眼鏡をかけた人は小林清
「君は国を売る者で、元から国家のための着想がない。君はいつごろ祖国を出たのか?」
「昭和13年(1938年)に出た。」
「もし君が本当に日本人ならば、八路軍に投降して反戦同盟の事をするべきではなく、すぐに戻れば、我々は君を許して、軍事法廷には送らない。日本軍人の名誉は保証するという、約束は守る。」
「君たちは日本人のファシストの弾除けになって、自分の家族を破滅する以外に、何をすることができるのか?我々は日本人のために本当の解放を求めていて、覚悟のある日本人民は侵略戦争に参加すべきではないのだ。」
「何を寝言(ねごと)を言うのだ。我々の今回の戦争は、東アジアの民衆を解放し、大東亜共栄圏を建立するのだ。」
「君は軍閥の決まり文句を復唱している。侵略戦争は日中両国民に莫大な苦痛をもたらし、日中両国の人民は連合して、侵略戦争に反対すべきなのだ。」
「君は日本人なのか。君は何のために外国人の話をするのか。」
「我々は本当の日本人だ。」
「君は中国人だろう。日本には君のように士気のある人はいない。」
私の傍にいた橋本は、居た堪れず(いたたまれず)、大声で伊藤をしっかりつけて「君はめちゃくちゃである。なぜ人を叱るのか、全く礼儀もない。」と言った。
伊藤は狂った(くるう)ように「ここから出なければ、銃で打ち殺すぞ。」
私は「誰が怖いものか、君が下りてくるならば、私が招待しよう。」と言った。伊藤は「我は軍人であり、天皇陛下の発布された聖勅に従い闘うのみであり、お前とは政治を語らない。」と怒鳴った(どなる)。
かまうものか、我々は古い戦友だ、戦略は戦略で、話してもかまわない。
伊藤の話をやめ、彼は聞き呆け(ききぼける)ていた兵士に射撃を命令し、瞬く間に機関銃とライフルが一斉に鳴り響いたが、弾丸は高く飛んで、擲弾筒(てきだんとう)で発射した砲弾も我々の後方に離れ爆発した、吉尾と斎藤は怒鳴ったが、銃声が圧倒した。実際これ以上宣伝できなかったので、我々は多くの慰問袋、宣伝品と果物を城外の路上に放置して、撤収した。
明け方、我々は泊石荘に戻った。皆疲れて眠く、顔を洗い、ものを食べ、午前は眠ったが、斎藤と吉尾は初めて政治宣伝に参加して、とても興奮し、少しも疲れず、談笑が収まらなかった。
後に、我々はまた栄成県、石島、牟平県姜格荘などの拠点で政治宣伝の攻勢を展開し、大変良い効果を収めた。ある時、文登県の日偽軍(日本軍と日本占領地域の中国人兵)が大水泊一帯に転出して食糧を奪い、民夫を捕まえたが、一名の日本軍の兵士が我々の宣伝品と八路軍への通行証を以て我々に投降して来て、地元の民兵は彼を東海軍の分区司令部へ送った。我々の反戦同盟にまた新たな力を持ってを増加させた。膠東の人々は我らを見て、親しみを込めて我々を「日本八路」と呼んだ。
11月末に、我々は五支隊司令部に戻り、渡辺らは五旅団司令部に行き、情報を報告し、経験を総結し、次の一歩の工作を研究した。渡辺の書いた宣伝品は大変容易に日本軍の兵士に受け入れられたのは、その方針が強力で、中には姓名を入れたものもあったからで、例えば「✖️✖️✖️✖️君、君の年老いた(おいる)ご両親は、もう風前の灯火で、彼らは君が戻るのを待ち望んでいるのに、君はどうしてご両親と離れた異郷で死ぬことができるのか?「✖️✖️✖️✖️君、あなたの年若い奥さんと幼い子女は、昼も夜も君を思い、君が彼らの団欒(だんらん)に戻るのを楽しみにしている!」などである。
我々の日本語宣伝物は、敵工部と反戦同盟が孔版(こうはん)印刷したもので、後に需要の増加により、政治部は人を派遣して『大衆日報』の印刷工場と協議して、印刷を請け負わせ(うけおう)、反戦同盟は慕村正雄を派遣して印刷の連携作業を請け負わせた。

小林清手跡

12月、膠東日本軍の冬季掃討工作が始まり、我々は反戦同盟の仲間と政治部、敵工部と一緒に、積極的に反掃討闘争に参加した。我々は江川に対する認識不足で、彼の表面偽象に惑わされ(まどわす)、特に反掃討闘争では、我々は敵に対する政治宣伝の展開に忙殺(ぼうさつ)されて、江川の思想改造を蔑ろ(ないがしろ)にして、遂に彼は八路軍と反戦同盟の情況の機会に乘じて日本軍隊に逃げ帰った。だが間もなく、彼は青島の日本憲兵隊長中村大尉から死を「賜」ったと聞いた。江川は反戦同盟の情況を全て敵陣に語ったため、日本軍は以後毎回掃討の時、私と渡辺三郎の拿捕に懸賞する張紙を至るところに貼り出した。
1943年春、作戦の便、指揮の統一、地方武装の強化のため、上層部は第五旅団と五支隊の番号を廃止して、膠東軍区を設置し、許世友同志を司令官に、林浩同志を政治委員にすることを決定した。膠東軍区政治部と山東反戦同盟の指示により、我が五支隊と第五旅団の反戦同盟は合併し、組織は渡辺三郎が抗戦連盟の支部長兼宣伝部長、私が書記兼組織長となることに決定した。具体的な仕事分担としては、渡辺は西海地区を担当して、宣伝品の作成に専念し、私は東海地区を担当して、支部の組織化や教育・学習などに力を注いだ。行政的には膠東軍区政治部の指導の下にあり、敵工部と一緒に行動した。当時敵工部の科長は張琨と辛冠吾、幹事は孟凡、劉芳棟、宋健華、王介、王子陽、王志華、王一民、由履新、張越、聂鳴九、李一凡などの同志がいた。

機関銃訓練班

長期的な苦難の戦闘で、英勇の八路軍の指揮官は、敵人の手から大量の武器を押収され、装備した。戦力した武器兵器には、日本の武器も多かった。日本製の三八式小銃は比較的簡単で、八路軍の兵士も使いこなすことができたが、曲射機関銃はそう簡単には操れず(あやつる)、熟練した射撃に到達するのはより困難であった。このため軍管区司令部は、参謀本部と敵工部に対して、日本製機関銃の使用に関する講習を開始するよう指示した。訓練コースは、敵工部の張琨科長と参謀室の張参謀が担当し、私が教官となり、呉克華副司令官から中尉教官の階級を授けられた。また、この研修では、日本軍に対する政治宣伝の攻撃力を高めるために、簡単な日本語の宣伝文句を教えることも計画された。
準備期間を経て、牟平県埠頭西村で日本製機関銃の使用に関する最初の訓練が始まり、50人余りの訓練生は全て共産党員、軍区直轄部隊の分隊、小隊レベルの幹部であった。

私は日本の直射機関銃の照準、射撃、点射、連射、機関銃の分解と装填などの使い方を訓練生に説明しました。まずは示範動作(デマアクション)で、機関銃を分解して装着するところから始めましたが、総計で8分しかかかりませんでした。これは、日本の機関銃射撃訓練で習ったことである。当時は、布で目を覆い、3分で分解し、5分で元に戻すというルールでした。研修では、分解と積み込みに習熟することが求められました。
狙いを定めるのと射撃するは比較的困難なので、私は、最も集中射撃の手指の動作と感覚は、機関銃射撃の最難関の射撃であるので、練習に玉を使わず照準を定め、射撃し、射撃の要領を掌握する練習を計画した。その後実弾射撃を進めた。張参謀は私に、現在は弾薬の調達が比較的難しく、一発一発が大変貴重だと言ったので、そこで私は実弾射撃の訓練の進行を止め、学生たちを戦闘に行かせて鍛錬(たんれん)した。
日本での勧告の主な内容は「銃を捨てろ、殺すな」、「八路軍は捕虜を優待する」「君たちが八路軍に来て反戦同盟に参加することを歓迎する」である。当時、身に日本の侵略軍の危害を受けた中国人民は、日本語の学習には反感的であった。かようであっても、学生たちは侵略戦争に反対する多くの日本軍兵士を味方にし、戦争の早期に収束を勝ち取るために、日本語の学習は特別真剣で、すぐさま日本語の勧告を掌握した。日本語を学ぶには、私は皆に日本語の仮名(字母)から学ばせると、このように学べば早く発音も正解であった。当時軍区警衛営であった郭玉華同志は、日本語で叫んだそのような言葉を今なお覚えている。
私の講義は日本軍の方法で従って進行して、要求は比較的厳格であった。私は一般に中国語で講義をしたが、当時、私の中国語は比較的流暢であったが、軍事専用の語彙が大変少なく、一分には日本語を使って教えるしかなく、学生にはきっと困難をさせた。だが、学生たちは一生懸命に学習し、解らなければすぐ質問し、時には夜に宿舎で私に教えを請う(こう)たが、私は全てに答えた。
一ヶ月半の学習で、第一期の訓練班は収束した。終了時には、学生はもう皆比較的機関銃の射手として熟練していた。
続いて文登県葛家集で第二期の機関銃訓練班が開かれた。第二期の学生も百人近くで、元は学習を一ヶ月半の計画であったが、日本軍の冬季の大掃討が始められたため、訓練班は一ヶ月足らずで収束した。私と張琨科長は軍区に戻り、苦難の反掃討作戦を開始した。

苦難の反掃討

1942年11月、膠東の大地は、渤海、黄海から、雪混じりの、骨に堪える寒風が吹き、一陣ごとの厳しさの、日本軍の大掃討のニュースは、日に日に迫って来た。
煙青路と煙濰路では、日本軍の軍事行動が日増しに頻繁となり、車両は昼夜続いていた。日本軍は膠東に一万五千人余りの陸軍を寄せ集め、偽軍(中国協力軍)三万人余りを加えて、軍艦は一日中黄海、渤海の海面を巡行し、各港口を封鎖した。飛行機は頻繁に膠東半島上空を偵察し、掃射した。各拠点の日本の偽軍はちょくちょく出動し、労働者を捕まえ、食糧を掠奪し、家畜を掠奪し、封鎖溝を掘削(くっさく)した。煙台、青島などの日本軍は警戒を強め、ニュースを封鎖した。偽軍が駐留した拠点の、幾つかは日本軍により守備された。日本軍と偽軍は我が根拠地へ派遣の特務(スパイ)が増え、活動は狂気じみていた。日本軍はまた大量の武器弾薬を投降派の趙保原に割り当てて、互いに結託(けつたく)し、行動を連携した。日本の中国侵略華北派遣軍の最高司令官岡村寧次陸軍大将は北平から煙台へ飛んだ。日本軍の徴兵と軍将の派遣の多さ、動員の範囲の広さと準備時間の長さ、特に血に飢えて陰険で狡猾で悪名高いの岡村寧次が自ら煙台へ来て指揮に鎮座したことから考えると、膠東の抗日軍民に厳しい試練を受けたことを示していた。
許世友司令官は山東軍区から戻ると、すぐさま林浩政治委員と敵情を研究し、反掃討戦総指揮部の編成を決定し、海陽・莱陽周辺地帯で掃討緊急動員大会を開き、反掃討戦計画を手配した。
煙青路の西側の十三、十四、十五団と西海、南海、北海軍分区を活動、堅持区とし、煙青路の東側の十六、十七団を、軍区直属隊と東海区軍分区の活動、堅持区とした。
我々の反戦同盟と敵工部も分担し、張琨、劉芳棟と渡辺は半数を帯びて煙青路以西の大沢山、牙山一帯の根拠地で活動し、孟凡、李丕升、老喬と私、吉尾、橋本など、また朝鮮の同志が、煙青路より東の昆嵛山一帯の根拠地で活動した。我々と一緒に活動したのは虞棘同志が率いる膠東国防劇団の戦士達である。軍区警衛隊は二個隊を派遣して我々を保護した。
行軍前に、我々は最大限度の軽装にして、一切不必要な物を捨てて、かばんも持たず、綿のコードと携帯食と弾薬だけを持った。私の延安時代の貴重な写真と重要な材料も苦悩と共に壁に隠さざるを得なく、後に日本軍に家ごとに一緒に焼き払われたのは非常に残念であった。女性の同志と老弱傷病人も皆人民服に着替えて、一緒に行動した。司令員や政治委員などの首長が乗馬したほかは、そのほかの同志は皆馬を土地の者に預けて隠してきた。

敵人の大掃討が始まった。過去の敵陣の掃討は多く「分かれて前進し、集中攻撃」しあるいは平行推進する「櫛削り」戦術であったが、今回は、残酷で毒々しい「引き網封じ込め」の戦略を取った。日中密集した敵軍は軍旗を振り鬨(とき)の声をあげ、一村も逃さず、一丘も漏らさずに、一歩一歩揃って近づいてきた。日本軍は18歳から40歳の青壮年男子を見つけ次第に、捕まえて、縄で縛って束とし、背中に番号を書いて、隊列を編成し、敵艦に押し込め、日本や満州へ労働力として運送した。家屋は焼き払われ、食糧や家畜は略奪された。夜間、敵陣は野営して、峠(とうげ)や要路は全て制圧し、点火すると、数百里に渡る隙間なくびっくりとした火の網を構成した。
11月末になると、敵軍の包囲網は昆嵛山にまで迫って来た。昆嵛山は南北百華里(華里=500m、百華里は50km)余り、東西約九十華里(45km)ほどで、地形は起伏に富み、多くの峰々が互いに重なり合い覆い隠すように連なっている。山塊主峰の泰礴頂は海抜923m、山東省東部の最高峰である。我々は昆嵛山で敵軍の火の網に囲まれることになった。敵軍の野砲(やほう)と輜重(しちょう)は山地に入れず、兵力を東西と南側三方に集中させ捜索するしか手立てがないようだ。八路軍の同志達は全員山東省東部の出身、昆嵛山塊の地形は熟知している。「敵が東なら我は西、深山谷深く潜伏す」である。我々は国防劇団や兵器工場の同志達と各個に散開して個別に行動を取った。昼間はこの洞穴でやり過ごし、夜間に別の洞窟に移動。日々の暮らしは困難を極めた。
ある山夼の中で我々は軍区司令部と東海軍分区、それに張琨科長に遭遇した。軍区司令部から我々は軍区司令部と行動を共にするように、と言う命令であった。この時から、我々は自信を取り戻した。幾日も山肌に命を削られ(けずる)、日々の苦労は筆舌に尽くし難く、同志の中には意思が砕け弱音ばかり吐くものもいたが、今この時悲観が楽観に変わったのだ。
この時、七・八百名の閉じ込められた土地の人が、四方八方から我々に湧き出て来て、期待の眼差し(まなざし)で彼らの包囲を突破するという期待を我々の身に託した。八路軍と庶民は血肉で連なり、困難な時ほど庶民に関心を持つ必要があり、軍区の司令部は、包囲を突破し、民衆の一斉の突出を掩護した。
司令部は包囲突破を計画した。張琨は私に「反戦同盟の同志と庶民は一緒に移転している。」と言った。私は戦闘突破の参加を要求するしたが、張琨は決定できず、私と一緒に賈若瑜参謀長に指示を仰ぎに行った。賈参謀長は私に「君の任務は反戦同盟本部の交代をきちんとやることだ。」と言った。私は私は機関銃の射撃手で日本式の軽式機関銃の使用には慣れており、軍区の警衛部隊の数名の同志は私の教え子でもあり、私は彼らと共に戦闘に参加したい。」と言った。賈参謀長は私の戦闘心理を見て、私の要求を受け入れた。斎藤も駆け寄り戦闘への参加を要求したので、彼も機関銃射撃手であり、賈参謀長も同意した。それで、私は斎藤と部隊に入った。この群衆の包囲突破指導する部隊には四挺の日本の軽視式機関銃があった。ある王と言う姓の班長で、第一期訓練班の学生が、私に「小林先生、私とこの機関銃を使用してください。」私は喜んで「宜しい」と答えた。
日が暮れて来たので、賈参謀長は突撃隊に出発を命じた。静々(しずしず)丘を廻って谷間を出ると、敵の焚き火が、まるで凶暴な火龍のように昆嵛山を取り囲んでいるのが見えた。前方に敵がいたので、指揮官は我々に匍匐前進(ほふくぜんしん)を命じた。雪の上で体を擦り、微かな音を立てた。敵までますます近くなって、既にはっきりと火の光の照らす下で日本軍がよろよろと横になっていることを見て、哨兵は銃を持って火の山の遠くない所まで行ったり来たりしている。王班長と私と斎藤と他の機関銃の射手は、機関銃を立てて、緊張して、興奮して、落ち着いて射撃の命令を待つ。
命令が下った!機関銃、重機関銃、ライフル銃が一斉に唸り(うなる)を上げ、雨粒のような弾丸が敵軍に向かって放たれた。私は機関銃をしっかりと肩に当てて、王班長と一人の弾薬手はそばで機敏に弾丸を装填しながら、私は巧みに、そして激しく撃ちまくった。突撃隊の兵士たちは,ずらりと並んだ手榴弾を敵の集団に投げた。敵は虚を衝かれた(衝く)奇襲に呆然としていたが,兵士たちは天地を震わせて「殺せ」と叫びながら敵に飛びかかった。敵は死体の山を投げ捨て、這々の体(ほうほうのてい)で退却していった。我々は直ちに陣地を占領し、破れた網を両側に拡げた(ひろげる)。賈参謀長は落ち着いて司令部の警護部隊を指揮し,農民たちを援護して飛び出した。
敵は飛び引き、再び開口部を塞ごうとした。擲弾筒(てきだんとう)が機関銃陣地に向かって激しく射撃した。私は別の場所に移動して、敵の攻撃を断固として阻止して、司令部と農民たちに包囲を突破させて、司令部と農民たちに包囲を突破させて、突然一発の砲弾が私の身の周りで爆発して、起こった土の波は私の全身に落ちて、誰かに殴られたように私の腕に当たり、その経験は私に負傷したことを教えたのだ。その弾薬手も榴散弾で頭部をやられ、死亡していた。戦友の犠牲と自分の負傷が、更に私の怒りをかき立てて、私は自分が既に負傷していることをも忘れて、速やかに王班長と陣地を移動して戦闘を続けたのだ。真鬼子、ニ鬼子が次々と我々の陣地の前に倒れ、敵の攻撃は食い止められた。
司令部と農民たちは既に遠くへ飛び出したので、指揮官は我々の陣地から撤退し、司令部にくっついて移動するよう命令した。この時初めて傷口に痛みを感じたので、衛生士に包帯を巻いて貰い、安全地帯に移動し、民間人の服に着替えて、担架で後方の病院に運ばれた。
膠東の抗日軍民は互いに命の綱と頼み、隙を縫って、強敵と奮戦し、網囲いを突破し、抗日軍の根拠地を保衛し、抗日軍の生活力を保温し。膠東抵抗戦記の壮麗な篇章を書き残した。敵軍は兵将の損傷で、疲弊に堪えず、12月末には狼狽して、亀が甲羅に首を引っ込めるように、兵を撤収した。
今回の反掃討では、我々反戦同盟の横田一郎と朝鮮の老李同士が光栄の犠牲となり、布谷も重病が元で、反掃討時期の医療条件の悪化の情況の元、この世を去った。横田一郎は貧苦の農民の家庭に生まれた。彼は刻苦質朴でも、労働を厭わず、どんな困難な環境でも泣き言を言わず、民間人が包囲突破を掩護した時に犠牲者となった。彼と布谷は我々反戦同盟の忠実な戦士であり、彼らの犠牲は、我々の反戦同盟の一大損失であり、更に我々の日本のファシズムに反対する恨みを高め、侵略戦争への闘志を固くした。
1943年の初め、私は後方病院から政治部に戻った時、張琨同志は私に、私の反掃討戦中の表現を根拠に、日本の共産主義者同盟(日本共産党)への加入が承認され、私と同じく入党したものには渡辺、石田、吉尾などがいたことを聴かされた。私の入党の儀式は政治部で挙行され、これより、私は一名の共産主義戦士となった。

整風運動への参加

1943年、膠東区の党委員会は、中国共産党中央委員会と山東支部の指示決定を根拠に、膠東の各級党政府、軍隊で総整風運動が普遍的に展開された。
我々反戦同盟に存在する問道も少なく、日本軍が持ち込んだある種高官が下級を制圧するような、将校が兵士を見下げて侮る(あなどる)軍の気風は、まだ我々の心に残っていて、ある人は革命意識が低く、八路軍の待遇差、生活苦を恨んで、不平を発し、またあるいは、八路軍の力量と武器装備では日本軍隊を打ち勝てないと、悲観するものもあれば、家を思うばかりに、積極的に働かない、などなどであった。そこで我々は、反戦同盟は敵工科と一緒に、整風運動へ参加することを決定した。
渡辺三郎は、反戦同盟の支部長として、まず自己批判を作り、皆に真摯に意見を求めた。彼は「今日は思想検討会であり、私は工作に多くの欠点や誤りがあるので、皆さんは遠慮なく批判して、私の進歩を謀ることを希望します。」と言った。渡辺の文化水準は高く、仕事の能力もあり、自分にも同志にも厳格さを要求した。仕事の中でも特別なのは日本軍に対する宣伝工作で、的(まと)を射(得)ていて、得たものは大きな成果をあげた。しかし、屋や豪放なところがあり、同志をまとめる仕事ができず、仕事では日本軍隊式の命令スタイルがあり、彼は支部長として、反戦同盟の全体工作に影響があった。皆は渡辺の仕事に全面的な分析を加え、成績を肯定し、欠点を指摘したが、彼は愉快に皆の批判を受けた。
皆は吉尾次郎の政治宣伝工作で得た成績に対しても、充分な肯定を与えた。彼の文化も高く、編集した宣伝品の内容もよく、大変簡単に日本軍の受け入れを拡大した。吉尾が描く天皇裕仁と一部の日本軍閥の軍将は充分に本物に迫り、投降した日本軍の兵士の評判によると、多くの日本兵は皆吉尾が編集し、描いた宣伝品をこっそりと保管していた。ただし吉尾の小さなインテリア意識は比較的濃厚で、労働者や農民出身の同志とは思想的、感情的に程度の断絶があった、彼は故郷を思い、いつも悶々と楽しみなく、鬱々(うつうつ)と喜びもなく、個人の苦悶の中に沈んでいた。整風を経て、彼の変化は大きかった。

橋本は勇敢で、朗らか(ほがらか)で、性格は素直であった。彼の大声は、日本軍に対する宣伝発言で大変大きな作用を発揮した。彼は唱歌を愛し、日本各地の民謡はほとんど歌えた。ある拠点には熊本県の兵士が多く、彼はすぐさま熊本県の民謡『五木の子守歌』を歌ったが、この民謡は節がゆったりし、哀怨をある旋律(せんりつ)で、日本兵士の感傷的な情緒を容易に引き起こした。ある拠点では田舎が群馬の兵士が多く、彼はすぐさま田舎の十八番『八木節』を歌ったが、この民謡は兵士の望郷(ぼうきょう)の念を掻きたてた。橋本は特に中国の子供達が好きで、キャンプ場に着くと、すぐさま子供達と転げ回って、子供達も彼と遊びたがったが、整風が始めると、彼は批判と自己批判の意義があまり分からず、人が意見するのも喜ばなかった。彼は「あなた方が私をするならば、私も遠慮なくあなた方を、皆生き恥を晒していると批評します。最も良いことは我々皆が批評しないことが、更に良いのではないでしょうか。」皆の助けを経て、彼は認識を高め、自己批評も進行した。

斎藤、松下、慕村なども自己批評して、思想高め、態度が良いに行った。
私は、自分自身の考え方の変容を検討することに重点を置きました。捕虜になって当初は、武士道精神の毒と深い影響により、常に死を恐れない皇軍の精神を示し、傲慢で理不尽、八路軍の捕虜優遇の教育を受け入れず、八路軍に必ず殺されると思い、盗み出したのでした。ある時、八路軍が擲弾筒(てきだんとう)を押収したこともあった。当時の日本陸軍ではより高度な兵器で、八路軍の仲間は使い方が分からず、私に説明を求めて来た。狙いを定め、装填し、発射する方法を教えました。八路軍の兵士がたくさん集まってきて、私の動きを見てたし、五支隊の指揮官も何人か来ていました。この時、私は閃いたのだ。砲弾を装填したまま逆さまにしてその場で爆発させ、自分も八路軍の兵士もその指揮官達も殺して、天皇に仕えよう、と。今思えば、私は大きな犯罪を犯すところだった。その後、延安に留学して初めて、私の考え方やスタンスが根本的に変わりました。私をプロレタリア国際主義の闘士に成長させたのは、中国共産党の養育と教育であり、私は絶えず進歩できたのは、膠東区党委員会と膠東軍区の首長達の優れた世話と絶え間ない指導によるものであった。
見栄っ張り(みえっぱり)、褒められるのが好き、違う意見に耳を傾けないなど、私の欠点や失敗を同志達が真剣に批評してくれたのです。批判は正鵠(せいこく)を射ており、私はそれを快く(こころよく)受け入れた。
私の「思想反省」は1944年7月23日号に「大衆日報」に発表し、新華社通信膠部支社はそれに解説を加え、「小林清同志のこの思想反省は膠東整風運動の中で意識的な行われたものである。」「小林清同志の深い内省の基本的理由は、その政治意識にあり、その率直さと正直さにあり、日本ファシズムの悪と武士道の毒を認め、日本軍部の悪を告発する大胆さにあり、日本国民の最高の友- 中国共産党と八路軍を認めることにあります。

私はこの評論を読みながら、今後の仕事と闘争でより大きな成果を上げ、中国共産党と八路軍の訓練と期待に決して応えようと密かに誓ったのです。
整風(是正)運動を通じて、我ら反戦同盟の思想面は変貌一新し、存在していた些かの問題は基本的に解決し、少々混乱していた思想も明確となり、組織建設も強化された。同盟者達の革命的自信は強化され、反戦同盟の日本ファシストの侵略戦争への反対は、正義的で高尚な行為であり、勝利はきっと中日両国人民に属すと、認識した。
1943年6月、膠東臨時参議会の第二次会議が、海陽県の郭城で開催を成功した。私は中国滞在日本人反戦同盟膠東支部の代表として、参加を特別招待された。席上で、私は一日本人共産党党員として、一日本軍人の身分で大会に祝辞を奉献した。各界の人士と共に、更に各抗日階級、階層、人士の団結を更に進め、二年で日本のファシズムの打倒を勝ち取る決意を表明した。

道頭鎮での避難

1944年春、膠東の畑は緑に覆われていた。敵陣の春節(旧正月)掃討は我が膠東の軍民によって勝利で粉砕されたが、ただし根拠地も敵陣の破壊に遭遇し、急速な回復が必要となった。我々反戦同盟の任務は敵工部と共に、政治の攻勢を強化し、敵の占領地区の群衆に対する宣伝工作と敵対軍の瓦解(がかい)工作を勝ち取る展開を務めた。当時の国際形勢は我々に対しても大変有利で、我々の展開工作に利便があった。
私と渡辺二人はそれぞれ一宣伝隊を預かり、軍区司令部から出発した。私は吉尾次郎、橋本、また朝鮮の同志小朴と老金を伴い、北海区軍司令部に来て孫端夫司令員に合った。彼は情熱的に我々を招き入れ、また招遠県道頭鎮の日本軍は特に猛威を振るい、いつも庶民焼き払い掠奪し、望楼兼トーチカから歩行者を無差別に射殺し、また若い女性は掠奪し、陣地で凌辱(りょうじょく)した。我々は聞くと一同憤激し、軍分区の敵工科の同志と相談した結果、道頭鎮へ行き政治攻勢を展開し、敵陣を教訓し、彼らを誠実とすることを決定した。
ある夜、宣伝隊は軍分区敵工科の彭さんを連れて、八、九人の一行で道頭鎮に来た。この日はちょうど旧暦の十五日、満月が高く空中に掛かり、銀色の籠を大地に被せた(かぶせる)ようで、遠くの樹林は黒光りしていた。
街の人々は皆眠り、全てが大変静逸(せいいつ)であった。我々は敵陣のトーチカから200メートル余り離れた所に身を潜めたが、月光が特別明るく、我々も武装部隊を連れていなかったので、敵陣から離れた。我々はメガホンで敵陣に呼びかけ始めると、トーチカの日本軍は我々の宣伝を聴きつけて、私に向かって銃を打って来た。銃声がやむと、我々はまた叫んだ。彼らにはっきり分からせてやらねばならない。太平洋上の戦場で日本軍は連合軍に撃ち破られており、日本軍の終焉は間近に迫っているのだ。日本軍が敗れた後、中国人民は日本軍に対して黙ってはいないだろう。続けて蓄音機から日本軍に向けて彼らの故郷の短調を流し他ので、彼らは我々の宣伝と歌声を聞いており、発砲が止まった。我々が立ち去ろうとした時に、慰問袋と伝言を梢(こずえ)の目につきやすいところにかけておいた。
夜も更けた頃、皆疲れた睡魔に襲われ、力なく軍分区の駐屯地である艾山に戻る帰り道であった。自分自身も疲れていたので、近くで休むか思案していたが、少々危険であるとも思えた。逡巡(しゅんじゅん)している時、彭君が「趙家村まで行こう!ここからなら八里ぽっちだし、村長とは知り合いだ」と言った。朝鮮の金君もそれを聞いて強く頷い(うなずく)ている。そこで、我々は趙家村についたのだった。村長は我々のこの「大々的」で「統制の取れた」「日本の八路軍」を暖かく心から歓迎してくれた。同志達の宿舎の手配が終わった後、村長は我々を趙長老の家に案内してくれた。そこは三部屋続きの建物がある一軒家だった。村長に続いて私が建物に入っていくと、出迎えてくれるのは趙長老とその奥さんであった。彼らは忙しく湯を沸かし、卵と乾し飯をご馳走してくれたのだった。
趙長老の家族は3人で、娘の趙玉芳は村の女性救済委員会の責任者である。20代、中背(ちゅうぜい)で太い黒眉の下に機知に富んだ目を持つ。
疲れていたので、庄屋が帰ると外のベッドで寝てしまった。
早朝、突然の違和感で目が覚め、寝返りを打って体を起こすと、またもや動きがない。
そろそろ夜が明けるので、枕元のピストルを腕に挟んでそっと家を出ると、門の所に趙玉芳嬢が私達のために見張り番をして立っていたので、近寄って話をしようとすると、突然、早朝には特に厳しく聞こえる馬のけたたましい鳴き声が聞こえて来たのでした。すると誰かが走る音がしたので、私は銃を抜いて外に出ようとしましたが、趙玉芳が私を引き戻して言いました。「これは敵の騎馬隊だ、追い抜くことはできない、先に隠れた方がいい」。趙長老も出てきて、中に入って隠れるように言うので、私もついて行って中に入った。趙長老は漬物の空き缶に隠れと言ったが、安全とは思えないし、敵に探されたら捕まってしまうのでは?その頃、敵はすでに村に入り、家から家へと捜索しており、鶏は飛び、犬は悲鳴をあげていた。趙玉芳は、たまりかねて、制服を脱いで銃出る包み、外に隠せと言い、ベッドの上に布団を敷いて、夫のふりをしろと言ったのです。
ドアが蹴り飛ばされ、数人の偽軍と2人の日本軍が押し入った。私は、銃を隠すべきではなく、武器があれば敵を恐れず、飛び出すことができることを後悔しています。趙玉芳は、私の気分を知っているようで、彼女は私の隣に座って、片手で私の肩を押し、ちょうど立ち上がったふりをしました。偽軍用銃が私に「誰が、なぜ起きないのか」と尋ねました。彼女は冷静に答えました:「それは主人です、病気がある。」「どんな病気ですか?」「コレラ」敵は伝染病だと聞いて鼻をかんだ。私は布団に横たわって冷や汗をかいた。
敵は棲霞から大沢山まで掃討作戦し、ここを経過し、私達を見つけませんでしたが、盲目的に検索し、立ち去りました。私達の同志は、村の反日活動家によって隠され、敵の捜索をかわしました。
私達は、ここが危険だと感じ、長くは続かない。出発とき、私は趙玉芳の手を握り、非常に感謝し、彼女は陽気に言った「これは何をすべきか、感謝しない、我々は全ての日本侵略軍を戦うために意図されていないのですか?」彼女のこの素朴な言葉に深く感動した。
中国人民はどれほど偉大な民族であろうか。戦場で、私が見た八路軍の戦士は、全て英雄的犠牲精神を具有して、群衆の中では、どの民間人も同様にこの種の優秀な高貴な気質を備えていた。更に貴重なことは、彼らは純粋な自覚の元に、戦士と民間人が一人づつ祖国を保衛し、日本の侵略に反対し、卓越した貢献を造出した。
敵人が遠くへ去ると、我々は趙家村を離れ、艾山根拠地を目指して出発した。さほど進まない内に、また敵人に出くわしたが、ここは野外であり、身を隠す場所がなかったので、抵抗しながら、撤退して小さな樹林に退却した。私と橋本、朝鮮の朴君、墳丘の後ろに臥せて射撃した。橋本と私の射撃は確実で、他の同志の撤退を掩護することができた。敵工科の彭さんは既に遠くへ撤退して、もう見えなくなった。我々も敵に包囲されるのを恐れて直ぐに撤退した。樹林を出たすぐに、朴君が胸に銃弾を受け、橋本が彼を背負って走ったが、朴君は同意しなかった。彼は私にファイルケースを手渡しし、我々が早く撤退することを促した。私は手を伸ばして彼を背負おうとしたが、彼は私を咬んで、睨ん(にらむ)だ眼差し(まなざし)で怒鳴った(どなる)。「早く逃げろ、私を構うな。」当時の状況は緊急であり、我々は目に涙しながら逃げた。朴君は敵人への射撃を継続して我らを掩護したので、我々は遠くへ逃げたが、まだ彼の銃声が聞こえていた。
私と橋本も散り散りに逃げた。私はサツマイモ畑に逃げ込み、何度も芋づるに脚を捕られて、転ぶたびに、弾丸がひゅんひゅんと頭上を飛び越え、つまづかなければきっと弾に当たっていただろう。
芋畑を駆け出すと、遥か後ろには日本軍の騎兵が追いかけてきて、接近して打ちながら追いかけて見るのが見えた。その後弾を使い終わり、身に着けていた書類ケースもいつの間にか無くしていた。危機的状況に陥った時、幸いにも県大隊の仲間と出会ってやっと救われた。今回は早朝から昼まで走り続けて、真に疲れ、自分の仲間と出会うと、私はすぐに倒れた。同志達は私を担架で連れ帰ると、二日間横になっていたが、起き上がる時両腿はまだ震えてきた。橋本も危険を脱して来た。軍区に戻ると、総結教訓会で、私は批評を受けた。第一に、宣伝に出るときは、武装した保護がない場合、宿営してはならない。第二に敵人に遭遇した後に、ファイルをなくしてはいけない。今回の我々が危険に遭遇したのは大損失で反戦同盟に旧メンバー吉尾次郎は所在不明となり、朝鮮の仲間の朴君も犠牲になった。半月余りで、県大隊の同志が枯れ井戸に吉尾次郎の死体を見つけたが、彼は犠牲後敵人によって井戸に投げ込まれた。二人の仲間の犠牲は私を大変悲痛し、特に吉尾は、私と同郷で、共に延安に行って学習し、共に膠東へ戻り抗戦を堅持し、私の親密な戦友で同志であった。
私は、趙玉芳が私達の行為を巧みに覆ったことを軍管区の政治局に報告しました。政治部の于天鏡同志はそれを文書に纏めて新聞に掲載し、趙玉芳同志をモデルの反日女性戦闘士として賞賛した。

秋の攻撃作戦

1944年、私達の軍隊と国民の激しい打撃を受けて、日本軍は軍隊を縮小し、「防衛に焦点を合わせる」戦略を採用することを余儀なくされました。敵の「蚕食(共食い)」政策はは完全に失敗しました。この時、日本軍の一部は南に移され、正面戦場で国民党軍に対して発動された新たな攻勢に参加しました。多くの偽軍が残っていましたが、彼らの戦闘力は強くありませんでした。山東軍区の指示に従い、膠東軍区は好況を生かし、積極的な攻勢を繰り広げ、許世友司令官が秋の攻撃作戦を組織した。この攻勢は、膠東の南、西、東、北の海区で連続して開始されました。
本司令部の命令によると、渡辺と劉芳棟は西海に導いて、橋本らは北海区に導いて、朝鮮の同志である魯泯は南海に導いて、そして私は東海区に連れて行った。
1944年8月、東海区は水道の要塞への攻撃に焦点を当てた秋の攻撃を開始した。
水道は、敵が東海区の昆嵛山根拠地を支配する前哨基地(ぜんしょう基地)であり、煙青路の東側を掃討する敵にとって重要な軍事基地でもあります。彼らは水道を牟平県よりも重要だと考えています。従って、水道の要塞のプラグを抜くことが不可欠です。
しかし、水道は敵の防衛の焦点であり、要塞は非常に強力でした。水道の戦いが始まるとすぐに、牟平の日本軍は間違いなく南に助けにくるでしょう。そのため、許世友司令官は個人的に第16団の一部を率いて作戦を指揮した。許司令官、東海軍区司令官劉涌、于得水、政治委員仲曦東は戦闘計画を検討・策定し、軍部の独立団と第16団を主力とすることを決定し、地方武装と民兵が配合して攻撃した。
我が軍区司令部の命令で、反戦同盟の高橋、松下、斎藤、敵工科の孟凡、通信員の李丕ら10数名と、また軍区の一個連隊を率いて、八月中旬に牟平垂柳から水道付近の小村の五里鋪道を急いだ、
膠東原野の秋は、ちょうどトウモロコシが穂(ほ)を吐き。コウリャンが赤く噴出(ふんしゅつ)する時期であった。皆は行路上で激動、興奮した気分を抱き、これからの戦闘を待ち望んでいた。我々は東海軍分区の仲𣌀東政治委員、劉涌、于得水司令員へ報告してから、すぐさま軍部敵工股長郝香斎同志と状況を分析し、工作の進行をどのようにするか検討した。我々の任務は進行発起前に、政治宣伝の攻勢を進行し、軍事攻勢に配合するために、日本軍と偽軍を瓦解させ、彼らの武器を置き投降させることである。
8月24日の夜、月は出ず、空は真っ暗で、手を伸ばすと五本の指も見えなかった。このような夜は、我が軍の部隊が行動するには正に適合していた。
部隊はひっそり水道の拠点をぐるっと囲い込み、彼らと外界との一切の連携を遮断した。県大隊はとっくに敵の電話線を切断しており、陣地上の部隊は全員が銃を構えトーチカに照準を定めた。爆破隊と民兵は一緒に、日本軍が掘削(くっさく)した護衛溝の両側から地面に穴を掘り、囲塀とトーチカを爆薬で爆破する準備をした。陣地の後ろのコウリャン畑には数え切れない民兵や、担架隊など前線支援の群衆が、ひっそりと安静を保持していた。我々反戦同盟の数人も孟凡、郝香斎と共に敵のトーチカから100メートル余りの陣地に侵入し、良い地形を選び〜一台の李君がどこからか見つけて来た蓄音機のホーンが、据え付けられ、静かに命令を待った。
水道拠点にはトーチカに、砲台十二基があり、周囲は高さ二丈(6.6メートル)の厚い囲い塀で、上に鉄条網がつけられ、アイロン(火熨斗)形の小型の城を形成していた。拠点の中には日本軍の一個小隊、三十八人が、アイロン先頭の尖った(とがる)部分の三つのトーチカ上に分かれて駐在し、二個中隊三百人余りの偽軍がトーチカと砲台の中を守った。日本軍の小隊長は小川と言い、私と同窓で、大阪人である。此奴は武士道精神が旺盛で、大変頑固な軍国主義者で、当地に人々は彼から少なからぬ苦しめを食らわされ、日本軍さえも常に彼の虐待を受けた。彼は牟平城で駐屯防衛したが、彼の作戦は獰猛(どうもう)で、残忍(ざんにん)であったので、水道拠点に配属されて来た。
夜が更けると、指揮部から来た張参謀が我々に「一切全てが準備できた、お前らは大声で宣伝を開始しろ」と言った。私はメガホンを抱えて日本語で拠点に怒鳴った。「日本軍の兵士たちよ、君たちは八路軍に包囲されている、早く投降しなさい、我々は一万人余り出来ていて、君たちは逃げられないぞ、何ら出口は全くないぞ、煙台と、牟平の援軍も我々が包囲したので、来られないぞ。」私の声は夜空に十分に響いた。敵は呼びかけを聞くとすぐさま灯火を消して、我々の大声の方へ銃を打ってきた。一頻り(ひとしきり)すると、私はまた怒鳴った。「日本軍の兵士たちよ、私は反戦同盟の小林清である。今日は君たちを救いに来たの。君たちはよく考えて見なさい、日本軍は太平洋戦争ではもう完全に敗北している、君たちの中国での日々ももう長くはないぞ。早く投降しなさい。投降しないならば君たちは泥飛行機に乗らねばならないぞ。」敵がまた我々に銃を打ってきて、また小隊長の小川が憎々しげに兵士たちに脅迫して言うのがかすかに聞こえた。「打て。あの売国者を撃ち殺せ。彼らの戯言(たわごと)を聞くな。八路軍はそれほど多くないぞ。」彼はその一番高いトーチカ重機関銃を「ダン、ダン」と発射し、たちまちメガホンに三つの穴があいたのは、私もぶったまげた。敵の手榴弾がまた「ガタン⋯ガタン」と打ちつけられた。移転するしかなく、暗く地形も不慣れで、ちょっとで私は転び、小山から転がり落ち、孟凡は押し留めて引き上げた。この時、高橋は横の陣地から叫んだが、彼の声は大きく、メガホンも必要なかった。松下も反対側の陣地からまた叫んだ。「日本軍の兵士たちよ、君たちは天皇に代わり弾に当たるな。君たちの家にはご両親、妻、子供がいて、君たちの帰りを待っているので、君たちは銃を撃つな。その弾は君たちのご両親の血の汗で稼いだお金で買ったものだ。」
我々4人は交替で大声で一頻りに怒鳴った。日本軍の三つのトーチカの二つは発砲しなくなったが、ただ小隊長のあのトーチカの中の機関銃はまだ止まらずにいた。
私の声は嗄れ(しゃがれる)たが、高橋たちと大声を堅持して叫んだ。しばらくすると、郝股長は私に「規模があるか」と訊ねた。孟凡は躊躇いがちに「もう叫ぶの止めるか」と訊ねた。私は「叫ばない。叫んでも無駄だ。小川と言うこの男は投降しない、彼がいれば、他の人も敢えて投降しないであろう。」と言った。「そうだ、叫ぶには時間が足りない、また叫ぶと戦機を無駄にする。」郝股長は話し終わると、指揮部へ状況報告へ行った。

間もなく、忽然と「ゴー」という大きな音がして、続いて中央のトーチカがガラガラと倒壊する振動の声がした。敵のトーチカは爆破され、半分倒壊して、のうのうと大火が燃えていた。続いてまた大きな音がして、日本軍の大トーチカの沿った偽軍のトーチカも爆破され、囲い塀も一部が倒れた。我々は歓呼した。大火の灯り(あかり)で見ることができたのは、また死んでいない敵人が大声で泣きわめき泣き叫んだ。10数人が駆け出して来て投降し、その中には6名の日本兵士があった。この時、我が軍は往生際(おうじょうぎわ)の悪い敵人に猛烈な攻撃をして、弾丸は火道を帯びて真っ直ぐに敵陣を直射した。突撃ラッパが鳴り響き、突撃隊の戦士達が陣地を飛び越し、吹き飛んだ欠所に向かって突き進んだ。しかし小川のあの大きいトーチカが欠所に面しており、密集した機関銃の砲が欠所通路を塞ぎ、駆け寄った戦士が倒れた。我が軍はすぐさま火力を小川のあのトーチカに向かって集中して猛烈に射撃し、周壁に駆け付けた戦士達はトーチカに手榴弾を絶えず投げ続けた。

撃ち合いから二十数分後、突然二十数名の偽軍が隙間から飛び出して来て、銃の先に白いシャツをつけて降伏を求めた。郝股長はすぐ兵士たちに銃撃を中断するよう告げた。孟凡は大声で叫んだ。「ここへ走れ!あそこは危険だ!」と。二十数人が駆け寄って来たが、その内の四人は日本兵で、先頭は田上という三十五、六歳の髭面の男だった。私は彼らを迎えに行って、一方熱心に中の状況を尋ね、彼の返答を張参謀に翻訳した。田上は中の状況を詳しく説明した、その返答を張参謀に翻訳しているところである。田上は中の部隊と武器について詳しく説明した。大きななトーチカの中に日本軍の隊長が重機関銃一丁、軽機関銃一丁、13人がいる。中断のトーチカには軽機関銃があり、降伏した6人の他に7人が残っている。もう一つのトーチカは爆破された。裂け目に沿って左側に兵舎が並び、敵のトーチカへ隠れるように出入りすることができた。投降した偽軍の中に一人の小隊長がいて、敵工股と連絡があり、彼は郝股長に偽軍の状況を語った。状況が大隊わかった後、郝股長と軍分区の通訳の劉氏は彼らを指揮部に送った。

この時、対面の偽軍のトーチカが爆破され、独立団の戦士が突入して来た。こちら側の突撃隊の戦士も勇猛に欠所からあの兵舎の前に飛び出して来て、敵のトーチカに向かって運動した。戦闘は激烈に進行し、機関銃は軽快にダンダンと言う音を出し、手榴弾の爆裂音は耳をつんざくばかりであった。田上が元々いたあのトーチカは、戦士達が爆薬で大穴を開け、進入して、徹底的に敵を消滅した。偽軍は我が部隊の猛烈な挟み撃ちで、白旗を掲げ、トーチカの中からばらばらと銃を投げ捨て投降して来た。だが小川のあのトーチカだけが残ったが我が軍に厳重に包囲され、四方八方から発射された銃弾がレンガに当たりくずし敵の火器は揉み消された。爆破班はトーチカ前に機敏に襲撃し、爆薬を置き、ゴーと言う音がトーチカの門を爆破し、ボーボーと大きな炎を燃え上がらせた。戦士達は銃弾と大火に冒されながら、一切を顧みず地バチのように群がったが、日本軍はトーチカ上面で隅に隠れて抵抗した。ちょうどこの時、郝香斎が指揮部からやってきて私に、煙台と、牟平から出動した敵人が、援軍に来たが、尺坎付近で我が軍の狙撃に在い、指揮部は私に早く行って政治宣伝を大声で進行するように伝えた。私は横田、高橋の二人を戦場の整理に残し、日本兵士がまた生きているどうかを検査させ、松下と孟凡は騎馬し、部隊に着いて、その夜の内に北20里の尺坎へ行った。

尺坎へ到着すると、独立団第ニ営の教導員に会い、敵人が行動を南下して増援し、我が地方の武装と民兵に遭遇し次々と狙撃に遭ったことを知った。敵が我が独立団第二営と牟平独立営往来を迎撃するのを待っている時、民兵がまた敵人の後ろの公路を爆破し、有利な地形を占領し、敵人を包囲して来た。

敵軍の増援はおよそ二小隊80名余りの日本軍と二中隊300名余りの偽軍であった。日本軍牟平防衛部隊の中隊長平沢に率いられ、車両三台に分乗して包囲を突破、血路を開かんと、水道要塞を救援に来た敵軍である。

私はすぐに松下と敵軍に向かって叫んだ。水道の日本軍と偽軍は既に全滅している。お前たちも既に包囲されている。直ちに降伏すれば命は取らない!そして我々部隊から射撃を行うと敵は戦意を喪失し、抵抗することもできず道路脇の窪地に身を屈める(かがめる)ばかりであった。その後既に大勢は決したと判断したようで、包囲を突破して逃走した。偽軍は特に混乱が激しく部隊の隊列をなさず、三々五々我が方に投降して来た。偽軍に交じって(まじる)、擲弾筒一門と3八歩兵銃一丁を持った2名の日本兵が我が方に投降した。

敵軍の妨害を阻止した後、東の空から朝日が差し始めた。群青(ぐんじょう)の空はゆっくりと茜(あかね)に染まって後退し、黎明(れいめい)の戦場では三台の車両が黒煙を燻らせ(くすぶる)、40隊の死体(内二十名強は日本軍のものであった。日本軍の平沢大尉中隊長も負傷しており、もう最後だと覚悟を決め、天皇陛下万歳を叫んでいた。

水道での戦闘出入り日本軍は数十名が投降した以外は全て掃討され、小川小隊長は切腹自殺し、偽軍はほとんど投降したため、徹底した殲滅戦であった。

我々が転進して曲家口に到着した時、仲曦東政治局員に面会し、彼は我々に対して「諸君ら反戦同盟の働きは実に素晴らしい。戦果もあることであり、私は軍区に報告しておこう、諸君らの表彰も申請せねばな。」と言った。

水道での局地戦は煙台・威海衛・文登城・栄成・石島など他地域の敵軍を震撼させた。我が軍は作戦継続の気概を持って勝機に乗じ、至る所で破竹の勢いで前進したため、日本軍と偽軍は戦意を喪失し、ばらばらに武装解除し投降して来た。

水道作戦完了後、東海軍区の独立団は軍区中隊と民兵の協力の下で、牟平・水道の道路に沿って北上した。集後、玉林のニ拠点にいた偽軍は全て武装解除して投降した。高陵の偽軍はトーチカを残して霧散した。我々反戦同盟の四名と敵工科の孟凡等同志は12名の投降した日本軍兵士を連れて軍分区司令部に続いて界石に到着した。8月30日の午前、我が軍は文登城下に到達した。この地の日本軍はとっくに威海衛に向けて撤退しており、偽軍が400名ばかり残っているだけであった。彼らは偽軍副大隊長楊子時に率いられ白旗を掲げ、無血開城に応じた。我が軍部隊、民兵は奔流(ほんりゅう)のごとく城内になだれ込み、人々の熱烈な歓迎を受けた。

部隊は文登市で少し再編成され、一路は仲𣌀東委員が率いて、汪疃の敵の拠点を撤去した。一路は9月1日、劉涌、于得水が率いて東海へ出発し、栄成県を包囲した。

我々は、反戦同盟の4人に加えて、水道に降伏した田上を含み、栄成県を包囲する道をたどった。田上は栄成に駐留する同郷人である賀川と親しい関係にあり、田上は賀川が天皇のために無駄に死ぬと恐れて、私達と一緒に行動するよう申し出た。私はメガホンで城内に叫び、水道・文登城、そして彼らの周りの多くの拠点と敵占領地域が解放されたことを彼らに言った、今、この城だけが残っている、直ぐに陥落させ、早めに降伏しよう!田上は「私は水道の田上で、八路軍と反戦同盟に降伏した。抵抗は死ぬ道だけ!家族は、私達が再会するのを待っています!」。

孟凡と郝股長は、偽軍に政治的な宣伝を行い、宣伝しながら、城内の偽軍内線とのつながりをとった。

部隊は城を攻撃し始めた。砲弾や銃弾が雨のように城内に落下し、爆発音が鳴り響いた。日本軍は我々の宣伝に耳を傾け、軍隊は心が散らばり、闘志はなく、急いで後方の山と桑溝湾に向かい、その後、船で威海衛に逃げた。偽軍副大隊長滕品三は、六つの中隊と1000人以上の偽政権の人員を率いて降伏した。田上の同郷賀川は中国の衣服に着替え、偽軍と混ざり合い、降伏した。

1938年陥落した栄成県は1944年9月2日に解放された。町の人達は喜びて、私達を歓迎するために群がった。

私達は、高齢者や女性が卵などの食べ物を必死に詰め込み、ポケットに詰め込み、子供達が部隊の後で押収された銃の武器を好奇心をそそる様子を眺めている。この誠実な感情、暖かいシーンは、私達を深く感じました。膠東の大衆は、中国人民の全ての美徳を表す、本当に親しみやすいです。

9月5日、我々は文登県の宋村に軍分区に続き、戦闘の総結を行い、休息し、新しい日本兵を教育した。9月中旬、降伏した日本兵を軍区司令部に連れ戻し、西海区から帰還した渡辺三郎、北海区から帰還した橋本らとの勝利会を結んだ。

この秋の攻勢を総括し、捕虜と降下した日本兵21人。その中には、私は東海区から持って来た13人、渡辺は西海区から5人、橋本は北海区から持ち込まれた3人,負傷者5人が牙山野戦病院に運ばれたほか、全ての人が集中教育した。八路軍の政策や侵略に対する正義の行動などについて教育を行った。教育した後、10人は反戦同盟に参加する意思を表明し、残りの6人は態度を示さない。渡辺、張琨と研究し、この10人を山東軍区の「中国日本人工農学校山東分校」に派遣し、孟凡と劉芳棟同志がチームを組んで、軍区警衛営の兵士を護衛することを決定した。

この戦いで、渡辺と西海区に行った反戦同盟員の木村吾夫同志は名誉ある犠牲を払った。

9月末、軍管区は秋季攻勢作戦の祝勝大会を開いた。大会の首席台の前には獲得した日本武器とその他の戦利品を陳列し、会場には彩られた旗が舞い、歓声が轟き、周囲には大幅の標語が掲げられ、気分は大変熱烈であった。許世友司令の講話があった。彼は、この秋季攻勢作戦で重大な勝利を収め、日本軍の重点守備と後世の防御計画を撹乱し、魯中、浜海地区の反掃討闘争に力強く対応した。日本軍と偽軍の五千人余りを殲滅し、138の敵の拠点攻め落とし、文登城、栄成二つの県城を解放し、根拠地五千平方キロメートルに拡大した。膠東の抗日武装勢力は急速に発展し、四つの海区根拠地は完全に一つに連結して、膠東解放区と魯中、渤海解放区の連係を疎通させた。彼は日本の帝国主義の失敗の日が遠くないことを指摘し、広大な民衆に八路軍への熱心な参加と、日本の帝国主義に徹底戦勝して貢献することを呼びかけた。この時に、許司令が私を台に上げ、私を大群衆と八路軍の司令員に紹介した。「こちらは我々の忠実な友で、中国駐在日本人反戦同盟の小林清同志であり、彼は日本人である。現在(この)日本の人々は皆組織して、我々と共に、日本の侵略軍を打撃することを固く決めている。我々には気骨があり、熱血的な中国人であり、なおさら八路軍に参加し、祖国を守護すべきである。」許司令の呼びかけの元、青年達は先を争い登録して、参軍は最高潮に達した。大会は私に大きな励ましとなり、私は八路軍共産党と共に、日本の帝国主義を徹底的に打倒するために勇敢に奮闘することを決心した。

奇襲龍髭島

龍髭島は膠東半島の最東端の成山角に位置し、龍髭のような形をした小さな半島です。伝説によると、秦始皇帝は中国を統一した後、成山角に2回登ったが、ここには「始皇殿」が残っている。
成山角は、その特別な地理的位置のために、歴代の軍事家によって注目されています。1894年の日清海戦は成山頭正東海で行われた。1895年、日本海軍連合艦隊は25隻の軍艦と16隻の魚雷船に覆われて成山岬に上陸し、栄成県を占領し、威海衛をも占領し、その後、清帝国に権力を失った国を滅ぼした馬関条約に署名する強制した。