山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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ハーバード・テーラー/中国での布教で還暦を迎えた宣教師

戴存仁(ハーバード・テーラー)は中国滞在64年の長きに達し、彼は父親の戴徳生(ジェームズ・テーラー)と弟の戴存義(フレデリック・テーラー)の名声に及ばないが、彼は極めて貴重な生命的特質があり、衷心と敬虔(けいけん)、彼は長期に主イエスの導きに従順で、同方向に向かい、布教の第一線から、教育の第二線に退くまで、ハーバードはテーラー一家の第一人者であった。

1861年4月、テーラー(Herbert Hudson Taylor)は英国に出生し、ジェームズとマリアの長子として生まれた。1866年5月26日、5歳のテーラーと父母、姉(グレース=戴存恩)、弟フレデリック、二弟サミュエル(戴存礼)16人の奥地宣教団の宣教師と、イギリスロンドンの東海インド会社の埠頭からラムマーシュア号に登場し、艱難辛苦(かんなんしんく)の末、九死に一生を得て、ついに9月30日に中国へ到達した。


1866年ラムマーシュア号撮影

1868年8月22日夕方に、揚州の民衆は皮市街に創立されたばかりの教会を包囲し、彼らは刀棒を手にして、レンガの塊を投げ、屋内に闖入(ちんにゅう)し、財産を掠奪し、宣教師を殴打し、ジェームズとジョージ・ダンカンは追撃に目もくれず、知事役所に逃亡して保護を要求した。

群衆には放火して家を焼くものがあり、壁の倒壊を引き起こしたので、身重(みおも)の母親は階上から飛びおり怪我を負い、7歳だったハーバードはジョックを大変受け、一家とその他の宣教師は揚州の布教案(を実行する)のためにあわや不幸を遭遇した。


著者は教案旧址の尋ね

1870年3月に、9歳のハーバードと8歳の弟フレデリック、3歳の妹マリアは父母と分かれ、父親の秘書エミリー(白安美)にロンドンへ送られ学校へ行った。間もなく(ハーバードらは)、母親と生まればかりの弟が亡くなった訃報(ふほう)を受け取った。


1865年一家の撮影(座るの人はハーバード・テーラーである)

1870年7月17日、ハーバードの母親は最後の弟チャールズを産んだ後コレラに感染し、子供を見ることができないまま、チャールズは7月20日に下痢で亡くなり、3日後の7月23日に(母も)鎮江に病死し、享年33歳であった。


母親と三人姉弟の墓地

1878年、17歳のハーバードはロンドン病院で採用され、二年の基礎課程を完成したばかりであったが、山東省の煙台に宣教師の女子学校を建立する計画の、父親の手紙を受け取り、祈りで答えを求め、ハーバードは当時の父親に倣うことを決定し、未完成の学業を放棄し、1881年に、中国へ戻り、母親の墓地を拝謁してから、煙台に来て、父親が1879年に創業した芝罘学校で教職に就き、これより50年余りの奉職を展開した。


芝罘学校の外景

1886年に、25歳のハーバードと22歳のジェニー(葛玉蓮)は結婚すると、夫婦は江西大沽塘(1886--1888)、安徽広徳(1898--1915)、浙江莫干山(1915--1925)江蘇鎮江(1926--1931)などの地で心を合わせて布教した。1894年2月、ハーバード夫妻は職務報告でイギリスへ帰った期間に、スッコトランドでジェームズ(戴永冕)と双子の妹を産み、生存した五男三女の中で、ジェームズはは第三子、次男となった。


1908年一家の撮影

1931年12月、ハーバード夫妻は父母のために鎮江の墓地で、中国文化に沿った方式で合葬の墓碑を直立した。


著者は墓碑前の撮影

1932年、71歳のハーバードは退職後、最初に務めた芝罘学校に復職した。1937年1月15日、ハーバードの妻ジェニーが天主の下に落ち着いた(亡くなった)、享年73歳である。


ハーバード・テーラーは部分家族との撮影

1941年12月8日、パールハーバー事件の翌日、芝罘学校の300余りの師生全員が拘留され、孤独なハーバードは、四人の孫と一緒に芝罘と、濰県の日本の集中キャンプで拘留され、この期間に最初の孫ジェームス(戴紹曾)と住んだが、栄養不良で、80歳の彼の体重は40キログラム未満に減るも、相変わらず毎日早朝に主恩を賛美する詩を高らかに歌い、生命の模範を以て捕虜となった仲間に「勇敢に、堅持して」と激励した

濰県集中キャンプ寮望塔

1945年、ハーバードは濰坊の日本の集中キャンプで釈放され英国へ帰り、1950年に主の元で安息(あんそく)した。享年89歳である。1939年にハーバードが孫達と煙台に残した得難い集合写真は、我々に晩年の彼の様子を知らせてくれる。


1939年、煙台の撮影

著者 候小勇